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1巻
1-3
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そう励まされて、いそいそと彼女は来栖の隣に座る。来栖もこれ以上波風を立てては、周囲に迷惑をかけると考えたのだろう、何も言わなかった。
「来栖さん、ちょっと怖いですね」
「いやでもあれは、来栖くん悪くないでしょ。違う部署の飲み会に彼氏がいるからって来る?」
来栖の不機嫌っぷりに、さっきは戸川さんを非難していた後輩の一人が少々同情的になった。しかし和田先輩ともう一人の後輩は容赦ない。
「周りの男の人が情けないです。あんな風にご機嫌取っちゃって」
「あれは、飲み会の空気を悪くしないための気遣いでしょ。……戸川さん、勢い込んで来た割にびびっちゃってるしね」
和田先輩が言ったとおり、戸川さんはどこかおどおどとして見えた。不機嫌さを隠さない来栖の表情を窺って、小さくなっている。あの日、ミーティングルームで来栖を引っ叩いた人とは思えない。戸川さんがビールを注いだり話しかけたりすればする程、来栖の顔から表情が消えていく。
心配のあまり、つい二人の様子をじっと見つめていたら、来栖とばちっと目が合った。
な、何?
見てたのはこっちだけれど、数秒視線が動かなかった。それから来栖は、面倒くさそうに眉を寄せた後、ぷいっと戸川さんのほうを向いた。
何か、言いたそうだったけれど……来栖はそれきりこっちを見ることはなかったので、首を傾げつつ私も視線を戻す。
「まあ、あの二人のことはいいんじゃない。こっちはこっちで飲もう」
あんまり気にし過ぎるのも、向こうにとってはいい迷惑だろうし。
「でも、知らないところで陰口を叩かれてるなんて腹が立ちません?」
「まあでも、実際に見たらわかるでしょ。私と来栖の間に同僚以上の感情はないって」
それに、私が何か反応すれば、余計に相手を刺激しそうだ。知らないフリでいるのが無難だろう。
「それよりさ、今考えてる企画のことで――」
やや強引に仕事の話を持ち出し、来栖と戸川さんの話は終わらせることにした。
座敷内は各自勝手に盛り上がり、少々ビールを飲み過ぎた私はお手洗に立った。
「広瀬さんっ」
トイレを出てすぐのところで声をかけられ、驚いた。
「戸川さん?」
戸川さんが、にこにこと私に向かって笑っている。
「あ、お手洗ですか? どうぞ」
道を塞いでいた私は、少し身体を斜めにして彼女に道を開けた。だけどトイレに用はないらしい。
「広瀬さんとお話ししたくて」
……なぜに。
笑うしかなく、首を傾げていると、彼女がぺこっと勢いよく頭を下げた。
「先日はすみませんでした! 恥ずかしいとこをお見せしちゃって」
それは間違いなく、ミーティングルームでのあの出来事のことだろう。
「ああ、いや。別に?」
戸惑いながらも気にしてないと手を横に振ると、彼女は本当に申し訳なさそうに肩を竦めて小さくなった。
「ほんとにごめんなさい、感じ悪かったですよね、私」
「大丈夫よ、全然。彼氏がクールだと色々心配になっちゃうよねぇ」
「そうなんですよぉ! あの日だって、せっかく和真さんの誕生日を一緒にって思ってたのに、忘れてたなんて……」
「え、あなたの誕生日じゃなくて?」
「違います! 和真さんの誕生日です!」
私はてっきり戸川さんの誕生日を忘れたのかと思ってたよ。だとしたら、来栖は自分の誕生日をすぽんと忘れて仕事を入れちゃっただけで、平手打ちされたってこと?
いや、でも彼女はお祝いしたくて色々準備してたのかもしれない。うん。きっとそうだ。
「あんまり、和真さんが冷たくて……もしかしたら他に女の人がいるんじゃないかとか、疑っちゃって」
「あー、不安になるよね。うん」
うるっ、と目を潤ませた彼女を見ると、なんだか気の毒になってつい同調してしまう。
「ありがとうございます、広瀬さん優しい……」
「いや、そんなことないけど。でも、来栖くん、なんだかんだでいい奴だし、そんな二股とかするタイプじゃないと思うよ」
むしろ面倒くさくてしないタイプだろう……というのは、心の内にしまっておいた。
「勇気を出して謝りに来てよかったです。これから、色々相談に乗ってもらえますか?」
「ええっ!?」
「お願いします、和真さんと親しい同僚で女の人って広瀬さんしか思い浮かばなくて……最近、同期会とかでよく一緒に飲んでますよね?」
「あー、うんまあ。あ、小野田も一緒にね。商品開発部の」
両手をぎゅっと胸の前で組み、目を潤ませて詰め寄られる。だけども、来栖の性格を考えると、これはきっとまずい気がする。
