アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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閑話

74.ある殺戮者のちいさな思い出

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その晩は月が妙に赤くて。
その上ふたつに割れていて。


ああ、俺は死ぬのだな。と思った。


「じいちゃん!  じいちゃん!  じいちゃーん!」


うるせえ……静かに死なせてくれ。
それから誰がジジイだ。冗談もほどほどにしてくれ俺はまだまだ若ぇんだ。

……死ぬのか、こんなところで。
汚ねえ血濁にまみれながら。
クソみてぇな人生だな。
さっさと死んじまえ。
俺は、おれは……


あの月みてぇな、綺麗な赤に見送られるなら満足だ。



***



両目を紅葉モミジみたいな手で押さえた黒髪の男児。
それが第一印象だった。


「……てめえ、ふざけてんのか」

「なんだよ、おれがお前を助けたんだぞっ!  ちょっとはカンシャしろよバカ!」

「悪いね兄ちゃん。コイツの目はちょっと見た目が悪いんだ。ほれ、お前はさっさと薪拾い行ってこい」


クソガキ。
それが次の印象。

国境沿いの山奥で倒れて3日、男は腹に受けた致命傷によって生死をさまよったが、どうにか一命を取り留めた。人気のない山小屋に住む、体格のいいこの老夫はカッカと歯を見せ、傷の理由はついぞ尋ねてこなかった。

老婦人はしっとりと優しい微笑みで、3人の姿を眺めている。長く居座るつもりはないが、小屋は綺麗に整えられて居心地がいい。シーツから太陽の匂いがしていた。


「大丈夫かいお兄さん。そんなに動いて」

「ああ問題ない。明日明後日にはここを出る。世話んなったな」

「そう、戻るところがあるってのは……ッ、良いことだね。気をつけなよ」


なにかを察してはいるのだろう。老婦人は嫌な音の混ざった咳をしながら言って、また大鍋に視線を落とした。シチューだろうか、美味そうな肉の匂いに男の喉が鳴る。

と同時にのん気な歌声が聞こえた。


「うーたをよーむなーらぁ~……っバカ!  なんでいるんだよ寝てろよ!」


男が寝台ベッドから離れていると分かると、子供はすぐに両手で目を隠した。指の隙間から見えているらしく、ぱたぱたと祖母へ駆け寄ってゆく。


「てめえはまずその口の利き方から改めろ」

「うるっせバーカ!  なぁ、ばあちゃん!  おれ、今日は木苺集め、はやく終わったから変わるよ。ばあちゃんは休んでて」

「ありがとねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて」

「あのな、あのな!  ちょっと遠いんだけど、獣に食べられてねえトコがあってな!  取っても取っても、まだあるんだよ!  大っきな花もあってさあ!」

「そう、よかったねぇ。今年はジャムが多く作れるね」


老婦人は病弱らしかった。それを子供がいつも気づかい、こうして家事を手伝っている。口は悪いが根のいいクソガキ。男は5日目でそう印象を改めた。


「ばあちゃんのジャム、好きだなぁ」

「お前にも教えてあげてるだろ?  今年は全部自分で作ってごらん」

「オレはダメだよ、まだまだだもん。なぁ、兄ちゃんも食ってけよ!」


背の高い丸椅子をてきぱきと出し、よじ登って、かまどにかけた大鍋の中身を回す。後ろ姿なので、その表情は確認できない。

火が足りなかったのだろう。椅子に立ったまま薪を棚から取ろうとして、ぐらり、と身体が宙に浮いた。


「危ねぇっ!」

「アリ……ッ!」


咄嗟に足を走らせて小さな身体を受け止める。
傷を受けた腹に子供の右肘がめり込んでぐぅ、と男が呻き、子供を抱いたまま床に膝をつく。


……危ねぇとこだった。あのままだと かまどに一直線だ。軽い火傷じゃすまされねぇ……


「兄ちゃん、にいちゃん大丈夫?!」


男はぐ、と息を止めた。
まるで心臓をわしづかみにされたようだった。

美しい赤い月の瞳が、男を必死に見上げていた。


ーーああ、これか……。


「……クソガキが、気ぃつけろ……」

「あぁッ…………ありがとうね、お兄さん。本当に……ありがとう……っ」


老婦人は悲鳴の後、少し迷った声音で、男にとって生まれて初めての感謝を告げた。男は子供を床に下ろして何も見なかったふりをする。そうしなければ、この柔らかなものが壊れてしまうのだと分かっていた。


