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菜月の中学・高校編

葉月のパン屋

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「葉月ちゃん、パン屋をやってみない?」

「え?」

 葉月は目を丸くした。
 東京で経理を学んでいた親友の今井好美との再会を楽しんだのも束の間、コーヒーの湯気が立ち上る喫茶店で彼女にされた提案は、頭の中が真っ白になるくらい衝撃的だった。

 グレーのパンツスーツに身を包み、すっかり大人びた好美が理由を説明する。

「私の母が美容院……というより床屋をしてたのは知ってるわよね。その母が廃業を決めたの」

「ええっ? 辞めちゃうの!?」

「客入りも減って、予約のない日はパートに出てたりしたんだけど、そこの社長さんに気に入られたらしくて、正社員でどうかって誘われたみたい」

 前から話自体はあり、好美の母親はずっと悩んでいたのだという。

「最近は父も真面目に家へ帰ってるみたいだし、むしろ床屋を廃業した方が生活は安定するみたい。あ、葉月ちゃんや菜月ちゃんたちには、お風呂場とかで無料でカットしてあげるって言ってたわよ」

 葉月だけでなく、菜月、さらには和葉までもが好美の母親の世話になっていた。

「それは嬉しいけど……なんだか寂しいな……」

「営業自体はまだ続けられるみたいだけどね。年齢を重ねてきて、二足のわらじが辛くなってきたらしいわ。私も少しだけ寂しい……」

 一瞬だけ目を伏せた好美だったが、すぐに顔を上げる。

「だからかな。母から誰かに売ろうか考えてるって聞かされた時、葉月ちゃんに話してみたいって提案したの。思い出の場所で他の誰かが店をやるのは複雑だけど、葉月ちゃんなら大歓迎だもの」

 眼鏡の奥で目を細めた好美が、小さなバッグから書類を取り出した。

「これがお店や土地の権利書。冗談じゃなく、本気で相談してるの」

「で、でも……」

「大丈夫よ。母も葉月ちゃんになら、安く売っても構わないと言ってるから」

 好美が提示した金額は、土地や家屋が高くない田舎においても、かなり安い部類に入るものだった。

「さすがにある程度はリフォームが必要だろうけど、悪い条件じゃないはずよ」

 確かにその通りだった。
 葉月の夢を知っている好美が、後押しをしてくれてようとしているのもわかった。
 けれど単純には頷けなかった。

「とてもいいお話だけど、好美ちゃんのママに悪いよ」

「……いい? 葉月ちゃん」

 いつになく真剣味を増した好美の顔が、コーヒーカップのあるテーブル上でグッと近づけられる。

「自分で言うのも何だけど、お店をやりたいなら今回は絶好のチャンスだと思う。スーパーの店内に出すにはテナント料がかかりすぎるし、自分で探すにしても、まともに不動産屋に頼んだら、少なく見積もっても母が売ると言ってくれた金額の倍以上はかかるわ」

