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菜月の中学・高校編
菜月の応援と宏和の最後の大会
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威力のあるボールがキャッチャーミットに収まる。
ソフトボールとはまた違った迫力に菜月は息を呑んだ。
「凄いです! これで決勝進出ですよ!」
愛花が飛び跳ねながら、何度も万歳する。
県で行われていたのは高校野球の地方予選。グラウンドで死闘を繰り広げていたのは、南高校の野球部員たちだった。
堂々とした笑顔で仲間とハイタッチしたエースの宏和が、応援席まで挨拶に来る。
「どうだ。恰好良かっただろ!」
菜月と愛花を見つけるなり、他の面々を無視して宏和が大声を上げた。
「素晴らしかったです! 決勝でも頑張ってください!」
「任せとけ! お前らの分まで勝ってやるよ!」
サムズアップしてベンチに戻る宏和の背番号1がやたらと大きく見えた。
「ひっきーは本当に凄かったねぇ。茉優、鳥肌が立っちゃったよぉ」
菜月の制服の裾がキュッと引っ張られる。
「宏和の頑張りもあるだろうけれど、躍進の鍵は新たなコーチかしら」
南高校の応援席の最前列で、葉月に休みを貰った和也が手を叩いて後輩の勝利を祝福していた。
「仲町も教え子が勝つ喜びに目覚めたか。アタシよりも周回遅れだけどな」
鼻の下を擦りながら、得意げになっているのはムーンリーフを抜け出し中の実希子だ。
「はづ姉の許可は取っていると思うのだけれど……ゆっくりしていていいの? ここから店までは一時間はかかるのよ?」
菜月たちは応援したい生徒のためにと、高校側が用意してくれたバスに乗って球場まで来ていた。
一方の実希子はムーンリーフ用で使っている乗用車である。専用の小型トラックを買うまでは、そのボックス車が配送の主役だった。
「大丈夫だって。それに野球部連中はお得意様だからな。昼にもアホみたいにパンを買ってくれるし」
「大々的に宣伝してくれた宏和先輩のおかげですね!」
愛花はとても誇らしげだ。中学の頃から一貫して宏和ラブなのは、とうとうここまで治らなかった。途中から矯正は完全に諦めていたが。
「とにもかくにも――ん? 電話か。
……げ! 好美からだ……」
実希子がスマホをそっとポケットに戻したのを見て、すかさず菜月は自分のスマホを取り出す。
「おい、なっちー! 何をする気だ、やめろ! お前に人の心があるのなら!」
「実希子ちゃんなら、球場にいますとメールしておいたわ。電話を取らなかったのも含めて」
「ひいいっ!」
顔を蒼褪めさせた実希子が、パッツンパッツンの制服姿のまま走っていく。
本気で怒ったら、葉月たちのグループでは好美が一番怖いのかもしれない。
*
決勝戦当日の午後一時――。
試合が始まる前から、観客席で震えながら祈りを捧げる愛花を、菜月たちは必死で励ましていた。
「愛花がそんな有様では、宏和が心配してしまうわよ」
「で、ですが……昨日から緊張してしまって……」
「本当に愛花は宏和先輩のことになると、余裕がなくなるよな。ピッチャーを任された夏の大会でも、こんなになってなかったのに」
心から心配そうに涼子が愛花の肩を抱いた。
「自分で試合をする分には、勝敗の責任を自分で背負えますもの。ですが、応援だけとなるとそうもいきませんし……」
「ねえ、愛花ちゃん」
しゃがみ込んだ菜月は、両手で俯く愛花の顔を上げた。
「勝利の女神様を思い浮かべてみて」
「いきなり何を……」
「いいから!」
「わ、わかりました」
数秒ほどの間を置いてから、菜月は改めて問いかける。
「愛花の想像した女神様は泣いていたかしら?」
愛花が首を小さく左右に振った。
「他の皆も想像してみてくれる?」
「ボクのは笑ってるな」