絶対嫌がりそう、と思っていたら……
「菜穂。何やってる?」
眉を顰めた来栖が、座敷からこちらへ歩いて来るのが見えた。私をちらっと見た後、その目が戸川さんに向かう。
「もう帰れと言っただろう」
「ちょっと、この間のことを謝ってただけよ。すぐ帰るから」
どうやら来栖に促されて帰るところだったようだ。戸川さんは拗ねた声で答えたものの、中々その場から動こうとしない。その様子に来栖が溜息をつく。
「帰りに寄るから」
「ほんとに? じゃあ待ってる」
それでようやく納得したのか、彼女はちょっと嬉しそうに笑った。
「すみません広瀬さん、お先に失礼します」
「あ、はいはい。お疲れさま」
笑顔で手を振る彼女を見送って、背中が見えなくなったところで、また溜息が聞こえた。
「はは。お疲れ。またけんかになるのかとヒヤヒヤしちゃった」
「あー……最近は、そうでもない。あれから一回話して、あっちも感情的にならないようにしてる。俺も」
「そうなの?」
意外だった。余程私が驚いた顔をしていたのか、来栖はむすっとした顔で言った。
「……いい大人がろくに話し合いもせず感情的になって別れるのはよくないって、お前が言ったんだろ。そのとおりだと思ったから」
ますます驚きだった。まさか私がした忠告を、聞き入れてくれているとは思わなかった。
ぽかんと来栖を見上げていると、仏頂面で睨まれる。
「忘れてたんだろ」
「いや! 違うよ、覚えてるけどびっくりしたの! てっきり適当に聞き流されているものだと」
でも、もしそれで二人の距離が近づくなら、小野田が言っていたようにスタート地点が違っても恋に繋がる希望が持てる。だけど、なんだろう……
来栖の横顔を見ると、やはりどこか冷めていて。
「……それでも、どうにもならないものってあるよな、やっぱ」
「え?」
「温度差って、お前は言ったけど、意識してどうにかなるものでもないんだよ」
知らず、きゅ、と胸が苦しくなった。
どんなに足掻いてもどうにもならない、人の気持ち。
それを責めることはできないのだと、第三者の目で見ればよくわかる。
何も言わない私に来栖が言った。
「そう言ったら、お前は怒るかと思った」
「……どうにもならないものなんでしょ?」
きっともう、来栖の中では答えが出ているのかもしれない。なら、外野がとやかく言うことではないだろう。座敷に戻ろうとして、後から追ってきた来栖に尋ねられた。
「さっき、菜穂になんか言われたのか」
「何も言われてないよ、謝ってくれただけ」
「ならいいけど」
座敷までの通路は狭くて、来栖は私の後ろを歩く。彼女に冷ややかな来栖に、同僚の私が気遣われている状況がなんとなく気まずくて、顔が見えなくてよかったと思った。
私は自分が女だからか、好きになるのがいつも自分からだったせいか、闇雲に相手へぶつけたくなる衝動があることを知ってる。私が会いたいと思う分だけ、相手にも返して欲しいと思うし、それが空回ってどうにもならなくなる気持ちもわかる。
どうして同じように想ってくれないんだろうって、苛立って悲しくなって、頭に血が上る。
だから戸川さんは、来栖の近くにいる私を敵視するのだろう。
そう思うと、彼女に対して本気で怒る気にはなれなかった。
3 別れ方、始め方
朝礼が終わってすぐのことだった。来栖と一緒に課長にちょいちょいと手招きされた私は、中々に屈辱的な仕事を振られた。
秋用のコンビニスイーツの企画を任された来栖のアシスタントを、私に務めろと言うのだ。
私が! アシスタント!
ムカムカしながらデスクまで戻り、乱暴な仕草で椅子に座る。そんな私に対して、来栖は至って涼しい顔だ。得意げな顔をしたり嬉しそうにでもしていれば、少しは可愛げがあるものを。
「ってか、この企画、私も名乗り上げたのに! また負けた!」
「勝ち負けじゃないだろ。いちいち張り合うなよ、めんどくせぇな」
「勝ち負けじゃなかったら何なのよ」
「これまでの実績も鑑みると、俺のほうが今回の企画に合ってただけだ。その次にお前のが合ってたからアシスタント」
……どう考えても勝ち負けの結果でしょうが。
パソコン画面を睨んでキーボードを叩いていると「こっち向け」と言われてつい素直に従う。すると、こんっ、と来栖の拳が眉間に当たった。
「すげーシワ」
「ちょっと、何すんのよ!」
「今日中に、今持ってる他の案件片づけとけよ。夜に打ち合わせするからな」
わかってますよ。
だから今、急いでやってるんじゃないの。
「って、夜?」
「飯食いながらやろう。時間が惜しい」
「え」
飯食いながらって、打ち合わせになんの?
