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菜月の中学・高校編

受験勉強と駅伝大会

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「暇だー」

 ぐでんと図書館の机に突っ伏す涼子を見て、菜月は盛大にため息をついた。

「受験勉強の最中にそんなことを言う人は初めて……いいえ、二人目ね」

「ふえ? じゃあ、前にもいたのー?」

 隣に座っている茉優が、可愛らしく小首を傾げた。

「決まっているじゃない。伝説のゴリラよ」

「な、菜月さん。恩義あるコーチをそのように呼ぶのはどうかと思います」

 夏の大会で勝ち進めたのもあり、すっかり実希子ファンになった愛花がやんわりと注意してきた。

「大丈夫よ。あれでいて本人、気に入っているもの」

「さ、さすがにもう騙されません。喜ぶからと菜月さんに唆されて言ってみたら、とてもショックを受けていました」

「あはは……あったねえ。実希子ちゃんがグラウンドに来るなり、おはようございますゴリラコーチって元気に挨拶したんだよねぇ」

「やめてください、茉優さん。思い出させないで!」

 すっかり黒歴史になっているらしく、あうあうと愛花が頭を抱えた。

「でも、涼子ちゃんじゃないけど、勉強ばかりというのも気が滅入ってくるよね」

「だろ? だったらいっそ、合宿中の後輩を冷やかしにいかないか?」

 友人の明美が乗ってきたので、これ幸いとばかりに涼子が身を乗り出した。

「私はパスね。冷房の効いている図書館で、勉強をするのを選ぶわ」

「おい、元副キャプテン。それはさすがに冷たすぎるだろ」

「そうかしら。むしろ引退した三年生が、いつまでものさばっている方が迷惑かもしれないわよ」

 菜月の指摘に、涼子がうっと言葉に詰まる。

「皆、いい子だからそうとも言えないけど、この暑さじゃ、あたしも遠慮したいかな」

 友人の同意も得られなかったことで、力なく涼子が着席し、再び机に突っ伏した。

「そ、そういえばコーチは今後も続けてくださるみたいですね」

「元々、面倒見のいい性格だからね。部員一同に全力で頭を下げられたら断れないわよ。もっとも就職が決まるまでの条件付きらしいけれど」

「だとしても、知識も経験もある指導者に教えてもらえるのは大きいです。わたしたちも……というのは贅沢ですね。監督にもよくしていただきましたし」

 愛花の言いたいことがわかるだけに、菜月も返答に困ってしまう。

「ソフトボール、楽しかったねえ」

 こんな時に頼りになるのは空気を読まないのか、逆に読んでいるのか理解不能な茉優の存在だった。

 三年生になっても変わらず愛らしい外見と立ち振る舞いで、ソフトボール部でもマスコット的な存在だった。そのわりに打席に入ると頼りになるのだが。

「また皆で一緒に部活がやりたいなあ」

「できるといいわね」

 本来ならここで勉強ができなさそうな涼子に目が向いて、槍玉に上げたりするのだが、生憎というべきか彼女はそれなりに頭が良かったりする。

「はづ姉の時は実希子ちゃんに死に物狂いで勉強を教えたらしいけれど、私たちで危険水域なのは見た目からは意外な愛花ちゃんなのよね」

「た、ため息をつかないでください。
 わたしだってギリギリなのはわかってるんです」

 入学当初は完璧なお嬢様みたいに思われていた愛花だが、今ではすっかり正体が露見している。当人に隠す意思がなかったので当然といえば当然なのだが。

「ボクは逆に、茉優の成績がそれなりによくなったのが意外だったけどな」

「それを言うなら涼子もでしょ。変に手先も器用だったりするし」

 愛花のツッコみに菜月もうんうんと首を振る。

「料理もできるし、がさつなふりして意外と女子力高いのよね。
 もしかして女の子らしくすると愛花ちゃんよりモテてしまうから、ボーイッシュな感じにしているのかしら」

「は!? ち、違うぞ。愛花、違うからな」

 ジト目になった友人に弁解しつつも、動揺しまくりな態度からまんざら的外れでもないみたいだった。

「涼子ちゃんは年下の子に人気があるもんねぇ」

「この間も下駄箱にラブレターが入ってましたね。返事はしたんですか?」

 思わぬ情報に、全員の視線が一人に集中する。

「こ、断ったよ。ボク、あんまりそういうのに興味ないし」

