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1巻
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1 悪魔と媚薬
私の人生、比較的上手く進んできたほうじゃないかと思う。人付き合いはあまり得意じゃないけれど、人見知りというほどでもない。
大学を卒業し、大手企業の地方支社に運良く入社することができた。入社してからは職場の人間関係に気を遣い、大抵のことは笑顔で乗り切ってきたと思う。
しかし、順風満帆と思っていたのは最初の二年、本社勤務になるまでだった。いや正しくは、そこで厄介な先輩に捕まるまでは。
私、天沢佳純、二十六歳。今現在、人生最大のピンチに陥っている。
「な……何やってくれちゃってるんですか……!」
普段なら絶対利用しないような最高級ホテルの、綺麗な夜景が有名なオーセンティックバー。その入り口で、うっかり大声を出すところだった。
愕然とする私の腕は、総務の先輩である井筒美晴の手にがっしり掴まれている。ふわふわくるりんとした可愛らしい髪型に、柔らかな素材のワンピースがよく似合う。ただそれが井筒先輩というだけで、どうしてもあざとく見えてしまうのはなぜなのか。
私が転属してきた時には、既にオフィス内で『面倒な人』のポジションにいた彼女が私の世話係になったのは、恐らく体よく押し付けられたということだろう。誰もいないよりはと思っていたが、ひとりのほうが楽だったと思い直すのにひと月かからなかった。それから二年、オフィスでも色々と無理難題を言ってくるし、仕事のミスの尻拭いをさせられるのはなぜか後輩の私。
だって誰も助けてくれないんだもの。
どうして彼女に誰も何も言わないのかといえば、それは彼女が我が社のグループ会社の社長令嬢だからだ。どうやら父親のコネで入社したらしい。
怒らせると面倒という話だし、これまで言うことを聞いてやり過ごしてきたが……彼女は今夜、とうとう私の手には負えない厄介事に巻き込んでくれた。
「嫌です、いくらなんでも!」
「何が嫌なのよ。相手は超エリートよ。近づくチャンスだと思えばいいじゃない」
そう言うと、彼女の視線が私の頭の先から足元まで値踏みするように走る。その視線の意味は、言われなくてもわかった。
可愛い系美人の井筒先輩に比べれば、私は何もかもが平均的。目立たない顔立ち、黒い直毛は長く伸ばして後頭部でひとつに結んでいる。背丈もスタイルも標準だ。
井筒先輩は、小柄な身体の割に豊満な胸を強調するように突き出し、ニヤッと笑う。
「……本社に来ても、ちっとも垢抜けないわね」
「余計なお世話ですよ!」
むかっとして思わず反論してしまった。いつもならそれで機嫌が悪くなる井筒先輩だが、さすがに今日は、自分が無茶を言っている自覚があるらしい。
「ね、お願い。彼氏を作るチャンスと思えばいいじゃない。相手は文句なしのハイスペックよ」
「近づきたいなんて思ったことありませんってば。ほんと、考え直してください」
「だめよ。社長とお近づきになるためには、どうしてもあの男が邪魔なのよ」
そうだ、あまりのことに忘れかけていたが、井筒先輩の言う『あの男』がこのバーの中にいるのだ。そう思っただけで、バーの重厚なドアの下から冷気が流れ出ている気がして、ぞくりと背筋が凍った。もちろん、ただの錯覚にすぎないのだが『あの男』にはそう思わせるだけの恐ろしさがある。
我が社の社長は、優しげな雰囲気のイケメンだ。日本有数の大企業、高輪グループの後継者で現会長の長男。人柄も穏やかで、社内外問わず、社長に憧れる女性は多い。
井筒先輩が、高輪社長狙いなのは知っていた。そして、その社長に近づくためには、『あの男』が邪魔なのもよくわかる。だがしかし。
「だからって……」
……やっていいことと悪いことがあるでしょうが⁉ 普通、思いついてもやらないよ!
逃がすまいと私の腕にしがみつく彼女の手には、小さな瓶が握られている。先輩は人差し指と親指でそれを挟んで、私の目の前に掲げた。
――天使の媚薬。
彼女はこれを『あの男』に飲ませて、バーから連れ出せと言うのだ。待ち合わせている高輪社長が、ここに来る前に。
っていうか、媚薬を盛った上で彼氏を作るチャンスって、つまり既成事実を作ってしまえってことだろう。
突っ込みどころが多すぎて、もうどこから突っ込めばいいのかわからない。
「何を考えてるんですか、そんな怪しいものを飲ませるなんて」
「大丈夫よ、ちゃんと合法なところで買ったものだから」
あっけらかんと言ってのける彼女に愕然とすること、本日二回目。媚薬に合法か非合法かなんてあるの⁉
いわゆる、アダルトグッズというやつだろうか。茶色の小瓶に薄桃色のラベルが貼られ、品名が可愛らしいロゴで印刷されている。合法だろうが、私の目には怪しさ満載だ。
「どこで買ったものだとしても、そういうのを人に盛ってい……」
「だからもう遅いってば。言ったでしょ、グラスに入れてきちゃったって」
頭の中が、真っ白になった。こんな怪しげなものを、本当に『あの人』のグラスに入れてしまったらしい。
この困った先輩には、これまでも遠回しに色々と注意してきたつもりだけれど……
――怪しいものを人に盛ってはいけません。
それは、わざわざ教えなければいけないことなのだろうか⁉
「じゃあ、たのんだから!」
「あっ!」
先輩は言いたいことだけ言うと、呆然とする私の手を振り払いさっさと立ち去ってしまった。
嘘でしょう。あの人、ほんとに置いてったよ……
あり得ん。本当にあり得ない。
正直、どうして先輩の尻拭いを私がしなければいけないのかと思うけれど、妙な薬を盛られた人をそのまま放置して帰るわけにもいかなかった。