疑問に思うも、来栖はさっさと自分の仕事を始めてしまったので、仕方なく私もパソコンに向き直る。
来栖との仕事以外の案件を粗方片づけ終える頃には、すっかり定時になっていた。打ち合わせはミーティングルームですればいいのに……と思ったが、腹が減ったと言う来栖に連れられて、いつもの居酒屋に行くことになった。
一応ミーティングなので、近頃定位置となっているカウンターではなく座敷を借りる。
なんとなく、居心地が悪い。
「すみませーん、ビール二つと大根サラダ、揚げ出し豆腐と小エビの唐揚げとー、あ、あと枝豆!」
案内してきた店員にまずは適当に注文を済ませてから、仕事の話を切り出した。
「とりあえず去年の秋の傾向とか、参考になりそうな資料を集めるのは私がやるから」
「ああ。俺が持ってる資料とかは、さっきお前のパソコンに飛ばしといたから」
今回の企画は、コンビニ限定で九月に発売される洋菓子で、期間も年内までと決まっている。冬商品と入れ替わりになるから、秋の味覚に絞ってしまったほうが消費者の興味をひくはずだ。
来栖としては、三つくらい味のラインナップを揃えて消費者が選べるようにしたいらしい。
なるほど、それなら、まず一つ買って美味しいと思ってもらえたら、また次の味も試してもらえるかもしれない。
「明日見る。秋っていえば、さつまいもとか栗だけど、私モンブランが好きじゃないんだよね」
「俺も」
「……マジで?」
芋、栗といえばモンブランは鉄板。どうやら秋の企画に向かない二人が選ばれてしまったらしい。先行きがとても不安だ。
「ってか、外には企画書も資料も持ち出せないんだから、打ち合わせは明日でいいじゃん。小野田呼ぼうよ」
仕事の打ち合わせとはいえ、二人きりで飲んでいたことが戸川さんに知られたら、何を言われるかわかったものじゃない。
急いで小野田に召喚のメッセージを送っていると、なんの脈絡もない言葉が飛んできた。
「別れた」
やけに唐突に聞こえる来栖の呟きだったけれど、もしかすると彼は、私が何を気にしているのか察したのかもしれない。
「え……そうなの?」
そう言いながら、本当はなんとなく想像がついていた。先日の、戸川さんが突撃してきた新人歓迎会。あの時には、彼の中で別れることを決めていたんだろうと。
「大丈夫?」
「話し合ってなんとか。お前、菜穂のこと気にしてたから、一応報告しとく」
「うん。……たった一言で簡単に終わりにされるのって、結構しんどいからさー。でも、話し合って決めたんなら、仕方ないんじゃないかな」
責めるつもりはないのだが、ついしんみりとしてしまう。だけど、当人でもないのに私がそんな雰囲気を漂わせていれば、来栖のほうが気まずいだろう。
よし、飲もう。こういう時は酒に限る、と瓶ビールに手を伸ばす。来栖のグラスにも注いでやろうとしたら、彼がじっと私を見ているのに気がついた。
「何?」
「え?」
「じっと見てるから。私、何か変なこと言った?」
すると無意識だったらしい来栖は、はっと目を見張って目の前の枝豆の小鉢に視線を落とした。
「いや。別に」
そう言った彼は、どこかぼーっとして見える。なんだかんだ言いつつ、来栖もダメージを受けているのかもしれない。
さて、何と言って励まそうか。私は言葉を探しながら、来栖のグラスにビールを注いだ。
「……同じ女でも、随分と違うもんだ、と思って」
「は?」
どういう意味よ?
ビールを注ぎ終え、グラスから来栖へと目を向ける。すると彼はテーブルに頬杖をついた姿勢で、また私に視線を戻していた。それで気づいたのだ、彼が誰と誰を見比べたのか。
「ちょっと、総務の花と私を比べないでよ」
こちとらオッサンだなんだと言われて、花になんて喩えられたこともない。それを、あんな可愛らしい彼女と比べられては……いや、相手が誰だろうと比べること自体失礼だ。
「どうせ私は雑草ですよ!」
「別にそんなこと言ってないだろ」
「うそ。しみじみ見てたじゃん。言っとくけどねー、いくらオッサンみたいだからって、これでも女なんだからね。人と比べるなんて無神経だから」
まあ女心のわからない来栖らしいけども、と内心で苦笑しながら自分のグラスにもビールを注ぐ。一口飲むと、少しぬるくなったそれは口の中でひどく苦く感じた。
さすがに女子力の高い戸川さんと比べられたら、傷つく。
私だってその程度には繊細なのだ!
ちょっとは気を遣え、と冗談めかして言ったら、なぜか来栖はむっと不機嫌になった。
「そうだな、比べてた」
「やっぱり」
潔く認めたな。仕方ないから笑い飛ばしてこのまま聞き流してやろうと思ったら、来栖が正面からじっとこちらを見据えてくる。その目が何かもの言いたげで、笑い声は喉の奥に引っ込んでしまった。
どうしてそんなに私を睨むのか。
戸惑っていると、来栖が目を逸らさないままぼそりと言った。
「案外女らしいところがある」
「……うん?」
突然そんなことを言われて眉を顰めたが、どうやら戸川さんのことを言いたいのだろうとすぐに理解した。
いや、案外じゃなくて。戸川さんは最初っから女らしいでしょうが。
日本語の使い方がおかしくないか……と、私はちょっと首を傾げつつ枝豆に手を伸ばす。
それにしても、比べるなと言ったそばから戸川さんを思い起こすということは、やはり来栖もそれなりに考えるところがあるのかもしれない。
しょうがない、聞いてやるかと話の続きを促すことにした。
「女らしいって、やっぱ仕草とかかなあ」
「いや、仕草ってより……優しさが柔らかい」
「ふぅん……抽象的なこと言うね」
