アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅱ.春の章

18.夫の手 ※

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服を脱げ、と。
閣下ははじめて、に対してそう言った。


「な、なっ、なんで……っ」

「うるせぇ、さっさとしろ。てめえがいつまでも儀式の事を引きずって、ヤイルやドルトンに怯えられたらこっちが面倒なんだ」


筋の通るような、通らないような事を言われ、閣下はポケットからハンカチを取り出した。丁寧に折りたたまれた真っ白なそれは、彼の神経質な一面を如実に表していた。


やりなおし、だとか言っていた。
なにを、儀式を?  やり直すなんてとんでもない!


「いいい、嫌だッ!!」

「てめえ……脱がされてえのか。いいだろう脱がせてやる」

「ああちょっと、まっ、……ッ!」


自分で着替えたネグリジェは、簡単に着ることができる分、脱ぐのも脱がせるのもまた簡単だった。肩紐を掴んで一気に下へと降ろされると、あられもない姿が鏡に映る。


「いやぁっ!」

「静かにしてろ。侍女エメが来たらどうする」

「ど、どうするって……あああ待って……!」


咄嗟に胸を両手で隠したため、なんの抵抗もできずにドロワーズまで脱がされた。閣下が膝をついているため、いつもとは逆に銀の瞳はアイリーンのことを見上げている。というか、閣下の顔のすぐそばで大事な部分が晒されて、アイリーンはもう羞恥でどうにかなりそうだった。


「おい、足を抜け」

「っ……や、ぁ……」

「そんな事まで俺にやらせる気か。ガキじゃねぇんだ早くしろ」


急かされて、アイリーンはそっと動いてドロワーズから足を抜いた。そうしなければ、閣下の目の前にいつまで経っても自分の恥部が晒され続ける。せめて、早く立ってほしい。

アイリーンの切望どおり、閣下はすっと立ち上がるとアイリーンから離れていった。え?  と思っているうちに、水差しにハンカチを浸して片手で絞って戻ってくる。


……ほんとうに、やりなおす気だ。


アイリーンの喉が、渇いているのに唾を飲み込む。べったりと張りつく緊張感が、彼女の心臓を苦しいほどに昂らせていた。


「おい、どこからだ」

「……え……」

「どこからどう拭かれたんだ。覚えてねぇとは言わせねえぞ。さっさと言え」

「ゆ、ゆびから……」

「どっちの」


答える代わりに、震えながら差し出した右手を閣下が掴むと、ひやりと冷たいハンカチが当てられた。ゆっくりと、本当にゆっくりと、指の一本一本が丁寧になぞられる。まだ左手で胸を隠したままだが、すでにその手にまで脈が触れるほど、アイリーンは緊張していた。


「次は」

「うで、に……」


5本の指を拭き終わると、閣下の手がじわじわ這い上がってきた。強くもなく弱くもない、加減された力で腕を拭われる。


「ふ……ッ、やだ、こんなの、おかしい……ッ」


敏感な脇の下まで拭われて、妙なくすぐったさに息が漏れる。儀式のやりなおしなんて、そんなの出来るはずもない。大体あれはもう2ヶ月も前に終わった事なのに、閣下はまじめに儀式の真似事なんてしている。


恥ずかしい。
とにかく、恥ずかしい。


切れ切れに漏れる抗議の声は妙なしめっぽさを含んでいた。閣下は何も言わずに片腕を拭き終えて、今度は左手を取ろうとする。胸を隠しているこちらの手を離すことは出来ないと、アイリーンは涙目で彼に訴えた。


「やっ……やだ……っ」

「……おいアイリーン、お前の亭主は誰だ」


隈の濃い銀の目が、眼光鋭く睨んでいる。
聞いたことのある質問だったが、その場面を思い出す隙間もないほど、アイリーンの頭は乱れていた。


「あ……あなたです、閣下」

「なら何もおかしい事はねえ。てめえはただ夫に触られてるだけだ。夫が自分の妻の肌に触れて何が悪い」

「そんな……っ」

「早く手を出せアイリーン。それとも何だ、他人には胸を見せられるのに、夫には見せられねぇってのか」


ずるい、なんてずるいんだろう。


夫だ妻だと言いながら、閣下は今まで一度もこんな風にアイリーンの身体に触れたことなどなかった。
彼の接触はいつも強くて痛かったのに、今はもっともらしい理由を並べて、彼女から手を差し出すのを待っている。強引に引いてくれれば、熱に侵された腕などすぐにほどけてしまうのに。


観念するしかなかった。

アイリーンはその左手を、待ち受ける閣下の大きな手に重ねた。閣下は晒された胸に目もくれず、やはり指1本から丁寧に拭い始める。その手には、アイリーンと同じ赤い宝石のついた結婚指輪が光っていた。


「……っ」


一度身体から離れたハンカチはまた少し冷たくて、彼女の手がすこし震える。


「……痛むか」


なんのことだか分からなかったアイリーンだが、閣下の視線が手首に落ちていて理解した。青黒い痣は、ダンスの練習に行かないと言って聞かなかった自分への戒めだ。

見た目ほど痛むわけではなかったし、あの時は閣下にとても荒っぽい態度を取ってしまった。だからアイリーンは、閣下の暴力にも寛容だった。お互い様か、自分が悪かったとくらいにしか思っていない。