「……もしかして……狙いは愛花ちゃんとか?」

 菜月が尋ねると、赤面した愛花がもの凄い速度で自分の胸を隠した。

「お、おま……変な誤解を招くことを言うな! ボクはノーマルだ!」

「涼子ちゃん、図書館では静かにするものよ」

「ぐっ……! せ、性格悪すぎだろ……」

 夏休み中の町の図書館はあまり利用者もいないが、騒いでもいいということにはならない、申し訳なさそうに涼子は周囲に視線を走らせ、その顔を唐突に邪悪な色に染めた。

「そうだそうだ。ボクも菜月に聞きたいことがあったんだよ」

「却下します」

「横暴すぎるだろ、元副キャプテン! いいから答えろよ。彼氏とのカ・ン・ケ・イ・を」

 プッと吹き出しながら聞いてきた友人に目潰しを喰らわせたくなったが、そんな真似をしたらやましいことでもあるのかと勘繰られるだけである。

「今までと何も変わらないわ」

 無視の一手も考えられたが、友人との仲を険悪にしたくはないので普通に答える。
 だが信じられないとばかりに涼子は首を振った。

「嘘だろ。友達から恋人になったんだぞ」

「そんなことを言われてもね。元からずっと一緒にいたし、二人で出かけることもあったし」

 茉優も加えて三人で遊びに行くこともある。特に最近は祖父の件があったので、気を遣って頻繁に誘ってくれていた。

「私のことより愛花ちゃんはどうなの? この間、宏和の試合を観に行ったのでしょう?」

「相変わらず堂々としてました。わたしの憧れです……」

 熱心に応援に通う愛花の姿は、宏和の通う学校でも有名になっているらしい。

「早く同じ高校で、戸高先輩の雄姿を生で見たいです」

「そのためには、なんとしても南高校に合格しないとね」

「うう……ご苦労をおかけします……」

「こら、菜月。あんまりうちの愛花を虐めるな」

「涼子ちゃんの言う通りよ。
 長所も短所もない平凡なお嬢様もどきがいたっていいじゃない」

「ボ、ボクはそこまで言ってないからな!」

 慌てて明美の発言を否定するが、愛花のジト目が注がれるのは憐れにも涼子だった。

「あはは。楽しいねえ」

 楽しそうにしながら、茉優は言う。

「やっぱり茉優は皆で進学したい。だから勉強も頑張るよぉ」

「そうですね。菜月さんには負けられませんし、どちらが良い点数で南高校に合格できるか勝負です!」

「久しぶりに聞いたわね。でも、いいわ。乗ってあげる」

 珍しいことがあるものだと周囲が戸惑う中、菜月は悪魔のごとく口元を歪めた。

「その代わり、負けた方は三年間下僕ね♪」

 勢いで応じかけた愛花を、この時ばかりは抜群のコンビネーションで涼子と明美が阻止したのだった。

   *

 秋晴れの空に吸い込まれるように、学校のグラウンドで砂埃が舞う。

「気合入れて走れ、男子っ!」

 叫んだ涼子だけでなく、勝負事には強い執着を発揮する愛花も声を枯らして応援する。

 一年生の時以来となった駅伝大会は、中盤を過ぎても学年一位を他のクラスと競り合う展開になっていた。

 ちなみに全校一位はかなり先を走っている。三年生は部活を引退してしまっているし、一年生はまだ体力不足なので、どうしても二年生が有利になる。それはこの前の大会でも同じだった。

「明美ちゃん、がんばー」

 つい先ほど走り終えた茉優が、額に汗を浮かべながら声援を送る。
 タスキが次走者に渡り、競り合っていたクラスからリードを奪う。

「後半に足の速い人を並べておいたから、有利に戦えそうだね」

 隣に来た真も、すでに自分の番を終えている。文化部の彼は中盤にかけての足の遅いグループの一員で、全力で走ってはいたが序盤のリードを消費してしまった。

「もう大丈夫なの?」

「うん。日陰で休ませてもらったから、だいぶ楽になったよ」

「それなら良かったけれど、普段からもう少し体を動かしなさい。1500メートル走っただけで、あそこまでバテるのはさすがに酷いわ」

「ハ、ハハ……文化部の宿命だね」

 笑って誤魔化す真に鼻ピンしている間に菜月の番がやってくる。タスキを受け取り、全力で走る。グラウンドのあちこちでクラスメートが応援してくれていた。

 真だけでなく茉優や愛花、涼子に明美。よく話をする女の子に、授業が面白い先生。慕ってくれる後輩。
 コースを駆け抜けていくのが、まるで中学生活を振り返っているように思えた。