戸川さんもいいとこあるんだな。それでもやっぱり、『好き』とは違うということなのか。
「普段からガンガン余計なこと言ってくるのに、人のことになると更に感情的になってもの言うし」
「へえ」
ぷちぷちと枝豆を二つ出して口に入れると、視線を感じた。正面を見ると、また来栖がこちらを見ている。しかも今度は、なにか不可解なものを見るような目つきをしていた。
「何? 聞いてるよちゃんと」
話を聞けと言われてるのかと思ってそう伝えると、来栖は続きを話し始めた。
「他人のことなのに、なんでだよっていうくらい感情移入することがある」
ぐっと上半身をこちらに乗り出してくるところは、なんだかムキになっているように見えて若干引いた。反射的に背を反らし、距離を取る。
「う、うん?」
「……そういう優しさは、女らしいと思う」
「うん……いい子じゃん」
それでも別れるって、いい子であっても恋にはならなかったということなのか。恋とは、やはり奥深い。
切ない気持ちを抱えて来栖を見つめながら、枝豆をまた口に入れる。
「で、菜穂ちゃんの何がいけなかったのよ?」
口をもぐもぐ動かしながらそう言うと、来栖はなぜか愕然とした表情で私を見つめた。
そして数秒後、何かひどく疲れた様子でがっくりと肩を落とす。
「ちょっと、さっきからなんなのよ」
「いや。ここまで言ったら、さすがにわかると思ったのに、予想より遥かに伝わらん」
「意味がわからないんだけど」
その時、からっと襖が開いて、大皿を二つ持った店員が入って来た。
「小エビの唐揚げと大根サラダ、お待たせいたしましたー!」
「ありがとうございまーす。ビール一本追加お願いします」
料理を受け取るついでに追加のビールをオーダーする。
「すいません、冷酒も一つ」
と、来栖が日本酒を頼んだ。
「もう日本酒いくの?」
「悪いか」
「いや悪くはないけど。てか、なんでいきなり不機嫌なのよ」
一分程でビールと冷酒が運ばれてくる。迅速対応がこの店のいいところだ。テーブルの隅にあった小皿を取って、一枚を来栖に渡す。気を利かせて取り分けてあげたりはしない。そういうキャラじゃないし、勝手に飲んで勝手に食うのがいつもの私たちだ。
でもなんか、今日の来栖はいつもと違う。何か言いたげに私の顔を見ては、酒を飲んで溜息をついている。
「ねえ、何か今日変じゃない?」
「俺もそう思う」
あの来栖が素直に認めるくらいだ、何かよっぽどのことがあったのかもしれない。
彼は無言で酒を飲んでいたが、しばらくして冷酒用の小さなグラスを空けて、タンッとテーブルに置いた。
「お前さ」
「うん?」
「……彼氏いたっけ?」
「……いないけど」
どうして今、彼氏の有無を聞かれてるのか。怪訝に思いながら正直に答えると、すぐに失礼な返事があった。
「だよな」
「何、けんか売ってんの?」
『だよな』ってなんだ。やっぱりなってことか。そんなに私は枯れて見えるのか。
「売ってない。普通に聞いただけだろ」
「もう大分前に別れたっきりだよ、残念ながら。恋バナが聞きたければ小野田を待て」
「あいつの恋バナはいつものことだろ。聞き飽きたわ。そうじゃなくて……」
「私はしばらく恋愛はいいわー。小野田がね、言ってたの。『付き合ってから相手を好きになる恋愛だってある』って。でも私は多分そういうの向かないなぁって」
想いを打ち明けても、相手が同じ気持ちでいてくれるとは限らない。それを冷静に受け入れられなければ、きっと私はまた無様な自分を晒してしまう。
そう思ったら、誰かを好きになることがなんだか怖くなってしまった。
……遠い。恋愛が、遠すぎる。
「なんか……両想いなんて所詮フィクションだろ、みたいな気持ちになってきた」
「……フィクションって程、遠くはないだろ」
「遠いって。手が届く気がまったくしないし。そんなことに振り回されるより、仕事に生きたほうがましじゃない?」
そうだ。仕事に生きて来栖に負けないくらいの実績を残したい。できれば、一度でいいから年間実績を追い越してみたい。そうしたら、女らしさなんてなくても自分に自信が持てるような気がする。恋愛だけが人生の全てじゃないのだ。
「仕事、ねぇ」
「今以上に企画案バンバン出してヒット商品作りたいし。来栖に後れをとってばかりなのも悔しいしね!」
「いや、まあそれはそれで頑張れば」
来栖が、そんなことはどうでもいいようにぼそりと呟いた。何やら複雑そうな表情で冷酒のグラスに口をつけている。それが、ずいぶん余裕な態度に見えた。
私には無理だと思われているのだろうか? 私が仕事に生きたところで、来栖の実績を超えることなどできないと高をくくられている?
そうとなれば、俄然張り切りたくなるのが私だ。
「よし。決めた。しばらくは仕事だけでいい」
「は?」
「恋愛しない。仕事に生きる」
今はそれが目標だ、と決意表明してみたら、急に来栖の様子が変わった。
さっきまでは私が仕事を頑張ろうがどうでもよさそうだったのに、焦ったように目を見張っている。私の本気が伝わったのだろうか。
「しばらくっていつまで」
「んー……来栖に勝つまで!」
一度でもいいから来栖の悔しがる顔が見てみたい。別に恋愛をしたくないわけじゃないので、いつまでと期限を設けるなら、来栖を目標にするのが私の中では一番区切りがいい気がした。
それなりに真剣に挑戦状を叩きつけたつもりの私に対し、来栖は呆れたようにぽかんと口を開けた後、一言で私をあしらった。
「尚更遠いだろ!」
「なんだとう!」
失礼な! 死に物狂いで頑張れば、どうなるかわからないでしょ! もちろんこれまでも頑張ってはいたけども!