塞がりかかった傷は見事に開いて、男は延泊を余儀なくされた。



***



次の日の、半月の明るい夜。
男の住まう離れに物影がうごめいていた。


「……何の用だ」

「っ!  ……み、見たんだろ……っ聞いたんだからな……!」


物影ーー老夫は斧を持っていた。大きな肩をびくりと震わせ、まるで幽霊でも見たかのように、扉の横で待ち構えていた男を凝視する。

あ、あ、ああ、と狂乱しはじめ、必死の形相で斧を振りかざす。しかし男は素早く動きを封じて、逆に老夫のみぞおちに重い蹴りをくらわせた。斧が鈍い音を立てて床へと落ちる。

そもそも、この老夫に人殺しは出来ない。
自分の同類ではなかった。


「ぐう……っ」

「やめとけ。玄人でも、大概は俺を殺せねえ。時間の無駄だ」

「……っ頼む……!  あいつの事は、誰にも言わねえでくれ……ッ!」


殺しに来たとは思えないような切実さで、老夫は床に頭をついた。あいつは病気なんだ、これ以上は山を変えられない、変えればあいつが死んじまう、あいつはいい子なんだ分かるだろう、せめて成人までは生きてほしい、あいつを殺されたくないんだ……縋りながら、苦しみながら、老夫は涙を溜めて乞う。


深く美しい愛情が、老夫を狂人にさせていた。


「あいつあいつと……誰のことだか分かりゃしねぇ」

「兄ちゃん、頼むよッ……!」

「誰のことを言ってる……もとから俺はここにいねぇし、てめえら夫婦は二人きりだ。…………そうだろう?」


冷たい声で告げると、老夫は涙をこぼして頷いた。男はまとめた荷物ーーとは言っても山を降りる最小限の小道具と、老婦人にいただいたジャムの瓶を引っさげて、外套マントを羽織って外へ出た。

これでいい。
何も教えず、何も知らず、お互い無かったことにする。名前も知らないこいつらが、生きようが死のうが俺には微塵も関係ない。知らないうちに去らなくては。

知ってしまえば、情が移るーー


「兄ちゃん!  どこ行くんだよ!」

「……ッこら!  寝てろア、……っ!」

「ダメじゃないか寝てないと!  まだ傷がだめなんだろ?」

「……もう帰る。世話になった」


こんな夜更けに起き出した子供は、男の言葉にぶんぶんと首を振った。目をぎゅっと閉じたまま闇雲に男に近づいて、小さな腕で腿にしがみつく。


……あぁ、ガキってのはあったけぇんだな。


「ダメだって!  おれのせいでまだ痛いのに!  なぁじいちゃん!」

「……やめろ、お前が口出しする話じゃないんだ」

「じいちゃんなんで……っ!  こんなに暗いのに、獣に食べられたらどうするんだよ!!」

「黙ってろ!  聞き分けるんだ!」


老夫に強くたしなめられても、子供は一歩も引かなかった。それどころか老夫の言葉に、ついにその目をひん剥いて、大声を上げてかなぐり捨てた。

燃えるような赤目に心を奪われる。


「……っじいちゃんのばぁあか!  頑固オヤジ!  わからずや!  じいちゃんこそ聞き分けろよ!  死んだらどうすんだって言ってんだよ!  おれはこいつを、獣のエサにするために助けたんじゃねぇんだぞっ!!」

