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29 決戦前夜
しおりを挟む庭ダンジョンの浅い層に八坂女史が入れるようになってからというものの、彼女はほとんど毎日、家に来ては客間でパソコンとにらめっこをしている。
「あー、ネットカフェより快適」
「勝手知ったると言わんばかりだ」
(八坂女史が買ったものだが)アイスを食べながら彼女は客間に入ってきたこちらを眺めた。たしかにこの家はひとりで過ごすにはかなり広いけれど、ここまで自由に使われると困惑してしまうものだ。
昨日の雛月からの誘い以降、少しばかり気分が落ち込んでいた。絶望はいつだって感情の問題だ。それを盾に拒絶されてからというものの、彼女のことは諦めるしかないのだという念が強くなっていく。
八坂女史はこちらの表情をちらりと見ると、ノートパソコンに付箋紙を貼り付けた。その後、おどけた面持ちで笑った。
「どしたん? 話聞こか?」
「……いや、やっぱりいいわ」
「ごめんごめん! ふざけてごめん! 里見君のお友達のことでしょ!」
……友達。まあ、友達だな。両手をぱん! と合わせて頭を下げる女史に、ぽつりと呟く。
「昨日、庭ダンジョンに来てさ……取り逃した」
本当は捕まえる気がなかっただけだ。あの時は戦える状態じゃなかった。武器も持っていなければ……心構えだってできていなかったのだ。
八坂女史は間延びしたうなり声を発して、首を横に振る。
「たしかにそれは大事だけど、里見君が話したいのはそこじゃないよね」
「せっかくのチャンスを逃したんだぞ?」
もっと激しい叱責を浴びせてもおかしくはない。綱手さんにこれを言うとそれだけで済むとは思えないくらいにはことの大きさは分かっているつもりだ。
だがそんなことは関係ないとばかりに八坂女史はあっけらかんとしていた。
「そこはね、里見君が負けることはないから大丈夫だよ」
自分の意見の正しさを確信した面持ちに、俺は唖然としてしまう。そこからいくつか反論の言葉を紡ごうとして……やめた。どんな理由であっても俺の不手際を無視してくれるのであれば、それを受けなければ逆に失礼にあたる。
「付いてこないかって誘われた。……あいつに何が起こったかは分からない。話し合いは決裂したけれど……本当はあいつに立ち直って欲しい」
十年近く前。高校の美術室で見せていたあの笑顔を。無我夢中でキャンバスに向けていたあの情熱を。彼女に取り戻して欲しいと思ってしまうのは愚かなことだろうか。
こちらを見上げる八坂女史は一瞬だけ口をとがらせ……けれど何事もないように少し息をついた。
「……そんなに大事なんだ」
女史の言葉に、無言で頷く。
すると彼女はパソコンに再び目をやり、小声でなにかをつぶやき始める。何事かと思えば単純に考え事をしているよう。それがまとまると女史はぽんと両手を叩いた。
「じゃあ立ち直らせようよ。できるかどうかは分からないけれど、やってみないとずっと後悔したままになるからさ」
そう言う八坂女史はどこか遠くを見ているようで。彼女もなにか、誰か大事なモノとはぐれるようなことがあったのかもしれない。
「最後までやれることはやってみるよ。……ありがとう」
小さく頭を下げると、八坂女史はニッと口角を上げて見せた。
「じゃあさ、絵を教えてよ。この戦いが終わったら、出てみたいんだよね、コミケ」
「いいよ。……俺もコミケに出てみるか」
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