アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅴ.夜の章

95.血の契約

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※流血描写あり


まって、と。
アイリーンは言った。アイリーンは叫んだ。
馬を降り、早足で駆けてゆく。


「アリン!」


ロイが叫ぶ。
しかし気にしてはいられなかった。説明などどうしてできる。それよりも早く、一刻も早く、アイリーンはを救わなくてはならなかった。

彼らはおとなしい。
アイリーンの命令を遵守している。

アイリーンは持っていた麻袋からロイの短刀を取り出してそのほかを捨てた。どうすれば彼らに報いることが出来るだろう。この身を差し出せというのなら、喜んで差し出す。しかしアイリーンにはまだ彼らの声が届かない。


「きて……」


その消え入るような声に、彼らはゆっくりと動き出した。獰猛さはなく、馬よりも大きな体躯の彼らはアイリーンを取り囲み、すっぽりと周囲から隠してしまう。


「アイリーン!」

「大丈夫。だいじょうぶだから」


アイリーンの言葉に彼らはその手足を曲げ、地面に腹を付けて伏せた。胸から上だけをあげて、アイリーンの姿が周囲にも見えるようにしてくれている。そうだ。彼らは知恵を持つ。それも、人間と同等か、もしかするとそれ以上の。

そうするのが当然であって、アイリーンは短刀を抜き、刀身を両手で強く握った。皮膚の切れる痛みはわずかなものだ。彼らが背負ってきた、耐えてきた苦しみに比べれば。


彼らは飢えている。
彼らは渇いている。
彼らは彷徨っている。
彼らは白い暗闇のなかにいる。


今のアイリーンにはそれが分かりすぎるほどに分かっていた。どうして分かるのか、どうして感じるのかは知らない。自分の奥底に眠るなにかに従って、アイリーンは両手を皿の形にあわせる。


「どうぞ」


異様な光景だった。

アイリーンを取り囲んだ食人獣たちは一様にみな静かで、彼女の施しを、ほそい手のひらに溜まった真っ赤な血を、うやうやしく受け取った。一頭ずつ舌を出し、手のひらを舐めすくってゆく。食らいついたり牙を見せることもなく、なついた獣が人間にそうするように、慈愛をこめて彼女を見ている。

そして、変化はもうひとつ。

それは誰の目にも明らかだった。アイリーンの血を舐めたそばから、食人獣の白い目が赤く染まってゆくのだ。はじめは薄赤、そして時間が経つにつれ、アイリーンと同じ、血の色と同じあざやかな赤に染まり果てた。


アイリーンはもう頭痛を感じない。
そのかわり、頭のなかで直接感じる声があった。


声はみなそれぞれに、アイリーンを王と呼ぶ。


[王よ……]

「……うん、ずっと、オレを探してくれてたんだよな……遅くなって、ごめん」

[我らのいとし子。あかつきの王。どうか嘆き悲しまれぬよう。こうして逢えた……大きく、美しく成長なされた。何百年ぶりか。これほど嬉しいことはない。貴女以外の王はみな、赤子のうちに殺められてしまったのだから]

「うん……」

[逢いたかったよ、王さま……!  ずっと探してた!  けど、本当にいるなんて、思わなかった]

「うん、分かってる。ありがとうな……」


彼らはそれを知っているのだ。

アイリーンには感じとれた。彼らはを王と呼び、その血を、目を求めて何十年も彷徨っていた。彼らの苦しみ、痛み、嘆き、絶望。そのすべては今、彼らの目を通してアイリーンに伝わっている。そして彼らには血を介して、アイリーンの瞳に映ったすべてが伝わり記憶される。

後悔した。
もっと早く、彼らの元へ行かなくてはならなかった。例えばあの秋の遠足、あのとき、彼らのひとりを森の中で見かけたときに少しでも視線を交わせていれば……こうも彼らを苦しめることなく救えたはずだ。

アイリーンの苦々しい表情は視えないはずだったが、彼らは彼女をなぐさめるようにおおきな頭をすりつけ、手を舐めた。身体じゅうに触れる彼らの体毛がくすぐったい。ふふ、と笑い声がもれる。


