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1巻

1-2

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「本当に、朝羽は固いな。ちょっと遅れるくらいの方が、社員のみんなが伸び伸び発言できて喜ばれるんだが」

 朝の砥上はいつもこんな様子だが、会社に入れば一分いちぶの隙もない立ち居振る舞いになるのだから、さすがといったところだ。

「何を言ってるんですか、社員に示しがつきません。ほら早くしてください」

 急かすようにコーヒーカップを片付ける。キッチンの流し台で水洗いして食洗機に入れていると、しみじみとした口調で砥上が言った。

「朝羽はいい嫁さんになりそうだ」

 悠梨の胸はちくりと痛む。その痛みを、打ち消すように悠梨は笑った。

「社長もご結婚されたらいかがですか。そうしたら私の仕事も楽になります」

 というより、社長が結婚してくれない限り、悠梨にはできそうもない。本当に、早く相手を決めて結婚して自分にとどめを刺していただきたい。しかしそんな思い空しく、当の本人にはまるきりその気がないようだ。

「結婚、ね。考えたこともないな。相手もいないし」

 ひょいっと肩をすくめた様子に、酷い人だと呆れた。それなら、今付き合っている黒髪ロングの女性はいったい、彼にとってなんだというのだろう。

「考えてください、ぜひとも……。お待たせしました。先にオフィスに降りますね」

 水道のコックを下げて水を止めた。これ以上、この話を続けたくはなかった。


 砥上ホールディングスは、日本を代表する大手不動産会社だ。不動産経営を土台に、リゾートや都市開発など海外まで手広く事業を展開している。本社は四十階建ての高層ビルで、一階から三階まではショッピングセンターとレストランフロア、四階から九階までが企業向けのテナントとなっており、十階から十三階までが砥上ホールディングスのオフィスフロアになる。十四階から最上階までは高級賃貸マンションとなっていて、このビルそのものが砥上のものだ。
 砥上ホールディングス社長、砥上一矢いちやはそのマンションの一室を自分の部屋にしていた。つまり出勤にはエレベーターを降りるだけ、という便利さだ。
 悠梨はもちろん、別のマンションを借りている。毎朝出勤前にエレベーターでオフィスの階を通り過ぎて砥上の部屋に行き、彼を起こしてから先にオフィスに降りる。わざわざ時間をずらして先に出るのは、他の社員のあらぬ誤解を招かないためだ。
 砥上は国内から海外まで出張が多い。それにも、よほど必要がない限り同行はしないようにしている。周囲の誤解を避けることはもちろん、自分自身を戒めいましるためにも、適切な距離感を保つ努力をしていた。
 本当は、毎朝砥上を起こしに行くのも控えた方がいいのだろう。悠梨もわかってはいるのだが、砥上がすっかりそれに慣れていて、いまさら放置もできない。そうしてずるずると月日だけが過ぎてしまった。


 今日も分刻みのスケジュールをこなし、休憩は移動の車中、最後は取引先CEOとの会食というハードな一日が終わる。
 社長付きの運転手が、このまままっすぐ帰社でいいのかと尋ねてきたので悠梨は「お願いします」と答えた。間もなく車はごくごくわずかな振動と共に走り出す。

「お疲れ様でした」

 後部シートで隣に座る砥上に向けて軽く目礼すると、背中をふかふかのシートに預けた。いつもは最初の一杯ぐらいしか飲まないのだが、今夜は相手が連れてきていた男性秘書に、グラスの半分も減らないうちから酒を注がれて断りづらく、飲まされ続けてしまったのだ。
 ため息を吐くと自分の息からアルコールの匂いがして、少し気分が悪い。
 すると突然、横の髪をくすぐられたような感覚があった。

「大丈夫か?」
「え……」
「いつもより随分飲まされていただろう」

 首を傾げて隣を見た。眉をひそめた砥上が、横髪をすくい上げて心配そうに悠梨の顔をのぞき込んでいる。思っていたより近い場所に砥上の顔があって、悠梨の思考回路はフリーズした。

