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閑話
74.ある殺戮者のちいさな思い出
しおりを挟むその晩は月が妙に赤くて。
その上ふたつに割れていて。
ああ、俺は死ぬのだな。と思った。
「じいちゃん! じいちゃん! じいちゃーん!」
うるせえ……静かに死なせてくれ。
それから誰がジジイだ。冗談もほどほどにしてくれ俺はまだまだ若ぇんだ。
……死ぬのか、こんなところで。
汚ねえ血濁にまみれながら。
クソみてぇな人生だな。
さっさと死んじまえ。
俺は、おれは……
あの月みてぇな、綺麗な赤に見送られるなら満足だ。
***
両目を紅葉みたいな手で押さえた黒髪の男児。
それが第一印象だった。
「……てめえ、ふざけてんのか」
「なんだよ、おれがお前を助けたんだぞっ! ちょっとはカンシャしろよバカ!」
「悪いね兄ちゃん。コイツの目はちょっと見た目が悪いんだ。ほれ、お前はさっさと薪拾い行ってこい」
クソガキ。
それが次の印象。
国境沿いの山奥で倒れて3日、男は腹に受けた致命傷によって生死をさまよったが、どうにか一命を取り留めた。人気のない山小屋に住む、体格のいいこの老夫はカッカと歯を見せ、傷の理由はついぞ尋ねてこなかった。
老婦人はしっとりと優しい微笑みで、3人の姿を眺めている。長く居座るつもりはないが、小屋は綺麗に整えられて居心地がいい。シーツから太陽の匂いがしていた。
「大丈夫かいお兄さん。そんなに動いて」
「ああ問題ない。明日明後日にはここを出る。世話んなったな」
「そう、戻るところがあるってのは……ッ、良いことだね。気をつけなよ」
なにかを察してはいるのだろう。老婦人は嫌な音の混ざった咳をしながら言って、また大鍋に視線を落とした。シチューだろうか、美味そうな肉の匂いに男の喉が鳴る。
と同時にのん気な歌声が聞こえた。
「うーたをよーむなーらぁ~……っバカ! なんでいるんだよ寝てろよ!」
男が寝台から離れていると分かると、子供はすぐに両手で目を隠した。指の隙間から見えているらしく、ぱたぱたと祖母へ駆け寄ってゆく。
「てめえはまずその口の利き方から改めろ」
「うるっせバーカ! なぁ、ばあちゃん! おれ、今日は木苺集め、はやく終わったから変わるよ。ばあちゃんは休んでて」
「ありがとねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて」
「あのな、あのな! ちょっと遠いんだけど、獣に食べられてねえトコがあってな! 取っても取っても、まだあるんだよ! 大っきな花もあってさあ!」
「そう、よかったねぇ。今年はジャムが多く作れるね」
老婦人は病弱らしかった。それを子供がいつも気づかい、こうして家事を手伝っている。口は悪いが根のいいクソガキ。男は5日目でそう印象を改めた。
「ばあちゃんのジャム、好きだなぁ」
「お前にも教えてあげてるだろ? 今年は全部自分で作ってごらん」
「オレはダメだよ、まだまだだもん。なぁ、兄ちゃんも食ってけよ!」
背の高い丸椅子をてきぱきと出し、よじ登って、かまどにかけた大鍋の中身を回す。後ろ姿なので、その表情は確認できない。
火が足りなかったのだろう。椅子に立ったまま薪を棚から取ろうとして、ぐらり、と身体が宙に浮いた。
