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第2話 天敵

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「……げ」

 所属する三年A組の引き戸を開けて教室へ入ろうとした矢先、危うくぶつかりそうになった女子生徒の顔を見て、大樹は思わず顔を歪めた。

 廊下へ出ようとして、同じく足を止めた女子は露骨に不機嫌そうにする。

「げ、て何よ。あたしの顔を見て気分が悪くなったとでも言いたいわけ?」

 ただでさえ大きな栗色の瞳をさらにひん剥かせた少女こと瑞原みずはら愛美まなみが、小さな肩を怒らせる。

 耳の大半が隠れる黒髪が少女の動作に合わせて揺れ、右端から左側へ流すように揃えている前髪の隙間から、意思の強さを示すかのごとく真っ直ぐ横へ伸びる眉毛が覗く。

「い、いや、そういうわけじゃないんだ。悪かったな」

「すぐ謝るのは後ろめたいことがあるからでしょ。言いたいことがあるなら言いなさいよ。忘れてることでも、思い出すまで待ってあげるわよ」

 背伸びをした少女が、健康的な顔を近づけてくる。彫が深く、鼻立ちはすっきりしている。笑うと愛嬌があるのに、どういう理由か大樹に披露してくれる機会は極端に少ない。

 苦手意識のせいで普段からあまり交流を持たないようにしている相手に、よりにもよって挙動不審な呟きを聞かれてしまったのは明らかにミスだった。

「本当に何でもないんだ。たまたま口から漏れただけだって」

「へえ、そう。ずいぶんと緩い口ね。あたしがリボンでもプレゼントしてあげよっか?」

 リップの塗られた厚めで淡いレッドの唇から、喧嘩腰の言葉を吐き出す少女に気圧されて、大樹は後退りする。

 咄嗟の行動だったのですぐ後ろにいる清春の存在を失念していた。基本的にインドア派なのに、意外と筋肉質な胸板に背中がぶつかる。

「わ、悪い。瑞原に押されたわけじゃないんだけど」

「当たり前でしょ。か弱い女子を乱暴者扱いしないでよ」

 大半の人間が怖がる無言の清春に見下ろされても、少女は少しも臆さない。

 外見は強面でも、内心は普通の親友まで彼女の口撃対象にされるのは避けたい。降参するとばかりに大樹は両手を上げる。

「早く席に着かないと、授業が始まっちまう。瑞原は廊下に行きたいんだろ?」

「フン。別にたいした用じゃないわよ。それとも厄介払いしたいわけ?」

 道を開けた大樹に合わせて少女も方向を変える。スカートと同じ紺を主体としたチェックのリボンが特徴的なブレザーの腰に両手を当て、前かがみに近い体勢から睨み顔が浮かび上がる。

 その拍子に濃紺のジャケットの隙間から、純白のブラウスを押し上げる二つのふくらみがお目見えして、迂闊にもドキリとしてしまう。

「どうして黙ってるのよ。図星だったわけ!?」

 明朗快活さが売りのような顔が、般若のごとく歪められる。明確な敵意と殺気に戦く大樹の背後で、親友がとんでもないことを口走る。

「主人公が殺される、バッドエンドのフラグか」

 前門の虎、後門の狼ではないが、取り巻く環境はすでにカオスだ。授業の開始を友人らとお喋りしながら待っているクラスメートの注目も集めてしまっている。

 その大半が、またいつものやつが始まったよといった同情とからかいが半分ずつ混じった視線だった。

「あら、土屋君? 教室の出入口でどうしたの?」

 ひょっこりと背後から小さな顔が覗く。首を傾げた動作で、ライトブラウン気味のストレートで美しい長髪の一房が頬に流れる。

「小山内? あ、いや、な、何でもないんだ。悪かったな」

「あっ、ちょっ……!」

 目の前で門番のごとく立っていた愛美の肩を押して、強制的に出入口付近の渋滞を解消する。すぐ近くから抗議の声が発せられたが、無視を決め込む。

「愛美ちゃんもいたのね。おはよう」

 にっこりと微笑む少女。高価なアンティークの人形を思わせるほど華憐でいながら、備えている人間らしい温かみが彼女の美貌と魅力を格段に高めている。

 やや丸みを帯びた輪郭と控えめに垂れがちな目尻が女性らしさと淑やかさを演出し、細く薄いピンクパールの唇から紡がれる声は、聞くものをうっとりさせるほど透明感に溢れている。

