4 / 18
《四》
しおりを挟む戦後闇市「尾上組」の元締めであり、摘発を受けて解散してからは数々の訴訟をかわしながら複数の株式会社の経営を担っていた実業家 尾上亀千代の嫡孫、尾上千晃ちあきとはじめて会ったのは、わたしの十三参りの帰りだった。
進駐軍に袖の下を渡して没収をまぬがれたという尾上邸は、実家よりずっと荘厳で、洋風のあつらえが洒落ていて。
五つ年上の尾上千晃は、ちょっと見たことがないような端正な美丈夫で。
両親にうながされ、三つ指をつきつつあいさつしたわたしは、現実離れした世界に子どもらしく胸をときめかせていた。今は亡き大爺様が蔵から出してくださった白地に赤の蝶文様が入った総絞りの振袖も、しゃらしゃらと音のなるかんざしが刺さった結髪も、きっと今このときのためだったのだと合点したものだ。
その日のわたしはなにも聞かされていなかった。
それでも、もしかしたら、五つ歳の離れたこのうつくしい男が自分の将来の夫になるのではないかという予感があった。
実家は戦後、貴族制度の撤廃とともに財産を没収されて生活ぶりは苦しいが、由緒正しい旧華族で親類縁者は財界、政界、法曹界、はてには角界や梨園にまで及ぶ。
対してあこぎなやり方で戦後成金となった尾上は金はあれども地位はなし。息子夫婦は戦死し、いまだ年若い後継に泊をつけてやりたいのだろうという政治的打算も、その頃には理解していた。
「胡蝶さん、着物をお脱ぎなさい」
そして予感は、最悪の形で的中した。
「は……?」
「聞こえなかったのですか? 私は暗愚な小娘に婿入りするつもりはありませんよ。さ、はやいとこ着物をお脱ぎなさい」
「む、むこいり……なんの話です?」
「なにを今更、カマトトぶって」
双方の親から『ふたりでお庭を見ておいで』と言われて、お堀の錦鯉にえさをやり、北の離・れ・の一室で休んでいたときだった。
気づけば周りに人影はなく、わずかな物音さえ聞こえない。
大きすぎる屋敷のなかでは、どうやって戻ればいいのかもわからない。
「この顔合わせが実質の縁談であるということはあなたも気づいておられたはずだ」
縁側に続く障子がぴしゃんと強い音を立てて閉じられた。
「気づいていながら、あなたは私とふたりきりでここまで来た。私が見つめれば頬を染めて、嬉しそうにしなをつくって……あなたはもう充分に女ではありませんか。今更少女ぶるのはおやめなさい」
「っ、そんな……!」
「いいですか、胡蝶」
ひなたを背にして、自分よりもずっと大きな影がにじり寄ってくる。
その表情は杳ようとして知れない。
「時代は変わった。私はもはや地に落ちた旧華族の称号などこれっぽっちも欲しくないのです。それを、おじじ様やあなたがたがどうしてもと言うから恥をしのんで婿入りしてやろうというのに、手形もなしにあと数年待てとはあんまりじゃありませんか……だからね、これはあなたのご両親もみな承知の上なのですよ」
最後のことばに血の気が引く。
立ち尽くすわたしの肩をドンと押し、影が覆いかぶさった。ふうふうとにわかに鼻を鳴らして、わたしの両の手首を押さえつける。
生ぬるい息が顔にかかる。
「幸い、ガキっぽさはない……十三だから期待はしていなかったが、そこだけは僥倖だな。体はまあ、物足りなくともそのうち肉づきもよくなるでしょう」
けものだ。
これは、ひとではない。
「さあ、分かったならそのしみったらしい着物をさっさとお脱ぎなさい。それとも脱がせてあげましょうか」
「ひっ……ぃ、いや……」
「なに、痛いのははじめのうちだけです。逢瀬を重ねれば祝言までには名実ともに立派な女に、わたしの子を産める体になっています……よ……?」
ぱりん、ぱりん
どこか遠くで二度、皿の割れるような音がして、けものが一瞬よそ見をした。それがわたしに与えられた猶予なのだと理解する前に、わたしはけものの手首に歯を立てていた。圧迫されていた手首が一気に放たれる。
「あッ!? お前、くそっ!」
「いやっ! はなして!」
足首をつかまれる。
ふりほどく。
走り出す。つかまれた方の足袋が脱げている。かまわない。
「どこへ行く!」
どこへ?
そんなの、どこだっていい。
部屋をとび出したわたしは迷路のように入り組んだ廊下を健康な両足でひた走った。心臓がどくどくと脈打って、髪も着物も崩れているのに、うしろからけものの咆哮がまだ聞こえる。
どこへ、どこへ。
どこへ行けばお父様とお母様に会える?
ああでも、逃げ出したわたしに居場所はないのだろうか。ほんとうに、あのけものの言うとおり、こうなることはみな承知のうえ、だったのだろうか……!?
それなら……逃げてはいけないのでは……
戻れば……いま、もどれば、ゆるしてもらえる……?
「こちらへ」
足を止めたわたしの手首を、誰かがぐんと引き寄せた。今度は抵抗できない。階段。ぐんぐんとのぼり、やがて昼なのに墨を落としたような暗さの屋根裏部屋へ到達する。
暗がりのなかで見えたのは、ぼろを着た、上背のある、ざんばら髪の──
「ひ! ち、ちあき……!」
「静かに。ゆっくり、ゆっくり息を吐いて……僕は千晃ではありません」
それが信じられるものか。
姿が違えど、ざんばら髪のなかはけものと同じ造形の男が、否応なしに口を塞いでくるというのに。
しかしわたしにはこれ以上なすすべがなかった。
それに口を塞ぐ手が案外と優しくて、わたしはとうとう、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。
「ふぅ……ううッ……」
「そう、吐いたらゆっくり吸って。ここは安全ですから……よくあの場を逃げ切りましたね」
「あ……」
同じ声で発せられることばには抑揚がなく、淡々としているのにねぎらいに満ちている。それでようやくわたしは男があのけものとは別種であるらしいと、そしてその口ぶりから、どうやらわたしが逃げてきた経緯も知っているのだと思い至った。
──ぱりんぱりんと割れる音が思い出される。
「あっ……あの音……」
「そう、ご明察。標本を二、三、庭へ投げつけてやりました」
「ひょうほん……」
まだ震えている体で屋根裏部屋をぐるりと見渡す。ちりのない広い屋根裏のすみ、一辺の壁にさまざまな昆虫の標本が飾られていた。
かぶと虫、くわがた虫、とんぼ、かみきり虫……
なかでも蝶の標本は見事な出来栄えで、だというのに二か所ほど、不自然に壁に隙間があいていた。すぐそばには窓があるから、なるほど、ここから庭へ投げつけたらしい。
「ごめんなさい、大切なもの、だったんですよね……お代は弁償いたします」
「結構です。標本は進駐軍の研究者やお子さん方に売りつけて日銭を稼ぐための道具に過ぎません。それより、お嬢さんが逃げおおせてよかった」
「あの、あなたは……?」
やっとそう尋ねると、目の前の、あのけものによく似た男は居住まいを正す。その一瞬の振る舞いは、すすけた見た目に反して優雅で洗練されていて、わたしの背にぞわりとむずがゆいものが這い上がってきた。
──この男は、だれ……
「尾上千景ちかげ。あれと同い歳の……妾腹です」
「……しょうふく?」
「本来、十いくつのお嬢さんが知る必要のない言葉ですが……妾の子、という意味です」
底の見えない暗い目が、わたしをぢっと見つめていた。
1
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる