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第十三話④
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「育て方を間違えたのかしらね。昔はあんなことを言う子じゃなかったのに」
濡れた手を拭き、君岡が座っていたところと同じ場所に座ると、お母さんが呟いた。
「……君岡は、ちょっと悪い考えにかぶれているだけです」
「そうなの?」お母さんが顔をあげて僕に聞いた。「何か知ってるの?」
「いや、詳しくは知らないですけど」
「そう……」君岡のお母さんは肩を落とした。
「あの子ね、最近変なことを言っているの、もう自分の未来は決まったから、高校に通う必要はないとか言って、それじゃ大学はどうするのって聞いたら、これからは学歴とかはもう関係ないから、どうでもいいとかって言って。じゃあ何をするつもりなのって聞いても、答えないし。いったいどんな考えにかぶれたのかしら」
彼女は右手で自分の頬を触りながらそう言い、大きなため息をついた。
「……そういう変なことを言いふらしている連中がいるんですよ。たぶん、君岡もそれに影響を受けたんじゃないかと」僕は言った。
「そんな人がいるの? でも、そう言えば聞いたことがあるかも、私の周りでもね、変なオンラインサロンにハマって、毎月何万もそこに突っ込んでいる人がいるのよ。しつこく勧誘されて、断るのも大変だったんだから。もう! 本当に迷惑な話!」
彼女は憤った。それから僕がいることを思い出したのか、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね、こんな話、あなたには関係ないわね。今日はわざわざ来てもらって、本当に助かったわ。野宮くん、優しいのね」
「いえ、別に」……まあ、面倒だからそういうことにしておこう。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
色々気まずくなったのでソファから立ち上がる。食べかけのバウムクーヘンがもったいないと思ったが、諦めることにした。
短くお辞儀をして、ジャンパーを着込んでリビングを出た。玄関で靴を履いていると、君岡のお母さんが唐突に「あら、どうしたの?」と言ったので振り返った。
でも、彼女は上を見上げていて、僕に話しかけたのではなかった。二階から声が聞こえた。
「お母さん。俺、野宮くんと話したいから言ってくれない?」
君岡によく似た声。だがちょっと低い。それにもっと落ち着いている。
「野宮くん、せっかく帰るところ申し訳ないけど、いいかしら? 晴彦のお兄ちゃんがあなたに用があるそうなの」
「え?」
僕は戸惑った。しばらく考えて、そうか、もう退院したのかと思った。そんな時期になったのだ。そして、なら僕は既にオブスキュラには行けなかったんだと思った。
「別に構わないですけど」
帰ったってやることなんてないのだ。落ち着くこともできない。なるべく外にいたかった。
「ありがとうね、わがまま聞いてもらって。大樹、野宮くんがいいって」
お母さんが上を向いて大きな声で言った。
「すぐ行く」返事が返ってくる。
「大丈夫?」心配そうにお母さんが言った。
「平気だって。俺、二人で話したいから母さんは向こう行ってて」
「そう?」お母さんは不安げに階段をおりてくるお兄さんを見守っていた。
君岡のお兄さんは松葉杖をついて慎重に最後の一段を下りると、僕を見てはにかんだ。
「どうも、初めまして。晴彦の兄、大樹です」
さっぱりとした言い方だった。それに、弟と違って堂々としていた。短髪で筋張った顔つきは、頼もしさまで覚えた。白いパーカーを着て、足には真新しい包帯が巻かれている。
「すみません。お待たせして、さ、どうぞ、こっちに座ってください」
大樹さんは杖を脇に挟んだままソファの方を手で示した。僕は、先に大樹さんが行くのを待っていたが、いつまでも動かないのでソファに向かった。食べかけのバウムクーヘンの前に戻ってくる。
大樹さんは歯を食いしばりながら松葉杖を動かし、君岡やそのお母さんが座っていたのと同じところに座った。
「じゃあお母さん、あっち行くけど、何かあったら遠慮せずに呼ぶのよ」
