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1巻

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 ひどく緊張した。私、立河茉奈たちかわまなにとって、こんな大きな会社で面接を受けるなんて、初めての経験だったのだ。
 今年で二十六歳になる私は、就職してからずっとカフェ店員として働いている。けれどわけあって転職することになり、先ほど面接を受けてきた。
 面接の結果は、信じられないことにその場で即採用。こんな幸運がまさか自分にめぐってくるなんて、思いもよらなかった。
 高揚こうようして収まらない気持ちを無理やり抑えつつ、ロビーを歩く。この仕事を紹介してくれた幼馴染おさななじみに、早く報告したかった。
 面接前に対応してくれた受付の女性に小さく会釈えしゃくして、通り過ぎた時だ。入口から来たスーツの男性と目が合った。
 その途端、息が詰まりそうになる。まばたきもできず、見入ってしまう。
 どうしてだか、その男性の視線もまた、私を見つめたまま動かない。時間が止まったように感じた。
 互いに足だけは止まらず距離は縮まり、次第に相手の顔の輪郭りんかくや目鼻立ちまではっきりとわかるようになる。
 りが深く、まるで精巧せいこう石膏像せっこうぞうのように整った顔立ち。
 つやのある黒髪は、前髪が長めで、さらりとサイドに流れていた。髪の間からのぞ双眸そうぼうもまた、黒色。切れ長の目が意志の強そうな光をたたえ、まっすぐに私をとらえている。
 それが少しもブレないものだから、私も視線をそらすことができなかった。
 ……どこかで、会った?
 すれ違うその瞬間まで見つめ合ったまま、彼の横を通り過ぎた。
 それからはまっすぐ前を見て、ビルの外に出る。暖かい陽射しを浴びた瞬間、はあっと大きく息を吸った。心臓がひどく高鳴って騒がしい。
 ……どうして、あんなにじっと見つめられたんだろう。
 不思議に思い、首をかしげた。たまたま目が合って、お互いに視線を外すタイミングを見失っただけだろうか?
 だけど、それだけとは思えない強い眼差しだった。
 それに、間近で見つめ合った時、どこかで会ったことがあるような、妙ななつかしさが胸をよぎったのだ。けれどその感覚を確かめようと記憶をさかのぼってみても、はっきりこれだと思えるものが見つからない。
 やっぱり、ただ偶然目が合っただけだろう、と思い直した。


 少し歩いたところで、今自分が出て来たばかりのビルを振りあおぐ。近代的なビルで、中はとても綺麗きれいだった。
 面接の三十分前にここに到着した時は、こうして見上げただけで足がすくんでいた。いまだに心臓がドキドキとうるさい。
 私が面接を受けたK&Vホールディングスは、日本で知らない人はまずいない大企業だ。コーヒーを主とした食品メーカーで、世界中にコーヒーチェーン店も展開している。経営母体の規模は、これまで自分が働いていた小さなカフェとは比べものにならない。
 とはいえ、私はただのカフェの店員。バリスタとして、K&Vホールディングスの本社ビル一階にあるカフェの面接に来たのだ。
 だからてっきり、一階のカフェで面接をするのだと思っていた。けれど、通されたのは応接室で、面接をしてくれたのはK&Vホールディングス人事部の人。
 本社にある直営カフェということで、店員は全員、本社所属の社員として雇われるのだとか。
 そんな説明を、面接官の男性がしてくれた。年配の柔らかい印象の人だったのでよかったものの、もしも厳しい人に当たっていたら、立派な応接室の雰囲気も相まって、もっとガチガチに緊張していたかもしれない。
 ともあれ、来週から働けることになり、本当にほっとした。今住んでいる場所から電車一本で通勤できるので、私にとってはいいことずくめの就職先だ。
 興奮めやらぬ帰り道。最寄り駅からアパートへ向かいながら、この就職のきっかけを作ってくれたおさな馴染なじみに電話をした。

颯太そうたくん!」

 はずむ声を抑えきれず、つい声高に名前を呼んでしまう。電話の向こうで『うわっ』と驚く声がした。

『茉奈? その声の感じじゃ、うまくいったのか?』
「採用になった! ほんとにありがとう! ラテアートもさせてもらえるって!」
『そりゃよかった。俺はまあ、知り合いに頼んだだけなんだけど』

