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五十一話
しおりを挟むつい先程まであれだけ賑やかだったのが嘘の様に静かになっていた。
最後の招待客を見送ったエーファが広間に戻って来ると既に片付けが始まっていた。準備するのも大変だが、片付けるのは更に大変だ。時計の短針は十一の数字を示しており、終わる頃には疾うに日付は超えてしまうだろう。そう考えると一気に疲労感を感じてしまう。だが泣き言を言った所で始まらないし終わらないと自分に喝を入れた。
厨房へ向かい恐る恐る中を覗いてみると、それはもう凄い事になっていた。山積みになった汚れた皿やグラス、カトラリー、床には空のワインボトルからゴミ屑まで置かれ足の踏み場もない。余りの惨状に先程まで疲れも手伝い少し眠気に襲われていたが、一瞬にして吹っ飛んだ。
「エーファ」
「マンフレット様、お疲れ様でした」
エーファが片付けに取り掛かろうとした瞬間、マンフレットが厨房に入って来て声を掛けられた。
「君も疲れただろう。もう休んだ方が良い」
「ですが、まだ片付けがありますので……」
マンフレットからの労いの言葉に思わず甘えたくなってしまうが、まだまだ仕事が残っているのが現状だ。
「後の事はギー達に任せてある」
「ですが……」
気持ちは有難いが、疲れているのは使用人達も同じだ。自分だけ休むなど出来ない。
「旦那様の仰る通りですよ、奥様。本来ならばこの様な雑事は私共の仕事で御座います。気に掛けて下さるお心遣いだけでも十分有難い事なんです」
シェフの言葉に周りにいた他の使用人等も頷き、マンフレットと共に厨房から追い出されてしまった。
「エーファ、少し話さないか」
自室に下がる前にマンフレットからお茶に誘われたエーファは、彼の仕事部屋である執務室のソファーに腰掛けた。此処に入るのは初めてで少し緊張をする。
執務室の中は寝室などと比べ更に広さがあるが、天井まで高さのある本棚が部屋の大半を占めており圧迫感を感じた。仕事机には山積みにされている書類が置かれており、それ等を見るだけで彼の責務や重要さが窺えた。この場所はきっと彼の領域であり、そう易々と自分などが立ち入って良い場所ではない、そんな風に思えて萎縮してしまう。
テーブルには既に二人分のお茶が用意されていた。マンフレットが自らティーポットを手にしてカップへとお茶を注いでくれる。エーファはお礼を言いそれに口をつけた。カモミールの良い香りがする。
「マンフレット様、改めて公爵ご就任おめでとうございます」
居住まいを正し丁寧に彼へと頭を下げた。今日は朝から慌ただしく、きちんとお祝いの言葉を伝えられていなかった。
「あぁ、ありがとう。君のお陰で今日は素晴らしい日になった、本当に感謝している。皆、君を素晴らしいと褒めていた。装飾や料理、デザート、酒の銘柄に至るまで完璧だとな。無論君自身の事もだ。私も完璧な立ち居振る舞いだったと思う。招待客への対応も申し分ない」
「そんな、褒め過ぎです。それに私一人の力ではありません。ニーナを始めとした使用人の皆さんの協力があったからこそ出来た事です。ですから宜しければ後で皆さんにも労いの言葉を掛けて差し上げて下さい」
まさか彼からこんなに賞賛の言葉を掛けて貰えるとは思いもしなかったと嬉しくなった。
「周りへの気遣いや振る舞いは、もう立派な淑女だな」
心持ち潤んでいる瞳を細めエーファを見遣るマンフレットの頬は少し赤く見えた。付き合いもあり今夜はかなり酒を口にしていた様子だったので仕方がない。祝酒で勧められ断るのは失礼にあたる。
「え、あのっ」
マンフレットは不意にエーファの顔を覗き込んだかと思えば、エーファの胸元から下がる琥珀石を掬い上げた。
至近距離に彼の顔があり動揺して思わず声が上擦ってしまう。
「……あれからずっと身に付けているな」
「お気に入りなんです」
「今日くらいもっと華美な物にすればいいものの」
「今日はマンフレット様の大切な日でしたから、どうしても此れが良かったんです。それに、何時も身に付けていたくて……」
彼がどんな想いで此れをエーファへ贈ってくれたかは分からない。だがこの琥珀石はエーファにとって何よりも大切な物だ。これがあれば、きっとこれ先何があろうと生きていけるーー。
「……」
「マンフレット様……?」
「エーファ」
「っ⁉︎……あ、あの、マンフレット、さ……んっ」
頬に触れられたかと思えば、親指の腹で唇を撫でられる。彼の顔が近付いて唇をエーファのそれに重ねた。
「んっ、ぁ……」
突然の事にエーファは目を見張り固まってしまう。だが直ぐに羞恥心に耐えられなくなり目を閉じた。
マンフレットは角度を変え何度となく口付けた。時折舌で唇を舐められる感覚に身体がピクリと反応してしまう。
(マンフレット様の唇、柔らかい……)
「エーファ……エーファっ」
暫くすると彼が離れていくのを感じ、エーファは戸惑いながらもゆっくりと目を開けた。
(終わった……? え……)
ぼんやりとそんな事を考えていると、今度は顎に彼の手が触れ親指でエーファの唇をこじ開ける。そして再び視界は彼に覆われた。ぬるりとした物が口内へと差し入れられる。経験のないエーファが、それが彼の舌だと気付くまでに数秒を要した。
「ん、エーファ……はぁ、可愛いっ……」
逃げるエーファの舌を執拗に追い回し絡めては吸われた。未知の感覚に怖さを感じるが、不思議と嫌悪感はない。寧ろ心地よくさえ思えてしまう。
次第に頭がクラクラし何も考えられなくなり、全身の力が抜け落ちていく。そしていつの間にか身体は彼に支えられていた。
彼はエーファを抱き寄せると身体を隙間なく密着させ、後頭部に手を回し自らへと押し付ける様にして唇を貪る。時折洩れ聞こえる彼の吐息の様な声がとても艶かしい。
「マンフレット、さま……?」
「……」
暫く飽きる事なく口付けていたマンフレットだったが、急に動きが止まる。その瞬間、ずっしりとした重さを感じた。
「眠ってる……?」
頬を赤めてはいたが、酔っている感じはなかった。だが思った以上に酔いが回っていたのかも知れない。でないとあの彼がこんな事する筈はない。
それにしても今のこの状況をどうにかしなくてはならないとエーファは身動いでみるが、マンフレットの身体は一ミリも持ち上がる事はない。もしかしなくても彼が目を覚ます朝までこのままかも知れない。いや、そもそも朝に目を覚ますかさえ怪しい……。そんな事が頭を過り慌てふためき身体を滑らせたり押したりと色々と試した。
「……む、無理」
エーファは暫く頑張ってみたが、体力が尽き諦めた。
「マンフレット様」
寝息を立てる彼を見て先程の事を思い浮かべてしまい、身体が熱くなり鼓動も早くなる。
(もう一度だけ……)
エーファはどうにかして顔だけ動かすと、彼の唇に自らの唇を重ねた。
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