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case2.泉の場合
02.泉、心のなかでキレる
しおりを挟む泉は今、転居先の一室で固まっていた。
ここへくるまで、泉の胸中は複雑だった。
それは泉の待遇が、想像していたよりも酷いものだったことが原因だ。
リナリアの、一夫多妻の妻ともなれば。
夫となる人はみな人格に優れ、金がある。そんな特別な夫から選ばれた妻ともなれば、当日は深窓の令嬢のごとくリナリアへ迎えるのが当然のこと、と彼女は想像していた。
実際、選ばれし妻たちはリナリアへ向かう当日、とにかく並々ならぬ待遇で迎えられるとテレビや雑誌で見聞きしていた。
しかし、引越し当日を迎えても、泉の元には連絡ひとつ、人ひとりすら寄越されなかった。彼女はひとりでリナリア区境の手続きを済ませ、新幹線に乗り込んでいた。
結局、女性誌の情報などあてにならない。
デマや盛られた話に踊らされたのだろう。
泉は自分の中でそう解決しようとしたが、心の中では疑問と鬱憤が溜まっていった。
だって、彼女は確認していたのだ。
リナリア区境で、同じような検査をしている別の女には案内役がついていた。
コンシェルジュと思しき男性は、若い女に区境の手続きや検査内容を丁寧に説明していて。
そして、動くホテルと称される美しい新幹線には、きちんと個室用の車両があった。
個室用の車両はほかときっちり区別されており、入るにはリナリアカードでの個別認証が必須となる。だから泉は入れなかったが、車両の扉がちらりと開いた時、見えてしまったのだ。
個室の前で忠実に姿勢を正している、コンシェルジュの姿を。
あれこそ、泉の想像通りだった。
個室にいるであろうもう一人の女は、今まさに深窓の令嬢となってリナリアへ向かっている。
対して、私は。
何がなくとも、せめて迎えくらいは来て欲しかった。それは単なる自分のわがままや見栄からではなく、区境という初めての場所での案内役が欲しかったに過ぎない。
婚姻届を出したあと、何の説明もないままリナリアカードと転居先の住所だけが送られてきた。
勝手に来い。
そう言われているような自分の境遇はたまらなく不安で、惨めだった。
だから正直なところ、泉は怒っていた。
リナリアカードと転居先だけ送って、妻を迎えるそぶりなど一切無い“旦那様”とは、一体どんな奴なのか。
とにかく、とにかく腹が立つ。
泉はまず一言、いや三言以上の文句をマッドクターにぶつけてやろうという怒りだけ持って、転居先の住所までとうとう一人でたどり着いた。
そこは、大きなビルだった。
ビルの背はあまり高くなく、おおよそ10階ほどだろう。
しかしそのビルは外観からも美しく、入り口にはロータリーが設置されている。玄関はリナリアカードでの鍵認証が必要となり、泉のもので解錠された。
中もまた、とにかく広い。
入ってみると玄関だけでもかなり天井が高く、太陽の光で、全面大理石の床は眩しく光っている。
奥のエレベーターもまた鍵がかかっており、リナリアカードをかざすと3階以降のボタンが点滅した。とりあえず3階を押しておく。
どうやら、ここはマンションらしい。
泉は少し落胆した。彼女は勝手に一軒家の大豪邸を想像していたが、実際は、綺麗だとはいえ家族でない人も暮らす総合住宅だ。
まあそれは仕方ない。
泉は気をとりなおして、鞄の中に忍ばせていた住所を確認した。部屋番号を見なくてはと思ったのだが、不可思議なことに、住所のどこにも部屋番号らしきものは書かれていなかった。
やっぱり、不親切だ。
泉の中で不満がぶくぶくと太り、エレベーターは3階へと到着した。しかしそこにはひとつの扉があるだけで、他には何もない。進むしかないということだろう。
慣れきった動作でカードをかざし、扉の鍵が開かれると次は長い廊下だった。廊下の両端にはいくつかの扉が並んでおり、また奥にもひとつ扉がある。
一番奥の扉から、人の気配がしていた。
それはテレビの音なのか、妙に騒がしく作られた笑い声が聞こえる。そして扉の向こうに電気が付いていることを確認し、泉は廊下を進んだ。
何のんきに、テレビなんか見て。
私が一体、どれだけ苦労してここまで来たと思ってるの!
