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case3.卯衣の場合
01.卯衣、落胆する
しおりを挟む一体、いつから。
「ああ……綺麗だ」
「……お、み、……くん……っ」
いたって冷静な眼で彼女を見下ろす彼の名は、宇崎 鷹臣。
彼女の従兄弟であり、リナリアで生まれ育った官僚一家の息子である彼は、今年22歳になったばかりの濡れた肢体を彼女の前に晒していた。
彼はゆっくりと、彼女のまっさらになった部分を舌でなぞった。彼女の唇から、はっ、はっ、と荒い息が吐かれる。
まるで自分こそ犬のようだと、彼女は思った。
「違うでしょう? 何度言えば分かるの?」
「あっ、ごめ……なさい、だんな、さま……!」
彼女のナカから、とろとろと愛液がこぼれる。
彼は満足そうに柔らかく微笑み、彼女の愛液を舌ですくった。
***
結婚が義務化されたこの世界で、その義務を放棄する方法がひとつある。
それは、誰にも望まれないことだ。
「また……」
仕事帰りの卯衣はがくりと肩を落とし、ポストに入った青色のはがきーー通称 青紙を手にした。これで丁度20枚目。もう本当に、潮時なのかもしれない。
青紙とはいわゆる婚姻拒否届である。
卯衣は20人の男性に赤紙ーー配偶依頼用紙を出し、結婚を申し込んでいた。赤紙はランクの高い者から低い者に出すことができる。つまり卯衣は自身よりランクの低い男性に結婚を申し込んだが、返事は全て青紙、つまり拒否であった。
申し込みばかりではない。大学生時代は3回ほどお付き合いもしてみた。だが相性が悪かったのか、いつもかなり早い段階で破談になった。しかもその原因は、全て相手の浮気である。
卯衣は大概2番目の女で、運がいいのか悪いのか、身体の関係を持つ前にそれが判明した。
27歳の卯衣は、自分に魅力がないことを痛感せざる得なかった。既に結婚適齢期を超え、今後はさらに厳しくなるだろう。
結婚義務化とそれに伴う独身者名簿の登録義務化で、ここ数十年の結婚適齢期は下降の一途をたどっている。最新の情報によれば、女性は平均22.2歳で結婚しているのだそうだ。覚えやすいその数字を見て、卯衣が受けた衝撃は計り知れない。
さらに1年前、卯衣が結婚できない理由がもうひとつ増えた。借金である。
卯衣の実家は小さな工場を経営し、周囲からは丁寧な仕事が好評価を得ていた。しかし1年前に突然、銀行からの融資が打ち切られ、工場は一気に火の車となった。
もともと少ない従業員は次々と辞めていき、残った負債の一部を卯衣が背負った。卯衣は両親のことが好きだったし、残ってくれているわずかな従業員にこれ以上迷惑をかけたくないという思いもあった。
結果、卯衣の純資産ランクはマイナス評価のDとなり、結婚はさらに縁遠いものとなった。これではもう、嫁の貰い手など見つからないだろう。
30歳からは非婚税も掛かってくるが、望まれない人間が背負う非婚税は、普通よりも税率が低く設定されている。行政からも同情される今の状況は、卯衣にとって屈辱以外の何物でもなかった。
「ただいまーぁ……」
「ああ、卯衣。ちょっと話がある。こっちへ来てくれ」
重い足取りで玄関の戸を開けると、父親の硬い声が聞こえた。職人気質の父は普段 卯衣とあまり話すこともなく、工場にこもっていることが多い。あらたまって、何の用事だろうか。
居間へ向かうと両親が難しい顔をして座っていた。促されるまま対面に座り、差し出された封筒を見て驚愕する。
「……これ、赤紙?」
「中を、見てほしい」
初めて見る赤紙に持つ手が少し震える。
一番初めに出てきた婚姻届を取り出すと、卯衣の震えがぴたりと止んだ。
「……どういうこと?」
宇崎 鷹臣。
婚姻届の名前欄には、美しい字でそう署名されている。彼は5つ下の従兄弟であり、リナリアで生まれ育った官僚一家の一人息子であった。
卯衣は途端に混乱した。
なぜ鷹臣ーーおみくんが、自分に婚姻を申し込んでいるのだろう。彼は今年アメリカ自治区の大学を卒業し、父親の背を追って官僚候補として名乗りを上げている。22歳で若き当主となるべく育てられた彼にはそれこそ、結婚の申し出が後を絶たないはずだ。
「いや、それがな……宇崎家が借金を、肩代わりして下さるそうなんだ」
ますます分からない。
卯衣が首をひねると、父親は重苦しい口調で卯衣に説明をした。
どうやら宇崎家は、親戚である卯衣の一家が負債を抱えていると知って心を痛め、自身らの私財から借金を返済する手はずを整えてくれたそうだ。さらに工場も再開できるよう、宇崎家の知り合いに声をかけてくれているという。
官僚一家の宇崎家のことだ。実際のところは、親戚に借金持ちがいると困る、というのが本音だろう。しかしそれでも卯衣たちにとっては久しぶりの吉報だった。
「でも、それがどうして赤紙になるの?」
「うん、それがね……鷹臣くんは、家政婦を探しているそうなの」
母によると。
