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Ⅱ.春の章
21.賢者たち
しおりを挟む本殿から出て馬車を走らせ、王宮より少し離れた場所にある小さな離宮が、ヒルダの研究所であった。
その外観は控えめで、研究所らしく機能性を優先した設計となっている。しかし一歩中に踏み入ると、数多の本に論文に、地図やメモなど大量の紙束が、所狭しと散らばっていた。
しかもまだ玄関だと言うのに、周辺には研究者らしき者たちが死屍累々と倒れている。
ソフィアはそんな状況に、自身の胸が熱く昂ぶるのを感じた。後ろから、侍女たちの怯えた声が聞こえる。
「ヒ、ヒルダ様……このような場所に、王妃様をお連れするなんて……」
「いや、いいんだよ。研究所とは得てしてこういうものだから……長くなるだろうし、居づらいなら、みな外で待っていてくれても良いよ」
「いえ! 侍女として、お側でお守りいたしますっ!」
「あらあら、頼もしくて可愛いわね! みなさん、書類と部下を踏まないようにだけ気をつけてね! こっちよ!」
中央にある大きな階段を登って右側の部屋がヒルダの研究室だった。玄関に負けず劣らず紙の束が散らばって、埃やインクの匂いが濃い。ソフィアは思わず胸いっぱいに空気を吸った。
……ああ、たまらない。
ここはなんて素晴らしいんだろう。
香水やワインやケーキの匂いはここには無い。
ただ純粋な勤勉さだけが、この空間を満たしている。
「まぁ……なんて埃っぽい……」
「ごめんなさいねぇ、片付ける暇もなくって、つい放ったらかしにしているの。さ、侍女様はこちらにどうぞ。……んもうセブロ! 起きてちょうだい!」
「んがっ! はっ……、捕らえた食人獣はどこに……」
ヒルダは侍女たちを壁際の長椅子に座らせると、そのまま部屋の中心にある大机へと向かっていった。
そこで突っ伏して眠っていた青年は、ボサボサの灰色頭を叩かれると、底の厚い丸眼鏡をかけて辺りを見回した。そばかすが素朴な味わいを出す彼は、ソフィアを見て首をかしげる。
朝食会議からそのまま来たソフィアは檸檬色のきらびやかなドレスに身を包み、長い白金の髪を高く結い上げていた。首元には金剛石がいくつも連なる首飾りが飾られて、およそこの場に似つかわしくない。
「……ヒルダさん? こん美しかご令嬢は……」
「まあっ! なんて無礼な……!」
「セブロ、こちら王妃様よ。王妃様、こちら私の部下で研究者のセブロ・フロックスです」
唐突なヒルダの紹介に、ソフィアは軽く頷いた。
青年はソフィアの身元を知ると、眼鏡越しの目を大きく見開いて、それから口まで大きく開いた。なんとも表情の大きい青年だ。
「ひぇっ! そ、そいは失礼いたしましたっ!」
「ごめんなさいねぇ王妃様。セブロは王宮にいるけど、平民だから戴冠式には出ていないし、研究づけで肖像画も見ていないから、お顔を拝見してないのよぉ」
あわてて深く頭を下げたセブロは、聞いたことのないひどい訛りで驚いた。ただ、ソフィアはこの訛りについての論文を読んだ事があった……ような気がしていた。記憶の中の論文が、果たして本当に正しいのか、彼女はセブロで試してみる。
「セブロ、王妃のソフィアだ。君は南西の島の生まれなのかな?」
「は、は……もったいなかお言葉で、恐縮です。それに南西の訛りをよぉご存知で……!
まったくもってその通りで、ノカラ島ってぇ小さか島の生まれです。しっかし、今まで生まれを当てられたんはヒルダさんくらいなもんで、異国生まれん方に当てられっとは驚きです」
「やっぱりそうか。ノカラ島……蜂蜜酒が有名な所だったね。でも王都から島までは遠いだろう……家族には会えてるの?」
やはり合っているらしく、ソフィアは内心ほくそ笑んだ。
セブロは偉大なる王妃の、寛容で博識な言葉にしばらく驚いた顔を続けていたが、次の質問に少しだけ悲しげにその目を伏せた。ソフィアよりもずっと深い、夏空の青を持つ瞳だった。
「家族は……あまり会えとりませんが、仕送りができとります。
うちは貧乏大家族なもんで、今の国王陛下になって、ここで働かせてもらえるようになった事は、ほんっにありがてえことです……!」
「そう……」
にっと歯を見せて笑うセブロの頰は緊張からか赤みがさし、所々に黒いインクの染みがついている。なんて裏表のない、ありのままの人だろう。ソフィアの凍っていた気持ちが、ゆるく解けてゆく。
「ああっ!」
セブロはしかし、突然大きな声を出した。
ヒルダの方を向き直し、机に置いていた地図を大きく広げると、ヒルダ以上の早口で話し始める。
「そうだっヒルダさん! えらい事思いついたとですよ! いま、北の基地のナナニ川の氾濫で獣道が塞がれとります。
唯一空いとるこん場所に罠ば仕掛けて、次の新月に備えりゃ、今度こそ食人獣の生け捕りが出来っとかもしれません! 必ず来るとは限りませんが、そいでもやってみる価値はあるかと!