言いたいことを喉元まで溜めながら、奥の扉に手をかける。そこは個人の部屋のためか、もう鍵はかけられていない。
意を決して、泉は扉を開けた。そしてそこで、泉は固まった。
「……っ、は……」
「ん、イイの……?」
テレビと対面になったソファに座るマッドクターと、男の股間に顔を埋める半裸の女。
突如見えてしまったそれに、泉の思考はぴたりと停止してしまった。
えー……っと。とりあえず。
この場を去るか、混ざるのか。
それが問題だ。
……そういえば、一夫多妻や一妻多夫のセックスは一対複数であることも多いと聞く。それは単なる欲望だけが理由ではなく、そうして多妻や多夫側の親交を深める目的もあるらしい。
と、いうことは。
自分はもしかして今、試されているのか。
来た早々でそんなことをするような気分ではないが、他の妻とどういう関係を結べるのか、マッドクターは見ているのかもしれない。
となれば、今するべきことは。
他の妻と仲良くフェラして、夫の評価を上げるべき。なのか。
泉の思考は混乱状態からまったく立ち直れずにいた。その場に硬直し、淫乱な想像を真面目に考えている間に、マッドクターが動き始めた。リモコンを手に取って騒がしいバラエティを消し、ぼそりと呟く。
「……奈緒、待った」
「ん、なぁに?」
「お前、誰」
薄茶色のワカメみたいな前髪のせいで、自分に視線が向けられているとは露知らず。
泉はそれが自分への問いかけとは思わなかった。
先に動いたのは奈緒と呼ばれた女の方である。こちらはふわっとしたミディアムボブで表情がよく見えた。
奈緒は口から男の陰茎を抜くと、きょろきょろと辺りを見回して、泉と目があった。大きな丸い目が見開かれ、急速に胸元を隠す。
……わぉ、大きなおっぱい。
「へっ? へっ? えええっ?!」
「いやっ、あのっ」
「……あー、くっそ。マジ無い。萎えた」
その言葉でふと見ると、確かにさっきまで立派だったモノが萎えていて、マッドクターは試合後のボクサーのように項垂れていた。
泉は相変わらず混乱し、奈緒は状況を把握できないでいたが、ややあってピンと来たらしかった。あ! と大きな声で泉を見直す表情は真っ赤なタヌキのようである。
「うそ、もしかして泉さん?!」
「あ、え……はぁ」
「うわーっ、ごめんなさい、こんなカッコで。もう、ユリ! 来る日教えてといてって言ったじゃない!」
「うるせぇ、忘れてた」
「忘れてたじゃないわよ! 泉さん、ちょっとだけ待ってね、今すぐお茶入れるから!」
いやまず、今すぐ服を着てほしい。
泉がそう思っているうちに、奈緒はすぐそばに投げてあったシャツを着て動き始め、マッドクターも自身の萎えたモノをズボンの中にしまった。よかった、それなりの常識はあった。
泉が待ちぼうけでその様子を見ていると、台所に入った奈緒から適当に座っててくれとの指示があった。どうしたら良いのかと戸惑っているうちに奈緒はすぐティーポットを持ってマッドクターを叱りつけた。
「もう、ユリ! ちゃんと泉さんに教えてあげて!」
「めんどい」
「めんどいじゃないでしょ、この馬鹿ッ! 泉さん、ほんとごめんねここ座って」
「は、はぁ」
「ほら、ユリもぼーっとしない!」
奈緒のマッドクターに対する言葉はきついが、その姿はどう見てもタヌキ科の小動物でしかない。かわいいタヌキが怒ってる。なんとも言えない状況に、呆気にとられてしまった。
彼女に案内され、ソファではなくダイニングの椅子に座る。マッドクターも彼女が叱りつけると大人しく指示に従い、泉の正面に座る。その情けない姿はどう見てもAAA/dの人間には見えなかった。
3人が席に着き、ようやく一呼吸置いて、奈緒から話しはじめた。
「……改めまして、ごめんなさい。はじめまして泉さん。ええと……彼が、家主の五十嵐悠里です」
