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第10話 決死
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「……愛美ちゃん?」
呆然とする大樹を訝しんだ楓が、同じ方に顔を向けて声を上げた。
「あっ、かえ……げっ」
友人の楓へ振ろうと上げた愛美の手が、途中で緊急停止する。歪められた大きな瞳に映し出されているのは、間違いなく朝に言い争いを繰り広げた大樹だろう。
ついこの間「げっ」と反射的に言ってしまったのを叱責されたが、同じ指摘をするより先に、前へ出た楓が笑顔であれこれと話しかけ始める。
「お祖母さんのお家へ行く用事は終わったの?」
「これから。さっき買い物をしすぎて困ってるお婆ちゃんがいてさ、家が近くだったから運ぶのを手伝ってあげたの。あたしらも気を付けないとね。持って帰れると思っても、途中で辛くなっちゃう時あるし」
「うふふ、そうね。それじゃあ、これからお祖母さんのお家へ行くのね」
「うん。十分くらい遅れちゃったけどね」
何気なく発せられた十分程度という言葉に、嫌な予感が急速に膨れ上がる。
親友が懸命に稼いでくれた時間は十一分二十八秒。
考えるほどに胃の辺りがキュウと痛くなり、おいおいという呟きが零れる。
「じゃ、あたしは行くわ。また難癖つけられてもたまらないし」
わざと大樹に一瞥をくれ、足早に立ち去ろうとする愛美を見送ろうとした直後、半ば予想をしていた光景を目の当たりにして、大樹は壊れそうなくらい奥歯を強く噛んだ。
同時に、大樹は腕を伸ばして細い手首を捕まえた。
「何するのよっ。痴漢って叫ばれたいの!」
「いいからちょっとこっちにいろ!」
余裕を失っていた大樹の怒鳴り声に、さすがの愛美もビクっとして抵抗の力を弱めた。
これでこっちが車へ向かっていくのは避けられた。あとは何事もなく通り過ぎてくれれば、悪夢にうなされることもなくなる。
排気音が響く。変な汗が全身から噴き出して止まらない。
肌着が肌に張りついて気持ち悪い。
ゆっくりと呼吸ができない。
瞬きを忘れた瞼の下で眼球が渇く。
耳の奥で響くような大きな鼓動音に合わせて身体が揺れる。
一秒一秒がゆっくりで、まるでコマ送りみたいに、視界の中を白犬のマークが特徴的なトラックが進む。
運転手は両手でハンドルを握っており、緊迫した雰囲気はない。
それでも大樹は繰り返す。
早く。
早く行ってくれと。
何度も何度も繰り返す。
――ギュオオと、甲高い悲鳴のような音が大空に木霊した。
瞬時に見開かれる運転手の目。忙しなく動く両手。回転するハンドル。制御を失って傾く車体。硬直する、手を繋いだままの女性。
「大樹っ!」
切羽詰まった親友の声が鼓膜に突き刺さる。
普段の姿からは考えられない、どこかヒステリックな叫び声を想い人が放つ。
時間の流れに取り残されたように身体が動かない。どんどんトラックが大きくなってくる。
動け。
動け。
動け、動け、動け。
「動けえぇぇぇ!」
失禁しそうな恐怖を抑え込み、腹に力を入れて叫んだ刹那、大樹は倒れ込むようにして道路脇へと逃れた。
地面を転がる背中を掠めるように、トラックの大きなタイヤが通り過ぎる。
避けたタイヤからはみ出したホイールが地面と激突し、削るような嫌な音を立てながらフェンスへ向かう。
無理矢理楽器を鳴らしたような、急ブレーキが立ち上らせる焦げたにおい。
ガチャンと何かが割れるような音に続き、重い衝突音が倒れたままの背中に降り注ぐ。
「ぐ、う……い、生きてる……のか……」
妙にシンと静まった世界で、真っ先に大樹が抱いた感想だった。
倒れた際に擦りむいたのか、ほんの少しだけ左肘がヒリヒリするも、強い痛みはない。腕や足もどうやら折れてはいないらしく、指にも力が入る。
「うっ、あっ……」
すぐ下から喘ぐような女性の声が聞こえた。
落とした視線の先には、顔を蒼褪めさせた愛美の姿があった。手を繋いでいたので、彼女を守るような体勢になっていたのだ。