不安げに大樹さんを見つめると、お母さんが言った。
「ああ、そうするよ。母さん」淡々とした口調で大樹さんは答えた。
「放っておくと、すぐああなる」お母さんが奥の部屋に引っ込むと大樹さんは苦笑いしながら僕に言った。
「お世話されるのが嫌で、苦労して二階に上がってる」彼は包帯の巻かれた自分の右足を撫でた。
「怪我はひどかったんですか?」
「まあね。けど、主に足と、手首は捻挫だけで済んだからよかった。交通事故でさ。バイクに当てられた」彼は、遠くを見るように答えた。
「つい最近、こっちに帰って来た?」
「そうだな」
「リハビリは?」
「行ってるよ、週に三回」
彼はギプスのついた足をぶらぶらとさせた。僕は視線を自分の脚の間に落とした。
「食べなよ。遠慮しないで」
彼はバウムクーヘンを手で示した。僕は頷き、一口かじった。
「いつも弟から聞いているよ、一緒にオブスキュラに行ってるんだって?」
僕が食べる様子をまじまじと見ながら彼は聞いた。
「ええ、まあ」少し気まずくなって視線をそらした。
「気にしなくていいよ。俺が悪いんだからさ。でも、あの時は本当に一遍に色々なことが起こったなあ。とびきりのレアカードが当たったと思ったら、バイクに当てられたんだからな」
あっはっは、と彼は本当に楽しそうに笑った。
「入院することになって晴彦には責められるし、就職活動が近くて母さんには心配されるし散々だったな」そして、またしても足を撫でた。
「でもその間に晴彦が友達と一緒にオブスキュラに行ったっていうのが一番驚いた」
彼はきらりと光る眼差しを僕に向けた。僕はバウムクーヘンを食べる手を止めた。
「……そんなに意外ですか?」するとあらぬ疑いをかけたと思ったのか、彼は手を振って否定した。
「いや、別に他意はないよ。ただ、弟はあまり友達を作るのが上手くないから」
「……ああ」僕はバウムクーヘンをまた食べた。確かに君岡は友達の多いタイプではない。……一人もいなかった僕とは違っていたが。
「それで話を聞いていると、今まで会ったことのないタイプらしくて、それに、野宮くんの方から誘ったみたいじゃないか。で、色々話を聞いていくうちに、俺も会ってみたくなった」
「はあ」彼に見つめられ、気のない返事をした。
「オブスキュラはどうだった?」それから唐突にそう聞かれて、僕は黙った。
濡れた手を拭き、君岡が座っていたところと同じ場所に座ると、お母さんが呟いた。
「……君岡は、ちょっと悪い考えにかぶれているだけです」
「そうなの?」お母さんが顔をあげて僕に聞いた。「何か知ってるの?」
「いや、詳しくは知らないですけど」
「そう……」君岡のお母さんは肩を落とした。
「あの子ね、最近変なことを言っているの、もう自分の未来は決まったから、高校に通う必要はないとか言って、それじゃ大学はどうするのって聞いたら、これからは学歴とかはもう関係ないから、どうでもいいとかって言って。じゃあ何をするつもりなのって聞いても、答えないし。いったいどんな考えにかぶれたのかしら」
彼女は右手で自分の頬を触りながらそう言い、大きなため息をついた。
「……そういう変なことを言いふらしている連中がいるんですよ。たぶん、君岡もそれに影響を受けたんじゃないかと」僕は言った。
「そんな人がいるの? でも、そう言えば聞いたことがあるかも、私の周りでもね、変なオンラインサロンにハマって、毎月何万もそこに突っ込んでいる人がいるのよ。しつこく勧誘されて、断るのも大変だったんだから。もう! 本当に迷惑な話!」
彼女は憤った。それから僕がいることを思い出したのか、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね、こんな話、あなたには関係ないわね。今日はわざわざ来てもらって、本当に助かったわ。野宮くん、優しいのね」
「いえ、別に」……まあ、面倒だからそういうことにしておこう。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
色々気まずくなったのでソファから立ち上がる。食べかけのバウムクーヘンがもったいないと思ったが、諦めることにした。
短くお辞儀をして、ジャンパーを着込んでリビングを出た。玄関で靴を履いていると、君岡のお母さんが唐突に「あら、どうしたの?」と言ったので振り返った。
