夢で死んでしまう君が、現実で死んでしまわぬように

桐条京介

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第26話 返却

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 親友の清春に、ひとしきり彼女とはいいものだと有頂天で惚気報告をし終えた大樹のスマホが、広げられたはいいが一切手のついていない参考書が散らばる勉強机で鳴り出した。

 もしかしたら彼女からだろうかと考え、その言葉の響きで大樹は頬を緩ませる。

 生まれて初めての恋人だ。家族も訝しむほどの舞い上がりぶりだが、それも仕方ないだろうと暴走気味の自分自身にもあえてブレーキをかけない。正確には自制できなくなっているだけだが。

「……え?」

 着信画面に表示された名前は、今日から交際を始めた少女のものではなかった。

 白く浮かび上がる瑞原愛美の文字に、何かを思い出したかのように心臓が大きく跳ねた。

 罪悪感にも似た奇妙な感情とほんの少しの息苦しさ。思考が止まりそうになったが、無視するわけにもいかずに大樹は電話に出る。

「聞いたよ。楓と付き合えたんだってね。さっきまで散々惚気られちゃった。おめでと」

 自分の事のように浮かれた声。考えてみれば、一芝居打ってまで大樹と楓の仲が進展するように仕向けたのは他ならぬ愛美だ。遠慮する必要はないのである。

(……遠慮? 一体何に? 俺は……)

 言葉にできない不安が心に広がっていくも、あえて気にしないようにする。

「あたしも手助けしたかいがあるってものね」

 あくまでも嬉しそうにする愛美に、ほぼ反射的に大樹は聞いてしまっていた。

「愛美はそれでいいのか?」

 どうしてなのか。どのような意味を持つのか。大樹自身にもよくわからない。

 気がつけばしていた問いかけに、愛美が返したのは数呼吸に渡る沈黙だった。

「……何でそんなこと聞くの?」

「……わからない」

 はあと息を吐く音が受話口を通して伝わる。緊張しているような、震えているような、形容の難しいため息に心がザワめく。

 けれど大樹が新たな言葉を紡ぐより先に、愛美は先ほどまでの元気を取り戻す。

「当然じゃない。前に言ったでしょ。大樹の恋を応援するって。だからこれが最後の電話。彼女がいる男の人に、他の女の子が夜に電話したらマズイもんね」

 口早に言い、大樹が何も返せない間に愛美は本当におめでとうと最後にもう一度祝福して電話を切った。

 ツーツーという音が、大樹の鼓膜へやけに無情に響いた。

     ※

 青い空、青い海。

 入道雲だけは白く、巻き込まれてなるものかとばかりに一際高い位置で太陽が輝く。

 夏定番の景色は鮮やかで、何度見ても飽きることはない。

 なのにテレビの砂嵐が漏れ出たかのようなノイズが、そこかしこに浸食しているせいで台無しだ。

 穴場なのか、これほど良い場所なのに他に海水浴客はいない。

 勝手に動く視界。

 自分でいて、自分ではないような感覚。

 瞬きを繰り返しても消えないノイズ。

 うだるような暑さも、砂の熱さも感じない。雲の上を歩いているみたいな浮遊感が、現実とは違う場所にいるのだと教えてくれる。

 これは夢だ。大樹は理解する。

 従来の夢は起きるまでそうと気づけないはずなのに、この場に本当に立っているのかもわからない大樹には、何故かそれがはっきりと理解できる。

 まさかの思いが強くなる。ここしばらくは見ていなかった例の夢と雰囲気がそっくりだった。

 周囲を見渡す。やはり他に海水客はいない。海の家すらなく、ここが市内なのかも不明だ。

 ノイズが一段と激しくなる。

 大樹は慌てた。視界が激しくブレる。

 誰もいない。

 何もない。

 ならばどうして、こんな夢を見るのか。

 交通事故の時も、飛び降りの時も、かならず夢の主人公は大樹ではなく愛美だった。けれど今回は探しても見つからない。

 声を出そうとするも、何故か口は動かない。歩き回ることさえ出来ない。ただその場から視線を動かすだけ。

 得体の知れない不安と恐怖が大きくなる。何を知らせたいのか、何を見せたいのか。おぼつかない思考のままで、右に左にと見える場所を変える。

 遠く離れた浜辺で、フリーバックの水色の水着を着た少女が、砂を蹴って海へ飛び込み、楽しそうというよりは没頭するように泳ぎだす。

 遠目ではよくわからないが、それでも大樹にはあの女性が愛美だと理解できた。

 誰もいない海でひとしきり泳いで気持ちよさそうにする少女は、今度は離れた位置にあるテトラポットのところまでいこうと手足を動かす。掻き分けられる水飛沫が空中で宝石のように煌めき、しばし大樹は目を奪われる。

 悪夢ではなく、もしかして平和な結末でも見せようとしているのだろうか。

 夢の終わりということでノイズの走った、見辛いテレビ番組みたいな映像になっているのだろうか。

 そんなことを考えていて、ふと異変に気づく。先ほどまでと違って海に平穏が戻っているのだ。

 ドクンと心臓が大きく打った。

 一瞬だけ水面から顔が浮かぶ。

 とても苦しそうな愛美の顔が。

 伸ばした手を暴れるように動かすも、彼女の姿が大樹の視界で大きくなってこない。

 大声で叫びたいのに、どうしても声が出ない。

 次第に水面から、愛美が顔を出す機会が減っていき、そして、ついに浮かんでこなくなった。

 無限とも思える時間、大樹はその場に立ち尽くしていた。

 世界が金色に染まり、空の主役が月に交代しても、海は何事もなかったかのように雄大にそこへ存在する。寄せては引いていく波は穏やかで、呑み込まれた者の名残すら感じさせない。

 救急車もヘリコプターも来ない。

 大樹はずっとそこにいた。

 遠くから闇が払われ、日が昇ってもそこにいた。

 呆然とそこにいた。

 砂浜の隅、いなくなった少女の物と思われるバッグが、寂しそうにポツンと取り残されていた。

     ※

 いつ目が覚めたのかもわからなかった。気がつけば大樹は自分の部屋の中にいて、パジャマを例のごとく汗でぐっしょり濡らしていた。

 見慣れた天井に、心底安堵させてもらえる日が来るとは夢にも思っていなかった。

「まさか……また……あいつの夢を見るなんてな……」

 自殺を阻止して以降は見る機会がなくなっていたので、すっかり油断していた。不意打ち気味の悪夢は、浮かれきった心に莫大なダメージを与えた。

 近くに店も道路もない砂浜。綺麗で解放感たっぷりだったが、どこまでも寂しかった。あれは愛美に隠されている心情なのだろうか。

「……さっぱりわからねえよ、ちくしょう」

 鬱蒼とした気分を抱えながら身支度を整え、学校へ行こうと外へ出る。

 ふと牛乳瓶箱の蓋が少しだけ開いているのに気づく。郵便入れと間違えられたのだろう。珍しいことではない。

「これ……愛美の奴、家に来たのか……?」

 見覚えのあるハンカチに包まれていたのは、小さな女児の人形だった。
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