「茉優の女神様も微笑んでるよぉ」
答えに大差はなかった。
だからこそ菜月は自信を持って告げる。
「泣いていたら愛花は宏和の勝利の女神様にはなれないわ。もしなりたいのなら、どうすればいいのか……わかるわよね?」
「……はい。ありがとう、菜月」
ぎこちなくだが微笑んだ愛花に、タイミングを見計らったように陽光が降り注ぐ。
まるで本当に勝利の女神となったかのような友人の隣に座り、菜月も微笑を浮かべて試合開始を待った。
*
小気味いいミットの音に釣られるように、球審が声高にストライクのコールをする。
「よしよし。宏和の奴、調子が良さそうだ」
全校応援となった南高校の観客席で、腰に手を当てている和也がうんうんと頷いた。
「気になったのですけれど、南高校は宏和以外に良いピッチャーはいるのですか?」
今回はたまたま応援場所が近かったのもあり、菜月はこっそりと聞いてみた。
「控えもいい投手だけど……この世代じゃ、やっぱり宏和が突出してるかな。練習試合にプロのスカウトが顔を出したこともあるみたいだし」
「え!? じゃあ宏和はプロから声がかかるのですか?」
「スカウトが見に来たからって、すぐに指名にはならないよ。地区でもわりと名前が知られていれば、映像なりをチェックするものだしな」
そこで素質を認められ、指名された者だけがプロの世界で勝負できるのである。
「そう考えると、舞台は違えども、実業団でレギュラーにまでなった実希子ちゃんって本当に凄かったのですね」
菜月はプロ野球の世界をあまり知らないので、どうしても比較対象がソフトボールになってしまう。それでも和也は比べるものじゃないと怒ったりせず、会話を続けてくれる。
「葉月や御手洗だって実力者だったんだ。それでも届かないのがプロとか実業団の世界なんだが……佐々木はあっさり到達しちまったからなあ」
ただ……と和也は言葉を続ける。
「一番高いステージまで行けるのは、佐々木みたいな奴なんだろうな。葉月には怒られるかもしれないが、つくづく惜しいよ。アイツが男だったら、プロ野球で主役を張れるくらいの選手になれた可能性だってあったのにな」
「……憧れますよね。努力するしかない人間は……才能に……」
「……ああ」
並んで見下ろすグラウンドでは、躍動する宏和が序盤を無失点で切り抜けたところだった。
*
「うらあっ!」
叫び声をスタンドまで届かせ、宏和の振り抜いたバットが白球を猛烈に弾き返した。
「左中間、真っ二つです!」
勝利の女神になろうと常に顔を上げていた愛花が、喜びを爆発させる。
「宏和先輩、三ついけるよ、三つ!」
檄を飛ばした涼子に応えるように、スライディングした宏和が三塁にまで到達した。上にいた走者がすべて本塁に帰り、中盤になって南高校が先手を取る形になった。
「宏和君、凄いね!」
小学校から付き合いの続く真が、興奮のあまり菜月の手を取っていた。ブンブンと上下に振ってから自らの行動に気づき、真っ赤になって慌てて手を離す。
「照れすぎよ。
付き合っているのは公然の事実なのだから、見られても構わないでしょう」
「う、うん……」
こっそりと真がまた菜月の手を握る。
いまだ初々しさを失わない彼氏が可愛く思えると同時に、人前でも堂々とイチャイチャしていた両親と同じ血が流れているのを菜月は強く実感せざるを得なかった。
「うっしゃあ! これで2-0だ! 宏和! 全力で守り抜けよ!」
「……実希子ちゃん、仕事は?」
いつの間にか、準決勝の時同様に仕事を抜け出してきたらしい実希子を菜月は半眼で睨む。
「またはづ姉にだけこっそり許可を取って、好美ちゃんには黙って来たのよね? どうなっても知らないわよ」
「気にすんなって! 地元の高校が甲子園に出場できるかどうかの瀬戸際なんだ! 皆、試合を見てて、パンなんか買いにきやしねえよ!」
「そのままはづ姉と好美ちゃんに報告しておくわね」
「言い過ぎた!