 ふたつ年上の幼馴染おさななじみ杉本すぎもと颯太とは実家が隣同士で、社会人になった今でも互いに連絡を取り合っている。
 今回、とある理由で職を失うことになった私を心配して、彼は今までと同じようなカフェの仕事を探し、知り合いを通じて面接の約束まで取りつけてくれたのだ。それがまさか、こんな大手の会社だとは思わなかったけれど。

「その人にも、ちゃんとお礼を言いたい。どういう知り合いなの?」

 聞いてみたが、なぜだか言葉をにごすようなうなり声が返ってきた。

「颯太くん?」
『まあ……友達だけど。礼とかはいいって。照れ屋なんだよ』
「えっ。颯太くんの友達で人事に関われるような人がいるの?」

 颯太くんは今年二十八歳だから、年上の友人だとしても、せいぜい三十代じゃないだろうか? だというのに、こんな大きな会社の人事に口を出せるって、一体どういう人なのだろう。

『まあ、あんま追及しないで。悪い話じゃなかったろ』
「うん、怖いくらいいい話だったけど……」

 だからこそちゃんとお礼を言いたかったのだが、それ以上は聞き出せそうになくあきらめた。
 颯太くんは美容師だから、様々な職種の人と出会う機会は多いはず。お客様のひとりなのだとしたら、あまり詳しく話せないのもうなずけた。
 その人に十分お礼を言っておいてくれと頼んで通話を切り、足早に家路をたどる。
 引っ越してきたばかりのアパートは、駅から歩いて三十分ほどかかる不便な場所にあり、だけどそのおかげで家賃は安い。
 さびれた印象で、き部屋が多いのが少し不安だった。確か不動産屋は、築二十年だと言っていただろうか。各階五部屋ずつの三階建てで、私の部屋は二階の角になる。
 ネームプレートはつけていない。一応用意はしてあるのだが、事情があって、怖くて使用しないままだった。
 部屋に入ると、まだ梱包こんぽうけていない段ボールが隅に積んである。引っ越して二週間が経つというのに、早く仕事を決めなければと焦ってばかりで、片づけのほうははかどっていなかった。

「これ、今週中に片づけなくちゃ」

 仕事が決まって、これで不安がひとつ解消されたのだ。少し休憩したら早速荷解にほどきをはじめよう。
 颯太くんのおかげで、新生活にようやく明るいきざしが見えたと思っていた時だった。
 スマートフォンが着信を知らせて震え、びくっと肩が跳ねる。

「……また、田所たどころさん」

 手にしたスマホの画面には、先月まで勤めていた店のマスターの名字が表示されている。
 登録を消してしまいたかったけれど、どうせかかってくるなら名前が表示されるほうがうっかり出てしまわずにすむかと、そのままにしていた。
 ……お店さえ辞めたら、大丈夫だと思ったのに。
 溜息をついて、スマホをローテーブルの上に置いた。
 着信はまだ鳴りやまない。いっそのこと電源を落としてしまおうか。あるいは着信拒否にしてしまおうかと考えながらスマホを見つめる。
 私は二十歳の頃からずっとカフェスタッフの仕事をしている。
 最初のカフェに三年、そのあと勤めたのが先月までいた店だ。ラテアートが上手な先輩がいて、教わるきっかけになった馴染なじみある場所だった。
 それでも辞めた。理由は、田所さんからの執拗しつようなアプローチ。
 一年ほど前からだろうか。急に言い寄られるようになり、何度当たり障りなくかわしてもしつこく食事に誘われた。
 田所さんは、年は確か、三十五、六と言っていた。別に変な人、というわけじゃない。ちょっと年の差はあるけれど、背も高いしカッコいい部類の人だと思う。
 問題なのは、彼が既婚者だということだ。
 仕事をしている間も、視線や言葉、その声音に彼の好意がにじみ出ていた。そんな状況で食事に誘われて、気軽についていけるはずがない。
 断り続けるうちに、家の前で待ち伏せのような真似までされるようになり、一度怖いと思ったらもうダメだった。
 このままでは仕事にもならないと、思い切って店を辞め、引っ越しを決めたのだ。
 ――ようやく途切れた着信に、ほっと安堵あんどの息を吐く。
 この新しいアパートを田所さんは知らないのだから、必要以上に怖がることはない。そう思って、私はスマホを操作し、彼の番号を着信拒否に設定した。
 いつか自分でカフェを開業するのが夢だ。可愛らしいラテアートで女性の心がホッとなごむような、そんなカフェにしたい。
 そのためにずっと勉強して、お金も貯めてきた。この引っ越しにかかった出費は正直痛かったけれど、決してあきらめたわけではない。
 ここから、再スタートすればいい。新しい知識を吸収できるかもしれないし、出直すには絶好の機会だ。
 そう自分をはげまして、面接用のスーツから楽な格好に着替えると、長い髪をきゅっとうしろでひとつに結び直す。

