アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅴ.夜の章

89.月のしずく

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※痛い描写あり


目が覚めて、叫ぶ。
叫び疲れて、眠る。

また起きて、叫ぶ。
頭が痛くて、気絶する。


そんなことを何度繰り返したか分からない。
昼も夜も関係なしに、訳もわからず、ただ無意識のうちにそうなっていたアイリーンはふと、覚醒する。寝台ベッドのはたでティリケが腕をついて眠っている。起こそうとも思ったが、身体が動かず腕一本すら出すのが面倒だ。なんとか振り絞った声はガサガサだった。


「……ティ、リケ…………」

「……ッアイリーンさん!  ま、待っててください、いまお水を!」


眠りが浅かったのか、ティリケはアイリーンの小さな呼びかけにも敏感に反応した。水瓶からコップに水を汲んでもらって渡される。喉を通る冷たい水が、ずいぶん久しぶりのように思えた。そばで見守るティリケも憔悴している。


「アイリーンさん……身体は、どうですか?  痛みや疲れは……?」

「ん、大丈夫……それよりティリケ、オレ倒れたんだよな……?  いまって、なんじ…………ていうか、いつ……?」

「ええっと……アイリーンさんがはじめに倒れてから、5日になります。時々起きられていたんですが……覚えてませんか?」

「ん……」


冷静に話そうとするティリケの目が潤んでいる。
蜘蛛の糸のような記憶をたどれば、恐らくは自分の叫び声や、それを諌める細い手、そして時おり水や食事を与えてくれたティリケの顔がぼんやり浮かんだ。

部屋を見渡せば千切れたクッションの羽がそこかしこに落ちていて驚く。そして部屋のものを根こそぎ奪ったマムに初めて感謝した。クッションの他に投げつけるものがなかったのだ。狂乱した自分はティリケにどんな姿を見せていたのか……考えるのも嫌になる。


それでも、世話をしてくれたのだ。


「ティリケ……ごめんな、怖かったよな……」

「ッ!  いいえ、いいえ……!」

「怪我してない?  オレ、ちょっと混乱してたから……お前になにか、辛いことをしたんじゃ……」

「大丈夫です、でも、でもほんとうに……ッ」


よかった……!  と嗚咽まじりに喜んでくれるティリケの頭をわしわしと撫でながら、しかしアイリーンの脳裏には違う思いがのしかかっていた。

どうして生きているのか。ティリケがいなければ、自分はこのまま、狂乱したまま死ねただろうに。見捨てておいてほしかった。なぜ助けたーーなぜ、自分は生きている。

赤目がうつろに、顔にはなんの表情も乗らなくなる。すべての時間は止まってしまって、寝台に伏して泣くティリケを撫でる右手がかろうじて機械的に動いている。今のアイリーンはただひたすらに、じりじりと、ひとつの思いに追い詰められる。


死ななくては。
はやく、死ななくては。


しかしこの場ではいけないと、わずかに残った理性だけがアイリーンをこの世に繋ぎ止めていた。ティリケはソフィアよりも幼いのだ。これ以上つらい思いをさせてはならない。自分のためにこれほど泣いてくれる彼女に、自死するところを見せてはいけないーー死ぬならまず、ティリケの目を逸らさなければ……


「ふふ……」

「…………アイリーンさん……?」


幸いにして、時間は余るほどにある。
ゆっくり考えればいいのだと、アイリーンはようやく笑顔を見せた。ティリケが顔を上げていて、驚いているのか、おののいているのか、栗色の目は大きく見開かれている。