「来栖さん、ちょっと怖いですね」
「いやでもあれは、来栖くん悪くないでしょ。違う部署の飲み会に彼氏がいるからって来る?」
来栖の不機嫌っぷりに、さっきは戸川さんを非難していた後輩の一人が少々同情的になった。しかし和田先輩ともう一人の後輩は容赦ない。
「周りの男の人が情けないです。あんな風にご機嫌取っちゃって」
「あれは、飲み会の空気を悪くしないための気遣いでしょ。……戸川さん、勢い込んで来た割にびびっちゃってるしね」
和田先輩が言ったとおり、戸川さんはどこかおどおどとして見えた。不機嫌さを隠さない来栖の表情を窺って、小さくなっている。あの日、ミーティングルームで来栖を引っ叩いた人とは思えない。戸川さんがビールを注いだり話しかけたりすればする程、来栖の顔から表情が消えていく。
心配のあまり、つい二人の様子をじっと見つめていたら、来栖とばちっと目が合った。
な、何?
見てたのはこっちだけれど、数秒視線が動かなかった。それから来栖は、面倒くさそうに眉を寄せた後、ぷいっと戸川さんのほうを向いた。
何か、言いたそうだったけれど……来栖はそれきりこっちを見ることはなかったので、首を傾げつつ私も視線を戻す。
「まあ、あの二人のことはいいんじゃない。こっちはこっちで飲もう」
あんまり気にし過ぎるのも、向こうにとってはいい迷惑だろうし。
「でも、知らないところで陰口を叩かれてるなんて腹が立ちません?」
「まあでも、実際に見たらわかるでしょ。私と来栖の間に同僚以上の感情はないって」
それに、私が何か反応すれば、余計に相手を刺激しそうだ。知らないフリでいるのが無難だろう。
「それよりさ、今考えてる企画のことで――」
やや強引に仕事の話を持ち出し、来栖と戸川さんの話は終わらせることにした。
座敷内は各自勝手に盛り上がり、少々ビールを飲み過ぎた私はお手洗に立った。
「広瀬さんっ」
トイレを出てすぐのところで声をかけられ、驚いた。
「戸川さん?」
戸川さんが、にこにこと私に向かって笑っている。
「あ、お手洗ですか? どうぞ」
道を塞いでいた私は、少し身体を斜めにして彼女に道を開けた。だけどトイレに用はないらしい。
「広瀬さんとお話ししたくて」
……なぜに。
笑うしかなく、首を傾げていると、彼女がぺこっと勢いよく頭を下げた。
「先日はすみませんでした! 恥ずかしいとこをお見せしちゃって」
それは間違いなく、ミーティングルームでのあの出来事のことだろう。
「ああ、いや。別に?」
戸惑いながらも気にしてないと手を横に振ると、彼女は本当に申し訳なさそうに肩を竦めて小さくなった。
「ほんとにごめんなさい、感じ悪かったですよね、私」
「大丈夫よ、全然。彼氏がクールだと色々心配になっちゃうよねぇ」
「そうなんですよぉ! あの日だって、せっかく和真さんの誕生日を一緒にって思ってたのに、忘れてたなんて……」
「え、あなたの誕生日じゃなくて?」
「違います! 和真さんの誕生日です!」
私はてっきり戸川さんの誕生日を忘れたのかと思ってたよ。だとしたら、来栖は自分の誕生日をすぽんと忘れて仕事を入れちゃっただけで、平手打ちされたってこと?
いや、でも彼女はお祝いしたくて色々準備してたのかもしれない。うん。きっとそうだ。
「あんまり、和真さんが冷たくて……もしかしたら他に女の人がいるんじゃないかとか、疑っちゃって」
「あー、不安になるよね。うん」
うるっ、と目を潤ませた彼女を見ると、なんだか気の毒になってつい同調してしまう。
「ありがとうございます、広瀬さん優しい……」
「いや、そんなことないけど。でも、来栖くん、なんだかんだでいい奴だし、そんな二股とかするタイプじゃないと思うよ」
むしろ面倒くさくてしないタイプだろう……というのは、心の内にしまっておいた。
「勇気を出して謝りに来てよかったです。これから、色々相談に乗ってもらえますか?」
「ええっ!?」
「お願いします、和真さんと親しい同僚で女の人って広瀬さんしか思い浮かばなくて……最近、同期会とかでよく一緒に飲んでますよね?」
「あー、うんまあ。あ、小野田も一緒にね。商品開発部の」
両手をぎゅっと胸の前で組み、目を潤ませて詰め寄られる。だけども、来栖の性格を考えると、これはきっとまずい気がする。
絶対嫌がりそう、と思っていたら……
「菜穂。何やってる?」
眉を顰めた来栖が、座敷からこちらへ歩いて来るのが見えた。私をちらっと見た後、その目が戸川さんに向かう。