 葉月は無言で頷く。実際に好美の言葉通りなのは間違いない。
 不動産屋を営んでいる柚の父親に頼み込むことも可能だが、その場合もここまで安くはならないだろう。

「本気で夢を叶えたいなら、チャンスには貪欲になって。それでも申し訳ないと思うのなら、パン屋さんを繁盛させて。それが母への最高の恩返しになるから」

 最後に微笑んだ好美を見て、葉月の両目から涙が溢れた。
 友人の心遣いが嬉しかった。

「こんなことで泣いてたら、菜月ちゃんに笑われるわよ」

 ハンカチで葉月の涙を拭いた好美が、それにねと言葉を続ける。

「実は私も地元に帰ってこようかと思ってるの」

「そうなの!?」

 二重の驚きに、再び葉月は目を丸くした。

「前に言ったかな。私の夢は葉月ちゃんを手伝うこと。そのために東京で経理の勉強もしたんだから」

 働きながら好美が多くの資格を取ったのは聞いていた。しかし、それがすべて葉月のためだとは想像もしていなかった。

「好美ちゃんが手伝ってくれるなら心強いけど……。
 でも……すぐには決められないよ」

 それは好美もわかっていたらしく、嫌な顔一つせずに頷いた。

「大きな買い物と挑戦になるのは間違いないもの。
 ご家族とも相談して決めるといいわ。葉月ちゃんがどんな決断をしても尊重するし、私たちは友達のままだから安心して」

「うん! ありがとう好美ちゃん!」

   *

「俺はいい話だと思うぞ」

 その日の夜。高木家のリビングで開催された家族会議で、葉月の話を聞き終えた春道が開口一番、賛意を示してくれた。

「好美ちゃんのママが店を続けるか悩んでたのは知っていたけど、こんなに良い条件で葉月に店を譲ってくれるなんて。あとでお礼を言いにいかないと」

「あ、あのね、ママ……それにパパも。まだ買うって決めたわけじゃないんだ」

 補足した葉月の隣で、ホットミルクの入ったマグカップを両手で持つ菜月が呆れ顔をした。

「何を言っているのよ。好美ちゃんの言う通りでしょう。この機を逃したら、はづ姉が店を持てるのなんてずっと先になるわよ」

「で、でも……不安なんだ……」

 葉月は正直な思いを吐露する。

「お店を出せるのは凄く嬉しい。好美ちゃんの心遣いには感謝してる。だけど、葉月のパン屋にお客さんは来てくれるかな? せっかくお店を譲ってもらうのに、すぐ潰れたりして、がっかりさせちゃわないかな。そんなことばかり考えちゃうんだ」

「ますます呆れるわね」

 容赦なく一刀両断したのは菜月だった。

「不安なことばかり考えていたら、何もできないわよ。はづ姉はいつ病気になるかわからないから、生きるのを辞めたいと思ったことがある?」

「それとこれとは話が別だよ!」

「確かに極端な意見ではあるけれど、方向的には同じだと思うわよ。はづ姉はいつもみたいに、頭空っぽにして前へ進めばいいの」

「なっちー!? いつも私をそんな風に見てたの!?」

 衝撃の事実に愕然としていると、菜月は僅かに顔を赤くしてそっぽを向いた。
 からかったはいいものの、相手の反応が予想以上で、少し申し訳なく思っている時の態度である。

 そんな愛らしい妹に、葉月は横から抱き着く。

「ちょっと、はづ姉! ミルクが零れたらどうするのよ!」

「ごめん。でも、なっちーが私の心配をしてくれてるのが嬉しくて」

「どれだけ呆れさせるつもりなの? 姉妹なのだから当然でしょう」

 嬉しそうにため息をつくという難易度の高い仕草を見せた菜月が、マグカップをテーブルに置いて葉月の頭を撫でた。

「私も自分の環境をそう思うのだけれど、はづ姉も凄く恵まれているわ。地元に戻ってくるといった好美ちゃんだって、きっとかなり格安のお給料で手伝ってくれるつもりでしょうし」

「わかってる……だから余計に申し訳ないんだ」

「それならお店を頑張って、好美ちゃんだけではなく、いっそ好美ちゃんの家族を丸ごと養えるくらいに儲ければいいのよ。そしていつか恩返しをすればいい。困った時に助け合える友人がいるのは、とてもありがたいことだから」

「そうだね。フフ。高木家の血なのかな。お互いに対人関係に恵まれて良かったね」

 葉月と菜月のやり取りに、母親の和葉がほろりと涙を零した。

「姉妹というのは、友人というのは……いいものね」

「そうだな」

 肩を寄せてきた愛妻の頭を受け入れ、春道も温かい目で葉月たちを見つめながら頷いた。

「俺もよく泰宏さんに世話になるしな」

「……真っ先に兄の名前が出るあたり、春道さんは意外に人間関係に恵まれてないみたいね」

「こらこら」

 温かな空気がリビングに広がっていく。
 葉月は自分が高木家の娘でいられることを、誰より幸せに思った。

   *

 翌日に葉月は好美の家へお邪魔していた。

「決断したのね」

 葉月の答えを聞いた好美の母親が大きく頷いた。

「はい。両親も賛成してくれましたし、私も夢だったパン屋をやってみたいので」

 実家住まいの葉月は何度も家にお金を入れようとしたが、そのたびに家主の春道から却下された。

 いつか必要な時のために貯金しておけ。これも親の務めだ、と。
 そして和葉は前々から葉月のためにと、少しずつお金を貯めてくれていた。
 それらを合わせれば、お店代と当面の運営費は何とかなる。
 あとは葉月次第だったのである。

