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いざ馬を駆れ!初舞台だ!!

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……この人、ただ淋しかっただけなんだわ。
娘達はみな嫁ぎ、長男夫婦には先立たれ、末息子も行方知れずで。

手元に残った孫達を、誰ひとり手放したくなかったんだ。でも……タリサの未来は、タリサのものよ。

清潔で柔らかな布が、当主の瞳から滲み出る涙を吸い取っていくのを見守っていると、背後でドアの開く音がした。

はっとして振り返ると、血相を変えたマダム・エスペランサが控え室から飛び出してくるではないか。

ひょっとしてタリサに何かあったかと身構えたが、マダムの唇から発せられるのは「美容師、美容師はどこ?」と繰り返す声。

美容師?

「マダム、どうかされましたか?」

カノン同様、状況を掴めない副支配人が質問を飛ばすと、マダムはやっとこちらに目を向け、クローベル公がいるのに気づくと慌てて身を屈め一礼する。

「まあ、クローベル公。
お見苦しいところをお目に入れまして、たいへん申し訳ありません」

「……お祖父様?」

祖父が来ていると聞こえて気になったのか、控え室の中からそろそろとタリサが出てきた。

その姿を見て、その場に居た面々は…カノンにクローベル家の二人、副支配人、廊下の角から様子を窺っていた数人の野次馬達も……一斉にほうっと溜め息をついた。

扉の向こうから現れたタリサが身に着けているのは、城から着てきた碧い余所行きの服ではなく、裾の広がった白銀のドレス。

今日の舞台で演じる、愛の精の衣装だろう。
顔には化粧も施されており、まだおどおどした雰囲気は抜けていないがその繊細な美しさときたら、まるで本物の妖精がそこに現れたかのようだ。

せっかく着たこの華やかな衣装が、祖父の登場によって無駄になるのではないかと思っているのだろう。
不安そうに佇んでいるタリサに向かって、クローベル公は一歩近づいた。

その目には未だ涙が溜まっているものの、表情に浮かんでいた悲しみの色はだいぶ薄らいでいる。

「……見違えたな、タリサ」

美しく装った孫を素直に褒める老公の声は、今まで聞いたことがないくらい優しいものだった。

「その姿で舞台に立てば、観客はみな釘づけになるだろう。

お前の父、エミールもそうだった……あれが初めて人前で演じたのは陽気な羊飼いだったが、その歌と踊り、台詞回しに、劇場の誰もが笑顔になったものだ。

あの子はいつもそうだ。
誰かが塞ぎ込み、暗い顔で俯いていると、すぐにやって来て歌や朗読で慰めてくれた……エミールが消え、わしがどれほどの悲しみを味わったか……

だが、昔のように、どうしようもない寂しさに囚われることはなかった。
お前が居てくれたからな、タリサ」

タリサは答えなかった。言葉に詰まり、答えられなかったというのが正解だろう。

父、そして祖父から受け継いだ琥珀色の瞳は、やはり祖父と同じように堪えきれない涙で潤んでいる。

「庭や、城の片隅で歌っているお前の声に、わしがどれだけ慰められ励まされたか……

すまん、タリサ。
今までお前には黙っていたが、本当はエミールは城を出る時、お前のことも連れて行こうとしていた」

「え……」

「それを止めたのは、わしだ。

“お前のような半端な放蕩者に、子供を育てられはせん。お前にわずかでも親心があり、娘に真っ当な人生を歩んでほしいなら、ここへ置いて行け”とな。

エミールは、本当は手放したくなかったのだろうが……結局は一人で出ていった。
わしが無理矢理、取り上げたようなものだ。

そこまでしておいてわしは、良い家に嫁がせることこそ女の幸せと決めつけ、ずっとお前に不自由な思いをさせて……

いや、それも言い訳だな。
わしはただ、お前には城に居てほしかった。
エミールのようにどこか、手の届かない所へ行ってほしくなかった。

だから決して、舞台には立たせるまいと……すまん、タリサ。本当にすまん……」

「……お祖父様ッ!!」

繰り返し謝り続ける祖父の姿に、色々な感情が爆発し、居ても立ってもいられなくなったタリサが、なりふり構わず両手を広げて祖父に抱きついた。

胸に飛び込んできた孫娘を、老領主はそっと抱き締める。

「……すまん、タリサ。随分と長い間、わしの身勝手に付き合わせた」

「謝らないでくださいお祖父様。私、誰も恨んでなんかいません。

私のような日陰者を、孫と認めて大切に育てていただいて……感謝しかありません、本当です」

「この愚かな祖父を許してくれるのか、タリサ。
なんと優しい娘であるか……」

抱き合う二人を見守る慣習すら、互いに深い愛情を持ちながらすれ違っていた祖父と孫娘のやり取りに涙ぐんでいたりするが、さすが劇場を任されている座長マダム・エスペランサは心構えが違う。

冷静な動きでそっと二人に近寄ると、穏やかに声をかけた。

「タリサ様、クローベル公。
申し訳ありませんが、開幕まであまり時間が……」

「ああ、そうか。そうだな」

我に返った領主は、タリサから腕を離し、ゆっくりと一歩下がる。

大事な孫娘の目元が、涙でグチャグチャになっているのを確かめると、クスリと笑った。

「ああ、せっかくの化粧が……悪いことをしたな。
すぐ直してもらいなさい。
せっかくの初舞台がそんな顔では、台無しもいいところだ」

「え…それじゃ、お祖父様……」

まだ涙で濡れている瞳をいっぱいに開いて驚くタリサに、クローベル公は頷いた。

「お前の歌、楽しみにしておるぞ。客席で観ておるから、しっかりな」

信じられない、と言いたげに桜色の唇を震わせるタリサの肩に、マダムがそっと両手を置いた。

「さあ、ご領主様のお許しも出たことですし、行きましょうタリサ様。
ステージでの動きと台詞を、少し指導させていただきますわ。
お化粧直しと、髪も手を入れませんとね」

「は、はいっ」

上擦った声で返事するタリサに、クローベル公の後ろに立って成り行きを見守っていたマルセルが「良かったな」と労いの言葉をかける。

「あ、ありがとう」

従兄への礼を口にしながら、マルセルのほうへ顔を向けたタリサは、近くにいたカノンと目が合うと、顔全体をくしゃっと歪めて思いっきり笑ってくれた。

涙で化粧は崩れているし、目は赤くなっていて酷い有様だけれど、今まで見たどの笑顔よりもそれは、輝いて見えた。
だからカノンもお返しに、歯を剥き出してニカッと笑う。

……我ながら品のない笑い方だわ。
でも、ずっと忘れてた。

本気で笑うのって、こんなに気持ちがいいんだ。

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