「もう帰れと言っただろう」
「ちょっと、この間のことを謝ってただけよ。すぐ帰るから」
どうやら来栖に促されて帰るところだったようだ。戸川さんは拗ねた声で答えたものの、中々その場から動こうとしない。その様子に来栖が溜息をつく。
「帰りに寄るから」
「ほんとに? じゃあ待ってる」
それでようやく納得したのか、彼女はちょっと嬉しそうに笑った。
「すみません広瀬さん、お先に失礼します」
「あ、はいはい。お疲れさま」
笑顔で手を振る彼女を見送って、背中が見えなくなったところで、また溜息が聞こえた。
「はは。お疲れ。またけんかになるのかとヒヤヒヤしちゃった」
「あー……最近は、そうでもない。あれから一回話して、あっちも感情的にならないようにしてる。俺も」
「そうなの?」
意外だった。余程私が驚いた顔をしていたのか、来栖はむすっとした顔で言った。
「……いい大人がろくに話し合いもせず感情的になって別れるのはよくないって、お前が言ったんだろ。そのとおりだと思ったから」
ますます驚きだった。まさか私がした忠告を、聞き入れてくれているとは思わなかった。
ぽかんと来栖を見上げていると、仏頂面で睨まれる。
「忘れてたんだろ」
「いや! 違うよ、覚えてるけどびっくりしたの! てっきり適当に聞き流されているものだと」
でも、もしそれで二人の距離が近づくなら、小野田が言っていたようにスタート地点が違っても恋に繋がる希望が持てる。だけど、なんだろう……
来栖の横顔を見ると、やはりどこか冷めていて。
「……それでも、どうにもならないものってあるよな、やっぱ」
「え?」
「温度差って、お前は言ったけど、意識してどうにかなるものでもないんだよ」
知らず、きゅ、と胸が苦しくなった。
どんなに足掻いてもどうにもならない、人の気持ち。
それを責めることはできないのだと、第三者の目で見ればよくわかる。
何も言わない私に来栖が言った。
「そう言ったら、お前は怒るかと思った」
「……どうにもならないものなんでしょ?」
きっともう、来栖の中では答えが出ているのかもしれない。なら、外野がとやかく言うことではないだろう。座敷に戻ろうとして、後から追ってきた来栖に尋ねられた。
「さっき、菜穂になんか言われたのか」
「何も言われてないよ、謝ってくれただけ」
「ならいいけど」
座敷までの通路は狭くて、来栖は私の後ろを歩く。彼女に冷ややかな来栖に、同僚の私が気遣われている状況がなんとなく気まずくて、顔が見えなくてよかったと思った。
私は自分が女だからか、好きになるのがいつも自分からだったせいか、闇雲に相手へぶつけたくなる衝動があることを知ってる。私が会いたいと思う分だけ、相手にも返して欲しいと思うし、それが空回ってどうにもならなくなる気持ちもわかる。
どうして同じように想ってくれないんだろうって、苛立って悲しくなって、頭に血が上る。
だから戸川さんは、来栖の近くにいる私を敵視するのだろう。
そう思うと、彼女に対して本気で怒る気にはなれなかった。
3 別れ方、始め方
朝礼が終わってすぐのことだった。来栖と一緒に課長にちょいちょいと手招きされた私は、中々に屈辱的な仕事を振られた。
秋用のコンビニスイーツの企画を任された来栖のアシスタントを、私に務めろと言うのだ。
私が! アシスタント!
ムカムカしながらデスクまで戻り、乱暴な仕草で椅子に座る。そんな私に対して、来栖は至って涼しい顔だ。得意げな顔をしたり嬉しそうにでもしていれば、少しは可愛げがあるものを。
「ってか、この企画、私も名乗り上げたのに! また負けた!」
「勝ち負けじゃないだろ。いちいち張り合うなよ、めんどくせぇな」
「勝ち負けじゃなかったら何なのよ」
「これまでの実績も鑑みると、俺のほうが今回の企画に合ってただけだ。その次にお前のが合ってたからアシスタント」
……どう考えても勝ち負けの結果でしょうが。
パソコン画面を睨んでキーボードを叩いていると「こっち向け」と言われてつい素直に従う。すると、こんっ、と来栖の拳が眉間に当たった。
「すげーシワ」
「ちょっと、何すんのよ!」
「今日中に、今持ってる他の案件片づけとけよ。夜に打ち合わせするからな」
わかってますよ。
だから今、急いでやってるんじゃないの。
「って、夜?」
「飯食いながらやろう。時間が惜しい」
「え」
飯食いながらって、打ち合わせになんの?