どうです、よかでしょ、よかでしょっ! …………あ、あかん、と、ですかね……?」
興奮してまくしたてるセブロは、しかし目を丸くしているヒルダとソフィアを見て急激にしぼんでいく。その様子が、面白くて楽しくて、ソフィアはとうとう耐えられなかった。
扇を広げることも忘れ、彼女は口を大きく開け、腹を抱え、大声を上げて笑ってしまった。
「……あはっ、あははっ! だめだっ、耐えられない! あははははっ!」
「お、王妃様っ?! どげんして……っ」
セブロの驚いた声に、余計に笑いが止まらない。
ひいひいと、全く王妃に相応しくない笑いが部屋中に満ちていた。きっと侍女たちは目を丸くしている。
ああ、かわいい。
なんて素直なんだろう。
普段自分の周りにいる奴らとは全然違う……!
「はは……ああ……セブロ。わたしもさっき、全く同じことを考えたんだ……私は今、その計画を練るためにここにいる」
「そうよぉセブロ。まさか貴方も思いついてたなんて、気付かなかった私が馬鹿みたいだわ!」
目に浮かんだ涙をぬぐいながら、ソフィアはセブロに微笑んだ。それはいつものような花を浮かべた笑みではなく、金色の細眉をくしゃりと寄せた、歳相応の微笑みだった。
「ははぁ……今度の王妃様は才女だとはうかがっとりましたが、まさかまさか……こん国の端々にまで目を向けて、誰よりお知恵をしぼってくださるなどと、思いもしとりませんでした。
王妃様がこん国にお嫁にきて下さったのは、ほんとにほんとに、ありがてえ事ですなぁ……」
ただただ感嘆の声を漏らすセブロに、ソフィアは不意に泣きそうになった。
この王国に嫁いでから今まで、どんなに賛辞と祝福の言葉をもらっても、心はひとつも動かなかった。それが今、彼女は歓喜で打ち震えている。
出来るなら、ああ、出来るなら……っ!
ここでずっと、こうしていたい。身分の別なく肩を並べて、飽くまで議論を交わし、疲れてしまえば机で眠って……自由に羽ばたく鳥のように、素直に、煩わしいことなど何も考えずにいられたら……!
ソフィアは一瞬だけ、それを夢見た。
しかし次には息を吐き、冷静な自分を取り戻す。
……私は、王族であらねばならない。
たとえこの血は違えども、彼女には全てを偽り続ける義務があった。家族のため、母国のため、彼女は常に、自分の欲求をこうして抑えて生きていた。
自分にはまがい物の価値があり、それを利用して家族を助えるならなんだって良かった。それにこの国にも、セブロのような人がいる。彼らのためにもなるのなら、偽り続けるのも悪くはないと、そう思えた。
「……さあ、セブロにヒルダ、時間がないよ。一緒に計画を考えよう」
「そうねっ! 王妃様、今日は返さなくってよぉ!」
「ははっ、それはいいな」
「い、いけません王妃様っ!」
後ろで侍女から必死に声をかけられて、ソフィアは花の笑みを浮かべる。自分が大きく笑ってしまったのは失態だった。侍女たちは今、王妃がここを甚く気に入ったのだと思っているのだろう。
それは何も間違っていないが、王妃であるなら避けなければならない選択だった。
王族は人にあらず。
臣下には常に、平等で公平でいなくてはならない。お気に入りなどあってはならない。民に優劣をつければ争いが生まれることを、ソフィアはよく理解していた。
「分かってる、冗談だよ。そうだな……昼食前には戻るとしようか」
「は、はい……」
そして王妃は、ヒルダの研究室で多くを語り合ったあと、正午の鐘が鳴る前には、その離宮を後にしていた。
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