「よし! まずは今日中に段ボールを全部開ける!」

 それから、カーテンを新調しに買い物に行こう。そう意気込んで、私は段ボール箱のひとつを開いた。


   * * *


 初夏の気候、というには気温が高い。しかも雨が近いのか、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくようで、体感温度を上げている。
 もっとも、店内は過ごしやすい温度と湿度に調整されているけれど。

「立河さん、これ三番テーブルにお願い!」
「はいっ」

 アイスカフェラテをふたつ、窓際の一番奥にある三番テーブルへ運ぶ。
 勤めはじめて一週間、私は順調に新生活を送っている。
 今、アイスカフェラテを私にたくしたのはこの店の店長で、三十代の女性だ。初日に紹介されて、男の人じゃないことにほっとした。
 スタッフは私を入れて六人。全員女性で、前の店で怖い思いをした私としては、安心して仕事ができるありがたい環境だった。
 このカフェの朝は、忙しい。
 八時半に開店してから約一時間くらいが、ランチタイムに匹敵ひってきするくらいの繁忙はんぼう時間帯だ。
 ここでモーニングを食べる社員もいれば、オフィスまでコーヒーをテイクアウトしていく人もいて、店内はとてもにぎわっている。
 この会社の社員だけでなく、当然通りがかりのお客様もいた。
 ひっきりなしにお客様が出入りして、あっという間に一時間が経過すれば、次はランチタイムの準備が始まる。
 シフトは早番、中番、遅番の三パターンだ。早番が朝八時から夕方四時まで、中番は十一時から夕方六時で遅番は午後三時から閉店まで。忙しい時間にうまく人が重なるようにシフトを組んである。
 中番の子が出勤し、昼の忙しい時間が終わったあと。早番だった店長と私は、一緒に昼休憩を取ることになった。
 まかないに店のパンをどれかひとつと、好きな飲み物をれていいことになっている。私はいつもカフェラテだ。
 エスプレッソをれたカップに、スチームミルクをそそぐ。濃厚なコーヒーと甘いミルクの香りが混ざり合い、カップからふわりと立ちのぼった。その香りを深く吸い込む。私の好きな瞬間だ。
 ミルクをそそぐにつれ、エスプレッソと、スチームミルクの泡とが混ざり合っていく。この時にできる模様で絵を描くのがラテアートだ。コツをつかむまではうまく混ざらなくて綺麗きれいな模様ができず、不思議と味もいまいちになったりする。
 自信をもって提供できるようになった今では、懐かしい話だけれど。
 店長の分とふたつ、休憩室に運んでひとつを手渡す。すると店長はカップをまじまじと見て口を開いた。

「立河さんって、ほんとにラテアート上手ねえ」
「ありがとうございます」

 本当に感心した様子で言われると、照れてしまう。

「今日はリーフにしてみました」
「スチームミルクが均一で模様も繊細で、ホントに綺麗きれい。取締役のコネ入社だって聞いてたから、どんな子が来るのかと思ったけど……ちゃんと仕事ができる子でほっとしたわ」
「えっ」

 驚いて店長の顔を見ると、彼女はカップに口をつけて「美味おいしい」と満足げにうなずいている。
 嬉しい。けれど、店長の言葉をそのまま聞き流すわけにはいかなかった。

「取締役のコネって……?」
「え? もしかして知らなかったの?」
「はい。人づてに紹介していただいたことは確かなんですが……誰なのかは全然知らなかったです。取締役って偉い人ですよね」

 そんな人と颯太くんがどうして知り合いなんだろう? やっぱり彼のお客さんなのだろうか?
 だけどそれにしたって、美容師と客というだけで、その幼馴染おさななじみの就職にまで手を貸してくれたりするとは思えない。なんとなく釈然としないものがあり、一体どんな人なのだろうと興味を引かれた。

柏木かしわぎさんっていってね、いずれこの会社のトップに立つ人よ」
「ええっ?」
「現社長のご子息。この春に海外支社から戻って、取締役専務に就任したばかりなのよ。すごく綺麗きれいな男性だから、〝王子〟って呼ばれてるわ」
「王子って……」