疑問に思うも、来栖はさっさと自分の仕事を始めてしまったので、仕方なく私もパソコンに向き直る。
来栖との仕事以外の案件を粗方片づけ終える頃には、すっかり定時になっていた。打ち合わせはミーティングルームですればいいのに……と思ったが、腹が減ったと言う来栖に連れられて、いつもの居酒屋に行くことになった。
一応ミーティングなので、近頃定位置となっているカウンターではなく座敷を借りる。
なんとなく、居心地が悪い。
「すみませーん、ビール二つと大根サラダ、揚げ出し豆腐と小エビの唐揚げとー、あ、あと枝豆!」
案内してきた店員にまずは適当に注文を済ませてから、仕事の話を切り出した。
「とりあえず去年の秋の傾向とか、参考になりそうな資料を集めるのは私がやるから」
「ああ。俺が持ってる資料とかは、さっきお前のパソコンに飛ばしといたから」
今回の企画は、コンビニ限定で九月に発売される洋菓子で、期間も年内までと決まっている。冬商品と入れ替わりになるから、秋の味覚に絞ってしまったほうが消費者の興味をひくはずだ。
来栖としては、三つくらい味のラインナップを揃えて消費者が選べるようにしたいらしい。
なるほど、それなら、まず一つ買って美味しいと思ってもらえたら、また次の味も試してもらえるかもしれない。
「明日見る。秋っていえば、さつまいもとか栗だけど、私モンブランが好きじゃないんだよね」
「俺も」
「……マジで?」
芋、栗といえばモンブランは鉄板。どうやら秋の企画に向かない二人が選ばれてしまったらしい。先行きがとても不安だ。
「ってか、外には企画書も資料も持ち出せないんだから、打ち合わせは明日でいいじゃん。小野田呼ぼうよ」
仕事の打ち合わせとはいえ、二人きりで飲んでいたことが戸川さんに知られたら、何を言われるかわかったものじゃない。
急いで小野田に召喚のメッセージを送っていると、なんの脈絡もない言葉が飛んできた。
「別れた」
やけに唐突に聞こえる来栖の呟きだったけれど、もしかすると彼は、私が何を気にしているのか察したのかもしれない。
「え……そうなの?」
そう言いながら、本当はなんとなく想像がついていた。先日の、戸川さんが突撃してきた新人歓迎会。あの時には、彼の中で別れることを決めていたんだろうと。
「大丈夫?」
「話し合ってなんとか。お前、菜穂のこと気にしてたから、一応報告しとく」
「うん。……たった一言で簡単に終わりにされるのって、結構しんどいからさー。でも、話し合って決めたんなら、仕方ないんじゃないかな」
責めるつもりはないのだが、ついしんみりとしてしまう。だけど、当人でもないのに私がそんな雰囲気を漂わせていれば、来栖のほうが気まずいだろう。
よし、飲もう。こういう時は酒に限る、と瓶ビールに手を伸ばす。来栖のグラスにも注いでやろうとしたら、彼がじっと私を見ているのに気がついた。
「何?」
「え?」
「じっと見てるから。私、何か変なこと言った?」
すると無意識だったらしい来栖は、はっと目を見張って目の前の枝豆の小鉢に視線を落とした。
「いや。別に」
そう言った彼は、どこかぼーっとして見える。なんだかんだ言いつつ、来栖もダメージを受けているのかもしれない。
さて、何と言って励まそうか。私は言葉を探しながら、来栖のグラスにビールを注いだ。
「……同じ女でも、随分と違うもんだ、と思って」
「は?」
どういう意味よ?
ビールを注ぎ終え、グラスから来栖へと目を向ける。すると彼はテーブルに頬杖をついた姿勢で、また私に視線を戻していた。それで気づいたのだ、彼が誰と誰を見比べたのか。
「ちょっと、総務の花と私を比べないでよ」
こちとらオッサンだなんだと言われて、花になんて喩えられたこともない。それを、あんな可愛らしい彼女と比べられては……いや、相手が誰だろうと比べること自体失礼だ。
「どうせ私は雑草ですよ!」
「別にそんなこと言ってないだろ」
「うそ。しみじみ見てたじゃん。言っとくけどねー、いくらオッサンみたいだからって、これでも女なんだからね。人と比べるなんて無神経だから」
まあ女心のわからない来栖らしいけども、と内心で苦笑しながら自分のグラスにもビールを注ぐ。一口飲むと、少しぬるくなったそれは口の中でひどく苦く感じた。
さすがに女子力の高い戸川さんと比べられたら、傷つく。
私だってその程度には繊細なのだ!
ちょっとは気を遣え、と冗談めかして言ったら、なぜか来栖はむっと不機嫌になった。
「そうだな、比べてた」
「やっぱり」
潔く認めたな。仕方ないから笑い飛ばしてこのまま聞き流してやろうと思ったら、来栖が正面からじっとこちらを見据えてくる。その目が何かもの言いたげで、笑い声は喉の奥に引っ込んでしまった。
どうしてそんなに私を睨むのか。
戸惑っていると、来栖が目を逸らさないままぼそりと言った。
「案外女らしいところがある」
「……うん?」
突然そんなことを言われて眉を顰めたが、どうやら戸川さんのことを言いたいのだろうとすぐに理解した。
いや、案外じゃなくて。戸川さんは最初っから女らしいでしょうが。
日本語の使い方がおかしくないか……と、私はちょっと首を傾げつつ枝豆に手を伸ばす。
それにしても、比べるなと言ったそばから戸川さんを思い起こすということは、やはり来栖もそれなりに考えるところがあるのかもしれない。
しょうがない、聞いてやるかと話の続きを促すことにした。
「女らしいって、やっぱ仕草とかかなあ」
「いや、仕草ってより……優しさが柔らかい」
「ふぅん……抽象的なこと言うね」
戸川さんもいいとこあるんだな。それでもやっぱり、『好き』とは違うということなのか。