「危ねぇっ!」
「アリ……ッ!」
咄嗟に足を走らせて小さな身体を受け止める。
傷を受けた腹に子供の右肘がめり込んでぐぅ、と男が呻き、子供を抱いたまま床に膝をつく。
……危ねぇとこだった。あのままだと かまどに一直線だ。軽い火傷じゃすまされねぇ……
「兄ちゃん、にいちゃん大丈夫?!」
男はぐ、と息を止めた。
まるで心臓をわしづかみにされたようだった。
美しい赤い月の瞳が、男を必死に見上げていた。
ーーああ、これか……。
「……クソガキが、気ぃつけろ……」
「あぁッ…………ありがとうね、お兄さん。本当に……ありがとう……っ」
老婦人は悲鳴の後、少し迷った声音で、男にとって生まれて初めての感謝を告げた。男は子供を床に下ろして何も見なかったふりをする。そうしなければ、この柔らかなものが壊れてしまうのだと分かっていた。
塞がりかかった傷は見事に開いて、男は延泊を余儀なくされた。
***
次の日の、半月の明るい夜。
男の住まう離れに物影がうごめいていた。
「……何の用だ」
「っ! ……み、見たんだろ……っ聞いたんだからな……!」
物影ーー老夫は斧を持っていた。大きな肩をびくりと震わせ、まるで幽霊でも見たかのように、扉の横で待ち構えていた男を凝視する。
あ、あ、ああ、と狂乱しはじめ、必死の形相で斧を振りかざす。しかし男は素早く動きを封じて、逆に老夫のみぞおちに重い蹴りをくらわせた。斧が鈍い音を立てて床へと落ちる。
そもそも、この老夫に人殺しは出来ない。
自分の同類ではなかった。
「ぐう……っ」
「やめとけ。玄人でも、大概は俺を殺せねえ。時間の無駄だ」
「……っ頼む……! あいつの事は、誰にも言わねえでくれ……ッ!」
殺しに来たとは思えないような切実さで、老夫は床に頭をついた。あいつは病気なんだ、これ以上は山を変えられない、変えればあいつが死んじまう、あいつはいい子なんだ分かるだろう、せめて成人までは生きてほしい、あいつを殺されたくないんだ……縋りながら、苦しみながら、老夫は涙を溜めて乞う。
深く美しい愛情が、老夫を狂人にさせていた。
「あいつあいつと……誰のことだか分かりゃしねぇ」
「兄ちゃん、頼むよッ……!」
「誰のことを言ってる……もとから俺はここにいねぇし、てめえら夫婦は二人きりだ。…………そうだろう?」
冷たい声で告げると、老夫は涙をこぼして頷いた。男はまとめた荷物ーーとは言っても山を降りる最小限の小道具と、老婦人にいただいたジャムの瓶を引っさげて、外套を羽織って外へ出た。
これでいい。
何も教えず、何も知らず、お互い無かったことにする。名前も知らないこいつらが、生きようが死のうが俺には微塵も関係ない。知らないうちに去らなくては。
知ってしまえば、情が移るーー
「兄ちゃん! どこ行くんだよ!」
「……ッこら! 寝てろア、……っ!」
「ダメじゃないか寝てないと! まだ傷がだめなんだろ?」
「……もう帰る。世話になった」
こんな夜更けに起き出した子供は、男の言葉にぶんぶんと首を振った。目をぎゅっと閉じたまま闇雲に男に近づいて、小さな腕で腿にしがみつく。
……あぁ、ガキってのはあったけぇんだな。
「ダメだって! おれのせいでまだ痛いのに! なぁじいちゃん!」
「……やめろ、お前が口出しする話じゃないんだ」
