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Ⅰ.冬の章
10.後朝の花
しおりを挟むだれかがおれを探してる。
だれかがおれを呼んでいる。
暗い、暗い、山の中。
月夜の、明るい、森の中。
おれはここにいる。
ここにいるから。
はやく、きて。
…………
……
……強い力で肩が揺さぶられている。
またエメが動かしているに違いない。
「……ぅ、ん……もうちょっと……」
「起きろ、アイリーン」
冷ややかな男の声を聞き、アイリーンは躾けられた犬のように飛び起きた。反射的にアイリーンから身体を反らせた男は、すでに黒い軍服に濃い赤のローブをまとった正装姿で立っていた。形のいい眉を不機嫌そうにひそめている。
「……お、はようございます。閣下」
「早ぇ訳あるか。さっさと支度しろ」
「え、あ、あの、支度って……」
アイリーンの問いかけは宙に浮かび、すでに公爵は寝室の外へと消えていた。次いで扉が叩かれて、今度こそエメが顔をのぞかせる。と思ったら、彼と同じ言葉で急かされた。
「アイリーン、さっさと支度するよ!」
「え、あの」
「いやだねあんた、寝ぼけてんのかい。今日は朝会があるんだよ」
「あさかい」
「公爵夫人になったんだから、朝会も出なくちゃならないよ。ほら起きて」
寝室から続く部屋は、アイリーンの新しい私室だった。侍女の仕事も慣れてきたエメは、手早く準備を済ませてゆく。アイリーンは呆然とその様子を眺めていたが、不意に先ほどのやり取りを思い出して……血の気が引いた。
『公爵夫人になったんだから』
「なって……ない」
いや、なった。でもなってない。
エメに急き立てられているにも関わらず、アイリーンは頭を抱えた。自分がこの期に及んで犯した失態に、穴があれば入りたい、なければ掘ってでも入りたい。そんな気分になっていた。
***
少し戻って、昨日の夜。
洋燈が灯ってまだ明るく、落ち着いた最小限の調度品が並ぶ公爵の部屋に招かれたアイリーンは、いきなり顎を掴まれた。
上にあげられ、右に、左に。
強い力で顔を動かされ、終わるとすぐに手が離れる。優しさも艶も含まない正確で固い動きに、アイリーンは戸惑っていた。
「痛みは」
「あの……、いえ」
「傷は」
「もう閉じてます」
「……ならいい」
確認作業を済まされると、閣下はくるりと後ろを向いて、部屋の中央より少し奥に設置された赤茶色の椅子へと腰掛けた。
彼の目前には同じ色の書机があり、机の上は整理されているが、書類の量が尋常ではない。大変だなぁと見ていると、閣下はその一枚に手を伸ばした。
「アイリーン」
「は、はい」
「何ボーっと突っ立ってやがる。用がねえなら先に行け。寝室はそこだ」
視線を書類に落としたまま、にべもなくそう告げられて、アイリーンはようやく自分が呆けていたことに気づいた。何故だか閣下の前に立つと思考が鈍って停止しがちだ。それは彼の強い威圧感からくるものなのかもしれなかった。
やっぱり怖い。でも。
怖いが、悪い人では無いのだろう。
エメもそう言っていたし、今だってこの人は、アイリーンの傷や痛みを気にしていた。表情の薄い人ではあるから、その考えは限りなく分かりにくいが、少なくとも理由なく人を虐げるようには思えなかった。
そしてアイリーンは、彼に用事が、言いたい事が残っていた。
やはり今言ってしまおう。そう決意して息を吸い、緊張しながら口を開く。
「……今日は、あ、ありゃがとうございましたっ!」
勢いよく噛んでしまった。
なんとも締まらない。
しかし閣下はその一言で、銀の視線をちらりと上げた。まっすぐ見るのは癖なのだろうか。今度は壁に追い込まれた鼠のようにアイリーンの身体が縮こまる。
閣下は何も、言わなかった。
続きを促されることも、一蹴されることもなく、ただアイリーンの赤い瞳をとらえていた。家族以外で、こんなに誰かと目を合わせたことのないアイリーンは落ち着かず、視線を外してうつむいた。
「あ、あの……ドレス……すごく、助かりました。オレ、あ、わたし。馬車酔いひどくて」
「話し方を変えようとするな、そのままでいい」
「え、でも……汚い言葉遣いはって……」
「あくまで公的な場での話だ。てめえのそれに付き合ってれば日が暮れる。さっさと話せ」
なるほど言われればその通りだと思い直して、アイリーンは話を続けた。そう言えば閣下は続きを話せと言ってくれた。冷たい物言いは相変わらずだが、聞いてくれる気はあるらしい。やはり、恐ろしいだけの人ではないのだ。
「あと……披露宴も、すみませんでした。閣下が止めてくれなかったら……オレ……」
あの平手打ちも、その瞬間は驚いたものの、後から思えばアイリーンの暴走を止めるための行為だったと理解できる。あの場で誰にも止められず、身分の高い大司教に啖呵を切れば、その後どうなっていたことか……
世間知らずのアイリーンでも分かるほど、あの場は危うかったのだ。
アイリーンがまっすぐに見返すと、今度は閣下が目を伏せた。冷たいように思えた声は、今では静かに掠れていた。
「てめえは俺を恨んでねえのか」
「そんな……そんなこと……」
アイリーンは首を振る。