媚薬なんて効果があるかどうかは知らないけど、先輩が言うにはネットの口コミナンバーワンの商品らしい。そんなものが『あの人』の口に入る前に……いや、もう遅いだろうか。
先輩曰く、隣のスツールに座り、携帯が鳴って彼が席を外した隙にグラスに媚薬を入れたらしい。
そのまま何食わぬ顔で会計を済まして店を出て、事前に呼び出されていた私をバーの入り口で捕まえた、と。
ここで先輩と話していたのは数分くらいだけれど、その間に彼が電話を終えてカウンター席に戻っているかどうかが問題だ。
私にとっては気後れしてしまうようなバーだが、仕方がない。覚悟を決めて、バーの扉を押し開けた。
店内はクラシック音楽が流れていた。内装は黒と銀で統一されていて、窓際にいくつかソファ席がある。でもそこは、雰囲気的にカップル限定のような気がする。平日夜ということもあるのか、客は少なく席のほとんどが空いていた。
「いらっしゃいませ」
白いワイシャツに黒のベストという如何にもバーテンダーといった制服を着た店員に声をかけられ、思わず肩が跳ねる。
仕草でどの席に座るか尋ねられて、咄嗟にカウンターに目を向けた。バーカウンターには等間隔にスツールが並び、入り口に近い席にスーツの男性が座っているが、知らない人だ。そして反対側の奥に、もうひとり。
ここからでは、背中しか見えない。ダークスーツの広い背中。スツールに腰かけていてもわかる、背の高さと長い足。艶やかな黒髪は、襟足の長さで撫でつけられている。
どくんと、心臓が壊れそうなほど大きな音を立てた。もちろん、それは胸のときめきとか、そういう種類のものではない。
ああ、あの人だ……
黒木貴仁、三十二歳。我が社の社長秘書で、今現在、社内で一番恐れられている人。彼は私のことなど知りもしないだろうけれど、本社勤務の社員で彼を知らない人はまずいない。私が彼の年齢までしっかり覚えているのは、本社に来てすぐの頃社内報で彼と社長の記事を読み、大企業なのに随分若い社長と秘書だと印象に残ったからだ。
店員にカウンターがいいと視線で伝えた私は、ゆっくりと彼のスツールに近づいていく。そうしながらも、頭の中はすっかりパニックだった。
……私、ここからどうしたらいいの?
あの脳内お花畑な先輩が、やばい人にやばいものを盛ったと知ってしまった以上、効果の有無にかかわらず、放置するのはまずいと思った。その思いだけで店に入ってしまったけれど……ここから一体、どうすればいいというのか。
一番いいのは飲むのを阻止することだが、もし飲んでしまったらその後の対応を考えなくてはいけない。いや、既に飲んでる? もう遅い?
どくどくどくと心臓の音がうるさい。カウンターに近づくほどに足が震えた。さすがに、すぐ隣のスツールに座るのは怖くて、ひとつ空けた席に手を置く。
恐る恐る隣を見る。
細いフレームの眼鏡をかけた端整な横顔は、間違いなく黒木さんだ。彼の手元のグラスを見ると、洋酒の水割りらしい琥珀色の液体が揺れている。
見ているうちに、彼がそれを口元に運び一息に傾けた。
「あっ……!」
思わず声が出てしまう。どうやって止めるか、考える余裕もなかった。私の声が聞こえたのか、彼が視線をこちらに向ける。
ばっちりと目が合い、私はひゅっと悲鳴を呑み込んだ。
凍てつくような冷たい視線が、私を見ている。その冷気にあてられた私の身体が、凍り付いたようにぴきっと固まった。
やばい。死んだ。
いや、まだセーフ? 目は合ったが、向こうは私が同じ会社の社員だとは気づいてないはずだ。
視線の恐怖だけで当初の目的を忘れて逃げ出しそうになった。
彼が社内で恐れられているのには理由がある。今から数年前、若くまだ立場の弱かった高輪社長から後継者の座を奪おうと、当時常務に就いたばかりの弟を担ぎ上げようとする勢力があった。その弟一派の役員たちを追い詰め失脚させたのが、黒木さんだと噂で聞いた。
それはもう、悪魔のごとく容赦のない追い落とし方だったらしい。その悪魔の視界に、私は今、入ってしまった。
眼鏡越しの鋭い眼光が、悪魔と喩えられる彼の恐ろしさが決して誇張ではないのだと思わせる。私の背筋にぞくぞくと寒気が走った。
次の瞬間、冷たい印象に拍車をかける薄い唇が開く。
「……おひとりですか」
「え……」
優しく誘うような低い声だ。薄情そうに見えた唇が、柔らかく笑みを作っている。一瞬でくるりとひっくり返った印象に、返事も忘れて目を見開いた。
「失礼、待ち合わせでしたか」
「あ、いえ! ……ひとりです」
慌ててそう答えると、彼は自分の隣のスツールを私に勧める。
「連れが来るまでしばらくかかりそうで。もしよければ、それまで付き合っていただけませんか」
とても穏やかな物言いがあまりに意外で、ちょっとときめいてしまう。
これはチャンスだ。彼は媚薬入りのお酒を半分ほど飲んでしまっている。見たところ、特に変化はなさそうだから媚薬なんて眉唾ものかもしれないけれど、まだ安心はできない。すぐに効果が表れるものではないかもしれないし、もうしばらく様子を見たほうがよさそうだ。
「それじゃあ、失礼します……」
いくら雰囲気が和らいだといっても、やはり声が震える。どうにか笑みを浮かべてスツールに座った私の目の前で、彼はグラスに残っていた酒を全部呷ってしまった。
声を上げる間もなく、またしても止められなかった。いや、そもそもどうやって止めたらいいかもわからないのだが。
彼はグラスをカウンターの一段高いところに置くと、中にいるバーテンダーに声をかける。
「同じものを。……あなたは何を飲みますか」
後半は私に向けた問いかけだ。咄嗟に思い浮かばず、迷った末に私も同じものを頼んだ。