どうやら無事のようだと安堵の息をつき、改めて状況を確認する。
タイヤがバーストしたと思われるトラックが意図せぬ方向転換で迫り、すんでのところで、大樹はなんとか回避できた。
重なるようにして倒れ込んだ少女の顔が右腕のすぐ左にあり、握力があるのを確かめたばかりの左手は何か柔らかいものを掴んでいる。
(……ん? なんだか左手が心地いいような……)
正体を突き止めるべく指を動かし、全体的な形状を確かめる。
お椀のように丸く、それでいて質感はもちもちだ。指が沈みそうなくらい柔らかいのに、マシュマロのような弾力まで備えている。
揉むようにするたび、愛らしい少女の表情がどこか悩ましげに歪んだ。
リップの塗られた艶やかな桃色の唇の隙間から、溢れるように飛び出す熱い吐息に頬をくすぐられ、ようやく大樹は自らのしでかしている愚行に思い至って戦慄する。
恐る恐る確認する愛美の顔は、茹蛸でもかくやというほど赤く染まり、やがて切れ長の目尻に薄っすらと恥辱と怒りに彩られた涙が浮かぶ。
「あ、あの……何だ……助かって、よかったな」
無理矢理に作った笑顔を披露してはみたが、この状況下では逆効果でしかなかった。
「いつまで触ってんのよ、バカァ!」
泣きそうになりながら様子を見に来た親友と想い人が目撃したのは、馬乗りになっている女性から強烈な平手を見舞われて、ぶほっと倒れるかくも情けない大樹の姿だった。
※
「夢、ねえ。まだ信じられないわ」
祖母宅まで付き合ったあと、大樹たちは愛美も一緒に大型スーパーの三階にあるカフェレストランへやってきていた。詳しい状況の説明をするためだ。
「俺もだよ。殴られるのがわかってたら、見捨てたんだけどな」
「あれはあんたが悪いんでしょ! 乙女のおっぱいをなんだと思ってるのよ!」
身を乗り出して抗議する愛美を、隣席の楓が宥める。顔には苦笑が張りついていた。
悪気はなかったと言い続け、なんとか事なきを得てはいたが、いまだジンジンと痛む頬が迂闊な発言を招いた原因だろう。
「合法的痴漢」
「お前は誰の味方だよ」
隣でストローを使ってカフェオレを飲む清春をジト目で睨み、大袈裟にため息をついて、胸揉み事件から話題を変える。
「ところで、田畑さんは大丈夫だったかな」
トラックの運転手はやはり田畑さんだった。
きちんと車体の整備は欠かさず行っていたにもかかわらず、突然にタイヤが破裂したことに心底驚いていた。土下座せんばかりの謝罪をする際も顔は血の気を失っており、誰も怪我がなかったのを知って腰を抜かした姿が印象的だった。
「荷物は他のドライバー」
唯一田畑さんと顔見知りで、その場を離れるまであれこれと話をしていた清春が言った。
「そうだな。それに俺もようやく安眠できそうだ。誰かの夢から解放されるだろうし」
「悪かったわね。まあ、でも助けられたのは事実だからお礼は言っておくわ。胸を揉みしだかれたのも事実だけど」
「その分、キツイのを一発入れたろうが」
「足りないわ。明日には泣きながらクラスで被害を訴えてしまいそう」
愛美は悪びれもせずに言ってのけ、窓から三階のゲームコーナーを眺めつつ、口元に悪女全開の笑みを浮かべた。
「お前、さすがにあんまりだろっ」
この女ならやりかねないと、本気で反応してしまったのが運の尽きだった。
「でしょ? だからチョコレートパフェで手を打ってあげる」
「なっ――! ここのチョコパフェ、千円もするんだぞ、正気か!?」
「正気も正気よ。せっかくだから楓の分もね」
私はいいよと、申し訳なさそうにする楓の慎ましやかさに心を打たれている間に、情け容赦なくベルを鳴らして店員を呼んだ悪女がチョコレートパフェを注文する。
「二つじゃなく三つ」
さらりと親友が上乗せするのを聞き、半ばヤケクソになった大樹がさらに訂正した。
「四つでお願いします!」
午後でさほど人気のないカフェレストランで、ワイワイガヤガヤとチョコレートパフェを食べる。
