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第4話 懸念
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午後のグラウンドは梅雨前だというのに、これまでとは違うギラつきに溢れていた。
日差しが急に厳しさを倍増させたのではない。最大の原因は女子の体育が自習となり、グラウンドへ男子の見学にやってきたからだった。
北高は学年毎にクラスが六つある。すべて普通科だ。体育の授業は男女別で行われるため、共に二クラス合同となる。大樹たちA組でいえば隣のB組と一緒だ。
グラウンドの奥側が野球、手前側がソフトボールでA組とB組で試合中である。運動が苦手ではないが、野球部が気合を入れて頑張る野球側へ行く気にはなれず、味方の攻撃中に親友の清春と日陰になるクスノキの下で雑談をしていた。
「ふふっ、こんなところで涼んでるなんて、いけない大樹君ね」
よく耳に馴染む鈴の転がすような声が、穏やかな微風のように耳孔へ入り込む。
後ろ向きに倒した顔の視界に飛び込んできたのは、膝に手を当てて前かがみになって、大樹を覗き込んでいる楓だった。清流のような横髪を、スッと耳にかける仕草が清純さの中に艶かしさを宿らせる。
浮かべているのは、悪戯っ子を発見したお姉さんのような笑顔。見ているだけで心臓が際限なく高鳴り、ドキドキしすぎて止まるのではないかと不安になるほどだった。
頬どころか顔全体が熱っぽくなり、昨日から名前で呼び合うようになった少女から目が離せなくなっていき――
――唐突にグラウンドへ木霊した悲鳴で、反射的に顔の位置を変える。
もう一本あるクスノキの下で、大樹たち同様に日陰を求めた女性たちが騒いでいる。中心にいるのは愛美だった。
何かと大樹に絡む癖のある少女は甲高い声で「毛虫、毛虫」と連呼し、慌てふためいた挙句にグラウンドの土に躓いてドスンとお尻を落下させた。
涙目で痛いと呻く愛美。心配げな楓と一緒に眺めていたら、どこぞにセンサーでもついているのか、猛烈な勢いで視線がぶつかった。
跳ねるように立ち上がった少女は顔を真っ赤にして、お尻についた土を両手で払い、周囲の心配をよそに、大股で大樹との距離を詰めてくる。
「笑ったでしょ」
「笑ってない。被害妄想だって」
真摯に対応しているが、信じてもらえない。こうなると単純に大樹を虐めたいだけなのではないかとも思えてくる。
「清春も何か言ってくれよ」
「成立中のフラグは壊せない」
いつも同様にポツリとトンデモ理論を口にした親友は、あろうことか顔を逸らしてしまった。
「ふざけてないで、あたしの質問に答えなさいよ。あっ! さては不幸が降り掛かるように呪いをかけたわね!」
「何だ、その理論は。俺は呪術師じゃないぞ。もういい加減にしてくれよ!」
※
我慢できずに叫んだ大樹の視界に飛び込んできたのは、よく見慣れた天井だった。
遮光性のカーテンに遮られて日差しは隙間から細々と届いている程度で、室内は薄暗い。
ぶるりと上半身を中心に寒気が走る。瞼の裏に焼き付くようだった眩しい日差しも、耳元で放たれるキンキン声も存在しない。
毛布をどけるように置き、俯かせた額から大きめの雫がポタリと落ちる。新たな染みを作りようのないほど、洗い替え用のパジャマは濡れそぼっていた。
夢だと気づいてため息をついたあと、大樹はまた洗濯物が増えるなと一人ごちる。
悲惨さの程度は違うが、昨夜に引き続いての妙に生々しい夢。おまけにまたしても天敵と形容しても差し支えのない瑞原愛美が登場していた。
後味は昨日のほど悪くはないが、二夜続けてだとさすがに印象に残るというか不気味だった。
「クソッ、何だってんだよ」
多量の汗を含んで重くなっているパジャマを剥ぎ取るように脱ぐ。
どうやら今朝もシャワーを浴びて登校する羽目になりそうだった。
※
大樹は気怠い疲労感に苛まれ、朝のホームルームからぐったりし続けて、なんとか気力を回復させたのは昼過ぎになってからだった。
昼休みになると、一階昇降口の前で業者が横向きにした長机の上にパンを乗せて売り始める。一番人気はハムカツサンド。熱々の蕩けるチーズとサクサクの衣のハーモニーはまさに絶品だ。