「おい」

「せめて明日でいいじゃんか、何でそんなに急ぐんだよ……っ!」

「おい、見えてんぞ」


2度目でようやく顔を上げ、ぱちくりと目を瞬かせたあと、子供はあわてて目を閉じた。その挙動のぎこちなさに、喉からぐぐぐ、と堪え切れない笑いが漏れる。

しかし、子供は途端にか細い声で、手を震わせながら呟いた。うつむかれると、その赤色が見えなくなってしまう。


「……めん、なさい……やなもん見せて……」


ーー胸に迫り来るそれは。
今までに経験のない、怒り、苛立ち、憤り。
それから追って、悲しみややるせなさが刃物のように襲いかかり、男の胸が引き裂かれる。


……あれだけ大口叩いたくせに、まだガキのくせに、急にしおらしくなるんじゃねえ。大体今までも見えてたんだ。何を今更、気にする必要もねえだろうに。クソガキのくせに、泣きそうな声で震えやがって。

くそ、なんだ。
ふざけんな。
なんでこんなに……痛えんだ。


「…………クソが。ガキはもう寝ろ……俺も、寝るから……」

「……っほんとに?  ほんとにちゃんと、寝るんだよな?  今日は帰るんじゃないよな?  なっ?」

「ああ……だからさっさと寝台にもぐってろ。分かったな?」

「うんっ……!」

「……いい子だ」


何がそうさせるのか、こんな不遇に置かれていても、子供はひどく無垢だった。目を閉じたまま男を見上げ、白くて小粒な歯をみせている。小さな頭をくしゃくしゃ撫でると、柔らかな髪が心地よく指に馴染んだ。

男と老夫はお互いに毒気を抜かれて目を見合わせる。仕方ないといった風に老夫が頷き、子供を連れて小屋へ戻った。


男も離れに戻り、寝台に入って目を閉じる。

あの憤りが、あの痛みがなんだったのか……知りたくない。知ってはいけない。知ればもう後戻りは出来ないと、男は本能で畏れていた。



***



早朝に出る、はずだった。
昨夜のやりとりを知らない老婦人は、のんびりと男に尋ねた。


「ねえ、あの子を見なかったかい?」

「知らねえな」

「おかしいねぇ……こんなに早く、出たことなんか一度もないのに……」


老夫が子供を探したが、近くにいない。
男は受けた恩を返すため、捜索の手伝いをした。小さな足跡がわずかに残って、男はこういう類の仕事は得意なはずだった。


しかし、子供は見つからない。


「ーーーおぉーい……!」


老夫はいつしか泣き叫ぶように、子供の名前を呼んでいた。

男は知りたくなかったが、耳に入ったものは仕方ない。同じ名を呼び、老夫とは反対側を探し続ける。

暗くなり始め、身の内に嫌な焦燥がつのってゆく。


……もしも、獣に食われていたら。
誰かに見つかって、殺されていたら。

死んでいたら。
あの小さな身体が、血に、塗れていたら。

頭によぎる最悪の事態を振り払いながら名前を呼んだ。何度も、何度も、何度も、何度も!

そして夜。
暗い暗い、山の中。
月夜の明るい、森の中。


「  ア  リ  ン  ! 」

「…………ぃちゃーん……」


その時のことを、どう表現したものか。
男はいまだに分からない。


締められた喉がひらいて空気が入り込むような。

乾いた砂漠で美しい湖を見つけたような。

深く溺れてなんとか水面に上がったような。


とにかく、死にかけだった男は2救われた。


「アリン……っ!  てめえなんで、こんなトコに……っ」

「にいちゃん……っ!  にいちゃぁあん……っ!」


子供の瞳が大きく開かれ、大粒の涙がこぼれ落ちる。

子供は山小屋からほど遠い、急な斜面の下にいた。
滑落したのだろう。頭と足に血がこびりつき、服は土で汚れていたが、くすぐったいような声には力があった。そして何故か、紅葉の手には白い百合が握られている。