思わぬ出費となってしまったが、悪夢を乗り越えたご祝儀だと思えば安いものだ。何よりとても楽しくて、大樹も久しぶりにお腹を抱えて笑うことができた。
呆然とする大樹を訝しんだ楓が、同じ方に顔を向けて声を上げた。
「あっ、かえ……げっ」
友人の楓へ振ろうと上げた愛美の手が、途中で緊急停止する。歪められた大きな瞳に映し出されているのは、間違いなく朝に言い争いを繰り広げた大樹だろう。
ついこの間「げっ」と反射的に言ってしまったのを叱責されたが、同じ指摘をするより先に、前へ出た楓が笑顔であれこれと話しかけ始める。
「お祖母さんのお家へ行く用事は終わったの?」
「これから。さっき買い物をしすぎて困ってるお婆ちゃんがいてさ、家が近くだったから運ぶのを手伝ってあげたの。あたしらも気を付けないとね。持って帰れると思っても、途中で辛くなっちゃう時あるし」
「うふふ、そうね。それじゃあ、これからお祖母さんのお家へ行くのね」
「うん。十分くらい遅れちゃったけどね」
何気なく発せられた十分程度という言葉に、嫌な予感が急速に膨れ上がる。
親友が懸命に稼いでくれた時間は十一分二十八秒。
考えるほどに胃の辺りがキュウと痛くなり、おいおいという呟きが零れる。
「じゃ、あたしは行くわ。また難癖つけられてもたまらないし」
わざと大樹に一瞥をくれ、足早に立ち去ろうとする愛美を見送ろうとした直後、半ば予想をしていた光景を目の当たりにして、大樹は壊れそうなくらい奥歯を強く噛んだ。
同時に、大樹は腕を伸ばして細い手首を捕まえた。
「何するのよっ。痴漢って叫ばれたいの!」
「いいからちょっとこっちにいろ!」
余裕を失っていた大樹の怒鳴り声に、さすがの愛美もビクっとして抵抗の力を弱めた。
これでこっちが車へ向かっていくのは避けられた。あとは何事もなく通り過ぎてくれれば、悪夢にうなされることもなくなる。
排気音が響く。変な汗が全身から噴き出して止まらない。
肌着が肌に張りついて気持ち悪い。
ゆっくりと呼吸ができない。
瞬きを忘れた瞼の下で眼球が渇く。
耳の奥で響くような大きな鼓動音に合わせて身体が揺れる。
一秒一秒がゆっくりで、まるでコマ送りみたいに、視界の中を白犬のマークが特徴的なトラックが進む。
運転手は両手でハンドルを握っており、緊迫した雰囲気はない。
それでも大樹は繰り返す。
早く。
早く行ってくれと。
何度も何度も繰り返す。
――ギュオオと、甲高い悲鳴のような音が大空に木霊した。
瞬時に見開かれる運転手の目。忙しなく動く両手。回転するハンドル。制御を失って傾く車体。硬直する、手を繋いだままの女性。
「大樹っ!」
切羽詰まった親友の声が鼓膜に突き刺さる。
普段の姿からは考えられない、どこかヒステリックな叫び声を想い人が放つ。
時間の流れに取り残されたように身体が動かない。どんどんトラックが大きくなってくる。
動け。
動け。
動け、動け、動け。
「動けえぇぇぇ!」
失禁しそうな恐怖を抑え込み、腹に力を入れて叫んだ刹那、大樹は倒れ込むようにして道路脇へと逃れた。
地面を転がる背中を掠めるように、トラックの大きなタイヤが通り過ぎる。
避けたタイヤからはみ出したホイールが地面と激突し、削るような嫌な音を立てながらフェンスへ向かう。
無理矢理楽器を鳴らしたような、急ブレーキが立ち上らせる焦げたにおい。
ガチャンと何かが割れるような音に続き、重い衝突音が倒れたままの背中に降り注ぐ。
「ぐ、う……い、生きてる……のか……」
妙にシンと静まった世界で、真っ先に大樹が抱いた感想だった。
倒れた際に擦りむいたのか、ほんの少しだけ左肘がヒリヒリするも、強い痛みはない。腕や足もどうやら折れてはいないらしく、指にも力が入る。
「うっ、あっ……」
すぐ下から喘ぐような女性の声が聞こえた。
落とした視線の先には、顔を蒼褪めさせた愛美の姿があった。手を繋いでいたので、彼女を守るような体勢になっていたのだ。
どうやら無事のようだと安堵の息をつき、改めて状況を確認する。
タイヤがバーストしたと思われるトラックが意図せぬ方向転換で迫り、すんでのところで、大樹はなんとか回避できた。