「あ……赤目の忌み子が……」

「食人獣と、通じられるのか……?!」

「け……獣の子……!」


誰が言い出したのかーーロイもいるというのにーー軍人たちはアイリーンを忌み子と呼び、彼らと気持ちを通じあわせる彼女を恐れた。そんなに怯えなくてもいいのに……と思うが同時に、彼らのしてきた事を、人を殺し、その血肉をすすってきたことを思えば、さらに自分以外の誰にも彼らの声は届いていないことを鑑みれば当然の反応でしかなく、それがまた悲しかった。

彼らの悪行の根本は自分だ。

彼らは白い世界のなかで、熱砂に呑まれるような渇きや飢えと何十年、何百年も戦ってきた。戦う理由はただひとつ、アイリーン赤目の王を得るため。彼らにとってアイリーンは世界そのものだった。


「……おい、アリン。どうなってる」

「ロイ……」


いつの間にか馬を降りていたロイがアイリーンのすぐそばへ来る。たったひとり、愛するロイにすら、彼らのことはきっと分かってもらえないだろう。そう思うとアイリーンは胸が潰される思いだった。

自分はなるだけ早く、彼らのもとへ行かなくてはならない。彼らに血を与え、彼らを救うことこそ自分の生まれた理由なのだと、アイリーンはいま強烈に自覚している。


それはロイとの決別を意味する。
分かってもらうことは出来ない。
それでも行くしか選択肢はない。

しかし。


「こいつらはなんで喋りはじめた」

「……え……」

「王だのいとし子だの、逢いたかっただの。訳の分からねえことをくっちゃべりやがって。食人獣が意思疎通できるなんて話聞いてねえぞ、どうなってやがる」

「え、えっ……ロイ、聴こえるの……?!」

「は?  なに言ってやがる。こんな、に……」


奇妙な静寂が流れる。

ロイより少し後ろに並んだ軍人たちは、ロイの発言にみな呆然と言葉を失い、その様子を見た彼もまた自分の置かれた立場に窮している。アイリーンとて意味がわからず、困惑するばかりだ。

そんなふたりに声をかけたのは、5頭のなかでももっとも老年らしき者だった。とは言えその見た目は他とさほど変わらず、低くしゃがれた声が判断材料となる。


[王よ、聞いたことがある……王の一部を分け与えられた人間は、こうして我らと言葉を介することが出来ると。その者は王を与えられた。だから……]

[与えたんじゃない、無理やり奪い取ったんだ!  その男は、もう何度も王を泣かせてる!!]


脳内に響く声で反論したのは、察するに1番若い獣だった。その声に同調するように、ほか4頭のうち2頭もグルルと唸りをあげる。明らかな"食人獣"の威嚇に、アイリーンの頭にかっと血がのぼった。


「なにしてる!  やめろ!!」

[でも王!  この男は!]

「ちがう!  このひとは、オレの、大事なひとだよ……っ!  ちょっとでも怪我させてみろ、許さないからな!」


アイリーンの剣幕に、それまで唸っていた3頭はみな、小さな耳をしょぼくれさせて、頭を地面にぺたり伏せた。服従の意味なのだろうか。きゅう、と落ちこんだ声を出す3頭に思わず胸が高鳴ってしまう。
いけない、そんな場合ではないのに。

先ほどの老年が3頭の頭をなぐさめるようにぺろりと舐めた。こうしてみると、大きなかわいい黒猫という印象しかない。


[若き者たち。お前たちはまだ知らんのだ……人間が泣くのは辛いときばかりではない。悲しいときばかりではない]

[……しかしこの男が王の頬を打ちすえ、ときに歯牙にかけ、王の血を奪ったのもまた事実。それにこの男は真に王の"つがい"ではない……若い衆が混乱するのも無理はなかろう]

「っあ、それ、は……!」


一連の事態を静観していたもう1頭が、壮年の声でそんな風に言うものだから、アイリーンはとうとう状況も顧みることなく顔を真っ赤に染め上げた。

はずかしい。
血を分け与えた時点で、彼らに自分の見たものすべてが流れ込んでいることは理解していたが、こうして言葉にされるとつい、その時のことが思い出されていたたまれなくなる。ロイとの秘密のやりとりすらも、彼らには隠す手立てがないのだ。


「あ、あれは……んなら分かるだろ、オレから頼んだんだ……ロイが悪いわけじゃない……」

「……どういうことだアイリーン。こいつら、何をどこまで知ってやがる。なんでこいつらが俺たちのことを、さも知ったふうな顔で言いやがるんだ」

「う、あの、えっと」


隣でつよく肩をいだかれ、その口調も視線も一見普段と変わらず冷静に見えるが、ロイはひどく怒っていた。それはどうやら、目の前の獣がほふるべき"食人獣"であるからとか、そういう切迫した雰囲気ではなく……単にふたりだけの秘密を暴かれたことに対する、不機嫌さらしかった。