高い競争倍率の末に獲得したハムカツサンドを、校内の自販機で購入した四角い紙パックのコーヒー牛乳で胃袋へ流し込みながら、大樹は教室で向かい合って座っている親友に愚痴る。
「フラグとか言ってくれるなよ。意外と疲れてんだ、精神的に」
「そうか。でも午後は数学と物理だ」
短い説明のあとに、口数の少ない清春ならではの心遣いが感じられる。
今日の授業内容に体育がないのは、大樹も朝の時点で確かめており、だからこそ不愉快ながらもくだらない夢の話として親友に教えたのである。
「やっぱり苦手意識のせいなのか。はあ。昨日はせっかく良い事があったってのに」
「小山内とのフラグが立ったのか?」
眼球だけを動かした清春の短い言葉。即座に顔を真っ赤にした大樹が、心の中でどうしてわかったと叫んでいるのはエスパーでなくともわかるに違いない。
「春に辿り着くまで長かった」
初めて出会ったその時に一目惚れしたことまでバレているらしい。ますます大樹は内心の動揺を強くする。
「俺、話したことあったっけ?」
「見てればわかる」
「……マジか。ということは、他の奴らにもバレてる?」
「そこまでは」
わからないというように、清春は首を小さく左右に振った。
確かに指摘通りではあるし、何より清春は親友で口が堅いのもわかっている。強情に隠し通す必要はなかった。これまでは大っぴらに話す趣味がないので黙っていただけだ。
「まあ、そうだよ。昨日、お前と別れたあとに小山内――いや、楓と会ったんだ」
昨日のナンパ撃退の一幕を、格好つけたい年頃らしく活躍度を若干上乗せしつつ教える。
「フラグだな」どことなく清春は楽しそうだ。
「堕ちる寸前か?」
「個人ルートに入る最初のだな」
現実の出来事でさえ、ギャルゲーのイベントに置き換えて考える癖のある親友は、冗談交じりではなく本気で喋っている。
「先は長いってことか。ゲームみたいにやり直しができて、攻略本とかもあればいいのにな」
頭の後ろで両手を組み、背もたれに体重の大半を預ける。椅子のギシリという音を聞きながら、危うく反り返りそうになった大樹に静かで淑やかな足音が近づいてくる。
「大樹君」
名前を呼ぶ涼風を思わせる優しげな声が鼓膜を震わせる。すぐに誰の声かを察し、大樹は下手すればひっくり返りそうな勢いで体勢を変えた。
「か、楓か。ど、どうしたんだ」
無意識にどもってしまう。口調は昨日までと変わらないのに、名前で呼ぶようになっただけで何とも言えない緊張感に包まれる。
混乱を極めた精神が迷走をしかねない大樹とは対照的に、目の前に現れた少女の態度は普段そのままだ。華憐な花が咲くように、ふわりとした笑みを浮かべて小さく顔を傾ける。
「聞いた? 午後の授業が変更になるみたいなの」
初耳だった大樹は「変更?」と彼女に聞き返す。なんだか嫌な予感した。
「急だけれど、次の授業は体育になったの。ジャージを持ってきていない人は、制服姿で見学も許可されるそうよ」
衝撃的としかいいようのない情報だった。
楓曰く、本来の授業の担当教諭が体調不良により早退。同教科を担当する他の教諭は手が空いておらず、時間が開いていたのが体育教師だけだったのでそうなったらしい。
一緒に話を聞いていた清春がポツリと呟く。「フラグか」
「え? 井出君、何か言った?」
「いや。それより俺は平気なのか」
楓の人見知りぶりは、クラスの違う生徒でも知っているほど有名だ。清春の質問の意図を理解した彼女は、微笑みを絶やさずに肯定の頷きをする。
「大樹君と一緒にいるからかな、大丈夫みたい。井出君一人だと、無理かもしれないけれど」
「愛の力か」
大樹は椅子からずり落ちそうになり、楓は熟れた林檎のごとく赤面する。
「そ、そういうのじゃないわよ。私と大樹君はただの友達だもの。ね?」
太腿の前で合わせた手をもじもじさせながら、慌てぶりを感じさせるような笑顔で好意を否定し、友人という関係を念押しする。
ここで俺は違うと言えれば恰好良いのだが、生憎とヘタレな大樹にそんな度胸はなかった。もしあれば十二年目に突入する前に結末はどうあれ、片想い歴は終了していたはずだ。
「そ、そうだな。うん。は、ははは」
結果、愛想笑いとも照れ笑いともとれるリアクションを返して終わりになる。
「じゃあ、私は行くわね。大樹君達も準備をした方がいいわよ」
その言葉とシャンプーの爽やかな香りを残し、楓は立ち去る。
