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葉月の子育て編

和葉とムーンリーフ

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 家を出た和葉は両手を伸ばして、早朝の新鮮な空気で肺を膨らませる。

 突き刺さるような寒さも少しずつ和らぎだし、真っ白だった雪が道路脇に固まったまま、黒く濁り出している。
 微かな土の匂いと、靴裏から鳴る砂の音に冬の終わりを感じずにはいられない。

「もうすぐ春ね」

 マフラーの位置を直しながら、白く昇る吐息を見つめる。
 その先には青い空。

 顔を見せている太陽の光に目を細め、ブーツで濡れた道を歩く。
 町まで眠っているかのように、外には誰もいない。

 通り過ぎる車もなく、見慣れた風景なのにどこか幻想的に映る。
 まるで世界に取り残されたようだが、和葉はこの早朝の雰囲気が好きだった。

 横に愛する夫がいて、一緒にランニングできればもっと最高なのだが。
 願望を胸に押し留め、和葉が少しだけ指先が赤くなっている手で開いたのはムーンリーフの裏口のドアだった。

 隣家の好美たちはまだ起きていないみたいだが、店にはすでに人の気配がある。
 すぐに制服に着替えて厨房に入る。

「おはよう」

 声をかけられて和葉に気付いた店長代理の茉優と、娘婿の和也が顔を上げて挨拶を返してくれる。

 二人は午前四時過ぎから仕込みに入っている。
 ムーンリーフの制服はコックシャツがベースになっているので、厨房でもホールでも使用可能なのだが、店長代理の茉優は産休中の葉月に倣ってコックコートにキャスケットという格好だった。

「私が少し代わるから、茉優ちゃんは朝ご飯を食べていらっしゃい」

 この頃になると好美も起きだしてきて、和葉が作ってきたおにぎりと簡単なおかずを茉優は隣家の一階で好美と一緒に食べる。

 わあいと駆け出した茉優を見送ってから、和葉は作業を引き継ぐ。
 おにぎりは和也の分もあるが、彼には出勤前にきちんと朝食を取らせているので、配送途中のいわばおやつ用だ。

   *

 午前七時過ぎにはムーンリーフは開店する。
 本来は午前十時と余裕を持っていたのだが、出来立てのパンを朝に食べたがるお客さんや、登校途中で朝食もしくは昼食用に買っていきたがる学生からの要望で現在の形に落ち着いたのである。

 各学校では葉月たちの頑張りで昼休み中に販売させてもらえることになっているが、全品目を持っていけるわけではないので、店にある好きなのを食べたい学生は朝のうちに買っていくのだ。

 笑顔のお客さんたちを、ホールに立つ和葉も笑顔で見送る。
 朝の喧騒が一段落すれば、店頭に並んでいるパンの残数確認を行う。
 この時間帯になると今井家も動き出していて、好美の両親も挨拶に顔を出してからそれぞれの会社に出勤する。

 販売を手伝ってくれていた好美は自室――ほぼムーンリーフの事務所兼休憩所になっている――に戻り、会計ソフトを使ってノートPCで帳簿をつけていく。
 当初は紙に記載していたが、業績が好調になるにつれて備品が豪華になると、いつだったか好美が嬉しそうに話してくれた。

 先頭に立って突き進んでいるのは葉月だが、一人で経理・総務・販売計画などを担当する好美の力はかなり大きい。
 和葉も手伝ってはいるが、彼女の代わりが完璧に務まる人材がまだ育っていないのが現状だ。
 それまでは暇を見て和葉がフォローするしかないだろう。

 和也はすでに完成したパンを持って出発しているので、和葉は売り場を空けて厨房に戻る。今の時間帯は客足も少なくなるし、誰かが来れば好美が対応することになっている。

 大変なのは厨房で一人の茉優だ。
 何年も経営を続けていると売上の傾向もわかってくる。
 そのため朝は朝の売れ筋を作るのに集中し、その後から昼と夕方によく出るパンの仕込みに入るのだ。

「ふわあああ、和葉ママあああ」

 厨房の茉優は忙しさにほとんど泣きそうだった。
 当初はビックリしたものだが、毎日恒例となればそれも軽減する。

「茉優ちゃん、落ち着いて。いざとなれば昼の主力商品だけを優先すればいいの。夕方のは昼前からの仕込みでもなんとか間に合うから」

 優しく声をかけてやれば、すぐに茉優も落ち着きを取り戻す。
 だいぶ慣れたと思っていても、彼女はまだ社会人二年目の新人なのである。
 それで店長代理なんて大役を引き受けているだけでも、十分すぎる働きだ。

「さあ、頑張りましょう」

   *

 焼き上がったパンが、店内で商品を物色するお客さんの前に並べられてる。
 待ってましたとトングが伸ばされ、結構な勢いで売れていく。

 朝に続いて客足が多くなる時間帯であり、好美も奥から出てきてレジ打ちや袋詰めを手伝ってくれる。
 一仕事終えた茉優は休憩中だが、よく話をする常連客に顔を見せるためにもそのうち出てくるだろう。