「ああ、ごめん、ごめん……ありがとなティリケ、助かったよ……」

「いえ……」

「いま何時だっけ……あぁ駄目だ、頭も身体も全然うごかない……窓開けてくれる……?」

「は、はい!  私、朝食をすこし残しておいたんです。昼までまだ時間がありますから、持ってきますね!  食べてください!」

「……わるいな……」


死ぬのに、そんな手間かけさせて。


取手ハンドルを回せば人では届かない高窓が開き、さぁ、と冷たい風が吹く。いそがしげに部屋を横切っているティリケを見ながら、アイリーンは異様なにおいを感じた。


「なぁなんか……嫌なにおい、しない?」

「ああ、そういえば最近ときどき……村でなにか燃やしてるんでしょうか?  やっぱり窓、閉めますか?」

「うん……そうだな」


なんだったっけ、このにおい。

せっかく開けてもらった窓をすぐに閉めてもらう。嗅いだことがある気がしたが、とても落ち着けず、ティリケは平気にしているのがかえって不思議だった。


「どうぞ、少ないんですけど」

「充分だよ、ありが……」

「あれ……?」

「……マム看守長、かな……?」


小さなパンとすこしの果物、そして牛乳が目の前に置かれて礼を言おうとした時、部屋の外から足音が聞こえた。いつもより大きく、荒々しく、走るように階段を駆けている。


……まさか……!


怯えるティリケを横目にアイリーンはけだるい身体を起こす。足音はどんどん近づいている。ひと足ひと足、まるで踏みつけるような強い音がして、そしてーー!


「……っ、マム……」

「はッ……アイリーン、目を覚ましたのかい……!」


かくして、足音はマムだった。

アイリーンは苦々しくなって顔を伏せる。期待なんてしちゃいけないと、ここへきて痛いほど自覚していたのに、肝心なときに忘れてしまう自分が心底いやだった。

乱暴な足音を立ててマムが近づいてくる。ティリケがなにか言おうとしたが、大きなマムの手でひと振りされた小さな身体が、人形のようにくずおれる。伏せていた視界にもその姿が入って、アイリーンはようやく顔を上げた。


鬼の顔が、そこにある。


「マム!  なにし、て……」

「アンタのせいだよ」


鬼の顔をしたマムの両手が、首へ。
起こしていた身体が寝台へ叩きつけられる。


ーーああ、鳥を絞めるときみたいな。


「ぐウ…………がッ……」

「アンタが、アンタが悪いんだ!  アンタが!!」


思考とはうらはらに、自由な四肢はじたばたともがき、遮断された喉は抵抗するかのようにひくついている。ごく当たり前、自然なことなのだろうと、アイリーンは自分に生じた現象と周囲を冷然として見渡した。


マムは涙目で、しきりに自分を罵ってくる。アンタが悪い、アンタさえいなきゃ、赤目を殺せば……同じようなことを絞めながらずっとつぶやいている。

隣でティリケが泣き叫ぶ。やめてください、死んじゃいます、お願いですから。そんな風に懇願するがマムは一向に聞き入れない……お前、オレを殺そうとしたくせに。


ああ、ごめんなティリケ。
結局お前に、やな思いさせて。

マム、どうしたんだろう。
なんで泣きそうになってんだろう。

わからない、でももういいか。
早いか遅いか、それだけの違いだ。

思い出した、あのにおい。
ばあちゃんを、死者を、焼くにおいだ……



あいにいこうって、思ってたんだ。
うれしい、やっと、やっと逢える。



ばあちゃんとロイに、逢いに逝こう。



アイリーンは赤目を閉じた。
そうするとわずかに、マムの手がゆるみかけて眉をひそめる。鳥だって獣だって、殺すときにはひと思いに殺すのが礼儀だろうに、なにを無駄に躊躇っている。苦痛を長引かせるつもりなのか。

抵抗するの四肢の力が抜けていく。
ぱた、と雫が頬にこぼれたとき、絞める力がまた強まった。そうなると閉じたはずの目が勝手に見開かれる。もうこの世のなにも見たくないのに、赤目に映るふたりの、泣き顔。


くるしい、くるしい!
はやくして!!