アタシが悪かったから、もうちょっとだけ試合を見せてくれえええ」
半泣きの実希子が、全力で菜月にすがりついてくる。
「この夏の楽しみはもう野球部の活躍しかないんだよ! ソフトボール部は早々に負けちまったしさ!」
「う……! それを言われると弱いわね」
さすがに初戦負けでこそなかったが、菜月たちの夏はベスト8にも残れずに終わってしまった。そのせいで激怒した美由紀に、夏休みは部員全員参加で合宿を行うと宣言されていた。
「仕方ないわね。好美ちゃんに怒られないようにするのよ」
「さすが菜月! 姉と一緒で話がわかるぜ!」
「……はあ。どうしても見たいのなら、テレビもあるでしょうに」
「それだと臨場感が伝わらないだろ! やっぱ野球やソフトの試合は生で観戦するのが一番だぜ! ああ、ちくしょう! ビールが飲みたくなってきた!」
まだ若いにもかかわらず、完全に中年親父じみていた。
さすがに頭を抱えたくなるも、球場で起きた歓声で菜月は我に返る。
ダイビングキャッチした中堅手が高々とミットを掲げ、マウンドに立っていた宏和がミットを叩いて「ナイスプレー!」と叫ぶ。
そして2-0のまま、運命の試合は終盤へと突入していく。
*
菜月は観客席で、歓喜のゲームセットを聞いていた。
スコアボードに並ぶ数字を改めて確認すれば2-0のままだった。
「夢じゃ……ないんですよね」
中学時代から、暇があれば野球部の――宏和の練習を見てきた愛花がボロボロ泣いていた。
「ひっきー、凄いねぇ」
「うん、凄いよ!」
小さい頃から一緒に遊んできた年上の友人の雄姿に、茉優と真は手を取り合って喜ぶ。
「ヤバ。初めて宏和先輩がカッコ良く見えたかも」
「愛花ちゃんの目は正しかったのかもね」
いまだ信じられないように目を丸くする涼子の隣で、明美がケラケラと笑った。
「おめでとう」
恭介が菜月に握手を求めてきた。
「ありがとう。まさか見知った顔がエースで、甲子園に出場するなんてね」
グラウンドの歓喜の輪が解けると、真っ直ぐに野球部員たちが応援スタンドに走ってくる。
「どうだ! 惚れ直したか!」
宏和が大きな声で叫んだ。
いつものように冗談を返そうとして、菜月は途中でやめる。
その代わり、そっと友人の背中を押した。
「――っ! は、はいっ! 惚れ直しました!」
恥ずかしさすら忘れて、そう叫んだのは愛花だった。
真っ赤で、けれど真剣で。
どこまでも真っ直ぐな想いに、ポカンとしてから宏和は苦笑する。
そして――。
「だろ! これからも横でずっと俺の活躍を見てろよ! 愛花!」
「はいっ!」
涙を零しながらも、愛花が笑顔で頷く。
「よかったわね」
セレモニーのためにグラウンドへ戻る選手たちを見送りながら、菜月は泣きじゃくる親友の背中を撫でた。
「はい……はい……!」
それしか言えなくなった愛花の傍で、涼子や明美が嬉しそうに微笑む。
「まさか公衆の面前で告白とはな」
「知らない生徒がいないバカップルの誕生ね」
「りょ、涼子! 明美も! で、でも、宏和先輩のは……その、そういうことで、間違いないんですよね?」
意見を求められたのは、宏和と付き合いが一番長い菜月だった。
「わかり辛くはあったけれど、宏和が愛花ちゃんの想いを受け入れてくれたのは確かだと思うわ。
今夜にでも祝福の電話をしてあげるといいわよ。とても喜ぶだろうから」
「は、はいっ! ゆ、夢みたいです……」
ぽーっとする愛花に改めて「おめでとう」と言いつつ、菜月は誇らしげに胸を張る宏和を眺める。
――おめでとう。
色々な想いを込めた祝福はきっと届いていないだろう。
そう思った菜月だったが、導かれるように目が合った宏和が昔と同じようにニッと歯を見せた。
そして菜月も、気がつけば小さく微笑んでいた。
*
「くっそー。本当なら、アレは俺のものだったはずなのによ」
「例え優勝していたとしても、宏和のにはならないわよ」
高木家のリビングで、悔しそうに歯軋りする幼馴染に菜月はため息をついた。
「そんなことはありません! 強く願えば、夢は現実になるんです!」
「さすが愛花だ! よくわかってるじゃねえか!」
「私だってよくわかっているわよ? 二人のバカップルぶりについてだけれど」
菜月に半眼で見据えられても、変な方向へパワーアップしてしまった愛花は気にしない。本人曰く、愛の力らしい。
