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Ⅴ.夜の章
87.目の色
しおりを挟むティリケの治療を始めてからいくらか過ぎた。
長い時間をかけて彼女の傷はようやく治り、食事もずいぶん食べられるようになってきた。咳や声のざらつきは減り、身体はまだ鶏がらのようだが、肌つやは格段によくなっている。
ただ……身体はいくら治療できても、心までは無理だった。風邪が治り、深く寝入ることができるようになったころ、アイリーンはティリケのすすり泣きで起こされる。
「……めん……さい、おかあさ……」
「おい、おいティリケ、起きろ」
夢のなかで、彼女はいつも母親に謝っていた。
その理由を聞いたことはない。話をする仲になったとはいえ、それは治療のための義務的なものでしかなく、個人的な話や雑談なんてものとは程遠い。アイリーンとしても、これ以上ティリケに情を移すのは嫌だった。
いつものようにーーかつてティリケがアイリーンにそうしたようにーー声をかけて起こすだけ。しかしその夜はなかなか目覚めず、うんうんと、ひたいに汗をにじませながらベリアル教の教えまでそらんじ始めてしまった。
ーーああもう! こんなの、寝れるか!
「おいティリケ、起きろって!」
「あッ……おかあさま、お母様ぁ……!」
肩を揺さぶって無理やり起こすと……ティリケはアイリーンの両目をしっかり見たはずなのに、なぜだか身体に抱きついてきた。予想外すぎる出来事に、アイリーンは一瞬、動けなくなる。
「……お前の母ちゃんって、赤目なの」
「え? っ……ぅ、あ、も、申し訳ありません……!」
冷えた声音に視線をあげたティリケはようやくアイリーンから離れた。顔が真っ赤になって、あたふたと、自分がなにをしでかしたのか理解したらしい。
それにしても……この年頃の娘というのは、それほど母が恋しいものだろうか。アイリーンにはぴんとこないが、あの一瞬、しがみつかれた腕があんまりにも強くて、ふと彼女は話してみる気になった。
「……なぁ、お前、いくつだっけ?」
「え……ええと、今年で13になります」
「ってことはソフィアの……」
「ふたつ下です。王妃様は今年で15歳であられますから……」
そうだ……もう、15歳。
そして自分はもう、17歳。
1度ならず2度目の誕生日まで祝えない。アイリーンはそんな苦しい考えを頭のすみに押しのけるために話を続けた。そうしなければ、また無益な頭痛だけが重なるのは目に見えている。
「お前、ずいぶんソフィアのこと好きなのな。年齢まできっちり把握してるって……」
「当然です!!」
「うぉっ!」
「王妃様は誰にもおやさしくて、寛大で、優雅で上品でお美しくて! 非の打ち所のまったくない完璧なお方なんです! まるでほんとうの、天使様みたいな……!!」
思わぬ剣幕にアイリーンは仰け反ってしまうが、ティリケはかまわず話し続けた。ソフィアは見た目もさることながら、中身だって素晴らしい、と……栗色の目がぽやんとかすみ、頬はかるく上気している。
言いたいことはわかる。姉としてもそう思う。いやしかし、どうも聞いていると食い違いがありすぎて、アイリーンはつい、反論を止められなかった。
「いや……ティリケ。ソフィアってお前が思うほど、その、良いやつじゃねえぞ」
「ッ王妃様を侮辱するなんてあなたどういうおつもりですか!!」
「いや侮辱はしてねえだろうが!」
してます! してねえ! そのやりとりが何度か続けられた後、疲れてきてしまったのはアイリーンの方だった。この娘はなんというか、頑固だ。
「……いや、あのさ。お前の言うソフィアって神様かなんかみたいに聞こえるけど、あいつって割と、ヒトっぽいぞ?」
「王妃様をあいつ呼ばわり……ッ!」
「いーの! オレはお姉ちゃんだからいーの!! だいたいソフィアなんてすーぐ拗ねるし、嫉妬深いし、相当わがままで意地っぱりだし。賢いけど甘えたで、ほんと、子どもみたいなやつなんだからな?」
そんなの嘘です! と突っぱねられてアイリーンも意地になる。なぜこちらが嘘つき呼ばわりされなくてはならないのか。聞き分けのない子どもにーーそれこそかつてのソフィアに対峙した時のような面倒臭さではあったが、アイリーンは昔話を聞かせてやった。
遊戯はズルしてでも勝とうとすること、ミルタとふたりきりで話していると怒られること、きらいな野菜はアイリーンの皿に乗せてくること、夜は一緒に寝るといって聞かなかったこと……
「ふふっ、でさぁ、あいつったらその時ーー」
「……知りませんでした……」
思い出を語っていると楽しくなってくる。膝をかかえ、眠たい目をこすりながら話していると、隣でしゅんと肩を落としたティリケのちいさな声が聞こえた。
なんだかさっきと全然違う。
ずいぶんと落ち込んでいる。
「……私、なにも知りませんでした。王妃様付きの、筆頭の、侍女だったのに、なんにも…………」
「……えーっと……」
「結局、はじめからずっと、信頼されなかったんです……どうにかしようって、思ってみても……」
栗色の瞳が潤みはじめ、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。アイリーンはへにょ、と眉を下げ、ぐずぐずと泣く彼女の背中をなでてやった。まったく自分はこういう状況に甘すぎると自覚しながら。
「まぁあいつは猫っかぶりなとこあるからさ。家族とそれ以外で見せる顔なんて全然違うし……あんま気にすんなよ」
「うう、でも……っ」
「あーまぁ確かに、人の手紙わたさなかったり、毒飲ませようとしたのは悪いぞ?
……お前なんで、そんなことしたの?