「結構、強めだけど大丈夫?」
カウンターに頬杖をつき、こちらを流し目で見る。その表情に、くらくらしてしまう。まだ酔ってもいないのに。
「あ、ごめんなさい。実は何をどう頼んでいいかよくわからなくて」
確かに、ひとくち飲むとかなり強い。
「あまり慣れてなさそうだと思った」
大きな手で新しいグラスを揺らしながら、彼はゆっくりとお酒を楽しむ。もしかして、慣れない様子を見かねて声をかけてくれたのだろうか。
だとしたら、実は優しい人なのかもしれない。
そう思ってしまうと、尚更罪悪感でちくちくと胸が痛くなる。先輩はそんな人に、媚薬なんて得体のしれないものを飲ませてしまったのだ。
……ああ、でも。やっぱりあの薬に効果なんてないのかも。
媚薬の効果どころか、こんなに強いお酒を飲んでいても彼の表情は少しも変わらない。だが、その横顔を盗み見てほっとしていられたのは、新しいグラスが空になるまでだった。
彼が、ふうっと苦しげな息を吐き、額に手を当てた。もしかして、薬のせいで具合が悪くなってきたのかと、どきどきしてしまう。
「あの……大丈夫ですか?」
「ああ、少し、酔ったようで」
彼は心配させまいとしているのか、笑ってこちらを見た。そんな表情を向けられると、本当に申し訳なくなってくる。顔色を確かめようとしたが、店内ではわかりづらい。ほんのり赤く見えるのは、橙色を帯びた店内照明のせいにも思えるし、そうでないのかもしれない。
「……普段、このくらいで酔うことはないんだが。申し訳ない、こちらから誘っておきながら」
すまなそうに私に謝って「もしかすると風邪でも引きかけているのかもしれない」と言った。
「私のことは気にしないでください……大丈夫ですか?」
やっぱり、媚薬のせいだろうか。本当に媚薬が効いているのだとしたら、これからどうなるのだろう。放っておいて大丈夫なのか。万が一薬が身体に合わなかったりして、もっと具合が悪くなったりしないだろうか。
黒木さんがバーテンダーにカードを渡し、私の分も一緒にと言っているのが聞こえた。
「そんな、私の分まで」
慌てて止めたが、バーテンダーは黒木さんの言った通りに会計を済ましてしまった。
「誘っておきながら悪いが、先に失礼する。貴女はどうぞゆっくり飲んで行ってください」
丁寧にそう言われたけれど、やはり気になる。会計のこともあるが、何より彼の体調だ。スツールから立ち上がり店を出ようとする彼の足元がふらついていた。
だめだ。放っておけない。そう、思ってしまった。
「あ、あの……!」
気づくと私は、彼を呼び止めていた。
「ご自宅はこの近くですか? 具合が悪そうですし、タクシーで帰られるならそこまで送ります。なんでしたら、病院にも付き添います」
「……親切にありがとうございます」
体調が優れない状態で、ひとりで帰るのは不安だろう。彼の口元に浮かんだ笑みは、安心からくるものに違いないと私は疑いもしなかった。
最初に不安を感じたのは、彼の行き先が自宅でもタクシー乗り場でもなく、このホテルの客室だと言われた時だ。
今夜はホテルを利用するつもりだったから部屋を取ってあるのだと、そこまで付き添ってもらえれば助かると言われた。
話しながら零れる吐息が辛そうで、迷わず頷いてしまった。だが、一緒にエレベーターに乗り込んだところで、これはまずい状況なのではないかと思い始める。
いや、でも、店での彼はとても紳士的だった。それに具合が悪いなら、やはり部屋に付き添うくらいはしなければ。
エレベーターが上昇していく中、こっそりとスマートフォンで『天使の媚薬』を検索した。販売元のサイトなら、万一具合が悪くなった場合の対処の仕方などが書いてあるかもしれないと思ったのだ。
ついでに本当に効くのかどうか、体験談みたいなものがあればと思った。だって今の状況、下手したら貞操の危機に繋がる。
サイトを見つけて、さっと目を通した。載っている体験談は高評価のものばかり。つまりこの薬は、効果があるということだろうか。
……わ、私、このままついてって大丈夫?
客室のある階に着いてしまい、躊躇いながらも彼に続いてエレベーターを降りる。
後ろから見る限り、廊下を歩く彼の足取りは支えなければ歩けないほどではない。しばらくして立ち止まった彼が、カードキーを取り出し部屋のドアを開けた。
「あの、大丈夫そうなら、私はここで……」
もう大丈夫だろうと、急いで引き返そうとした私の腕が、彼に捕まえられた。
今になって思えば、私が正常な判断ができるくらい落ち着いていたら、逃げられる可能性もあったはずなのだ。
「あ……の……」
迂闊にも、私はそれを見過ごして、媚薬を飲まされた彼の体調にばかり気を取られてしまった。だから今、こうなっている。
背中にはベッドのスプリング。目の前には私の顔の横に片手をついて微笑する男。それは、バーで見たような優しげな笑顔なんかではなく、明らかに冷笑だった。
黒木さんはもう片方の手で眼鏡を外すと、それをベッドのサイドテーブルに置き、再び私を真上から見下ろしてくる。
「さて……総務の天沢佳純だったか」
驚いたことに、彼は私のことを知っていたらしい。まったく接点などないのに、部署とフルネームまで。
やばい。まずい。まさか身元が割れているとは。
しかもその上でこの状況に持ち込まれたということは、彼はわかっていて私を部屋に連れ込んだのだ。
眼鏡越しじゃない、漆黒の瞳が真上から私を捉える。
「どういうつもりで俺に近づいた?」
ナイフみたいに鋭く細められた目に、思わず「ひっ」と喉が悲鳴を上げた。
ああ、やばいやばいやばい。これは、貞操の危機どころじゃない。
生命の危機、のような気がする……!