そのすぐあと、次の授業が変更になったのを日直の生徒が黒板に書き始めた。
日差しが急に厳しさを倍増させたのではない。最大の原因は女子の体育が自習となり、グラウンドへ男子の見学にやってきたからだった。
北高は学年毎にクラスが六つある。すべて普通科だ。体育の授業は男女別で行われるため、共に二クラス合同となる。大樹たちA組でいえば隣のB組と一緒だ。
グラウンドの奥側が野球、手前側がソフトボールでA組とB組で試合中である。運動が苦手ではないが、野球部が気合を入れて頑張る野球側へ行く気にはなれず、味方の攻撃中に親友の清春と日陰になるクスノキの下で雑談をしていた。
「ふふっ、こんなところで涼んでるなんて、いけない大樹君ね」
よく耳に馴染む鈴の転がすような声が、穏やかな微風のように耳孔へ入り込む。
後ろ向きに倒した顔の視界に飛び込んできたのは、膝に手を当てて前かがみになって、大樹を覗き込んでいる楓だった。清流のような横髪を、スッと耳にかける仕草が清純さの中に艶かしさを宿らせる。
浮かべているのは、悪戯っ子を発見したお姉さんのような笑顔。見ているだけで心臓が際限なく高鳴り、ドキドキしすぎて止まるのではないかと不安になるほどだった。
頬どころか顔全体が熱っぽくなり、昨日から名前で呼び合うようになった少女から目が離せなくなっていき――
――唐突にグラウンドへ木霊した悲鳴で、反射的に顔の位置を変える。
もう一本あるクスノキの下で、大樹たち同様に日陰を求めた女性たちが騒いでいる。中心にいるのは愛美だった。
何かと大樹に絡む癖のある少女は甲高い声で「毛虫、毛虫」と連呼し、慌てふためいた挙句にグラウンドの土に躓いてドスンとお尻を落下させた。
涙目で痛いと呻く愛美。心配げな楓と一緒に眺めていたら、どこぞにセンサーでもついているのか、猛烈な勢いで視線がぶつかった。
跳ねるように立ち上がった少女は顔を真っ赤にして、お尻についた土を両手で払い、周囲の心配をよそに、大股で大樹との距離を詰めてくる。
「笑ったでしょ」
「笑ってない。被害妄想だって」
真摯に対応しているが、信じてもらえない。こうなると単純に大樹を虐めたいだけなのではないかとも思えてくる。
「清春も何か言ってくれよ」
「成立中のフラグは壊せない」
いつも同様にポツリとトンデモ理論を口にした親友は、あろうことか顔を逸らしてしまった。
「ふざけてないで、あたしの質問に答えなさいよ。あっ! さては不幸が降り掛かるように呪いをかけたわね!」
「何だ、その理論は。俺は呪術師じゃないぞ。もういい加減にしてくれよ!」
※
我慢できずに叫んだ大樹の視界に飛び込んできたのは、よく見慣れた天井だった。
遮光性のカーテンに遮られて日差しは隙間から細々と届いている程度で、室内は薄暗い。
ぶるりと上半身を中心に寒気が走る。瞼の裏に焼き付くようだった眩しい日差しも、耳元で放たれるキンキン声も存在しない。
毛布をどけるように置き、俯かせた額から大きめの雫がポタリと落ちる。新たな染みを作りようのないほど、洗い替え用のパジャマは濡れそぼっていた。
夢だと気づいてため息をついたあと、大樹はまた洗濯物が増えるなと一人ごちる。
悲惨さの程度は違うが、昨夜に引き続いての妙に生々しい夢。おまけにまたしても天敵と形容しても差し支えのない瑞原愛美が登場していた。
後味は昨日のほど悪くはないが、二夜続けてだとさすがに印象に残るというか不気味だった。
「クソッ、何だってんだよ」
多量の汗を含んで重くなっているパジャマを剥ぎ取るように脱ぐ。
どうやら今朝もシャワーを浴びて登校する羽目になりそうだった。
※
大樹は気怠い疲労感に苛まれ、朝のホームルームからぐったりし続けて、なんとか気力を回復させたのは昼過ぎになってからだった。
昼休みになると、一階昇降口の前で業者が横向きにした長机の上にパンを乗せて売り始める。一番人気はハムカツサンド。熱々の蕩けるチーズとサクサクの衣のハーモニーはまさに絶品だ。
高い競争倍率の末に獲得したハムカツサンドを、校内の自販機で購入した四角い紙パックのコーヒー牛乳で胃袋へ流し込みながら、大樹は教室で向かい合って座っている親友に愚痴る。
「フラグとか言ってくれるなよ。意外と疲れてんだ、精神的に」