「じいちゃんなんで……っ! こんなに暗いのに、獣に食べられたらどうするんだよ!!」
「黙ってろ! 聞き分けるんだ!」
老夫に強くたしなめられても、子供は一歩も引かなかった。それどころか老夫の言葉に、ついにその目をひん剥いて、大声を上げてかなぐり捨てた。
燃えるような赤目に心を奪われる。
「……っじいちゃんのばぁあか! 頑固オヤジ! わからずや! じいちゃんこそ聞き分けろよ! 死んだらどうすんだって言ってんだよ! おれはこいつを、獣のエサにするために助けたんじゃねぇんだぞっ!!」
「おい」
「せめて明日でいいじゃんか、何でそんなに急ぐんだよ……っ!」
「おい、見えてんぞ」
2度目でようやく顔を上げ、ぱちくりと目を瞬かせたあと、子供はあわてて目を閉じた。その挙動のぎこちなさに、喉からぐぐぐ、と堪え切れない笑いが漏れる。
しかし、子供は途端にか細い声で、手を震わせながら呟いた。うつむかれると、その赤色が見えなくなってしまう。
「……めん、なさい……やなもん見せて……」
ーー胸に迫り来るそれは。
今までに経験のない、怒り、苛立ち、憤り。
それから追って、悲しみややるせなさが刃物のように襲いかかり、男の胸が引き裂かれる。
……あれだけ大口叩いたくせに、まだガキのくせに、急にしおらしくなるんじゃねえ。大体今までも見えてたんだ。何を今更、気にする必要もねえだろうに。クソガキのくせに、泣きそうな声で震えやがって。
くそ、なんだ。
ふざけんな。
なんでこんなに……痛えんだ。
「…………クソが。ガキはもう寝ろ……俺も、寝るから……」
「……っほんとに? ほんとにちゃんと、寝るんだよな? 今日は帰るんじゃないよな? なっ?」
「ああ……だからさっさと寝台にもぐってろ。分かったな?」
「うんっ……!」
「……いい子だ」
何がそうさせるのか、こんな不遇に置かれていても、子供はひどく無垢だった。目を閉じたまま男を見上げ、白くて小粒な歯をみせている。小さな頭をくしゃくしゃ撫でると、柔らかな髪が心地よく指に馴染んだ。
男と老夫はお互いに毒気を抜かれて目を見合わせる。仕方ないといった風に老夫が頷き、子供を連れて小屋へ戻った。
男も離れに戻り、寝台に入って目を閉じる。
あの憤りが、あの痛みがなんだったのか……知りたくない。知ってはいけない。知ればもう後戻りは出来ないと、男は本能で畏れていた。
***
早朝に出る、はずだった。
昨夜のやりとりを知らない老婦人は、のんびりと男に尋ねた。
「ねえ、あの子を見なかったかい?」
「知らねえな」
「おかしいねぇ……こんなに早く、出たことなんか一度もないのに……」
老夫が子供を探したが、近くにいない。
男は受けた恩を返すため、捜索の手伝いをした。小さな足跡がわずかに残って、男はこういう類の仕事は得意なはずだった。
しかし、子供は見つからない。
「ーーーおぉーい……!」
老夫はいつしか泣き叫ぶように、子供の名前を呼んでいた。
男は知りたくなかったが、耳に入ったものは仕方ない。同じ名を呼び、老夫とは反対側を探し続ける。
暗くなり始め、身の内に嫌な焦燥がつのってゆく。
……もしも、獣に食われていたら。
誰かに見つかって、殺されていたら。
死んでいたら。
あの小さな身体が、血に、塗れていたら。
頭によぎる最悪の事態を振り払いながら名前を呼んだ。何度も、何度も、何度も、何度も!