「朝羽?」
「……だ、大丈夫です。問題、ありません」

 ゆっくりとした口調で、どうにか答える。心臓はとくとくと弾むように早鐘を打っていた。
 ――び、びっくりした……不意打ちは勘弁して。
 悠梨の体調を気遣って顔色を見ているのだろうが、近すぎる。余計に具合が悪くなりそうだ。好きな男性のドアップが予告なく目の前にくれば、誰だって心拍数がおかしくなる。

「本当に? ああいうときは、ちょっと苦しそうな顔でもして見せればいい。そうしたら俺も助け船を出しやすい」
「そんなわけにはいきません。大事な取引先なんですから」
「だからって無理に飲まされる必要はないと言ってる」
「平気です、本当に」

 だから早く離れてほしい。そう気持ちを込めて微笑んで見せる。悠梨はアルコールが顔に出にくいたちだ。そのおかげで本当になんともないように見えたのだろう。
 かたくなな悠梨の態度に若干呆れたような表情を見せながらも、砥上はようやく離れて正面を向き座りなおす。悠梨はほっと緊張を解くと、ぼそっと砥上に呟かれた。

「意固地だな」
「何かおっしゃいました?」
「いいや。……朝羽は、顔に似合わず案外飲めるんだな」
「童顔だからということでしたら、これでも二十七です。社会人六年目です。お酒の付き合いくらいできます」

 どうせまた、色気がないだの子供っぽいだのと言われるのだ。悠梨もふいっと正面を向いて視線を逸らした。
 二十代も後半に差し掛かれば、少しは落ち着いた大人の女性に見られるようになるだろうと思ったら、残念ながらこの三年、童顔は変わらなかった。砥上に限らず、からかわれるのには慣れている。

「たくさん飲むようには見えないと言いたいだけなんだが」
「色気がないだの堅物だのお子様だの、散々言われてきたものでつい」

 おかげ様で、砥上に近づきたい女性たちからは『あなたが秘書でよかった』と安心される始末。仕事の邪魔をされなくて助かるが、非常に複雑だ。
 心の中でこっそり拗ねていると、くっくっと喉を鳴らすような声が聞こえて、ふたたび隣に視線を向ける。砥上が肩を揺らして笑っていた。

「堅物には同意だな。男の気配もない。たまには息抜きくらい……」
「仕事が忙しくて遊ぶ余裕もないんです!」

 本当に余計なお世話だ。仕事をしていれば砥上の側にいられるし、最初に比べて今は彼の助けに多少なりともなっているはず。
 それに、その仕事が忙しいのは返せば砥上が忙しいせいだ。男の気配がないのは好きになってしまった人物が砥上だからだ。それなのにその本人に男の心配をされたものだから、腹が立ってついうっかり口を滑らしてしまった。

「それに、好きな人くらい、いますから!」

 言い切ってから、しまったと後悔した。慌てて口を閉ざして俯く。
 まさか自分のことだとは思わないだろうが……またからかわれる材料を提供してしまった。
 しかし、あるはずの砥上の反応がない。笑い声も聞こえない。
 そっと顔を上げてみると、砥上はこれ以上ないほど驚いた顔をして悠梨を凝視していた。

「なんですか、その顔。私だって人並みに恋愛くらいします」

 酷い。あんまりだ。砥上に恋愛すらしない女だと思われてる。
 腹が立つのと恥ずかしいのとで、悠梨の顔が真っ赤に染まった。呆けた顔をしている砥上を睨み、口を真一文字に結ぶ。彼氏がいると言ったわけでもないのに、ここまで意外そうな顔をされるとは。さすがの悠梨もムッとして唇を尖らせた。

「それは知らなかったな……誰だろう?」
「言うわけありません」
「ということは俺が知っている男かな」
「だから、言いませんてば」

 よほど意外だったのか、砥上はやけに食いついてくる。悠梨は少しでも距離を取るように、お尻を横にずらしてドアへと身体を寄せた。
 砥上の表情が、驚きから意地悪そうな笑みに変わる。とてつもなく、嫌な予感がした。