「そうか。でも午後は数学と物理だ」
短い説明のあとに、口数の少ない清春ならではの心遣いが感じられる。
今日の授業内容に体育がないのは、大樹も朝の時点で確かめており、だからこそ不愉快ながらもくだらない夢の話として親友に教えたのである。
「やっぱり苦手意識のせいなのか。はあ。昨日はせっかく良い事があったってのに」
「小山内とのフラグが立ったのか?」
眼球だけを動かした清春の短い言葉。即座に顔を真っ赤にした大樹が、心の中でどうしてわかったと叫んでいるのはエスパーでなくともわかるに違いない。
「春に辿り着くまで長かった」
初めて出会ったその時に一目惚れしたことまでバレているらしい。ますます大樹は内心の動揺を強くする。
「俺、話したことあったっけ?」
「見てればわかる」
「……マジか。ということは、他の奴らにもバレてる?」
「そこまでは」
わからないというように、清春は首を小さく左右に振った。
確かに指摘通りではあるし、何より清春は親友で口が堅いのもわかっている。強情に隠し通す必要はなかった。これまでは大っぴらに話す趣味がないので黙っていただけだ。
「まあ、そうだよ。昨日、お前と別れたあとに小山内――いや、楓と会ったんだ」
昨日のナンパ撃退の一幕を、格好つけたい年頃らしく活躍度を若干上乗せしつつ教える。
「フラグだな」どことなく清春は楽しそうだ。
「堕ちる寸前か?」
「個人ルートに入る最初のだな」
現実の出来事でさえ、ギャルゲーのイベントに置き換えて考える癖のある親友は、冗談交じりではなく本気で喋っている。
「先は長いってことか。ゲームみたいにやり直しができて、攻略本とかもあればいいのにな」
頭の後ろで両手を組み、背もたれに体重の大半を預ける。椅子のギシリという音を聞きながら、危うく反り返りそうになった大樹に静かで淑やかな足音が近づいてくる。
「大樹君」
名前を呼ぶ涼風を思わせる優しげな声が鼓膜を震わせる。すぐに誰の声かを察し、大樹は下手すればひっくり返りそうな勢いで体勢を変えた。
「か、楓か。ど、どうしたんだ」
無意識にどもってしまう。口調は昨日までと変わらないのに、名前で呼ぶようになっただけで何とも言えない緊張感に包まれる。
混乱を極めた精神が迷走をしかねない大樹とは対照的に、目の前に現れた少女の態度は普段そのままだ。華憐な花が咲くように、ふわりとした笑みを浮かべて小さく顔を傾ける。
「聞いた? 午後の授業が変更になるみたいなの」
初耳だった大樹は「変更?」と彼女に聞き返す。なんだか嫌な予感した。
「急だけれど、次の授業は体育になったの。ジャージを持ってきていない人は、制服姿で見学も許可されるそうよ」
衝撃的としかいいようのない情報だった。
楓曰く、本来の授業の担当教諭が体調不良により早退。同教科を担当する他の教諭は手が空いておらず、時間が開いていたのが体育教師だけだったのでそうなったらしい。
一緒に話を聞いていた清春がポツリと呟く。「フラグか」
「え? 井出君、何か言った?」
「いや。それより俺は平気なのか」
楓の人見知りぶりは、クラスの違う生徒でも知っているほど有名だ。清春の質問の意図を理解した彼女は、微笑みを絶やさずに肯定の頷きをする。
「大樹君と一緒にいるからかな、大丈夫みたい。井出君一人だと、無理かもしれないけれど」
「愛の力か」
大樹は椅子からずり落ちそうになり、楓は熟れた林檎のごとく赤面する。
「そ、そういうのじゃないわよ。私と大樹君はただの友達だもの。ね?」
太腿の前で合わせた手をもじもじさせながら、慌てぶりを感じさせるような笑顔で好意を否定し、友人という関係を念押しする。
ここで俺は違うと言えれば恰好良いのだが、生憎とヘタレな大樹にそんな度胸はなかった。もしあれば十二年目に突入する前に結末はどうあれ、片想い歴は終了していたはずだ。
「そ、そうだな。うん。は、ははは」
結果、愛想笑いとも照れ笑いともとれるリアクションを返して終わりになる。
「じゃあ、私は行くわね。大樹君達も準備をした方がいいわよ」
その言葉とシャンプーの爽やかな香りを残し、楓は立ち去る。
そのすぐあと、次の授業が変更になったのを日直の生徒が黒板に書き始めた。
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