そして夜。
暗い暗い、山の中。
月夜の明るい、森の中。
「 ア リ ン ! 」
「…………ぃちゃーん……」
その時のことを、どう表現したものか。
男はいまだに分からない。
締められた喉がひらいて空気が入り込むような。
乾いた砂漠で美しい湖を見つけたような。
深く溺れてなんとか水面に上がったような。
とにかく、死にかけだった男は2度救われた。
「アリン……っ! てめえなんで、こんなトコに……っ」
「にいちゃん……っ! にいちゃぁあん……っ!」
子供の瞳が大きく開かれ、大粒の涙がこぼれ落ちる。
子供は山小屋からほど遠い、急な斜面の下にいた。
滑落したのだろう。頭と足に血がこびりつき、服は土で汚れていたが、くすぐったいような声には力があった。そして何故か、紅葉の手には白い百合が握られている。
「怪我はッ?! 何してやがった! 心配させやがって、こんなに汚れやがって!!」
「ごぇん、ごめんなざいっ……! にいちゃんに、あげ、よって……うち、かえる、からっ……」
あたたかく、甘い香りが充満している。
そして、よくよく見れば、群生している百合の花の下、木の実や木苺が散らばっていて……男の胸が強く強く、強く締め付けられてゆく。
「……クソガキが……!」
抱きしめることしか、出来なかった。
死んでいなくて本当にーー
「にいちゃん、にいちゃん……!!」
「ああ……もう泣くな、いい子だから……泣くんじゃねえ……」
子供の世話などしたこともない。
安堵で泣く者の慰め方など分からない。
奪うばかりだった男が初めて救った命は、男の腕のなかで、わんわんと大きく泣き続けた。涙で濡れた赤い瞳を、男はただ綺麗だと感じて……
「…………よかった……」
とうに後戻りの出来ないところまで、進んでいたのだと思い知った。
***
「欲しいもんがある」
男は主人にそう告げた。王国の若き獅子と讃えられるこの主人は、何が欲しい? と鷹揚な笑みを浮かべてみせた。
男は新聞を広げ、一面の記事が見えるように主人の目の前に置いた。衝撃的な話題はすでに大陸中に広まっている。
「こいつが欲しい」
ずっと探し続けていた。
まさか女だとは思わなかったが些細な問題だ。むしろ子供の身分を思えば、女である方が手に入れることは容易いだろう。
男はこの子供に救われた。
だから今度は、男が救わなくてはならない。
ーーあのクソガキを、日の当たる場所へ。
「……お目が高いね。彼女をどう欲しいんだ?」
「結婚する」
言えば主人は一瞬止まり、それから大きく笑い出した。
なりふり構っていられるものか。どれだけ笑われ、けなされ、否定されようとも。男に譲る気は一切なかった。あの夜に見た子供のように。
「ははっ、あははッ…………まったくお前は、退屈しないな……!」
「御託はいい。出来るのか、出来ねぇのか」
「はぁ……。いいだろう、任せてくれ。1年……いや、2年後くらいかな」
「駄目だ、遅すぎる」
地位だけが欲しい輩は大勢いる。
信仰心から生涯 幽閉せよと提案する者もいる。
噂では目だけを欲しがる変態もいるらしい。
いずれにせよ他の手に渡れば、彼女の人生が粉々に砕かれるのは目に見えていた。
……そうはさせない、絶対に。
「大丈夫。すでに諸外国に牽制はしているから、そこにもう一人加えるだけだ」
「牽制……? どういう意味だ」
「偶然とは恐ろしいものだね。私もその国に欲しいものがある。でも向こうの国王は、どちらもそう易々と手放してくれないだろうから」
にやり、と昏い笑みを浮かべる。
こういうとき、男は主人が恐ろしいと、敵わないと強く思う。彼は前の主人よりもずっと寛大で、威厳に満ち、そしてひとたび構えれば、その牙を容赦なく相手に突き立てるのだ。
「ようはタイミングだ……疫病と食人獣の襲撃で、あの国は今、国力がどんどん削がれている。
もう少し待って、力が完全に尽きた所で同盟話に持ち込めば……国王はきっと、私達が欲しいものを否応なしに差し出してくれる。それまでは、私も牽制の手を緩めるつもりはない」
「もしそれでも、他が手を出してきたらどうするつもりだ。国王が嫌がる可能性もある」
「その時は何だってしてやるさ。戦争だろうが暗殺だろうが、私はしくじるつもりはないよ。それに、お前も協力してくれるだろう?
欲しいものは必ず、だ。
任せてくれ。一切ほかの手垢をつけずに、お前の元に贈ってやろう」
彼は国王らしい鷹揚な笑みに変わって、ぱんぱん、と強く手を鳴らした。部屋の外で控えていた侍従たちが戻ってくる。
「楽しみにしていればいい……私も楽しみだ」
「……ああ」
男は部屋を出て、歩き出す。
もはや後戻りする気は、なかった。
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