「涼子と明美もよく付き合ってるわよね」
「仕方ないだろ。まだ二人きりは恥ずかしいって言うんだから」
「あれだけ人前でイチャイチャできるなら、そろそろ解放されそうだけどね」
肩を竦めた涼子のみならず、さすがの明美も疲弊しきっていた。
「でも、恋人がいると楽しいよねぇ」
「……まさか茉優からそんな感想を聞く日が来るとは思わなかったわ。沢君の調教の成果かしら」
菜月の指摘に、恭介が盛大に噎せる。
ふわぁと驚きながらも、意外に世話焼きらしい茉優が彼の背中を摩る。
「変なこと言わないでよ」
「あら? そんな風に感じるのは沢君に邪な心があるからよ」
「ち、違うってば! 男だからって、そんな……ねえ、真君」
「え!? ここで僕に振らないでよ」
我関せずと麦茶を口に含んでいた真が、危うく吹き出しそうになりながらも反論した。
「そうなのよ。うちの真は度胸がないから」
「クハハ! もう菜月の尻に敷かれてんかよ、真は。
まあ、胸のわりにはデカイから――」
「――死刑確定」
「やめろ! 傷心の幼馴染をもっと気遣え!」
おどけて逃げ回る宏和に、またしても菜月は大きなため息をついた。
「何が傷心よ。一回戦で負けてから、もう結構経ってるじゃない」
「うおお! 俺の心が抉られるぅ!」
「大丈夫です、宏和先輩! 傷は浅いです!」
最初は普通に心配しているようだったが、宏和が甘えだすと、すぐに愛花はウフフと受け入れる。
「これは疲れるわけね」
菜月が言うと、同志を見つけたとばかりに明美が肩に手を置いてきた。
「愛花ちゃんの幸せは嬉しいけど、毎日のように見せつけられるとね。あたしは彼氏を作るとしたら、涼子ちゃんみたいにこざっぱりとした性格の人がいいかな」
「だったらいっそくっつけばいいじゃない。今時は珍しくもないでしょうし」
「その手があったわね。涼子ちゃん、どう?」
「ボクはノーマルだ!」
やいのやいの騒がしさを増すリビングで、宏和がソファに背をもたれさせて天井を見た。
「高校最後の夏……終わっちまったんだな」
「宏和……」
「そんな顔すんなって。甲子園にも出場できたし、意外と満足してんだ。仲町コーチだって泣きながら喜んでくれたしな」
「いえ、そうではなくて、手付かずの宿題が残っているから、宏和の夏は始まったばかりよ?」
「思い出させないでくれえええ!」
逃げようとする宏和を捕まえて、保護者ともいうべき愛花に引き渡す。
「甘やかしてばかりだと男は逃げてしまうわよ? ずっと自分の傍に引き留めておきたいのなら、厳しさも必要になるわ。だから……愛花が監視するのよ。宏和が宿題を終わらせるようにね」
「菜月……その忠告、ありがたく頂戴します!」
「やめろ! 悪魔の誘惑に耳を貸すんじゃない!」
「さあ、宏和先輩! 一緒に宿題をやってしまいましょう!」
「嫌だ! 俺は遊ぶんだ!」
本気で泣きそうになる宏和を皆で笑う中、菜月は甲子園の優勝セレモニーが行われているテレビをこっそり見た。
「競技は違っても、デカイ大会ってのはいいもんだぜ。
だから来年はお前らもいけよな」
いつの間にかこちらを見ていた宏和が、晴れやかな笑顔で親指を立てた。
「当たり前よ。キツい合宿も乗り越えたのだし、まずは新人戦に集中しないとね」
「あ、それなんですが」
思い出したように愛花が顔を上げた。
「夏休みが終わる前に、もう一度合宿を行うと美由紀先生が言ってました」
「……嘘でしょ」
「そこは望むところだって言っとけよ!」
ガックリと項垂れた菜月をからかったあと、宏和は真面目な顔つきになる。
「まだ優勝を目指して練習できんだからよ」
「……そうね。二度目の合宿も望むところだわ」
「その意気だ!」
やる気を漲らせ、ソフトボール恒例の掛け声をする菜月たちを、宏和がほんの少しだけ羨ましそうにする。
「俺は……どうするかな。甲子園に出られても、一回戦負けじゃプロは無理だしな」
「諦めるの?」
「野球は続けたいから、大学を目指すことになるかもな。推薦ありの」
伸ばした手を宏和が強く握る。
次のステージを見据えた目は、なんだか少しだけ格好良かった。
「頑張りなさい。愛花も応援してくれるでしょうから」
「もちろんです! 全力で応援します!