「普段からガンガン余計なこと言ってくるのに、人のことになると更に感情的になってもの言うし」
「へえ」
ぷちぷちと枝豆を二つ出して口に入れると、視線を感じた。正面を見ると、また来栖がこちらを見ている。しかも今度は、なにか不可解なものを見るような目つきをしていた。
「何? 聞いてるよちゃんと」
話を聞けと言われてるのかと思ってそう伝えると、来栖は続きを話し始めた。
「他人のことなのに、なんでだよっていうくらい感情移入することがある」
ぐっと上半身をこちらに乗り出してくるところは、なんだかムキになっているように見えて若干引いた。反射的に背を反らし、距離を取る。
「う、うん?」
「……そういう優しさは、女らしいと思う」
「うん……いい子じゃん」
それでも別れるって、いい子であっても恋にはならなかったということなのか。恋とは、やはり奥深い。
切ない気持ちを抱えて来栖を見つめながら、枝豆をまた口に入れる。
「で、菜穂ちゃんの何がいけなかったのよ?」
口をもぐもぐ動かしながらそう言うと、来栖はなぜか愕然とした表情で私を見つめた。
そして数秒後、何かひどく疲れた様子でがっくりと肩を落とす。
「ちょっと、さっきからなんなのよ」
「いや。ここまで言ったら、さすがにわかると思ったのに、予想より遥かに伝わらん」
「意味がわからないんだけど」
その時、からっと襖が開いて、大皿を二つ持った店員が入って来た。
「小エビの唐揚げと大根サラダ、お待たせいたしましたー!」
「ありがとうございまーす。ビール一本追加お願いします」
料理を受け取るついでに追加のビールをオーダーする。
「すいません、冷酒も一つ」
と、来栖が日本酒を頼んだ。
「もう日本酒いくの?」
「悪いか」
「いや悪くはないけど。てか、なんでいきなり不機嫌なのよ」
一分程でビールと冷酒が運ばれてくる。迅速対応がこの店のいいところだ。テーブルの隅にあった小皿を取って、一枚を来栖に渡す。気を利かせて取り分けてあげたりはしない。そういうキャラじゃないし、勝手に飲んで勝手に食うのがいつもの私たちだ。
でもなんか、今日の来栖はいつもと違う。何か言いたげに私の顔を見ては、酒を飲んで溜息をついている。
「ねえ、何か今日変じゃない?」
「俺もそう思う」
あの来栖が素直に認めるくらいだ、何かよっぽどのことがあったのかもしれない。
彼は無言で酒を飲んでいたが、しばらくして冷酒用の小さなグラスを空けて、タンッとテーブルに置いた。
「お前さ」
「うん?」
「……彼氏いたっけ?」
「……いないけど」
どうして今、彼氏の有無を聞かれてるのか。怪訝に思いながら正直に答えると、すぐに失礼な返事があった。
「だよな」
「何、けんか売ってんの?」
『だよな』ってなんだ。やっぱりなってことか。そんなに私は枯れて見えるのか。
「売ってない。普通に聞いただけだろ」
「もう大分前に別れたっきりだよ、残念ながら。恋バナが聞きたければ小野田を待て」
「あいつの恋バナはいつものことだろ。聞き飽きたわ。そうじゃなくて……」
「私はしばらく恋愛はいいわー。小野田がね、言ってたの。『付き合ってから相手を好きになる恋愛だってある』って。でも私は多分そういうの向かないなぁって」
想いを打ち明けても、相手が同じ気持ちでいてくれるとは限らない。それを冷静に受け入れられなければ、きっと私はまた無様な自分を晒してしまう。
そう思ったら、誰かを好きになることがなんだか怖くなってしまった。
……遠い。恋愛が、遠すぎる。
「なんか……両想いなんて所詮フィクションだろ、みたいな気持ちになってきた」
「……フィクションって程、遠くはないだろ」
「遠いって。手が届く気がまったくしないし。そんなことに振り回されるより、仕事に生きたほうがましじゃない?」
そうだ。仕事に生きて来栖に負けないくらいの実績を残したい。できれば、一度でいいから年間実績を追い越してみたい。そうしたら、女らしさなんてなくても自分に自信が持てるような気がする。恋愛だけが人生の全てじゃないのだ。
「仕事、ねぇ」
「今以上に企画案バンバン出してヒット商品作りたいし。来栖に後れをとってばかりなのも悔しいしね!」
「いや、まあそれはそれで頑張れば」
来栖が、そんなことはどうでもいいようにぼそりと呟いた。何やら複雑そうな表情で冷酒のグラスに口をつけている。それが、ずいぶん余裕な態度に見えた。
私には無理だと思われているのだろうか? 私が仕事に生きたところで、来栖の実績を超えることなどできないと高をくくられている?
そうとなれば、俄然張り切りたくなるのが私だ。
「よし。決めた。しばらくは仕事だけでいい」
「は?」
「恋愛しない。仕事に生きる」
今はそれが目標だ、と決意表明してみたら、急に来栖の様子が変わった。
さっきまでは私が仕事を頑張ろうがどうでもよさそうだったのに、焦ったように目を見張っている。私の本気が伝わったのだろうか。
「しばらくっていつまで」
「んー……来栖に勝つまで!」
一度でもいいから来栖の悔しがる顔が見てみたい。別に恋愛をしたくないわけじゃないので、いつまでと期限を設けるなら、来栖を目標にするのが私の中では一番区切りがいい気がした。
それなりに真剣に挑戦状を叩きつけたつもりの私に対し、来栖は呆れたようにぽかんと口を開けた後、一言で私をあしらった。
「尚更遠いだろ!」
「なんだとう!」
失礼な! 死に物狂いで頑張れば、どうなるかわからないでしょ! もちろんこれまでも頑張ってはいたけども!
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