オレがソフィアの姉だって、まさか知らないわけじゃないだろ? どうにかしようって思った結果が、それだったの……?」
犯人を前にして、被害者がなぐさめながらも犯行の理由を問いただす。
おかしな状況だが、聞くとすれば今しかない。なるだけ静かに、おだやかに、ティリケの心をほどけるようにアイリーンは問いかけた。そもそも今、泣いている彼女を責めて追い詰める気にはとてもなれない。そんなことをしたいのではない。
ただ……ただ理由が知りたかった。
赤目だから、忌み子だから。分かってはいるが、ティリケの言葉からはそれ以外の感情も読み取れる気がして。
「…………正直でいなさい、って……」
視線を落とし、ぽつりと呟く。
「お母様の、教えです。いつも正直で、正しくありなさいって……悪しきものを近づかせず、染まらないよう、気をつけなさい、って……」
「……あー……そう」
やはり、それ以上のことはないのだろう。
アイリーンはかかえた膝の上に頭をうずめる。悪しきもの、つまりは忌み子だ。その概念はベリアル教の信者に根強く息づいている。
やっぱり覆せはしない、どうしたって赤目は忌み嫌われるーー分かりきった事実なのに、それでも頭が忌々しく痛みはじめた。赤目という枷はことごとく強くて、自分は生まれながらに囚われている。諦めるほかない。
アイリーンの苦しみを知る由もなくティリケは続ける。
「お母様はきっと、王妃様のような子が欲しかったんです。完璧で、すばらしくて、みんなから認められるような子が……」
「お前まだ言うか? ソフィアはそんなじゃないって」
「わかってます、だから……っ」
はくはくと、ティリケの唇が音もなく動いては止まる。何度も言いかけてはやめて、やめては何かを、言おうとする。待ってみても答えはなく、アイリーンはやはり静かに問いかけた。
「……だから?」
「……だから、分からないんです……!
自分が、したことは、正しいんだって思ってた。王妃様のようになりたいって、ずっとそう、思ってた! だってお母様が、おかあさまは、そう教えてくれたんです、なんども、何度も何度も何度も!」
最後は振り絞った叫びのように、ティリケの細い声が部屋にこだまする。夜が明け始めて薄暗がりになった空間、ティリケは怯えや蔑みを含まない、ただ純粋な子どもの瞳でアイリーンの赤目を貫いていた。
「でも…………私がここへ来たとき、特別室に入れてほしいと嘆願書をくれたのは父でした。何度も手紙をくれて、マムを必ず説得するからと、身体に気をつけてと、そう書いて……」
ぽろ、と一粒、涙がこぼれる。
「お母様は……1度だけでした。あなたはロナッシュ家に泥を塗った。父がどう言おうと、あなたを家に入れることはない。ここを出たあとは修道院に入れるからと……そう……」
また涙がこぼれる。
ひどく清らかな、それこそ天使の涙のようだとふと思う。
「教えてください。私があなたを、赤目の悪魔を殺そうとしたのは間違いだったの? じゃああの教えは、一体なんなの? 私の見ていた王妃様は、お母様は、正しい人ではなかったの?
私はこれから、なにを、だれを……!」
ああ……この子も囚われてんのか。
アイリーンの胸に凝ったものが溶けてゆく。
細い手が、ティリケの栗毛をやさしく撫でる。
「え……」
「……わっかんねえよな、何が正しいのかなんて」
ティリケの髪は子猫のように柔らかくて気持ちよかった。短く切ってしまったのが惜しいくらいだ。きっと長ければ、結い上げたときには人形のように可愛くなる。
確かに罪を犯した娘だ。
許すことはやっぱり出来ない。
でもティリケの苦悩は痛いほどによくわかった。
ソフィアがこんなところを見れば、甘すぎると咎められるのだろう。想像すればくす、と笑いがこみ上げる。
「多分さ、ほんとに正しいもんなんて、何ひとつだってねぇんだよ。だってティリケ、お前はオレにはなれないだろ? ソフィアにも、お母さんにも、誰にもなれない」
「……」
「オレだってそうだよ、誰にもなれない。赤目のオレでいるしかない……みんなそうなんだよ。だから絶対正しいなんてない、わかる?」
「……わかりません」
だろうなぁと頭を掻く。アイリーン自身、まだ考えがまとまらなかったが、話せばきっと、そのなかに答えがあるような気がして話し続ける。
「んー、だからさ……あぁそう、目の色みたいなもんなんだよ、正しさなんてのは」
「目の色?」
「うん、目の色。似てたとしても、みんなちょっとずつ違うだろ? 正しさだってそんなもんでさ……何が正しくて間違いなのかなんて、みんなそれぞれ違うんだよ、きっと」
「めの、いろ……」
「だからお前も、ちゃんと自分が正しいと思えることを探せよ。お母さんや、ソフィアや、ベリアル教を信じて見習うのもいいけど……無理して周りに合わせるよりか、自分で正しいか間違ってるか考えた方が、やっぱり楽だし、納得できるし……」
次第に空が明るくなってゆく。
アイリーンはなんとなく、自分で話して納得していた。ティリケにうまく伝わったかは分からなかったが、きっとそうなのだ。誰しもが自分の正しさを持っているからこそ、完全に正しいものなど存在しない。自分は自分の信じたいものを信じればいいーー
「ふぁあ……っ」
もうこれ以上は頭が働かない。
かたい絨毯の上に寝転んで目を閉じる。
「あ、あの……っ」
「んーわるい、もう限界……朝んなったら適当に、おこし、て……」
眠りに落ちるその最中、アイリーンはなんとなしにすっきりとした心地よさだった。そういえば頭の痛みもない。そして身体はあたたかかったが、それはティリケが布団をかけてくれたからだということには、アイリーンは気づかないままだった。
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