まずは宿題の監視からいきます!」
「げ……」
宏和はげんなりとするが、意外と愛花には弱いらしく、結局この日は太陽が沈むまで宿題と格闘し続けていた。
ソフトボールとはまた違った迫力に菜月は息を呑んだ。
「凄いです! これで決勝進出ですよ!」
愛花が飛び跳ねながら、何度も万歳する。
県で行われていたのは高校野球の地方予選。グラウンドで死闘を繰り広げていたのは、南高校の野球部員たちだった。
堂々とした笑顔で仲間とハイタッチしたエースの宏和が、応援席まで挨拶に来る。
「どうだ。恰好良かっただろ!」
菜月と愛花を見つけるなり、他の面々を無視して宏和が大声を上げた。
「素晴らしかったです! 決勝でも頑張ってください!」
「任せとけ! お前らの分まで勝ってやるよ!」
サムズアップしてベンチに戻る宏和の背番号1がやたらと大きく見えた。
「ひっきーは本当に凄かったねぇ。茉優、鳥肌が立っちゃったよぉ」
菜月の制服の裾がキュッと引っ張られる。
「宏和の頑張りもあるだろうけれど、躍進の鍵は新たなコーチかしら」
南高校の応援席の最前列で、葉月に休みを貰った和也が手を叩いて後輩の勝利を祝福していた。
「仲町も教え子が勝つ喜びに目覚めたか。アタシよりも周回遅れだけどな」
鼻の下を擦りながら、得意げになっているのはムーンリーフを抜け出し中の実希子だ。
「はづ姉の許可は取っていると思うのだけれど……ゆっくりしていていいの? ここから店までは一時間はかかるのよ?」
菜月たちは応援したい生徒のためにと、高校側が用意してくれたバスに乗って球場まで来ていた。
一方の実希子はムーンリーフ用で使っている乗用車である。専用の小型トラックを買うまでは、そのボックス車が配送の主役だった。
「大丈夫だって。それに野球部連中はお得意様だからな。昼にもアホみたいにパンを買ってくれるし」
「大々的に宣伝してくれた宏和先輩のおかげですね!」
愛花はとても誇らしげだ。中学の頃から一貫して宏和ラブなのは、とうとうここまで治らなかった。途中から矯正は完全に諦めていたが。
「とにもかくにも――ん? 電話か。
……げ! 好美からだ……」
実希子がスマホをそっとポケットに戻したのを見て、すかさず菜月は自分のスマホを取り出す。
「おい、なっちー! 何をする気だ、やめろ! お前に人の心があるのなら!」
「実希子ちゃんなら、球場にいますとメールしておいたわ。電話を取らなかったのも含めて」
「ひいいっ!」
顔を蒼褪めさせた実希子が、パッツンパッツンの制服姿のまま走っていく。
本気で怒ったら、葉月たちのグループでは好美が一番怖いのかもしれない。
*
決勝戦当日の午後一時――。
試合が始まる前から、観客席で震えながら祈りを捧げる愛花を、菜月たちは必死で励ましていた。
「愛花がそんな有様では、宏和が心配してしまうわよ」
「で、ですが……昨日から緊張してしまって……」
「本当に愛花は宏和先輩のことになると、余裕がなくなるよな。ピッチャーを任された夏の大会でも、こんなになってなかったのに」
心から心配そうに涼子が愛花の肩を抱いた。
「自分で試合をする分には、勝敗の責任を自分で背負えますもの。ですが、応援だけとなるとそうもいきませんし……」
「ねえ、愛花ちゃん」
しゃがみ込んだ菜月は、両手で俯く愛花の顔を上げた。
「勝利の女神様を思い浮かべてみて」
「いきなり何を……」
「いいから!」
「わ、わかりました」
数秒ほどの間を置いてから、菜月は改めて問いかける。
「愛花の想像した女神様は泣いていたかしら?」
愛花が首を小さく左右に振った。
「他の皆も想像してみてくれる?」
「ボクのは笑ってるな」
「茉優の女神様も微笑んでるよぉ」
答えに大差はなかった。
だからこそ菜月は自信を持って告げる。