「もう、いいじゃないですか。それより、明日のスケジュールですが」
「明日のことは明日に聞く。それより、少し付き合わないか」
「は?」

 ぴょんと会話が飛んだような気がして、間抜けな声と顔を隣に向けた。何に付き合えと言うのか。
 砥上がひじ掛けに片腕を載せ、首を傾げて悠梨を見つめる。その仕草がまた男の色香を空気ににじませていた。

「飲みに行こう。俺は少し飲み足りないくらいだった」
「え、い、今からですか?」

 絶対、これ、からかう気満々だ。

「それほど遅くならない。最上階のバーがあるだろう」
「え、えええ……」

 最上階のバーといえば、砥上のオフィスビルの最上階にあるバーのことだ。確かにどうせ一度はオフィスに戻るつもりだったため、他の店に誘われるよりは時間もかからなくていい。しかし、これ以上この話を深追いされると、ボロが出る。それが問題だ。

「プライベートで飲まれるなら、彼女に連絡されたらいいじゃないですか」

 好きな男に他の女性を誘えと促すしかない自分の恋心が、少し情けない。普通に誘われたなら、コソコソ喜びながらも秘書の顔をして、素直に受け入れられたのに。今の状況からだと間違いなく話題は悠梨の『好きな男』に限定されてしまう。それは絶対に、避けなければ。
 砥上の今の恋人は付き合って半年ほどじゃなかっただろうか、と悠梨は記憶している。黒髪ロングの綺麗な人だ。一度砥上を訪ねて来て、会社の近くで悠梨も会ったことがある。年は悠梨とそう変わらないだろうが、落ち着いた雰囲気の女性だった。
 いつもそうだ。砥上の恋人は、髪型や顔立ちは様々だが、しとやかな大人然とした女性ばかり。そういえば背も高い人が多いだろうか。どこまでも悠梨とは正反対のタイプばかりだ。つまり、そういう女性なら食指が動くってことだろう。
 ツキンと胸が痛む。しかし、今回もまた、長くは続かなかったらしいと砥上の返事で知った。

「別れたよ。半月ほど前かな。だから、残念ながら今は誘える相手がいないんだ」
「えっ、そうなんですか。……それは寂しいですね」

 砥上が振られるのはいつものことだ。女性からすれば、結婚を望まない砥上の態度から将来が見えずに不安になるのだろうと大方の予想はついた。
 もっと言えば、砥上自身が、女性の方から離れていくように仕向けているのではないかと悠梨は疑っている。
 いつも通り様子の変わらない砥上に安堵して、それから自己嫌悪した。だからか、素っ気ない声しか出なかった。

「もう少し同情してくれないか、振られたんだ」
「傷ついているようにはお見受けしませんでしたので」

 ちらりと砥上の横顔を確認すると、薄っすらと口元に笑みを浮かべている。むしろ、彼女は大丈夫なのかと、そちらの方が心配だ。

「飲めるならたまには付き合え。傷心男の愚痴ぐちくらい聞いてくれてもいいだろう?」
「振られて愚痴ぐちなんかおっしゃったことありました?」

 いつだって、別れても憔悴しょうすいすることなく、こちらが気付かないくらい自然に仕事をこなしているくせに。
 本当は愚痴ぐちを言いたいのではなくて、悠梨に吐かせたいに決まっている。好きな男が誰なのか。
 横目で砥上を睨んだが、やはり楽しそうな表情を変えない。今夜の酒の相手は悠梨、と彼の中では決定事項なのだろう。

「……わかりました、少しでしたら」

 こういう表情のときの砥上は、何を言っても聞かない。それをよくわかっている悠梨は、がっくりと項垂うなだれる。酔ってはいないと平気なフリをした手前、逆に断ることもしづらくなって仕方なく頷いた。


 このバーに客として訪れたのは、悠梨は初めてだった。至急の伝達事項があり、すでに退社してここで飲んでいた砥上を追って、足を踏み入れたことは何度かある。そのときには、彼の隣には自分ではない女性がいたわけだが。