「おはよ。今日は遅かったのね」

「図書室に寄っていたの。放課後に生徒会があるから、そのための調べ物をしていたのよ」

 穢れのない白百合のような微笑と、ラベンダーを連想させるシャンプーの残り香を置き土産に彼女――小山内おさないかえでは自分の席につく。

 無意識に動作の一つ一つを追っていると、強かに足を誰かに踏みつけられた。

 楓の登場により、すっかり存在を忘れつつあった怒り顔の女性の仕業である。

「鼻の下が伸びてるわよ。デレデレしちゃっていやらしいわね」

「な……! そ、それより足をどけろよ。痛いだろ」

「フンだ。あんただってあたしの肩を触ってるじゃない」

「あっ。わ、悪い」

 慌てて手を離した大樹を最後にひと睨みし、愛美も席へ戻る。

 定年間近の男性担任教師がホームルーム開始のチャイムとともに教室へ入ってきたのは、そのすぐあとだった。

     ※

 夏が近づき、空に居座る時間を着実に増やしつつある太陽の勢いは、放課後になってもとどまるところを知らない。ジリジリとした暑さこそまだないが、ギラつき具合などに季節の移り変わりを感じさせる。

 海側に位置するこの市は、人口五万人程度の港町だ。県の他の都市に比べてあまり栄えてはいないと大樹は思っているが、近所にジュースの自動販売機すらない山側に住むクラスメートに言わせると、十分に都会らしかった。

 市内に三つほど存在する高校の一つ、丁度真ん中レベルの市立高校――通称北高に大樹は通っている。すっかり寂れた国道沿いの商店街を途中で左折し、総合病院もある住宅街の並びに北高はあった。

 校舎は比較的まだ新しく、道路側に面しているグラウンドを囲う灰色のフェンスが近くを通りかかる人の目を引く。

 すぐ隣に校舎へ通じる道があり、大樹はつい先ほど親友の清春と一緒に歩いて来たばかりだった。

 校門を抜けて左側に真っ直ぐ行けば小さな踏切があり、そこをさらに左折すれば見るものもさほどない駅に着く。

 市内に住んでいる大樹と清春が向かうのは駅とは逆の右側だ。正面には小さなドラッグストアがあり、それ以外は大小さまざまな民家が建ち並んでいる。

 ところどころにひび割れがあるでこぼこした石畳の歩道を、背後から聞こえてくる部活に励む生徒の声を聞きながら歩く。

 帰宅部の大樹たちには無関係だが、クラスメートの中には高校最後となる大会に意気込む各部の関係者も少なくなかった。

 大通りの信号で足止めを食った大樹は、頭の後ろで手を組んでため息をつく。

「元気ない」

 相変わらず無口な親友が、呟くように気遣ってくれる。

「そりゃそうだ。今朝から何回絡まれたと思ってるんだよ」

 朝の教室で顔を合わせるなり、食ってかかってきた愛美のことである。この四月に転校してきて、最大の特徴は元気の良さと断言できる女性だ。明るい性格で友人もそれなりにおり、人見知りする楓とも仲良くやっているみたいだった。

「お前にだけ」

「そうだよ。例のビンタ事件といい、俺が何したんだよ」

 転校早々に近くの席になった大樹は、彼女に緊張感を与えないようにはじめましてと笑顔で挨拶した。その返事が今朝も見た般若然とした表情と、強烈な平手打ちだった。

 クラスメート連中には色々と言われたが、今もって正確な理由は不明。愛美と仲の良い女子が聞いても、はぐらかされてしまうらしい。

「やっぱりフラグか」

 したり顔の親友に、勘弁してくれよと大樹は肩を竦めて見せる。

「冗談じゃない。そんなのはゲームだけで十分だ」

「現実はゲームよりも奇なり」

「……そんな言葉だったか? まあいい。見えてきたぞ」

 所々の店舗が閉鎖してしまっている寂しさ満開の商店街から、細い路地を抜けた裏通りに目当ての場所がある。

 明らかに素人が書いたと思われる万峰まんぽう骨董店という太文字が、店先の緑色のビニール屋根で乱雑に踊っている。建物は古く、壁色はくすんだ青。さらにあちこち剥げかけている有様だ。

 小さめのおぼんみたいに丸い取っ手を引くと、いかにも油が足りてませんと言いたげに悲鳴にも似た耳障りな音が鳴る。

 カーテンはすべて閉められ、ぼんやりとした橙色の明かりだけが頼りなく店内を照らしている。かといって幻想的な雰囲気は微塵もなく、漂うのは不気味さばかりだった。

「何だ、またアンタらかい」

 左奥にある横向きの小さなカウンターの中で、ぎょろりとした黒目を向けたのは万峰満子みつこ。若かりし頃はその独特な名前のせいでよく虐められたらしいが、逆境にめげずに成長して神経も体型も図太い見事なおばさんと化している。
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