「泣いていたら愛花は宏和の勝利の女神様にはなれないわ。もしなりたいのなら、どうすればいいのか……わかるわよね?」
「……はい。ありがとう、菜月」
ぎこちなくだが微笑んだ愛花に、タイミングを見計らったように陽光が降り注ぐ。
まるで本当に勝利の女神となったかのような友人の隣に座り、菜月も微笑を浮かべて試合開始を待った。
*
小気味いいミットの音に釣られるように、球審が声高にストライクのコールをする。
「よしよし。宏和の奴、調子が良さそうだ」
全校応援となった南高校の観客席で、腰に手を当てている和也がうんうんと頷いた。
「気になったのですけれど、南高校は宏和以外に良いピッチャーはいるのですか?」
今回はたまたま応援場所が近かったのもあり、菜月はこっそりと聞いてみた。
「控えもいい投手だけど……この世代じゃ、やっぱり宏和が突出してるかな。練習試合にプロのスカウトが顔を出したこともあるみたいだし」
「え!? じゃあ宏和はプロから声がかかるのですか?」
「スカウトが見に来たからって、すぐに指名にはならないよ。地区でもわりと名前が知られていれば、映像なりをチェックするものだしな」
そこで素質を認められ、指名された者だけがプロの世界で勝負できるのである。
「そう考えると、舞台は違えども、実業団でレギュラーにまでなった実希子ちゃんって本当に凄かったのですね」
菜月はプロ野球の世界をあまり知らないので、どうしても比較対象がソフトボールになってしまう。それでも和也は比べるものじゃないと怒ったりせず、会話を続けてくれる。
「葉月や御手洗だって実力者だったんだ。それでも届かないのがプロとか実業団の世界なんだが……佐々木はあっさり到達しちまったからなあ」
ただ……と和也は言葉を続ける。
「一番高いステージまで行けるのは、佐々木みたいな奴なんだろうな。葉月には怒られるかもしれないが、つくづく惜しいよ。アイツが男だったら、プロ野球で主役を張れるくらいの選手になれた可能性だってあったのにな」
「……憧れますよね。努力するしかない人間は……才能に……」
「……ああ」
並んで見下ろすグラウンドでは、躍動する宏和が序盤を無失点で切り抜けたところだった。
*
「うらあっ!」
叫び声をスタンドまで届かせ、宏和の振り抜いたバットが白球を猛烈に弾き返した。
「左中間、真っ二つです!」
勝利の女神になろうと常に顔を上げていた愛花が、喜びを爆発させる。
「宏和先輩、三ついけるよ、三つ!」
檄を飛ばした涼子に応えるように、スライディングした宏和が三塁にまで到達した。上にいた走者がすべて本塁に帰り、中盤になって南高校が先手を取る形になった。
「宏和君、凄いね!」
小学校から付き合いの続く真が、興奮のあまり菜月の手を取っていた。ブンブンと上下に振ってから自らの行動に気づき、真っ赤になって慌てて手を離す。
「照れすぎよ。
付き合っているのは公然の事実なのだから、見られても構わないでしょう」
「う、うん……」
こっそりと真がまた菜月の手を握る。
いまだ初々しさを失わない彼氏が可愛く思えると同時に、人前でも堂々とイチャイチャしていた両親と同じ血が流れているのを菜月は強く実感せざるを得なかった。
「うっしゃあ! これで2-0だ! 宏和! 全力で守り抜けよ!」
「……実希子ちゃん、仕事は?」
いつの間にか、準決勝の時同様に仕事を抜け出してきたらしい実希子を菜月は半眼で睨む。
「またはづ姉にだけこっそり許可を取って、好美ちゃんには黙って来たのよね? どうなっても知らないわよ」
「気にすんなって! 地元の高校が甲子園に出場できるかどうかの瀬戸際なんだ! 皆、試合を見てて、パンなんか買いにきやしねえよ!」
「そのままはづ姉と好美ちゃんに報告しておくわね」
「言い過ぎた!