返答によっては、社会的に抹殺される――そんな空気をひしひしと感じた……!
とりあえず、絶対に言ってはいけないことがひとつ。先輩が媚薬を飲ませたことを口にしたら、何をされるかわからない。
というか、媚薬どうなったの。まったく効いてない? サイトの口コミでは高評価だったのに?
目の前の彼は、正気を失っている様子もないし酔っている様子もない。まして、先ほどまでの具合の悪そうな様子もまったくない。
つまり、騙されたのだ、私は。
「ち、近づいたって……声をかけたのはそちらからだったと思いますが」
どうにか、誤魔化さなければと気ばかりが焦る。上手く動かない頭で、決して私から近づいたわけではないと主張する。
「そちらからとは?」
黒木さんは眼鏡を外した手で、今度はネクタイの結び目を掴んで緩める。そんな仕草が、目に毒なほど色っぽい。それはもう、毒々しいほどに。
くらくらしながらどうにか答えた。
「で、ですから、黒木さんから声をかけてきたじゃないですか」
「つまり、俺が黒木貴仁だとわかってたんだな」
「えっ、あ……」
……どうやら、語るに落ちたようです。
嫌だもう、この人と喋るの。
心臓が持たない。緊張して、息が上がる。
「それは、もちろん……黒木さんは社内では有名だし……でも、わざと近づいたわけではっ……」
「じゃあ、どうして俺が声をかけた時に何も言わなかった?」
「まさか私のことを知ってるとは思わなかったし、顔見知りでもない一社員に名乗られても困ると思ったからです!」
頭をフル回転させ、穏便にこの場をやり過ごす方法を必死に考えた。この返事に満足していただけただろうか。そんな私を、彼は何もかも見透かしそうな、感情をそぎ落とした冷ややかな顔で睨んできて、怖いのに目を逸らせない。
上がり続ける心拍数に気分が悪くなってきた。逃げたいと思うのに、身体はがっちがちに固まっている。
「ふぅん」
無表情のままぼそりと呟かれた声に、すぐにわかった。
まったく信じてもらえていない。
びくびくしながら彼の言葉を待つ。無言がしばらく続いたが、少しして彼が軽く肩を竦めた。
「まあ……そっちがそう言うなら」
ようやく解放してもらえるとほっと力を抜いたところで、続く彼の言葉が耳に入った。
「こっちは勝手にやらせてもらおう」
「え?」
彼はそう言うなり、解いたネクタイを、しゅるっと音を鳴らして襟から引き抜いた。その仕草が、とても様になる。仄暗い部屋の照明の中で、彼はとても艶めいて見えた。状況も忘れ見とれてしまう。
これほど近くで彼を見たのは初めてだ。遠目にも綺麗な人だと思っていたけれど、近くで見るとその顔の造形はあまりに芸術的だった。高輪社長も美形だけれど、彼の顔には人間味というか愛嬌がある。対して彼は、悪魔と呼ばれるのが似合うくらい、恐ろしいほど整った容貌をしていた。
そんなことを考えていると、頬に手が触れた。指先が頬の丸みを撫で、耳に移る。耳珠と耳孔の入り口を指先でくすぐられて、ぞくぞくとした感覚が背筋を襲った。
「んっ」
思わず顔を背ける。零れた自分の声が信じられないほど甘く聞こえて、それでようやく我に返った。いつのまにか、彼に見とれて抵抗を忘れてしまっていた。
……え、あ、う、嘘、嘘……冗談でしょう⁉
大きな手が、私の首筋を撫でる。指先に少し力を入れて、肌の弾力を確かめるような撫で方に、身体がぞわぞわとして力が抜けた。慌てて覆い被さる黒木さんを押しのけようとしても、まったく歯が立たない。
白いワイシャツ越しに、筋肉質な硬い身体の感触が手のひらに伝わってくる。首筋から移動した彼の手が、乱れて開いたブラウスの中へ入り込んできた。
「ひゃっ」
変な声が出てしまったが、彼の手はまったく躊躇いなく進み、肩を撫でながらブラウスの布と一緒に下着の肩紐をずらしてしまう。
……なんで、なんでこんなことになっているの。
「あ、あの、あのっ……」
「なんだ」
声が冷たい。こんなことをしているのに、彼には少しの興奮も見られない。そう、だからこれは媚薬のせいなんかではないはずだ。だったら。
「なんでこんなことっ」
「なんで? 変なことを聞くな。そっちの思惑に乗ってやっているつもりだが」
思惑って何? 彼は一体なんの話をしているのか。
「そのつもりで部屋までついてきたんだろう」
「ち、違いま、あ、や、……! やめてやめて」
ブラジャーがずらされてコンプレックスの小さな胸が、彼の目に晒される。かあっと頭に血が集まって、頬が熱くなった。
いやー! なんでこの人、こんなに淡々と事を進めるの!