「いや、大丈夫です……」

「そうか……悪かった」


赤い瞳が見開かれるが、閣下は視線を落としたまま、手首に冷たいハンカチを当てた。ひた、ひた、と冷やすように押し当てられて、気遣われているのが分かる。


……閣下がオレに謝るなんて、考えもしなかった。

アイリーンは驚きのあまり、自分の状況も鑑みずにただその様子を眺めていた。次第に手首からゆるく腕へと這い上がり、閣下の手つきはますます弱く、優しくなっていく。


「……ッ!!」


壊れ物を扱うように撫でられて、肩や脇までくすぐられると悲鳴をあげてしまいそうだ。アイリーンはぎゅっと固く目を閉じて、呼吸を荒くしながら責め苦に耐えた。


「アイリーン、次はどこだ」

「あ、足です……っ」

「……おい、目ぇ開けろ。何のためにてめえの部屋まで、鏡の前まで来たと思ってやがる」


何のため、と言われても、アイリーンには見当もつかない。

ただ儀式は鏡の前で行われたから、それを真似しただけではないのか。刺激が止まって目を開けると、銀の視線が鏡の中から赤い瞳を捕らえて離さなかった。


「その赤え目かっぽじってよく見てろ。てめえが今、夫にどんな風に触られてんのか、てめえの夫は今どこをいじくってんのか、ちゃんと見ろ」

「やだっ……なんで……!」

「これがてめえの洗身の儀だアイリーン。前の儀式は全部忘れろ。てめえが洗身の儀で思い出すのは、俺としている今だけだ、いいな」

「そんな、そんなの……ッ」

「分かったかと聞いている」


急に言われたところで、あの時の記憶を忘れることなどできるはずもない。なのに閣下は真剣だった。

一層強い声色で、アイリーンを抑えつけて屈服させる。
否定など許さない。そう言っていた。


「……は、い……っ」

「いい子だ、足を出せ」


身をかがめられ、片膝を立てた閣下の前に右足を出した。

訳の分からない熱と震えで足がふらつく。すると閣下に肩を持っていろと言われて、片手でおずおずと彼の肩に触れた。

そう言えば、自分から閣下に触れたことなどほとんど無い。触れたとしても手を重ねるくらいで、彼の身体は全く知らない。アイリーンが支えに使った彼の肩は、固くて無駄がなく、軍人らしいそれだった。


「……っ、ひぅ……」


踵を持たれて、指の間まで拭われる。
ふくらはぎも太腿も、表から裏まで撫でられる。
夫にまだ見せたことのない、その部分のギリギリまでが、責められる。


前の時はそうだったろうか、ふやけた頭で考えても、くすぐったい刺激にすぐ集中できなくなる。こんな風に、丁寧に、柔く弱く、なぶるように拭かれてはたまらなかった。


もっと乱暴にしてほしい、痛くていいから。


そう思えども、声を出せばすぐ悲鳴に変わってしまいそうで何も言えない。アイリーンは自由な片手で口元を押さえて、両足が終わるまで堪えるしかなかった。


「次は」

「お……おなか、と……むね……」

「目を閉じるなよ……鏡をよく見てろ」


もはや夫の言うことを聞くだけの人形になってしまったかのように、アイリーンは前を見た。鏡ごしに、顔も身体も火照った裸体の女と目が合う。

女は怯えているような、それでいて何かを欲しているような赤い目で、夫に膝をつかせて、まるで侍従のように身体を拭かせていた。

閣下は静かに立ち上がると、今度は下腹に手を当てた。せり上がってくる大きな手はゆっくりと、膨らんだ胸を覆ってゆく。


こんなの見たくない。
でも、見てしまう。見ろと言われたのだ。

見なくちゃいけない。


「あぁ……!」


胸の頂にしめったハンカチが触れて、優しく優しく撫であげられる。アイリーンは口を押さえた手の中で、とうとう切ない悲鳴をあげた。軽く触れられただけなのに、身体中がじんじんと痛いほどの熱を持つ。


ふたたび。
今度は反対の下腹から、同じことが繰り返される。確かにあの儀式でも、同じことがなされていた。


「……ふぅ……ッ」


なのに、ちがう。


あの時は、とにかく辛くて怖くて腹が立って、身体はずっと冷え切っていた。全てが憎くて、でも拒めなくて。鏡の自分を睨みつけながら全てが終わった。

でも、今は。
身体が熱くて、くすぐったくて、閣下の手が触れたそばから震えてしまう。恐怖も怒りもまったく無いが、その代わり、おかしくなるくらい恥ずかしい。


そんなにゆっくり触れないで。
そんなに優しく、撫でないで……!


アイリーンがそう感じているだけなのかも知れないが、夫の手はさらに速度を落とし、ゆっくり、ゆっくりと、白い裸体を這っていた。

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