「はじめまして……泉です」
「一人目の妻の奈緒です。あの、ほんとに、今日 泉さんが来るとは思ってなくて。こちらの不手際なんだけど、おもてなしも何もなくて、ほんっとうにごめんなさい。ここまで来るの、大変だったでしょう?」
「まぁ……はい」
「もうほんと、この馬鹿が、何にもちゃんと言わなくて……ほらユリ、ちゃんと泉さんに謝って!」
「……悪かった」
奈緒がマッドクターの頭を後ろから容赦なく殴った。
その小柄さに似合わず、ゴン、とにぶい音がした。彼女の鉄拳は強いらしい。マッドクターの頭が揺れる。
その様子を見ると、泉はそれまでの毒気を抜かれてしまった。
色々言おうと思っていたが、全ての怒りが奈緒の鉄拳の前に無に帰している。それに奈緒が道中の大変さを分かってくれただけでも、今はありがたかった。
「とにかく、本当に申し訳ありませんでした! 来て早々、あんなところまで見せてしまって」
「あの、いやもう、結構です。大丈夫ですので、お気になさらず」
「すみません本当に……泉さんのお部屋は、すでに8階に用意してあります。あとで案内しますので、好きに使ってください」
「あれ、8階? ここじゃないんですか?」
「ここはユリの私室なんです。私が4階フロア、ほかの妻が5階から7階までのフロアにいます」
「え、待って……ここって、マンションじゃないの?」
なんだかさっきから話がおかしい。
「ややこしくてすみません。このビル全体が五十嵐の家なんです。あと、2ヶ月後は2階に彼のクリニックが出来ます」
何ということだろう。
さすが、伊達にAAAではない。
ここに来てようやく、泉の気持ちが少しばかり晴れた。想像していたことの10分の1程度ではあるが、確かに自分がリナリア区民になれたと実感する。
しかも、これからクリニックを開設するとなると院長夫人だ。嬉しくないはずがない。
奈緒が早速部屋を案内すると言って立ち上がろうとすると、マッドクターがまたぼそりと呟いた。
「お前、リアーナ知ってる?」
お前、とは、私か。
なにせワカメのような前髪で視線が合わないのだ。誰に向かって話しかけているのかもわからない。しかし、奈緒は答えないため、どうやら泉に向けられた言葉なのだろう。
「もう登録してあるわよ、それくらい」
泉はことも無げに答えた。
リアーナとは、リナリア区民専用の特別SNSだ。リナリアカードを持つものしか登録できず、また他のSNSでは制限がかかっており、リナリアの内部情報は発信できない。だから、泉を含む一般女性はみなリアーナに登録する権利を欲していた。
泉はカードが届いたその日に登録を行った。中にある写真やコメントはどれも彼女の心を踊らせ、ここへ来る前からかなりの情報も取得していた。泉がここまで一人で迷わず来られたのも、リアーナのおかげであると言っていいはずだ。
でも、だから何なのだろう。
マッドクターは泉の言葉を聞いて立ち上がると、リビングを出て少ししたら戻ってきた。その手から一枚のビラが手渡される。五十嵐クリニック。
「……なにこれ」
「うちのクリニック」
「いや、見りゃ分かるわよ。それで?」
「宣伝しといて」
……この、クソ雑魚マッドクター!
心の中で思わず暴言が飛び出す。夫であるはずの人間は、しかしながら無情にも言葉を続けた。
「あ、奈緒。今日俺戻んないから」
「へっ、なんで?! だって泉さんが」
「緊急手術で呼び出し食らってる。……はぁ、だから抜いときたかったのに」
そう言って、またマッドクターは出て行ってしまった。今度は玄関の扉が開く音がして、彼の言葉がおそらく真実なのだろうと知る。
途轍もなく気まずい雰囲気が、妻二人の間に流れていた。
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