「怪我はッ?!  何してやがった!  心配させやがって、こんなに汚れやがって!!」

「ごぇん、ごめんなざいっ……!  にいちゃんに、あげ、よって……うち、かえる、からっ……」


あたたかく、甘い香りが充満している。

そして、よくよく見れば、群生している百合の花の下、木の実や木苺が散らばっていて……男の胸が強く強く、強く締め付けられてゆく。


「……クソガキが……!」


抱きしめることしか、出来なかった。
死んでいなくて本当にーー


「にいちゃん、にいちゃん……!!」

「ああ……もう泣くな、いい子だから……泣くんじゃねえ……」


子供の世話などしたこともない。
安堵で泣く者の慰め方など分からない。

奪うばかりだった男が初めて救った命は、男の腕のなかで、わんわんと大きく泣き続けた。涙で濡れた赤い瞳を、男はただ綺麗だと感じて……


「…………よかった……」


とうに後戻りの出来ないところまで、進んでいたのだと思い知った。



***



「欲しいもんがある」


男は主人にそう告げた。王国の若き獅子と讃えられるこの主人は、何が欲しい?  と鷹揚な笑みを浮かべてみせた。

男は新聞を広げ、一面の記事が見えるように主人の目の前に置いた。衝撃的な話題ニュースはすでに大陸中に広まっている。


「こいつが欲しい」


ずっと探し続けていた。
まさか女だとは思わなかったが些細な問題だ。むしろ子供の身分を思えば、女である方が手に入れることは容易いだろう。


男はこの子供に救われた。
だから今度は、男が救わなくてはならない。


ーーあのクソガキを、日の当たる場所へ。


「……お目が高いね。彼女をどう欲しいんだ?」

「結婚する」


言えば主人は一瞬止まり、それから大きく笑い出した。

なりふり構っていられるものか。どれだけ笑われ、けなされ、否定されようとも。男に譲る気は一切なかった。あの夜に見た子供のように。


「ははっ、あははッ…………まったくお前は、退屈しないな……!」

「御託はいい。出来るのか、出来ねぇのか」

「はぁ……。いいだろう、任せてくれ。1年……いや、2年後くらいかな」

「駄目だ、遅すぎる」


地位だけが欲しい輩は大勢いる。
信仰心から生涯 幽閉せよと提案する者もいる。
噂では目だけを欲しがる変態もいるらしい。

いずれにせよ他の手に渡れば、彼女の人生が粉々に砕かれるのは目に見えていた。


……そうはさせない、絶対に。


「大丈夫。すでに諸外国に牽制はしているから、そこにもう一人加えるだけだ」

「牽制……?  どういう意味だ」

「偶然とは恐ろしいものだね。私もその国に欲しいものがある。でも向こうの国王は、どちらもそう易々と手放してくれないだろうから」


にやり、と昏い笑みを浮かべる。

こういうとき、男は主人が恐ろしいと、敵わないと強く思う。彼は前の主人よりもずっと寛大で、威厳に満ち、そしてひとたび構えれば、その牙を容赦なく相手に突き立てるのだ。


「ようはタイミングだ……疫病と食人獣の襲撃で、あの国は今、国力がどんどん削がれている。

もう少し待って、力が完全に尽きた所で同盟話に持ち込めば……国王はきっと、私達が欲しいものを否応なしに差し出してくれる。それまでは、私も牽制の手を緩めるつもりはない」

「もしそれでも、他が手を出してきたらどうするつもりだ。国王が嫌がる可能性もある」

「その時は何だってしてやるさ。戦争だろうが暗殺だろうが、私はしくじるつもりはないよ。それに、お前も協力してくれるだろう?

欲しいものは必ず、だ。
任せてくれ。一切ほかの手垢をつけずに、お前の元に贈ってやろう」


彼は国王らしい鷹揚な笑みに変わって、ぱんぱん、と強く手を鳴らした。部屋の外で控えていた侍従たちが戻ってくる。


「楽しみにしていればいい……私も楽しみだ」

「……ああ」


男は部屋を出て、歩き出す。
もはや後戻りする気は、なかった。


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