重なるようにして倒れ込んだ少女の顔が右腕のすぐ左にあり、握力があるのを確かめたばかりの左手は何か柔らかいものを掴んでいる。
(……ん? なんだか左手が心地いいような……)
正体を突き止めるべく指を動かし、全体的な形状を確かめる。
お椀のように丸く、それでいて質感はもちもちだ。指が沈みそうなくらい柔らかいのに、マシュマロのような弾力まで備えている。
揉むようにするたび、愛らしい少女の表情がどこか悩ましげに歪んだ。
リップの塗られた艶やかな桃色の唇の隙間から、溢れるように飛び出す熱い吐息に頬をくすぐられ、ようやく大樹は自らのしでかしている愚行に思い至って戦慄する。
恐る恐る確認する愛美の顔は、茹蛸でもかくやというほど赤く染まり、やがて切れ長の目尻に薄っすらと恥辱と怒りに彩られた涙が浮かぶ。
「あ、あの……何だ……助かって、よかったな」
無理矢理に作った笑顔を披露してはみたが、この状況下では逆効果でしかなかった。
「いつまで触ってんのよ、バカァ!」
泣きそうになりながら様子を見に来た親友と想い人が目撃したのは、馬乗りになっている女性から強烈な平手を見舞われて、ぶほっと倒れるかくも情けない大樹の姿だった。
※
「夢、ねえ。まだ信じられないわ」
祖母宅まで付き合ったあと、大樹たちは愛美も一緒に大型スーパーの三階にあるカフェレストランへやってきていた。詳しい状況の説明をするためだ。
「俺もだよ。殴られるのがわかってたら、見捨てたんだけどな」
「あれはあんたが悪いんでしょ! 乙女のおっぱいをなんだと思ってるのよ!」
身を乗り出して抗議する愛美を、隣席の楓が宥める。顔には苦笑が張りついていた。
悪気はなかったと言い続け、なんとか事なきを得てはいたが、いまだジンジンと痛む頬が迂闊な発言を招いた原因だろう。
「合法的痴漢」
「お前は誰の味方だよ」
隣でストローを使ってカフェオレを飲む清春をジト目で睨み、大袈裟にため息をついて、胸揉み事件から話題を変える。
「ところで、田畑さんは大丈夫だったかな」
トラックの運転手はやはり田畑さんだった。
きちんと車体の整備は欠かさず行っていたにもかかわらず、突然にタイヤが破裂したことに心底驚いていた。土下座せんばかりの謝罪をする際も顔は血の気を失っており、誰も怪我がなかったのを知って腰を抜かした姿が印象的だった。
「荷物は他のドライバー」
唯一田畑さんと顔見知りで、その場を離れるまであれこれと話をしていた清春が言った。
「そうだな。それに俺もようやく安眠できそうだ。誰かの夢から解放されるだろうし」
「悪かったわね。まあ、でも助けられたのは事実だからお礼は言っておくわ。胸を揉みしだかれたのも事実だけど」
「その分、キツイのを一発入れたろうが」
「足りないわ。明日には泣きながらクラスで被害を訴えてしまいそう」
愛美は悪びれもせずに言ってのけ、窓から三階のゲームコーナーを眺めつつ、口元に悪女全開の笑みを浮かべた。
「お前、さすがにあんまりだろっ」
この女ならやりかねないと、本気で反応してしまったのが運の尽きだった。
「でしょ? だからチョコレートパフェで手を打ってあげる」
「なっ――! ここのチョコパフェ、千円もするんだぞ、正気か!?」
「正気も正気よ。せっかくだから楓の分もね」
私はいいよと、申し訳なさそうにする楓の慎ましやかさに心を打たれている間に、情け容赦なくベルを鳴らして店員を呼んだ悪女がチョコレートパフェを注文する。
「二つじゃなく三つ」
さらりと親友が上乗せするのを聞き、半ばヤケクソになった大樹がさらに訂正した。
「四つでお願いします!」
午後でさほど人気のないカフェレストランで、ワイワイガヤガヤとチョコレートパフェを食べる。
思わぬ出費となってしまったが、悪夢を乗り越えたご祝儀だと思えば安いものだ。何よりとても楽しくて、大樹も久しぶりにお腹を抱えて笑うことができた。
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