 昼にもっともよく出るのは100円以下のパンだ。
 日替わりで100円にするのもあり、それを狙って昼食にするお客さんも多い。

 同時に出店を応援してくれた市や商工会議所から、まとまった注文が入ったりする。店頭のお客さんを大事にしながらも、それだけでは限界があると好美が頑張り、例えば自動車学校の教員など、各会社からの注文も受け付けて届けていた。

 注文はやはり好美が管理するムーンリーフのホームページや、定期的に配っているチラシに書かれた電話番号から入る。
 そういった市内の配送は客受けも良い実希子が担当していたが、彼女も産休中の現在は和也がこちらも頑張らなければならない。

 だが時には予定通りに進まない場合もある。

「和也君が遅れるみたいなので、配送に行ってきます!」

 叫ぶように言って、好美がムーンリーフのロゴがドアやフロントにデザインされた白のミニバンに乗り込む。

「茉優ちゃん、お店の方をお願い」

「頑張るよぉ」

 注文の入っていたパンの積み込みを和葉が手伝っている間、休憩を早々に切り上げた茉優が笑顔で接客する。

 好美を見送ると、今度は和葉が一人で厨房に入る。
 本来なら昼前に完成した分で調理は終わりなのだが、ムーンリーフに限っては夕方過ぎに最後の稼ぎ時がやってくる。

 主要な客はお腹を空かせた部活終わりの学生たちだ。
 妹ともどもソフトボールに塗れた青春を送った葉月だけに、部活を頑張る生徒を応援したいと売れ残りの商品を彼ら彼女らに、学生割引だと半額で提供しているのである。

 基本は早いもの勝ちだが、あまりに数が少ないとかわいそうなので利益を無視して夕方用に新たな仕込みを行う今日みたいなケースもあったりする。
 学生でなくとも夜には二割や三割の値引きが入るので、仕事帰りや小腹の空いた近所の人が買いに来てくれることもある。

「さて、もうひと頑張りしましょうか」

 マスク越しに声を出して気合を入れると、和葉はテキパキと作業に取り掛かった。

   *

 予定のパンがすべて焼き上がったからといって、やることがなくなったりはしない。交代で休憩を取ったあとは清掃や機器のメンテナンスが必要になる。

 それらはもっぱら和也が担当してくれているが、人手の足りなさから店の仕事が増えた結果、彼の楽しみの一つである母校の野球部へのコーチができなくなっていた。

 赤ん坊の世話をしている葉月はいつも申し訳なさそうにしているが、そのたびに和也は優しく慰めてくれる。

 葉月を虐めていた相手だと知った時は不愉快極まりなかったが、当人たちで解決済みなのを親が引き摺るわけにもいかない。
 まして娘婿になった現在であれば、和葉もまた良い縁になってくれてよかったと思ってもいる。

 また愛娘を虐めようとしたら、その時はただで済ませるつもりはないが。

「ふわぁ、やっと落ち着いたよぉ」

 早朝から働き詰めの茉優と一緒に好美のところへお邪魔して、二度目の休憩に入る。夕方になると和葉の仕事はほぼ終わりなので帰宅するだけだが、茉優は店長代理として明日作るパンの種類や数を好美と話し合わなければならない。

 その好美の計画がしっかりしているからこそ、ムーンリーフの店頭では致命的な売れ残りはなく、またスーパーなどでもあえて少なく商品を卸すので、むしろ余るより足りなくなっているみたいだった。

 そうした店からは卸す量を増やしてくれと言われるが、それは好美がきっぱりと断っている。

 中には要望を聞かないと店に置かせないと脅してくる手合いもいるみたいだが、好美は葉月に進言した上で妥協せずに卸すのを本当に止めてしまう。
 開店当初こそ知名度を高めるためにも必要だったが、軌道に乗った今は無理に従って商品の価値を落とすのは避けたいのだという。

「さて、私はそろそろ上がらせてもらうわね」

「あ、お疲れ様でしたぁ」

「また明日もよろしくお願いします」

 茉優と好美に見送られて店を出ると、外はすっかり黄金色に染まっていた。

   *

「いつもありがとう、ママ」

「どうしたの急に?」

 夕食の席で殊勝なことを言い出した娘に、和葉は目を丸くする。
 隣に座る春道も不思議に思ったらしく、きょとんとしていた。

「店でも家でもお世話になりっぱなしだから……」

 正面の葉月が、申し訳なさから小さくなる。
 自分で店を構えていながら、子供の世話でそちらの面倒をあまり見られなくなっているのが申し訳ないのだ。

「前にも言ったけど、気にしなくていいわよ」

「でも……」

「確かに大変だけど、楽しくもあるのよ」

「そうなの?」

「だって、久しぶりに全力で働けてるんですもの」

 嘘偽りのない感想に、今度は葉月がきょとんとする番だった。

「だからお礼を言いたいのは私の方よ。葉月はもっとゆっくりしてなさい」

「う、うん……」

「私の名前にもリーフが入ってるしね」

「ママっ!? 本気じゃないよね!? パパ、和也君、助けて! ママにお店が乗っ取られちゃう!」

「この漬物美味しいなあ」

「春道パパ、こっちの和え物もいけますよ」

「うわあああん、二人の薄情者おおお」

 本気で拗ねかける娘の可愛らしさに、和葉はお腹を抱えて笑う。
 それを見て周りも次々に吹き出し、充実していた今日が締めくくられていくのだった。
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