 いくらなんでも日本人に〝王子〟だなんて、イメージが合わないだろう。つい笑ってしまいそうになったが、その時ふと、ある顔が浮かんだ。
 面接に来た日、ロビーですれ違った男の人。
 あの人なら、確かに王子と言われても遜色そんしょくない風貌ふうぼうだ。綺麗きれいなだけでなく、とにかく存在感のある人だったと思い出す。

「実物を見たら、立河さんも納得するわよ」

 そう言われ、きっとあの人に違いないと根拠のない確信を抱く。
 同時に、少しがっかりした。本当にそんな偉い人が口利きしてくれたのなら、直接お礼を言うことはきっと叶わないだろう。

「見てみたいですけど、会えることなんてそうそうないですよね」

 あの日ロビーですれ違ったのは、ただラッキーだったからに違いない。それに、この先似たような機会があったとしても、いきなり声をかけることなど逆に失礼だろう。
 あきらめモードになって溜息をつく。が、店長は「そんなことないかもよ」と笑った。

「えっ?」
「何度かコーヒーを買いに来たもの。会計のついでにだけど、結構気さくに話してくれるし、感じのいい人だったわよ」
「ほんとですか?」

 だったら、少しは話すチャンスがあるだろうか。名乗ってお礼だけでも言えれば、それで十分なのだから。
 昼食を食べ終え、店長とふたりで一度店を出てビルのロビーへ向かう。お手洗いがカフェの店内にはなく、ビルの一階ロビーにしかないからだ。
 そこで簡単に化粧直しをして、店に戻った時だった。

「立河さん、立河さん!」

 興奮気味に私を呼んだのは、今日は中番で出勤の香山かやまさんだ。私よりふたつほど若い子だけれど、気軽に接してくれるので話しやすい。その彼女が、やたら慌てて私を手招きしていた。

「どうかしたんですか?」
「立河さんって、王子と知り合いなんですか!?」
「えっ」

 頬を紅潮こうちょうさせて勢いよく食いつかれ、展開がつかめずに首をかしげる。

「知り合い、というか……私の幼馴染おさななじみの知り合い?」

 結局颯太くんはなにも教えてくれなかったから、そこもさだかではないのだけど。

「香山さん、どうして急にそんなことを?」
「今! 王子がコーヒーをテイクアウトしに来られて、『立河茉奈さんはいらっしゃいますか』って! 名指しですよ名指し!」
「そうなの?」

 しまった。化粧直しをもう少し早くすませていれば、会えたかもしれない。だけどまさか、向こうから私に接触してくるとは、まったく予想していなかった。

「なんだろう……」

 会えたらお礼を言いたい、とは思っていたけれど。
 柏木さんのほうも、私になにか用があるのだろうか。それとも採用した手前、一応どんな人間か会っておきたいということだろうか。

「話がしたいって。また来るって言ってましたよ。ほんとタッチの差でした」
「そうなんだ……ありがとう」

 会いたいような怖いような、どちらともいえない緊張感に鼓動こどうが速くなった。


 それから数日は、王子――もとい柏木さんが来店することはなく、日々の業務に追われていた。
 あれからどうしても気になって、颯太くんに電話してみたのだが、彼も仕事が忙しそうで時間が合わず、メッセージのやりとりしかできなかった。

『私を紹介してくれた人、取締役って言ってたよ。どういう知り合いなの?』
『会った?』
『会えてはいないけど』

 このあと返信がくるまで少し間がいたのだが、それは単に忙しかったからなのか返事に迷ったからなのか、私にはわからない。

『同級生だよ。こないだ同窓会で久しぶりに会った』

 そんなふうに簡単に返事があって、それ以上は聞けなかった。
 ――颯太くんの同級生に、柏木なんて人いたかなあ。
 学生の頃の記憶をたどる。颯太くんと私は学年が違うけど、仲がよかった人の名字くらいは聞き覚えがあってもおかしくない。
 だけどどれだけ記憶をたどっても、柏木という名字は出てこなかった。

「立河さん、二番テーブルにラテアートふたつお願いします」
「はいっ」

 店ではラテアートを任せてもらえるようになって、とにかく今は仕事が楽しくてしょうがない。
 二番テーブルに目をやると、可愛らしい雰囲気の女性のお客様がふたり座っていた。
 ――なににしようかな。ハートとフラワーリーフがいいかな。
 お客様の希望に合わせてできるようになれたらいいな、とか、やってみたいことはいろいろある。
 クマやスワン、キャラクターものも描いてみたい。
 けれど今日のところはフラワーリーフに小さなハートを作って、香山さんにテーブルへ届けてもらった。