「み、見ないでくださいっ……」
胸を隠そうとした手は、簡単に彼の手に捕まってシーツの上に押し付けられた。もう片方の手も振り払われて、私のささやかな膨らみの横に彼の手が触れる。
「あ……う……」
見れば、胸の一番敏感な先を避けるように、横から包み込まれていた。とても、大きくて綺麗な手に。
指が長いなあ、なんて、呑気に考えている場合ではない。
視線を上げると、目の前にはじっと観察するように私を見ている黒い目がふたつ。
かああっと顔に熱が集まる。きっと今私の顔は、目も当てられないほど真っ赤になっていることだろう。
そこで、ふっと笑ったような吐息が聞こえた。黒木さんが少しだけ表情を和らげる。
「……まるで林檎だな」
バーで見た余所行きの笑顔じゃない。悪魔でもなくちゃんと血の通った人間に見えた。
私の人生、比較的上手く進んできたほうじゃないかと思う。人付き合いはあまり得意じゃないけれど、人見知りというほどでもない。
大学を卒業し、大手企業の地方支社に運良く入社することができた。入社してからは職場の人間関係に気を遣い、大抵のことは笑顔で乗り切ってきたと思う。
しかし、順風満帆と思っていたのは最初の二年、本社勤務になるまでだった。いや正しくは、そこで厄介な先輩に捕まるまでは。
私、天沢佳純、二十六歳。今現在、人生最大のピンチに陥っている。
「な……何やってくれちゃってるんですか……!」
普段なら絶対利用しないような最高級ホテルの、綺麗な夜景が有名なオーセンティックバー。その入り口で、うっかり大声を出すところだった。
愕然とする私の腕は、総務の先輩である井筒美晴の手にがっしり掴まれている。ふわふわくるりんとした可愛らしい髪型に、柔らかな素材のワンピースがよく似合う。ただそれが井筒先輩というだけで、どうしてもあざとく見えてしまうのはなぜなのか。
私が転属してきた時には、既にオフィス内で『面倒な人』のポジションにいた彼女が私の世話係になったのは、恐らく体よく押し付けられたということだろう。誰もいないよりはと思っていたが、ひとりのほうが楽だったと思い直すのにひと月かからなかった。それから二年、オフィスでも色々と無理難題を言ってくるし、仕事のミスの尻拭いをさせられるのはなぜか後輩の私。
だって誰も助けてくれないんだもの。
どうして彼女に誰も何も言わないのかといえば、それは彼女が我が社のグループ会社の社長令嬢だからだ。どうやら父親のコネで入社したらしい。
怒らせると面倒という話だし、これまで言うことを聞いてやり過ごしてきたが……彼女は今夜、とうとう私の手には負えない厄介事に巻き込んでくれた。
「嫌です、いくらなんでも!」
「何が嫌なのよ。相手は超エリートよ。近づくチャンスだと思えばいいじゃない」
そう言うと、彼女の視線が私の頭の先から足元まで値踏みするように走る。その視線の意味は、言われなくてもわかった。
可愛い系美人の井筒先輩に比べれば、私は何もかもが平均的。目立たない顔立ち、黒い直毛は長く伸ばして後頭部でひとつに結んでいる。背丈もスタイルも標準だ。
井筒先輩は、小柄な身体の割に豊満な胸を強調するように突き出し、ニヤッと笑う。
「……本社に来ても、ちっとも垢抜けないわね」
「余計なお世話ですよ!」
むかっとして思わず反論してしまった。いつもならそれで機嫌が悪くなる井筒先輩だが、さすがに今日は、自分が無茶を言っている自覚があるらしい。
「ね、お願い。彼氏を作るチャンスと思えばいいじゃない。相手は文句なしのハイスペックよ」
「近づきたいなんて思ったことありませんってば。ほんと、考え直してください」
「だめよ。社長とお近づきになるためには、どうしてもあの男が邪魔なのよ」
そうだ、あまりのことに忘れかけていたが、井筒先輩の言う『あの男』がこのバーの中にいるのだ。そう思っただけで、バーの重厚なドアの下から冷気が流れ出ている気がして、ぞくりと背筋が凍った。もちろん、ただの錯覚にすぎないのだが『あの男』にはそう思わせるだけの恐ろしさがある。
我が社の社長は、優しげな雰囲気のイケメンだ。日本有数の大企業、高輪グループの後継者で現会長の長男。人柄も穏やかで、社内外問わず、社長に憧れる女性は多い。
井筒先輩が、高輪社長狙いなのは知っていた。そして、その社長に近づくためには、『あの男』が邪魔なのもよくわかる。だがしかし。
「だからって……」
……やっていいことと悪いことがあるでしょうが⁉ 普通、思いついてもやらないよ!
逃がすまいと私の腕にしがみつく彼女の手には、小さな瓶が握られている。先輩は人差し指と親指でそれを挟んで、私の目の前に掲げた。
――天使の媚薬。
彼女はこれを『あの男』に飲ませて、バーから連れ出せと言うのだ。待ち合わせている高輪社長が、ここに来る前に。
っていうか、媚薬を盛った上で彼氏を作るチャンスって、つまり既成事実を作ってしまえってことだろう。
突っ込みどころが多すぎて、もうどこから突っ込めばいいのかわからない。
「何を考えてるんですか、そんな怪しいものを飲ませるなんて」
「大丈夫よ、ちゃんと合法なところで買ったものだから」
あっけらかんと言ってのける彼女に愕然とすること、本日二回目。媚薬に合法か非合法かなんてあるの⁉
いわゆる、アダルトグッズというやつだろうか。茶色の小瓶に薄桃色のラベルが貼られ、品名が可愛らしいロゴで印刷されている。合法だろうが、私の目には怪しさ満載だ。
「どこで買ったものだとしても、そういうのを人に盛ってい……」
「だからもう遅いってば。言ったでしょ、グラスに入れてきちゃったって」
頭の中が、真っ白になった。こんな怪しげなものを、本当に『あの人』のグラスに入れてしまったらしい。
この困った先輩には、これまでも遠回しに色々と注意してきたつもりだけれど……
――怪しいものを人に盛ってはいけません。