「すごい眺め……!」

 壁一面がガラス窓になっており、夜景がずっと遠くまで広がっている。今宵は天気がいい。少し欠けた白い月が正面にあり、自分が月と同じくらい高い場所にいるような錯覚におちいってしまう。

「初めて来たわけじゃないだろう?」
「こんな風に客席に座ったのは初めてです」

 バーカウンターではなく、窓に向かって据えられたゆったりと幅広いソファに座っている。ふたり掛けなのだろうが、砥上とふたりで座っても圧迫を感じない程度の空間はとれるくらいの余裕があった。
 窓との間に膝より少し上の高さのローテーブルがあり、そこに淡いピンク色のカクテルが置かれている。砥上の手には洋酒のロックグラスがあり、揺らすたびにカランと氷が音を立てていた。
 とても、様になっている。砥上を時々盗み見しつつ、悠梨は正面の夜景に見惚れるフリをしていた。どうしてこんな状況になったのだろう、と緊張に震える手を膝の上で握りしめながら。
 てっきりバーカウンターに座るのかと思っていたのだ。それならバーテンダーも近くにいるからこんなに緊張することもなかったのに、どうしてテーブル席なのだ。
 カウンターと違い、隣の席とも距離がある。話し声は多少聞こえるが、店内にはクラシック音楽が流れていて、会話の内容までははっきりとはわからない。雰囲気として、まるで恋人同士がふたりきりの時間を楽しむような空間だった。

「で。今回は一体どうやって振られたんです?」

 先手必勝とばかりに砥上の失恋話を切り出した。ついでにこの妙に色気のある雰囲気も振り払えることを祈って。

「ん?」
「結婚を迫られて冷たく接したりしたんでしょう」

 大会社の御曹司でこの容姿だ。一度恋人として手に入れたなら、なんとしてでも結婚まで持ち込みたい、そう恋人が願っても致し方ないだろうと思う。

「冷たくしたつもりはなかった。結婚をほのめかされたから、その気はないと言った。納得してくれていたと思っていたんだが……そうではなかったようだな」

 砥上が弱ったように顎を片手で撫でる。

「やっぱり結婚してほしいって?」
「いや、ほかに好きな男ができたと言われた。その男と結婚するらしい」

 なるほど、だから砥上は振られたと表現したのだろうが、悠梨からすればそうは思えなかった。彼女はきっと、砥上に止めてもらうことを期待したのだろう。賭けに出たのだ。
 砥上は、それにどう対応したのだろう。そこはかとなく嫌な予感はしたが、仮にも半年付き合った女性からの三行半みくだりはんだ。普通なら少しは慌てるところだが……

「で、彼女になんて言ったんです?」

 おそるおそる尋ねる。
 もしかすると、一見そうは見えないが実は応えているのかもしれない。だから珍しく悠梨を飲みになど誘ったのだろうか。恋人に去られて落ち込むような、人間味のある一面を見てみたい気もする。しかしその反面、他の女性のことで傷つくところは見たくないとも思う、複雑な心境だ。しかし返事は、大方悠梨の予想通りだった。

「結婚式にはうちの会場を使うか、と聞いたら殴られた」

 砥上の自社ビルには、結婚披露宴などに使えるイベント会場もある。どうやら、そこを使って式を挙げるかと聞いたらしい。
 悠梨は半目で砥上を見る。彼はひょいっと肩をすくめてから、グラスに口を付けた。やはり見た通り大して弱っていないらしい。黒髪ロングの彼女への同情が生まれた。

「殴られて当たり前ですね」

 頭痛を覚えて、額に手を当てた。予想はついていたものの、これは酷い。せいぜい『お幸せに』とかその程度だろうと思っていたのに。

「そうか? 何かと融通してやれるんじゃないかと思っただけなんだが」
「ですから、そういうところがですね……」

 祝いがわりにとでも言いたいのだろうが、違うのだ。彼女は止めて欲しかったのだ!
 説教してやりたいところだが、そのことに気が付かない人ではないと悠梨は思う。彼はもしかして、わざとそんなことを言ったのだろうか。
 穏やかな微笑みを浮かべた横顔からは、何もうかがえなかった。グラスを手にゆったりとソファの背もたれに身を預ける。スーツを少しも着崩さないままだが、足を組んで居住まいを崩しているところに、彼が仕事中よりも少しばかり気を緩めていることが見て取れた。表情も若干、柔らかい。
 いつもよりも余計なことを言ってみてもいいような気がした。