「相変わらず葉月ちゃん想いのご両親ね」

 母親の隣で状況を見守っていた好美が笑顔になる。

「うん、自慢の家族だよ。なっちーを含めてね」

 好美の母親が廃業するまでにはもう少し時間がかかるので、その間に葉月も色々と準備をしておくことになる。

「だけど、その、好美ちゃんは、あの……」

 すぐ近くに彼女の母親もいるので、どうしても言い難くなってしまう。
 葉月の心情を察したのか、すでに事情を聞いていたらしい好美の母親がケラケラと笑った。

「この子のことなら気にしないで、こき使ってあげればいいわ。生活するだけなら、それこそ親の私たちが助けてあげられるしね」

 店の隣にある自宅はそのまま好美たち一家が使用する。葉月も実家から通うつもりでいたので、その点に関しては無問題だった。

「娘とその友達が店をやろうっていうんだ。応援してやらなくて何が親だよ」

 豪快に笑う好美の母親に、葉月の心が救われたような気がした。

「ありがとうございます。精一杯頑張ります!」

   *

「葉月は凄えな。本当に夢を叶えちまうとは」

 実希子が心から感心したように言った。
 好美が帰省しているのを受けて、葉月の提案で地元の居酒屋に久しぶりに全員で夜に集まったのである。

「それを言うなら柚ちゃんもでしょ」

「そうね。教師になって、しかも地元の小学校で働くなんて驚いたわ」

 好美に視線を向けられた柚が、照れ臭そうにグラスを口に運ぶ。

「こうやって四人で酒を呑むのも、大学以来かな」

「ちょっと」

 しみじみと言った実希子に、早速ツッコミが入る。

「数を数え間違えてるわよ。これだから脳筋ゴリラは」

「なんか言ったか、発情猿」

 昔に戻ったみたいに、ぐぬぬと実希子と額をぶつけ合う尚。彼女もまた今夜のために、わざわざこちらへ来てくれていた。明日は有給休暇を取っていて、今夜は実希子の家に泊まるらしい。なんやかんやで仲の良い二人だった。

「あ、あはは……。
 そうだ。尚ちゃんは彼氏さんと順調なの?」

「当たり前じゃない! 晋ちゃんとの愛情は不変よ!」

 葉月に聞かれて胸を張る尚だったが、ここでも実希子からからかい半分の指摘が入る。

「そのわりには、まだ結婚してないよな。美由紀先輩みたいに、男を憎む結果にならなきゃいいけどな」

「その点は問題ないわ。お互いに働けるうちに、マイホームの資金を溜めておくつもりなだけだから。
 結婚して妊娠すると、どうしても今までみたいには働けないでしょ?」

「そうね。少しずつ改善はされてきているけど、まだまだ妊娠した女性には厳しい職場環境のところも多いみたいだからね」

 同じ女性であるだけに、好美だけでなく全員が共感できる思いだった。

「尚もしっかり考えてんだな」

「そりゃあね。寂しいけど、いつまでも学生気分じゃいられないわよ」

 実希子にそう言ったあとで、尚は「でも……」と再び口を開いた。

「こうして集まれば変わらない仲間がいて、昔と同じように騒げる。それがとても嬉しいんだ。年を重ねるにつれて、強くそう思うようになった」

「それだけ尚がおばさんになったってことだな」

「はいはい。実希子ちゃんの憎まれ口も、大人なので華麗にスルーできるのよ」

「さっきはムキになってたくせに」

「うるさいわよ、脳筋ゴリラ」

「やるか、発情猿」

 飽きずに睨み合う二人を、葉月たちが笑う。
 それは大学で過ごした四年間の延長のような光景だった。

 実希子の怪我を知っても誰も対応を変えず、ありのままに受け入れる。
 そんな友人たちは、家族同様に葉月の誇りだった。
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