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《十一》
しおりを挟むそれからは慌ただしかった。盛大な葬儀と、相続と子育てに追われ、なにもかも矢のように過ぎていった。遺言書は正規の手続きを踏まえて開封され、旦那様がすべてを相続することでつつがなく決定した。
翌日、妾の子が失踪した。
わたしはそれを旦那様から聞かされた。もと住んでいた家からは数日分の洋服と靴と財布だけが消え、『相続を継げない自分がここにいる意味はない』などと書かれた置き手紙が残っていたらしい。
旦那様はしようのないことだと言って、捜索願いは出さなかった。どこでなりともやっていくだろうとも。
そしてあくる日の昼ひなた、新しくこしらえた仏壇の前で手を合わせたあと、とうとう白状した。
「あれは本当は実の弟でな……いわゆる双子で、おまえは見たことがないから分からんだろうが、姿かたちもそっくりなんだ。おじじ様は古い人間だから不吉がって……一人を妾の子として育てることにすると言って、聞かなかったらしい」
「まぁ……そうでしたの」
「俺もずっと、同じ兄弟だと思うなと口酸っぱく言われてきた。だというのにあのジジイめ、いざ自分が死にかけとなると急にやつにも家督をゆずれと言い出す始末だ……結局千之助の名を出して収まったが、あれには肝が冷えたよ」
「……なぜ今それを、わたしに?」
「分からないか?」
旦那様がわたしをじっと見つめる。
その視線がいつにも増して耐えがたい。あの男と同じ色の目に、本当はなにもかも見透かされているのではないかとさえ思えて、わたしはつい目を逸らした。
「ははは、おまえだって分かってるだろ」
からからした笑い声が響く。
「俺たちはこれで共犯だ」
「そんな……」
「なぁ、そうであってくれよ……でなければ俺はたったひとり、実の弟をおとしめた極悪人だ……たのむよ胡蝶……」
そう言いながら、旦那様の手がわたしの……足に……──
「嫌っ!」
痛い。
食われた足がいたい。目が、いたい。
ちがう。これは幻覚。それにわたしはまだ旦那様の、この男の妻だ。にこりとほほえんで、股を開いて感じていればすぐ終わる。男に馴染んだこの体は、もうとっくに痛みも苦しみも感じやしないのだから。
ああ、でも……でも……!
「なん、おまえ……」
「まだ、お昼ですから」
「なに言ってるんだ、そんなのおまえ、今まで一度も気にしたことなんてなかっただろう」
「でもっ……大旦那様の、まえです」
「なら寝室へ行こう。なっ、それならいいだろ?」
──おぞましい。
目の前でまざまざと思い知らされる。この男は変わらない。昔から、己の欲のためにはどんなことも利用して、傷つけて、そのくせ自分こそがつらいのだとあわれんでみせる。
『あれは残忍です。弱いものいじめが好きなのです』
七年も前のことばが、つい昨日のようにはっきりと思い出される。
そのとおりだ。
そしてあのひとの声は、ことばは、いつだってわたしのたったひとつのよすがだ。
「……ごめんなさい旦那様。実はまだ少し、お産の傷が痛むんです。月のもののとき以外でも血も出るし、その、お相手は……」
「なんだ……それならそうと早く言え」
「ごめんなさい、こんなの恥ずかしくて……お医者様にも誰にも、まだお伝えしていないんです。旦那様にだけ、恥を忍んでお伝えしたのです。だから……」
従順に、いつもどおりに。
目も足も、痛みはとっくに消えていた。旦那様の手をとるも、今度は旦那様から静かに手が外される。
わたしにはその理由が手に取るようにわかる。
おおかた、北の離れのヨシコのもとへゆくのだろう。
「そうかそうか……ま、しようがない。おまえの気持ちもよく分かるし、千之助の世話もよくやってくれているものな。でも胡蝶、あまりおおごとになる前に先生には診てもらうんだぞ」
「はい」
それからいくらか、上澄みだけのおやさしいことばを残して男は仏間を出た。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなり、だれの気配もなくなってようやく長く息をつく。体の力が一気に抜けて、わたしは畳の上に寝ころんだ。板張りの天井を見上げて手を伸ばす。
「はやく……」
もう耐えられない。
次またあれに誘われて、うまくかわせる気が、しない。
でももう、あのおぞましいけものの妻でいたくない。
「はやく……はやくきて……!」
この日以降、わたしはなるべくあの男とふたりきりにならないよう心がけた。子煩悩の母を演じ、せわしい屋敷の女主人を演じ、また一方で夜以外は良妻であるようつとめた。あの男も使えない体には興味がないらしく、夕食のあとは北の離れへ向かうことが常となった。
そして梅雨時期の夜のことだった。
大旦那様の命日から、四か月も経っていた。
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