やり方は荒かったが、それくらいの事をされなければ止まらなかったのもまた事実だ。それに閣下は、アイリーンに肩書きをくれた。
「ありがとうございました。あの場でオレを……公爵夫人だと、認めてくれて」
他を圧倒する冷たい声で、閣下はたしかに自分が亭主であると……ひいてはアイリーンが妻であると宣言してくれていた。
それはどんな誓いよりも確実に、彼女を公爵夫人へと押し上げた。そしてその肩書きは、忌み子と疎まれ、この王宮で生きづらいアイリーンにとっての盾となる。
閣下が意図してそうしたのかは今の今まで測りかねていたが、対峙してみて、言葉を交わして。閣下が何の考えもなしに発言するような人ではないと、アイリーンにはそう思えた。
「……ほんとうに、ありがとうございました」
「話はそれだけか。ならさっさと寝室へ行け」
「あの……閣下は?」
問いかけてからアイリーンは、これでは自分から閨へ誘っているようだと頬を染める。だが閣下はすでに視線を元の書類へと戻していて、彼女の表情は見ていなかった。
「まだ仕事が残ってる。あとで行く」
「は、はい」
そのたった一言で、心臓がぎゅうと締めつけられる。
早鐘を打つ胸が悟られるのは恥ずかしく、アイリーンは足早に寝室へと入り込んだ。先程までの部屋と違ってしんと暗い寝室は、やはり閣下の好みなのか、落ち着いた色の調度品でまとめられていた。
書机と同じ赤茶色で仕上げた寝台の、白いシーツの上に腰掛ける。でもダメだった。緊張しすぎて、座っていても目眩がしそうだ。アイリーンはそのまま背中をばたんとシーツに倒した。
閣下の目に似た月光が、暗い部屋の中に差し込んでいる。
アイリーンはふと思う……ここで、閣下にどんな風に抱かれるのだろう。痛いのだろうか。辛いのだろうか。未知への恐怖は根強いが、それでもアイリーンは、相手が閣下で運が良かったと自分に言い聞かせていた。
これがもし、普通の人ならば。
自分はきっと忌み嫌われて、目隠しをしたまま行為に臨んだかもしれない。そんな行為もなされないまま、厄介者として牢に閉じ込められたかも知れない。奴隷のように扱われ、死ぬまでこき使われる可能性だって、現実的にあったのだ。
だから、アイリーンは感謝していた。
彼女をただの小娘のように扱う閣下は、とてもおかしな人である。でもだからこそ その存在は、彼女にとっての家族やエメと同じように、貴重なものになりつつあった。
彼女はなおも、自分に強く言い聞かせる。
閣下にきちんと寄り添えるよう努力しよう。好きか嫌いかなどというのは、俺には過ぎた問題だ。閣下が俺を見放さないなら、せめて邪魔にならないよう、手を煩わせないよう心がけよう。
そうしよう、そうしてみよう……
と、思っていたのに。
まさかそのまま、寝過ごすなんて!
アイリーンは頭の中で理由を並び立ててみる。昨日は挙式で疲れていたし、おとといの夜はドレスの試着で眠れなかった。
普段は寝つきがすこぶる良くて、ぐっすり眠る性質なのだ。あんなに眠れず緊張すれば、誰だって眠ってしまうだろう……いや、やっぱり結局言い訳にしかならないか……?!
「アイリーン? 何ぼさっとしてんだい?」
「あ、いや……っ、その……」
「はいこれ。サイドテーブルに置いてたよ」
エメから真っ白な百合を手渡され、アイリーンは首をひねる。その間に着せられた今日のドレスも婚礼衣装とよく似ていて、コルセットを必要としない意匠の、真紅より暗いえんじ色だった。
百合は鮮やかな白がまだ新しく、水差しに入っていたわけでもないのに生きているような美しさだった。茎には固く、紙が結びつけられている。
しかし何のことやらさっぱり分からない。
エメに聞くと、後朝の花だと教えられた。
「夫が妻に、初夜の朝に贈るもんだよ。この国の伝統だって聞かなかったかい?」
「……覚えてない……」
というより、初夜と言われたことが耳に痛い。
初夜らしさなど一切なかった。閣下がいつ眠ったのかさえ、アイリーンには分からなかった。
「まあ私も、あの軍長が律儀にこんな事するとは思わなかったけどね。結び文を取ってこっち貸しな」
「結び文……何が書いてあるんだ? 決まりはあるのか?」
「内容は夫次第で、これといった決まりはないよ。ほら、貸して」
「なんで」
「後朝の花は、もらったその日は妻を飾る決まりなんだよ。うるっさいねあんたは。図書室にでも行って調べてきな」
横から花を奪われて、ぞんざいにぽい、と結び文だけが手渡される。何が書いてあるのだろう。昨日の失態で書かれることなど、恐ろしくて見たくなどない。
しかし見ないのも不自然で、エメに感づかれても困ってしまう。アイリーンは仕方なしに文を解いて広げて読んだ。
春野を駆けん 仔馬より
黛 濃ふして 飾る乙女に
歌を詠むなら 春の歌
ほほより紅き 篤き血の歌
「これ……」
なんで。
藍色の文字に、アイリーンはまた思考が止まる。
見覚えのある、聞き覚えのあるその歌は、シガルタ国のわらべ歌だ。なぜ隣国の公爵閣下がそれを知るのか。アイリーンはまた分からないことが増えてしまった。
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