でも、彼女は上を見上げていて、僕に話しかけたのではなかった。二階から声が聞こえた。
「お母さん。俺、野宮くんと話したいから言ってくれない?」
君岡によく似た声。だがちょっと低い。それにもっと落ち着いている。
「野宮くん、せっかく帰るところ申し訳ないけど、いいかしら? 晴彦のお兄ちゃんがあなたに用があるそうなの」
「え?」
僕は戸惑った。しばらく考えて、そうか、もう退院したのかと思った。そんな時期になったのだ。そして、なら僕は既にオブスキュラには行けなかったんだと思った。
「別に構わないですけど」
帰ったってやることなんてないのだ。落ち着くこともできない。なるべく外にいたかった。
「ありがとうね、わがまま聞いてもらって。大樹、野宮くんがいいって」
お母さんが上を向いて大きな声で言った。
「すぐ行く」返事が返ってくる。
「大丈夫?」心配そうにお母さんが言った。
「平気だって。俺、二人で話したいから母さんは向こう行ってて」
「そう?」お母さんは不安げに階段をおりてくるお兄さんを見守っていた。
君岡のお兄さんは松葉杖をついて慎重に最後の一段を下りると、僕を見てはにかんだ。
「どうも、初めまして。晴彦の兄、大樹です」
さっぱりとした言い方だった。それに、弟と違って堂々としていた。短髪で筋張った顔つきは、頼もしさまで覚えた。白いパーカーを着て、足には真新しい包帯が巻かれている。
「すみません。お待たせして、さ、どうぞ、こっちに座ってください」
大樹さんは杖を脇に挟んだままソファの方を手で示した。僕は、先に大樹さんが行くのを待っていたが、いつまでも動かないのでソファに向かった。食べかけのバウムクーヘンの前に戻ってくる。
大樹さんは歯を食いしばりながら松葉杖を動かし、君岡やそのお母さんが座っていたのと同じところに座った。
「じゃあお母さん、あっち行くけど、何かあったら遠慮せずに呼ぶのよ」
不安げに大樹さんを見つめると、お母さんが言った。
「ああ、そうするよ。母さん」淡々とした口調で大樹さんは答えた。
「放っておくと、すぐああなる」お母さんが奥の部屋に引っ込むと大樹さんは苦笑いしながら僕に言った。
「お世話されるのが嫌で、苦労して二階に上がってる」彼は包帯の巻かれた自分の右足を撫でた。
「怪我はひどかったんですか?」
「まあね。けど、主に足と、手首は捻挫だけで済んだからよかった。交通事故でさ。バイクに当てられた」彼は、遠くを見るように答えた。
「つい最近、こっちに帰って来た?」
「そうだな」
「リハビリは?」
「行ってるよ、週に三回」
彼はギプスのついた足をぶらぶらとさせた。僕は視線を自分の脚の間に落とした。
「食べなよ。遠慮しないで」
彼はバウムクーヘンを手で示した。僕は頷き、一口かじった。
「いつも弟から聞いているよ、一緒にオブスキュラに行ってるんだって?」
僕が食べる様子をまじまじと見ながら彼は聞いた。
「ええ、まあ」少し気まずくなって視線をそらした。
「気にしなくていいよ。俺が悪いんだからさ。でも、あの時は本当に一遍に色々なことが起こったなあ。とびきりのレアカードが当たったと思ったら、バイクに当てられたんだからな」
あっはっは、と彼は本当に楽しそうに笑った。
「入院することになって晴彦には責められるし、就職活動が近くて母さんには心配されるし散々だったな」そして、またしても足を撫でた。
「でもその間に晴彦が友達と一緒にオブスキュラに行ったっていうのが一番驚いた」
彼はきらりと光る眼差しを僕に向けた。僕はバウムクーヘンを食べる手を止めた。
「……そんなに意外ですか?」するとあらぬ疑いをかけたと思ったのか、彼は手を振って否定した。
「いや、別に他意はないよ。ただ、弟はあまり友達を作るのが上手くないから」
「……ああ」僕はバウムクーヘンをまた食べた。確かに君岡は友達の多いタイプではない。……一人もいなかった僕とは違っていたが。
「それで話を聞いていると、今まで会ったことのないタイプらしくて、それに、野宮くんの方から誘ったみたいじゃないか。で、色々話を聞いていくうちに、俺も会ってみたくなった」
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