それは、わざわざ教えなければいけないことなのだろうか⁉
「じゃあ、たのんだから!」
「あっ!」
先輩は言いたいことだけ言うと、呆然とする私の手を振り払いさっさと立ち去ってしまった。
嘘でしょう。あの人、ほんとに置いてったよ……
あり得ん。本当にあり得ない。
正直、どうして先輩の尻拭いを私がしなければいけないのかと思うけれど、妙な薬を盛られた人をそのまま放置して帰るわけにもいかなかった。
媚薬なんて効果があるかどうかは知らないけど、先輩が言うにはネットの口コミナンバーワンの商品らしい。そんなものが『あの人』の口に入る前に……いや、もう遅いだろうか。
先輩曰く、隣のスツールに座り、携帯が鳴って彼が席を外した隙にグラスに媚薬を入れたらしい。
そのまま何食わぬ顔で会計を済まして店を出て、事前に呼び出されていた私をバーの入り口で捕まえた、と。
ここで先輩と話していたのは数分くらいだけれど、その間に彼が電話を終えてカウンター席に戻っているかどうかが問題だ。
私にとっては気後れしてしまうようなバーだが、仕方がない。覚悟を決めて、バーの扉を押し開けた。
店内はクラシック音楽が流れていた。内装は黒と銀で統一されていて、窓際にいくつかソファ席がある。でもそこは、雰囲気的にカップル限定のような気がする。平日夜ということもあるのか、客は少なく席のほとんどが空いていた。
「いらっしゃいませ」
白いワイシャツに黒のベストという如何にもバーテンダーといった制服を着た店員に声をかけられ、思わず肩が跳ねる。
仕草でどの席に座るか尋ねられて、咄嗟にカウンターに目を向けた。バーカウンターには等間隔にスツールが並び、入り口に近い席にスーツの男性が座っているが、知らない人だ。そして反対側の奥に、もうひとり。
ここからでは、背中しか見えない。ダークスーツの広い背中。スツールに腰かけていてもわかる、背の高さと長い足。艶やかな黒髪は、襟足の長さで撫でつけられている。
どくんと、心臓が壊れそうなほど大きな音を立てた。もちろん、それは胸のときめきとか、そういう種類のものではない。
ああ、あの人だ……
黒木貴仁、三十二歳。我が社の社長秘書で、今現在、社内で一番恐れられている人。彼は私のことなど知りもしないだろうけれど、本社勤務の社員で彼を知らない人はまずいない。私が彼の年齢までしっかり覚えているのは、本社に来てすぐの頃社内報で彼と社長の記事を読み、大企業なのに随分若い社長と秘書だと印象に残ったからだ。
店員にカウンターがいいと視線で伝えた私は、ゆっくりと彼のスツールに近づいていく。そうしながらも、頭の中はすっかりパニックだった。
……私、ここからどうしたらいいの?
あの脳内お花畑な先輩が、やばい人にやばいものを盛ったと知ってしまった以上、効果の有無にかかわらず、放置するのはまずいと思った。その思いだけで店に入ってしまったけれど……ここから一体、どうすればいいというのか。
一番いいのは飲むのを阻止することだが、もし飲んでしまったらその後の対応を考えなくてはいけない。いや、既に飲んでる? もう遅い?
どくどくどくと心臓の音がうるさい。カウンターに近づくほどに足が震えた。さすがに、すぐ隣のスツールに座るのは怖くて、ひとつ空けた席に手を置く。
恐る恐る隣を見る。
細いフレームの眼鏡をかけた端整な横顔は、間違いなく黒木さんだ。彼の手元のグラスを見ると、洋酒の水割りらしい琥珀色の液体が揺れている。
見ているうちに、彼がそれを口元に運び一息に傾けた。
「あっ……!」
思わず声が出てしまう。どうやって止めるか、考える余裕もなかった。私の声が聞こえたのか、彼が視線をこちらに向ける。
ばっちりと目が合い、私はひゅっと悲鳴を呑み込んだ。
凍てつくような冷たい視線が、私を見ている。その冷気にあてられた私の身体が、凍り付いたようにぴきっと固まった。
やばい。死んだ。
いや、まだセーフ? 目は合ったが、向こうは私が同じ会社の社員だとは気づいてないはずだ。
視線の恐怖だけで当初の目的を忘れて逃げ出しそうになった。
彼が社内で恐れられているのには理由がある。今から数年前、若くまだ立場の弱かった高輪社長から後継者の座を奪おうと、当時常務に就いたばかりの弟を担ぎ上げようとする勢力があった。その弟一派の役員たちを追い詰め失脚させたのが、黒木さんだと噂で聞いた。
それはもう、悪魔のごとく容赦のない追い落とし方だったらしい。その悪魔の視界に、私は今、入ってしまった。
眼鏡越しの鋭い眼光が、悪魔と喩えられる彼の恐ろしさが決して誇張ではないのだと思わせる。私の背筋にぞくぞくと寒気が走った。
次の瞬間、冷たい印象に拍車をかける薄い唇が開く。
「……おひとりですか」
「え……」
優しく誘うような低い声だ。薄情そうに見えた唇が、柔らかく笑みを作っている。一瞬でくるりとひっくり返った印象に、返事も忘れて目を見開いた。
「失礼、待ち合わせでしたか」
「あ、いえ! ……ひとりです」
慌ててそう答えると、彼は自分の隣のスツールを私に勧める。
「連れが来るまでしばらくかかりそうで。もしよければ、それまで付き合っていただけませんか」
とても穏やかな物言いがあまりに意外で、ちょっとときめいてしまう。
これはチャンスだ。彼は媚薬入りのお酒を半分ほど飲んでしまっている。見たところ、特に変化はなさそうだから媚薬なんて眉唾ものかもしれないけれど、まだ安心はできない。すぐに効果が表れるものではないかもしれないし、もうしばらく様子を見たほうがよさそうだ。
「それじゃあ、失礼します……」
いくら雰囲気が和らいだといっても、やはり声が震える。どうにか笑みを浮かべてスツールに座った私の目の前で、彼はグラスに残っていた酒を全部呷ってしまった。
声を上げる間もなく、またしても止められなかった。いや、そもそもどうやって止めたらいいかもわからないのだが。