アタシが悪かったから、もうちょっとだけ試合を見せてくれえええ」
半泣きの実希子が、全力で菜月にすがりついてくる。
「この夏の楽しみはもう野球部の活躍しかないんだよ! ソフトボール部は早々に負けちまったしさ!」
「う……! それを言われると弱いわね」
さすがに初戦負けでこそなかったが、菜月たちの夏はベスト8にも残れずに終わってしまった。そのせいで激怒した美由紀に、夏休みは部員全員参加で合宿を行うと宣言されていた。
「仕方ないわね。好美ちゃんに怒られないようにするのよ」
「さすが菜月! 姉と一緒で話がわかるぜ!」
「……はあ。どうしても見たいのなら、テレビもあるでしょうに」
「それだと臨場感が伝わらないだろ! やっぱ野球やソフトの試合は生で観戦するのが一番だぜ! ああ、ちくしょう! ビールが飲みたくなってきた!」
まだ若いにもかかわらず、完全に中年親父じみていた。
さすがに頭を抱えたくなるも、球場で起きた歓声で菜月は我に返る。
ダイビングキャッチした中堅手が高々とミットを掲げ、マウンドに立っていた宏和がミットを叩いて「ナイスプレー!」と叫ぶ。
そして2-0のまま、運命の試合は終盤へと突入していく。
*
菜月は観客席で、歓喜のゲームセットを聞いていた。
スコアボードに並ぶ数字を改めて確認すれば2-0のままだった。
「夢じゃ……ないんですよね」
中学時代から、暇があれば野球部の――宏和の練習を見てきた愛花がボロボロ泣いていた。
「ひっきー、凄いねぇ」
「うん、凄いよ!」
小さい頃から一緒に遊んできた年上の友人の雄姿に、茉優と真は手を取り合って喜ぶ。
「ヤバ。初めて宏和先輩がカッコ良く見えたかも」
「愛花ちゃんの目は正しかったのかもね」
いまだ信じられないように目を丸くする涼子の隣で、明美がケラケラと笑った。
「おめでとう」
恭介が菜月に握手を求めてきた。
「ありがとう。まさか見知った顔がエースで、甲子園に出場するなんてね」
グラウンドの歓喜の輪が解けると、真っ直ぐに野球部員たちが応援スタンドに走ってくる。
「どうだ! 惚れ直したか!」
宏和が大きな声で叫んだ。
いつものように冗談を返そうとして、菜月は途中でやめる。
その代わり、そっと友人の背中を押した。
「――っ! は、はいっ! 惚れ直しました!」
恥ずかしさすら忘れて、そう叫んだのは愛花だった。
真っ赤で、けれど真剣で。
どこまでも真っ直ぐな想いに、ポカンとしてから宏和は苦笑する。
そして――。
「だろ! これからも横でずっと俺の活躍を見てろよ! 愛花!」
「はいっ!」
涙を零しながらも、愛花が笑顔で頷く。
「よかったわね」
セレモニーのためにグラウンドへ戻る選手たちを見送りながら、菜月は泣きじゃくる親友の背中を撫でた。
「はい……はい……!」
それしか言えなくなった愛花の傍で、涼子や明美が嬉しそうに微笑む。
「まさか公衆の面前で告白とはな」
「知らない生徒がいないバカップルの誕生ね」
「りょ、涼子! 明美も! で、でも、宏和先輩のは……その、そういうことで、間違いないんですよね?」
意見を求められたのは、宏和と付き合いが一番長い菜月だった。
「わかり辛くはあったけれど、宏和が愛花ちゃんの想いを受け入れてくれたのは確かだと思うわ。
今夜にでも祝福の電話をしてあげるといいわよ。とても喜ぶだろうから」
「は、はいっ! ゆ、夢みたいです……」
ぽーっとする愛花に改めて「おめでとう」と言いつつ、菜月は誇らしげに胸を張る宏和を眺める。
――おめでとう。
色々な想いを込めた祝福はきっと届いていないだろう。
そう思った菜月だったが、導かれるように目が合った宏和が昔と同じようにニッと歯を見せた。
そして菜月も、気がつけば小さく微笑んでいた。
*
「くっそー。本当なら、アレは俺のものだったはずなのによ」
「例え優勝していたとしても、宏和のにはならないわよ」
高木家のリビングで、悔しそうに歯軋りする幼馴染に菜月はため息をついた。
「そんなことはありません! 強く願えば、夢は現実になるんです!」
「さすが愛花だ! よくわかってるじゃねえか!」
「私だってよくわかっているわよ? 二人のバカップルぶりについてだけれど」
菜月に半眼で見据えられても、変な方向へパワーアップしてしまった愛花は気にしない。本人曰く、愛の力らしい。
「涼子と明美もよく付き合ってるわよね」
「仕方ないだろ。まだ二人きりは恥ずかしいって言うんだから」