「彼女はきっと、社長の気持ちを試したんですよ? わかっているんですよね?」

 そう言うと、窓の方を見ていた砥上の目線が悠梨に向けられた。次の答えがあるまでのほんのわずかな間、視線が絡まった。とくん、とひとつ胸が高鳴る。それを始まりに、心臓が徐々に鼓動を速めた。

「そうかな、気付かなかった」
「嘘ですよ」
「そうだとしても心が動かなかったから仕方がない。それに結婚はしないと俺は最初から言っている。不実なことはしていないつもりだけどな」

 確かに、それはそうらしいのだが。これまで付き合ってきた恋人たちとはいずれも、最初から結婚はしないという前提であったらしいし、悠梨が把握している限りではふたり以上同時進行ということもなかった。
 いやしかし、それを誠実ととらえていいのだろうか。唸りながら悠梨は正直に言った。

「何が、とは上手く口では言えないのですが、腑に落ちません……」
「そうか?」

 眉根を寄せる悠梨を、砥上はくすくすと笑いながら見つめる。見られている、と感じるたびにさっきから胸の鼓動がうるさくて、息苦しくなる。
 だから、微妙に目線を逸らしていた。まっすぐ顔を見るのではなくて、少し耳の近くを見てみたり、視線を落としてネクタイの模様を睨んでみたり。

「大体、どうして社長は結婚しないんですか」

 選び放題、引く手数多あまたの優良物件がいつまでも独り身だから、泣く女性が増えるのだ。やはり彼は、さっさと誰かひとりを決めるべきだ。

「結婚したいと思う人に出会ったら、すると思うよ」
「え、そうなんですか」

 意外だった。彼は、結婚はしないと決めているわけではないらしい。

「そうだが? 絶対結婚はしないと言ったことがあったか?」
「いえ……あれ? でも、そう宣言してから付き合っているんですよね?」
「最初に宣言しておいた方が無難だからな。何度かごねられてね、凝りてる」
「ただの予防線ってことですか? そのうち、もしかしたらその気になることも?」
「どうだろう……そもそもその気になることがあるのか、想像がつかないな」

 お酒のせいだろうか。悠梨の突っこんだ質問に、砥上も意外と素直に答えてくれる。
 結婚する気になるかどうか、出会った相手次第ということか。じゃあ、とっくに出会って恋愛対象外の認定をされている自分には、とうてい無理な話ということか。
 そのことに気が付いて、ずずんと気分が落ち込んだ。とっくに諦めているから早く結婚してほしいなんて思っていたが、どうやらほんのちょっとまだ望みを持っていたらしい。それがたったいま、砕かれてしまった。
 やけ気味に、グラスをぐいっとひと息にあおる。

「朝羽は結構いける口なんだな」

 すぐに砥上が店員を呼び、新しいカクテルをオーダーしてくれた。
 さすがにこれ以上は、明日に差し支える。勢いに任せてグラスを空けてしまったが、後は新しくきたカクテルをちびちびと飲んで時間を稼ぐことにした。
 ピンク色の可愛らしいカクテルの名は、『ピンクレディ』だ。あまり飲んだことのないカクテルは、ほんの少しだけ自分を可愛らしく演出してくれる気がした。