彼はグラスをカウンターの一段高いところに置くと、中にいるバーテンダーに声をかける。
「同じものを。……あなたは何を飲みますか」
後半は私に向けた問いかけだ。咄嗟に思い浮かばず、迷った末に私も同じものを頼んだ。
「結構、強めだけど大丈夫?」
カウンターに頬杖をつき、こちらを流し目で見る。その表情に、くらくらしてしまう。まだ酔ってもいないのに。
「あ、ごめんなさい。実は何をどう頼んでいいかよくわからなくて」
確かに、ひとくち飲むとかなり強い。
「あまり慣れてなさそうだと思った」
大きな手で新しいグラスを揺らしながら、彼はゆっくりとお酒を楽しむ。もしかして、慣れない様子を見かねて声をかけてくれたのだろうか。
だとしたら、実は優しい人なのかもしれない。
そう思ってしまうと、尚更罪悪感でちくちくと胸が痛くなる。先輩はそんな人に、媚薬なんて得体のしれないものを飲ませてしまったのだ。
……ああ、でも。やっぱりあの薬に効果なんてないのかも。
媚薬の効果どころか、こんなに強いお酒を飲んでいても彼の表情は少しも変わらない。だが、その横顔を盗み見てほっとしていられたのは、新しいグラスが空になるまでだった。
彼が、ふうっと苦しげな息を吐き、額に手を当てた。もしかして、薬のせいで具合が悪くなってきたのかと、どきどきしてしまう。
「あの……大丈夫ですか?」
「ああ、少し、酔ったようで」
彼は心配させまいとしているのか、笑ってこちらを見た。そんな表情を向けられると、本当に申し訳なくなってくる。顔色を確かめようとしたが、店内ではわかりづらい。ほんのり赤く見えるのは、橙色を帯びた店内照明のせいにも思えるし、そうでないのかもしれない。
「……普段、このくらいで酔うことはないんだが。申し訳ない、こちらから誘っておきながら」
すまなそうに私に謝って「もしかすると風邪でも引きかけているのかもしれない」と言った。
「私のことは気にしないでください……大丈夫ですか?」
やっぱり、媚薬のせいだろうか。本当に媚薬が効いているのだとしたら、これからどうなるのだろう。放っておいて大丈夫なのか。万が一薬が身体に合わなかったりして、もっと具合が悪くなったりしないだろうか。
黒木さんがバーテンダーにカードを渡し、私の分も一緒にと言っているのが聞こえた。
「そんな、私の分まで」
慌てて止めたが、バーテンダーは黒木さんの言った通りに会計を済ましてしまった。
「誘っておきながら悪いが、先に失礼する。貴女はどうぞゆっくり飲んで行ってください」
丁寧にそう言われたけれど、やはり気になる。会計のこともあるが、何より彼の体調だ。スツールから立ち上がり店を出ようとする彼の足元がふらついていた。
だめだ。放っておけない。そう、思ってしまった。
「あ、あの……!」
気づくと私は、彼を呼び止めていた。
「ご自宅はこの近くですか? 具合が悪そうですし、タクシーで帰られるならそこまで送ります。なんでしたら、病院にも付き添います」
「……親切にありがとうございます」
体調が優れない状態で、ひとりで帰るのは不安だろう。彼の口元に浮かんだ笑みは、安心からくるものに違いないと私は疑いもしなかった。
最初に不安を感じたのは、彼の行き先が自宅でもタクシー乗り場でもなく、このホテルの客室だと言われた時だ。
今夜はホテルを利用するつもりだったから部屋を取ってあるのだと、そこまで付き添ってもらえれば助かると言われた。
話しながら零れる吐息が辛そうで、迷わず頷いてしまった。だが、一緒にエレベーターに乗り込んだところで、これはまずい状況なのではないかと思い始める。
いや、でも、店での彼はとても紳士的だった。それに具合が悪いなら、やはり部屋に付き添うくらいはしなければ。
エレベーターが上昇していく中、こっそりとスマートフォンで『天使の媚薬』を検索した。販売元のサイトなら、万一具合が悪くなった場合の対処の仕方などが書いてあるかもしれないと思ったのだ。
ついでに本当に効くのかどうか、体験談みたいなものがあればと思った。だって今の状況、下手したら貞操の危機に繋がる。
サイトを見つけて、さっと目を通した。載っている体験談は高評価のものばかり。つまりこの薬は、効果があるということだろうか。
……わ、私、このままついてって大丈夫?
客室のある階に着いてしまい、躊躇いながらも彼に続いてエレベーターを降りる。
後ろから見る限り、廊下を歩く彼の足取りは支えなければ歩けないほどではない。しばらくして立ち止まった彼が、カードキーを取り出し部屋のドアを開けた。
「あの、大丈夫そうなら、私はここで……」
もう大丈夫だろうと、急いで引き返そうとした私の腕が、彼に捕まえられた。
今になって思えば、私が正常な判断ができるくらい落ち着いていたら、逃げられる可能性もあったはずなのだ。
「あ……の……」
迂闊にも、私はそれを見過ごして、媚薬を飲まされた彼の体調にばかり気を取られてしまった。だから今、こうなっている。
背中にはベッドのスプリング。目の前には私の顔の横に片手をついて微笑する男。それは、バーで見たような優しげな笑顔なんかではなく、明らかに冷笑だった。
黒木さんはもう片方の手で眼鏡を外すと、それをベッドのサイドテーブルに置き、再び私を真上から見下ろしてくる。
「さて……総務の天沢佳純だったか」
驚いたことに、彼は私のことを知っていたらしい。まったく接点などないのに、部署とフルネームまで。
やばい。まずい。まさか身元が割れているとは。
しかもその上でこの状況に持ち込まれたということは、彼はわかっていて私を部屋に連れ込んだのだ。
眼鏡越しじゃない、漆黒の瞳が真上から私を捉える。
「どういうつもりで俺に近づいた?」
ナイフみたいに鋭く細められた目に、思わず「ひっ」と喉が悲鳴を上げた。
ああ、やばいやばいやばい。これは、貞操の危機どころじゃない。
生命の危機、のような気がする……!