「あれだけ人前でイチャイチャできるなら、そろそろ解放されそうだけどね」
肩を竦めた涼子のみならず、さすがの明美も疲弊しきっていた。
「でも、恋人がいると楽しいよねぇ」
「……まさか茉優からそんな感想を聞く日が来るとは思わなかったわ。沢君の調教の成果かしら」
菜月の指摘に、恭介が盛大に噎せる。
ふわぁと驚きながらも、意外に世話焼きらしい茉優が彼の背中を摩る。
「変なこと言わないでよ」
「あら? そんな風に感じるのは沢君に邪な心があるからよ」
「ち、違うってば! 男だからって、そんな……ねえ、真君」
「え!? ここで僕に振らないでよ」
我関せずと麦茶を口に含んでいた真が、危うく吹き出しそうになりながらも反論した。
「そうなのよ。うちの真は度胸がないから」
「クハハ! もう菜月の尻に敷かれてんかよ、真は。
まあ、胸のわりにはデカイから――」
「――死刑確定」
「やめろ! 傷心の幼馴染をもっと気遣え!」
おどけて逃げ回る宏和に、またしても菜月は大きなため息をついた。
「何が傷心よ。一回戦で負けてから、もう結構経ってるじゃない」
「うおお! 俺の心が抉られるぅ!」
「大丈夫です、宏和先輩! 傷は浅いです!」
最初は普通に心配しているようだったが、宏和が甘えだすと、すぐに愛花はウフフと受け入れる。
「これは疲れるわけね」
菜月が言うと、同志を見つけたとばかりに明美が肩に手を置いてきた。
「愛花ちゃんの幸せは嬉しいけど、毎日のように見せつけられるとね。あたしは彼氏を作るとしたら、涼子ちゃんみたいにこざっぱりとした性格の人がいいかな」
「だったらいっそくっつけばいいじゃない。今時は珍しくもないでしょうし」
「その手があったわね。涼子ちゃん、どう?」
「ボクはノーマルだ!」
やいのやいの騒がしさを増すリビングで、宏和がソファに背をもたれさせて天井を見た。
「高校最後の夏……終わっちまったんだな」
「宏和……」
「そんな顔すんなって。甲子園にも出場できたし、意外と満足してんだ。仲町コーチだって泣きながら喜んでくれたしな」
「いえ、そうではなくて、手付かずの宿題が残っているから、宏和の夏は始まったばかりよ?」
「思い出させないでくれえええ!」
逃げようとする宏和を捕まえて、保護者ともいうべき愛花に引き渡す。
「甘やかしてばかりだと男は逃げてしまうわよ? ずっと自分の傍に引き留めておきたいのなら、厳しさも必要になるわ。だから……愛花が監視するのよ。宏和が宿題を終わらせるようにね」
「菜月……その忠告、ありがたく頂戴します!」
「やめろ! 悪魔の誘惑に耳を貸すんじゃない!」
「さあ、宏和先輩! 一緒に宿題をやってしまいましょう!」
「嫌だ! 俺は遊ぶんだ!」
本気で泣きそうになる宏和を皆で笑う中、菜月は甲子園の優勝セレモニーが行われているテレビをこっそり見た。
「競技は違っても、デカイ大会ってのはいいもんだぜ。
だから来年はお前らもいけよな」
いつの間にかこちらを見ていた宏和が、晴れやかな笑顔で親指を立てた。
「当たり前よ。キツい合宿も乗り越えたのだし、まずは新人戦に集中しないとね」
「あ、それなんですが」
思い出したように愛花が顔を上げた。
「夏休みが終わる前に、もう一度合宿を行うと美由紀先生が言ってました」
「……嘘でしょ」
「そこは望むところだって言っとけよ!」
ガックリと項垂れた菜月をからかったあと、宏和は真面目な顔つきになる。
「まだ優勝を目指して練習できんだからよ」
「……そうね。二度目の合宿も望むところだわ」
「その意気だ!」
やる気を漲らせ、ソフトボール恒例の掛け声をする菜月たちを、宏和がほんの少しだけ羨ましそうにする。
「俺は……どうするかな。甲子園に出られても、一回戦負けじゃプロは無理だしな」
「諦めるの?」
「野球は続けたいから、大学を目指すことになるかもな。推薦ありの」
伸ばした手を宏和が強く握る。
次のステージを見据えた目は、なんだか少しだけ格好良かった。
「頑張りなさい。愛花も応援してくれるでしょうから」
「もちろんです! 全力で応援します!
まずは宿題の監視からいきます!」
「げ……」
宏和はげんなりとするが、意外と愛花には弱いらしく、結局この日は太陽が沈むまで宿題と格闘し続けていた。
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