「わ、可愛い!」

 テーブル席からはずんだ声が聞こえ、嬉しくてつい頬が緩む。

「評判いいですよね、ラテアート! 今までうちでは出してなかったけど、ああいうの聞くと嬉しくなっちゃいますね」
「うん。私もそれが嬉しくて練習しはじめたの。香山さん、休憩だよね。ラテれようか?」
「クマさんとかできます?」
「できるよ」

 エスプレッソマシンの前に立ち、彼女用のカフェラテをれていると、感嘆の言葉と溜息が聞こえてきた。

「はー……かっこいいですねえ」
「香山さんも練習してみる?」
「はい、いつか。今はこうして見てるだけで楽しいです」
「あはは。もうちょっと待ってね」

 カクテルピンを使い、泡の表面を細かく突いて線を描く。早くしないと、コーヒーがめてしまうし泡もへたってしまう。
 カップに視線を落として集中していると、「……あ」と香山さんが小さな声をもらした。
 それからすぐに、「立河さんっ」と興奮した声で話しかけてくる。

「うん? ちょっと待ってね、もう少し……」

 手元ばかり見ていたから、私はまったく状況を把握していなかった。

「立河さんってば!」
「あっ!」

 香山さんが突然肩をつかむから、手元がくるってクマの目が片方、吊り目になってしまった。

「あぁ……ゆがんじゃった。どうかしたの?」
「クマさんどころじゃないですってば、あれ!」

 やっとカップから顔を上げると、香山さんがひどく高揚こうようした様子で私のうしろを指さしている。

「え?」

 彼女の示す方向へ目をやった。
 店長がテイクアウト専用の注文カウンターで接客をしていて、ちらっと私のほうへ視線を投げる。
 そしてわずかに遅れて、お客様らしいスーツの男性もこちらに目を向けた。ぱちっと目が合った途端、とくんとひとつ、心臓が跳ねる。
 ――あの人だ。
 怖いくらいに整った顔に、今日は優しげな微笑みをたたえている。
 間違いない。面接の日、見つめ合いながらすれ違った、あの人だ。

「あれが王子ですよ! 柏木さんです!」

 香山さんの声はボリュームを抑えながらも、興奮気味だった。
 それを聞きつつ、私の目はすっかり彼にくぎづけだ。その笑みが明らかに私に向けられ、深みを増した時、ぼぼっと顔から火が出そうになった。
「立河さん!」と、店長に呼ばれて思わず肩が跳ねる。
 あの日と同じように、すっかり彼の視線に捕まってしまっていたのだ。

「柏木さんが、立河さんと話したいって」

 一瞬、店内がざわめいた。テーブル席のほうへ目をやれば、スーツの女性が数人、ひそひそと何事かを話しながらこちらの様子をうかがっている。
 さすが王子。カフェの店員にただ声をかけるだけで、こんなにも注目されるなんて。
 気詰まりじゃないのだろうか。
 そんなことを思いながら「はい」と返事をして、店長と入れ替わるように柏木さんに近づいた。目が合うと、ふたたび彼が柔らかく微笑む。その微笑みの、まあ美しいこと。

「立河茉奈です。このたびは大変お世話になりました」

 コネ入社に手を貸したなどと周囲に思われたら、きっと迷惑だろう。そう考え、詳細はあえて言葉にせず、お礼だけを述べて丁寧に頭を下げる。
 すると頭上から、くすりと含み笑いが聞こえた。

「俺が誰だかわからないか」
「え?」

 驚いて顔を上げると、彼はまっすぐに私を見ていた。

「あの……面接の日にロビーで会った方、ですよね?」

 きっと、これが正解ではないだろう。そう思いつつも、今はその記憶しか出てこない。

「そうだな。けど、それよりずっと前から俺はお前のことを知っている」

 案の定、不正解だった。
 見れば見るほど知らない人で、ただ困惑する。けれどじっと目を見つめているうちに、ほんの少し、なにかがちくりと記憶を刺激した。
 なんだろう。確かにどこかで会ったことがあるような、そんな気はする。だけど、思い出せない。芸能人に似ているとか? 確かに俳優だと言われても納得してしまう顔立ちだが……それもなんだかしっくりこない。


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