「マム、マム!  お願いですから、やめてください!  マム!!」

「ごめん、ごめんね……!  でもアンタがいる限り……!!」

「ーーなにをされてるんデス?」


瞬間、なだれ込む空気にアイリーンは派手にむせかえった。仰向けでは咳すらもうまくできずに、芋虫みたいにうずくまって、その背をどうやらティリケがさすってくれている。めまいがする。急速に血が回っている。

扉の向こう、身体を起こせずいまだ床しか見えないが、涙でぼやけた視界に白いドレスの裾が見える。第一声をあげたのは寝台から降りたマムだった。


「……なんだい、アンタ。なんの用だい」

「こちらの名前をお伝えする気はありまセン、が、アナタが看守長のマム・グラーデ氏?」

「…………そうだけど」

「デハ身分と用件だけお伝えしマス。身分はとある貴族商人。用件は、そこで転がっていらっしゃるアイリーン嬢のお見舞い……シカシずいぶんと混み合ったご様子デ?」

「わかってんならさっさと帰んな、お嬢さん」

「そうもいきまセン。アナタ、今ご自身が絞め殺そうとしたそのお方がどのような地位の方か、ご存知で?  明るみに出れバ、アナタどころか残った家族も全員縛り首デスヨ?」


ぐ、と言葉に詰まらされている。珍しい。

視界をゆっくりとあげれば、白いドレスはかつてアイリーンが着ていたものと同じパターンだった。コルセットを必要としない、布地がさらりと流されたドレス。色は腰から淡い青に変わって、その生地と同じくらい青白い肌の客人は落ち着いた声に蔑みの色を浮かべている。上等な銀糸を思わせる髪は複雑に結い上げられていた。

絵画から出てきたような神秘性のある美しさに派手な意匠。たしかに黙らざるを得ない格上の相手だ。しかしマムが言葉を詰まらせているのは、それだけではないのだろう。


異様ながらに美しい、青いレースと真珠の仮面。
色は違えど3人ともに見覚えのある品だった。


「……マ、ワタクシも穏便に済ませたいですカラ?  ここは見逃しまショウ。なのでマム・グラーデ、アナタも退室なさってくだサイ」

「っ困るよ、知らない人間を入れたとあっちゃあ……」

「ハハハッ!  アナタがそれを言いますか!  よろしい、どちらの行いがより正しいカ、今すぐ王妃殿下に聞いてみましょうカ?」

「……っ」

「それにワタクシ、アイリーン嬢とは以前より懇意にさせていただいておりますのデ。ネ?  アイリーン嬢?」

「…………うん」


うなずいて、それから少し、マムと客人だけが話していた。どうやら客人は金を渡し、マムはそれを受け取ったようだ。踵を返して部屋から出てゆく。


「で、アナタ。アナタも少し席を外していただきたいのデス」

「え……でも……」

「お願いしますよアイリーン嬢。アナタに話があって、こんな所まで来たのですカラ」

「わかった……ティリケ、ごめん。ちょっと廊下に出ててくれないか」

「アイリーンさんが……そう言うのなら……」


昼前とはいえ、晩冬の廊下はまだ寒い。ティリケに布団を渡して廊下へ出てもらい、寝台へと座りなおした。客人にも座るようにうながすと、少し、驚かれる。


「よろしいのデ?」

「よろしいもなにも……ほかに座るとこなんてねえだろ」

「……なるほど、では、遠慮ナク」


ふたりを横並びに乗せた寝台がきしむ。
以前にあった細工の美しい椅子やテーブル、その他の家具も、例によってマムにほとんど盗られていた。今ここにある家具は寝台と絨毯、ティリケ用の布団くらいなもので、部屋はひどく寒々しい。

客人は細くしなやかな指で仮面をはずす。爪はなにか塗っているらしく、人工的な艶やかさを帯びていた。視線をあげ、客人の顔をまっすぐに見る。細目が笑う。間違いない。


……あぁ、なつかしい……


「……ひさしぶり」

「エエ、アイリーン嬢」


かの客人は、あの夏の夜ーー2年前の生誕祭で出会った仮面商人だった。


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