返答によっては、社会的に抹殺される――そんな空気をひしひしと感じた……!
とりあえず、絶対に言ってはいけないことがひとつ。先輩が媚薬を飲ませたことを口にしたら、何をされるかわからない。
というか、媚薬どうなったの。まったく効いてない? サイトの口コミでは高評価だったのに?
目の前の彼は、正気を失っている様子もないし酔っている様子もない。まして、先ほどまでの具合の悪そうな様子もまったくない。
つまり、騙されたのだ、私は。
「ち、近づいたって……声をかけたのはそちらからだったと思いますが」
どうにか、誤魔化さなければと気ばかりが焦る。上手く動かない頭で、決して私から近づいたわけではないと主張する。
「そちらからとは?」
黒木さんは眼鏡を外した手で、今度はネクタイの結び目を掴んで緩める。そんな仕草が、目に毒なほど色っぽい。それはもう、毒々しいほどに。
くらくらしながらどうにか答えた。
「で、ですから、黒木さんから声をかけてきたじゃないですか」
「つまり、俺が黒木貴仁だとわかってたんだな」
「えっ、あ……」
……どうやら、語るに落ちたようです。
嫌だもう、この人と喋るの。
心臓が持たない。緊張して、息が上がる。
「それは、もちろん……黒木さんは社内では有名だし……でも、わざと近づいたわけではっ……」
「じゃあ、どうして俺が声をかけた時に何も言わなかった?」
「まさか私のことを知ってるとは思わなかったし、顔見知りでもない一社員に名乗られても困ると思ったからです!」
頭をフル回転させ、穏便にこの場をやり過ごす方法を必死に考えた。この返事に満足していただけただろうか。そんな私を、彼は何もかも見透かしそうな、感情をそぎ落とした冷ややかな顔で睨んできて、怖いのに目を逸らせない。
上がり続ける心拍数に気分が悪くなってきた。逃げたいと思うのに、身体はがっちがちに固まっている。
「ふぅん」
無表情のままぼそりと呟かれた声に、すぐにわかった。
まったく信じてもらえていない。
びくびくしながら彼の言葉を待つ。無言がしばらく続いたが、少しして彼が軽く肩を竦めた。
「まあ……そっちがそう言うなら」
ようやく解放してもらえるとほっと力を抜いたところで、続く彼の言葉が耳に入った。
「こっちは勝手にやらせてもらおう」
「え?」
彼はそう言うなり、解いたネクタイを、しゅるっと音を鳴らして襟から引き抜いた。その仕草が、とても様になる。仄暗い部屋の照明の中で、彼はとても艶めいて見えた。状況も忘れ見とれてしまう。
これほど近くで彼を見たのは初めてだ。遠目にも綺麗な人だと思っていたけれど、近くで見るとその顔の造形はあまりに芸術的だった。高輪社長も美形だけれど、彼の顔には人間味というか愛嬌がある。対して彼は、悪魔と呼ばれるのが似合うくらい、恐ろしいほど整った容貌をしていた。
そんなことを考えていると、頬に手が触れた。指先が頬の丸みを撫で、耳に移る。耳珠と耳孔の入り口を指先でくすぐられて、ぞくぞくとした感覚が背筋を襲った。
「んっ」
思わず顔を背ける。零れた自分の声が信じられないほど甘く聞こえて、それでようやく我に返った。いつのまにか、彼に見とれて抵抗を忘れてしまっていた。
……え、あ、う、嘘、嘘……冗談でしょう⁉
大きな手が、私の首筋を撫でる。指先に少し力を入れて、肌の弾力を確かめるような撫で方に、身体がぞわぞわとして力が抜けた。慌てて覆い被さる黒木さんを押しのけようとしても、まったく歯が立たない。
白いワイシャツ越しに、筋肉質な硬い身体の感触が手のひらに伝わってくる。首筋から移動した彼の手が、乱れて開いたブラウスの中へ入り込んできた。
「ひゃっ」
変な声が出てしまったが、彼の手はまったく躊躇いなく進み、肩を撫でながらブラウスの布と一緒に下着の肩紐をずらしてしまう。
……なんで、なんでこんなことになっているの。
「あ、あの、あのっ……」
「なんだ」
声が冷たい。こんなことをしているのに、彼には少しの興奮も見られない。そう、だからこれは媚薬のせいなんかではないはずだ。だったら。
「なんでこんなことっ」
「なんで? 変なことを聞くな。そっちの思惑に乗ってやっているつもりだが」
思惑って何? 彼は一体なんの話をしているのか。
「そのつもりで部屋までついてきたんだろう」
「ち、違いま、あ、や、……! やめてやめて」
ブラジャーがずらされてコンプレックスの小さな胸が、彼の目に晒される。かあっと頭に血が集まって、頬が熱くなった。
いやー! なんでこの人、こんなに淡々と事を進めるの!
「み、見ないでくださいっ……」
胸を隠そうとした手は、簡単に彼の手に捕まってシーツの上に押し付けられた。もう片方の手も振り払われて、私のささやかな膨らみの横に彼の手が触れる。
「あ……う……」
見れば、胸の一番敏感な先を避けるように、横から包み込まれていた。とても、大きくて綺麗な手に。
指が長いなあ、なんて、呑気に考えている場合ではない。
視線を上げると、目の前にはじっと観察するように私を見ている黒い目がふたつ。
かああっと顔に熱が集まる。きっと今私の顔は、目も当てられないほど真っ赤になっていることだろう。
そこで、ふっと笑ったような吐息が聞こえた。黒木さんが少しだけ表情を和らげる。
「……まるで林檎だな」
バーで見た余所行きの笑顔じゃない。悪魔でもなくちゃんと血の通った人間に見えた。
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