そしてロイは彼らと言葉を交わせるからと言って、この状況を理解したわけでは全くなかった。ともなれば説明が必要だが、アイリーンもまた、彼らについての理解は感覚的なものでしかなく、言葉にするのは難しい。たとえば、私たちはなぜ楽しい時に笑うのか、と聞かれるような居心地の悪さだ。そんなことを聞かれてもわからない。

彼女は盛大に口ごもりながら、何とか納得のいく言葉を探したが、そもそも状況自体が普通の感覚では納得できるものでもない、と半ばヤケになって浮かぶ言葉をそのまま口にした。


「……その、つまり……こいつらの目なんだよ、オレは」

「……目?」

[我ら種族は目を持たぬ。近くにあるものの存在を感じ取ることはできても、視界は一辺倒に白くておそろしい。まるで深い靄のなかだ。だが王の血を媒介として、我らは王の世界を見ることが出来る。色を知り、形を知り、この世を、光を知ることが出来る]

[そうだよ。だから、王にはこれからうんと、綺麗なものだけ見てもらうんだ!]


話してみると、彼らの方がよほど語彙をもって説明できていた。そして若い獣はついさっきまで落ち込ませていた耳と尻尾をぴんと立て、嬉しそうな声音を発し、また壮年に諌められる。


[落ち着け若いの……それと、王が我らに与える恩恵はまだある。本来の感覚と、昼を生きる力。

我らは生まれながらにしかばねだ。何を食らっても無味乾燥し、喉は乾き、満たされぬ飢えに苦しめられる。あらゆる音は遠くなり、満月と新月の夜以外は身体が鉛のように重い。唯一、人間の血の味だけが渇きを癒すが……それもまた、王のものでなければ一時しのぎでしかない。

しかし王が居ればそんな日々もようやく終わる。王は我らの救いであり、世界そのものだ]

「世界だと……?  回りくどい言葉じゃなく、ちゃんと説明しろ。てめえらとアイリーンの繋がりはなんだ」

[王と我らの繋がりは血の契約だ。太古の昔から、王は我らに恩恵を与え、それゆえ我らは王を守る。王が苦痛を感じれば、それは我らの苦痛ともなる。苦痛が強ければ強いほど、王のいどころは明確になり……

王が我らと同じ種族であった頃はそうして王を守ったそうだが、王が人間に喰われ……我らのことわりはおかしくなった。

王は人間として生を受けるようになり、はじめはうまくやっていた。しかし人間は愚かだ。我らを従える暁の王を目の敵にし、そのうち殺すようになった。

我らは生まれ変わる王を何度も探した。が、人間は多い。いくつもある山のなかで、たったひとつのちいさな宝石を見つけ出そうとする途方もなさだ……だからここまで時が流れた。

わかるか、銀目の男。王の仮のつがいよ。
我らには暁の王が必要だ。我らの飢えと渇きを癒し、彷徨う我らに終着を告げられる者は王しかいない。王が死ねば、また一からやり直しだ。そうなればまた、そなたらの仲間を喰い殺すことにもなる]

「じゃあなにか、てめえらはこいつを、アイリーンをエサにするために探してたのか。王だのなんだの、適当な言葉で飾りつけて、結局こいつを食う算段だろうが」

「っちがうよロイ。こいつらはオレを殺したりしない」


アイリーンはロイにすがる。赤い瞳をあげ、まっすぐな、無垢な思いで夫を見ていた。彼らのことをわかって欲しい。彼らは本来、人を傷つけるようなケダモノではないのだ。


[その通り。我らが王を殺すなどもってのほか。我らは王とともに生き、王を護り、死んでゆく。王がその瞳で、美しい世界を見続けることだけが我らの悲願だ。

愚かしい蛮族に、そのたったひとつの願いを幾度阻まれたことか。銀目の男よ。お前も知っているだろう。王を殺すのは我々ではない、人間だ。だからこそ……


かえしてほしい。
暁の王を、かえしてくれ]


たったひとつのロイの手が、アイリーンの肩を強く、握って離さなかった。



夜の章  了
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