「さて、俺は白状したが」

 カクテルに見惚れていた悠梨は、顔を上げるとびくっと肩が跳ねた。にっこりとこちらを見て笑う砥上に、嫌な予感がしたのだ。

「朝羽は、その男と結婚するつもりでいるのか」
「は? なんの話ですか?」

 視線を宙に彷徨さまよわせてとぼけてみるが、もちろんそれで逃がしてはもらえない。

「好きな男がいるんだろう。結婚を考えるくらいの相手なのか」

 その男はあなたですよ。
 そう言ってやりたい。しかし、もちろん言えるわけもない。玉砕してその後の関係がぎくしゃくしては、仕事がやりにくくなるのだから。

「違います。私のことはいいんです、そもそも付き合ってもいないんですから!」
「そうなのか。どうしてだ? 気持ちを伝えればいいだろう」

 ――ああ、もう、そんなグイグイ来ないでってば。
 砥上にはまるきり悪気はないのだが、本人に告白を勧められるこの状況は、悠梨にとって情けないやら惨めやら、腹が立つやら、だ。なんだか泣きたくもなってくる。

「そんな簡単な話じゃないですから」
「ああ、告白する前に周囲を固めているということか」
「……社長は私をどういう人間だと思っているんです?」

 なんでそういう発想になるのか。そういう人間だと思われているのだろうか?
 がっくりと肩を落とし脱力する。
 やっぱり、失敗だった。社長とこの手の話をするのは、ダメージ必至だ。
 好きな男がいるなどと、口を滑らせたりするんじゃなかった。

「朝羽が、というか女性はとかく、そういう画策をする生き物だ」
「一体どんな経験してきたんですか。そんな、裏でこそこそする人間ばかりじゃありませんから」

 呆れてそう言ったが、砥上は納得しかねる顔をしている。
 砥上の持つ社会的地位や資産が、そういう女性ばかり引き寄せたのかもしれないが、その経験から実は砥上は女性不信なのだろうか。本人も気付かない程度の。

「……まあ、そうだな。朝羽は確かに、そんなイメージではないな」
「そう言っていただけましたら嬉しいです。そういう女性もいますので、社長も諦めずに婚活でもしてみてください」

 よし、上手い具合に話を終わらせた。そう悠梨は思ったが、残念ながら簡単には逃がしてはもらえない。

「今は朝羽の話だろう。それなら告白しないのは何か理由があるのか。社内の男か?」
「好きだからって、そんなほいほい告白できませんよ! 失敗したらとか色々悩むものでしょう?」

 砥上にはそんな恐怖は縁がないのかもしれない。けれど普通は、告白というのは失敗したあとのリスクが付いてくる。
 それだけ勇気がいることなのに、砥上には理解できないようだ。

「失敗……振られるということか? 相手に好きな女でもいない限り、朝羽なら大丈夫だと思うが」
「根拠のないことを言わないでください、もう」
「朝羽はいい女の部類に入る。仕事もできるし、性格も穏やかで誠実だ」

 突然の褒め言葉だった。だからはじめ、その言葉の意味が頭に入ってこなくて、数秒ぽかんと砥上を見つめていた。
 それから徐々に意味を理解して、顔が熱く火照っていく。少しおさまりかけていた心臓が、また忙しなく動き出した。

「な……な、何言って」
「大抵の男ならOKすると思うが」
「しゃ、社長は私のこと馬鹿にしてたじゃないですか!」

 それは、社長の秘書に決まった日のことだ。『食指が動きそうにない』と言われた。狼狽うろたえて、また余計なことを言ってしまった。これでは、傷ついてましたと言っているようなものだ。
 はっと口元を押さえたが、砥上は眉根を寄せて首を傾げた。

「馬鹿にした? 俺が?」

 まさか、覚えていないらしい。

「なんでもないです、忘れてください」
「いいや、これは放置できない。覚えはないが本当なら謝罪したいし、誤解なら解くべきだ」

 突然、砥上の表情が真剣なものになった。グラスをテーブルに置いて、少しだけ悠梨に上半身を乗り出すようにして、表情をうかがいにくる。

「大丈夫ですから、本当に!」

 赤くなった顔を背けて隠しながら言い返すが、砥上は放置できない問題だと考えたようで、引く様子がない。
 いやです、言いたくない、いいや聞かせてくれ、と言い合って、折れざるを得なくなったのは悠梨の方だった。


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