今年アメリカ自治区から帰ったばかりの彼は、両親の資産を一部受け継ぎ、すでにリナリア内で一人暮らしを始めているらしい。しかし仕事が多忙になり、家のことにまで手が回らない。家政婦を雇おうとしたが、見知らぬ人に一人暮らしの家を任せるのは抵抗が大きかったようだ。
困った挙句、彼は親戚の卯衣に白羽の矢を立てた、ということらしい。
「でも、リナリアへ仕事で行くには審査が厳しいでしょう? それならいっそ、妻として来たらいいって話で」
「ああ、そういうこと……」
卯衣の身体から力が抜けてゆく。
結局自分は妻として迎えられるわけではない。ここまで誰にも望まれないのだと思うと、卯衣は自分が情けなくて仕方ない。
「向こうとしては、きちんとした家政婦を雇うか、奥様をもらうかするまで居てくれたらいいってことなんだけど……」
母がそこで言い淀む。
理由ははっきりしていた。
卯衣が家政婦がわりに鷹臣の元へ行くのはいい。しかし仮にも妻として向かい、籍を入れるにも関わらず、向こうに新しい女性が来ればお払い箱にされ、離婚となる。
多くの妻を迎えられる鷹臣であれば、離婚歴などなんの傷にもならないだろう。
しかし卯衣にとっての離婚歴は意味が違う。一般庶民の離婚は、一度でも大きな痛手となって残り、次の結婚などさらに絶望的である。初婚貫徹主義の昨今で、戸籍上は傷モノになる自分を受け入れてくる珍妙な男がいるとも思えない。
両親もそれを分かっている。
しかし今、宇崎家からの申し出を断ることは、すなわち援助を断ち切られるという事だ。卯衣の手に、家族と従業員の未来がかかっている。
宇崎家の、一見 思いやりに見せて自分達に都合のいいよう人を使う図々しさには辟易する。そしてそれでも彼らに縋るしかない卯衣は、自分の身の上がほとほと虚しく感じた。
「うん。それなら、おみくんの所にお世話になろうかな」
「卯衣……」
「いいのいいの。これまで結婚できなかったんだし。少しでもお役に立てるなら」
「卯衣……ありがとう……」
卯衣は出来るだけ明るく振舞うと、棚からボールペンを取り出して、必要な部分を書き埋めていった。今まで憧れていた婚姻届だが、その意味を悟ると書く手が鈍る。それでも何とか書き終えて封をし、一人でポストに向かった。
「……おみくん……」
卯衣の口の中で、鷹臣の愛称がぼやけて消える。
リナリアに住む鷹臣とは、年に一度、リナリアから出てきた宇崎家主催の新年会で顔を合わせる程度だ。しかし卯衣は彼の存在をよく覚えていた。
鷹臣は幼い頃、歳の近い卯衣を慕って「ういちゃん、ういちゃん」と後ろをついて回っていた。その瞳はくりくりと大きく、唇は少し厚くて、いつも口角がきゅっと上がっている。卯衣は新年会で、子犬のような鷹臣といつも一緒に遊んでいた。
宇崎家のやり方は気に食わないが、鷹臣自身にはそこまで悪い感情を抱いていない。だからこそ、卯衣は不安だった。
最後に鷹臣と会ったのはもう10年ほど前になる。卯衣はその頃から、大学や仕事を理由に新年会へ行かなくなり、それから彼とは一度も会っていない。卯衣の中の鷹臣は、13歳のかわいい子犬で止まっている。
きっと記憶と違うであろう彼の存在は、今の卯衣にとって大きな不安となっていた。
***
「そうか……リナリアに……」
「はい。1ヶ月後の引き継ぎまで、よろしくお願いします」
卯衣は次の日、職場の上司である係長に退職する旨を告げて頭を下げた。
ただ結婚しますと報告しても良かったが、そうするにはあまりにも気が引ける。そもそも嘘をつく事が苦手であり、祝われても申し訳ないと考えた卯衣は、そのままの経緯を係長に話した。
「……もしこっちに戻ってくるようなら声をかけてくれ。君の席なら、いつでも空けられるようにしておくから」
「はい、助かります」
「こちらとしても、君がいなくなるのは結構な損失だからね。いままでよくやってくれた。ありがとう」
50代の係長は卯衣の話を聞くと気まずそうに沈黙したが、やがて彼女を励ますように力強い言葉を贈った。それが本音かどうかは分からないが、戻ってきてもいいと言ってくれるのはありがたかった。
望んでついた職種ではない。
卯衣は就活でことごとく落ち、卒業ギリギリにようやっとこの会社に就職できた。若い女性が多く、男性はみな歳を重ねているような会社で、仕事はやりづらいし気も使う。
しかも前の係長はあろうことか卯衣に不倫を持ちかけてきた。あれほど仕事を辞めたいと思った時はなかったが、その男は数週間後にタイミングよく転勤となり、卯衣は難を逃れた。
今の係長は外部から来たが、誠実で部下からの信頼も厚く、係長のポジションがもったいないくらいだ。この人が来てからは仕事が格段にやりやすくなった。
長年働いた仕事場は、望んだ場所ではないにせよ名残惜しい。卯衣は離婚後また一から仕事を探すより、この人の下で働きたいと強く思った。
「……こちらこそ、ありがとうございます。本当に」
それから1ヶ月後、全ての引き継ぎを終えた卯衣は、後ろ髪を引かれる思いで仕事を退職した。
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