 ……もうすぐ卒業するのね。

 とても寂しく、とても切ない。
 けれどこの別れは大人になるために必要なもので、進んだ先には新しい出会いも待っている。

 だから、と唇を噛み締めて菜月は走る。
 最後の瞬間まで、精一杯全力で楽しむためにも。

   *

「まさしく有終の美というやつでしたね」

 愛花が三年間でほとんど成長しなかった胸を張る。
 菜月も人のことは言えないのだが。

 葉月の努めているパン屋で購入したパンを、隣の休憩スペースで皆で頬張る。
 いわゆる祝勝会である。

「僕は何の役にも立ってないけどね」

「そんなことはないよ。駅伝は誰か一人でも欠けてたらタスキは繋げないからね。クラス全員で勝ち取った学年一位だよ」

「恭介君にそう言ってもらえると、少しだけ楽になるよ」

 幸せそうに、真がカレードーナツを一口齧る。

「私もカレードーナツにすればよかったかしら」

 甘いものが食べたくてチョコパンにしたのだが、腹持ちするのでも良かったかもしれない。

 そんな後悔を抱いていると、真がごく自然に「一口食べる?」と聞いてきた。

「ありがと」

 差し出されたカレードーナツを小さな一口分貰ってから、代わりに菜月は自分のチョコパンを真の唇に近づける。

「お返しにどうぞ」

「う、うん。いただきます」

 妙に照れている真に首を傾げていると、愛花たちまで顔を真っ赤にしているのがわかった。茉優だけはいつもと変わらない様子でメロンパンを平らげていたが。

「み、見てるだけでこっちが照れてくるな」

「ラブラブよね」

「あれが恋人同士というやつなんですね」

 涼子が目をパチクリさせ、明美がうっとりと目を細め、愛花が感心するように頷いた。

 そして茉優がとどめの一言を放つ。

「間接キスだねぇ」

 キャーキャーと盛り上がる三人組。矢継ぎ早に質問をされるが、昔から似たようなことをしてきたせいで、変に意識をしていなかったとしか菜月には答えようがなかった。

 ひとしきり騒いで、様子が気になっていたらしい葉月に冷やかされたあと、急に場がシンとした。食品売場で流れる音楽だけが耳に届く。

「もうすぐ……卒業だね」

 明美がポツリと言った。

「その前に受験があるけれどね」

「思い出させないでください……」

 塾にはいかず、毎日皆で集まっての勉強会が開催されていた。教師役は担任に合格確実と、太鼓判を押されている菜月と恭介の二人だった。

「真と涼子ちゃんと明美ちゃんは何とかなりそうだし、あとは茉優と愛花ちゃんなのよね」

 茉優には恭介が、愛花には菜月が、最近ではマンツーマンで教えていた。

「あはは、一生懸命頑張ってるんだけどねぇ」

「右に同じです……」

「心配しなくても大丈夫よ。二人ともきっちり受験日までには仕上げてあげるから」

 不敵に笑う菜月を頼もしいと絶賛するのではなく、愛花は恐怖に顔を引きつらせる。

「きょ、教師役を沢君に代わっていただきたいんですが……」

 恐る恐る手を上げた彼女に、恭介は沈痛な面持ちで首を左右に振った。

「茉優ちゃんは茉優ちゃんで、意外と大変なんだ」

「ごめんね、沢君。あれでもテスト前とかは一緒に勉強していたのだけれど……」

「志望校が南高校でなければ余裕なんだろうけどね」

 恭介が言うと、茉優はガバッと立ち上がり、

「なっちーや皆と同じ高校がいい! 仲間外れは嫌だよぉ」

「……私もよ。だから皆で頑張りましょう」

「菜月の言う通りだな。愛花も贅沢言ってたら罰が当たるぞ」

「涼子は菜月さんと二人で勉強したことがないから、そんな風に言えるんです!」

 涙目になった愛花の剣幕に、明美がドン引きする。

「そ、そんなに凄いの?」

「鬼です」愛花は断言した。「情け容赦なく徹底的にしごかれます。実希子コーチの練習が生易しく感じるほどに」

「でも、愛花ちゃんのママには凄く感謝されているわよ?」

「それなんです! ママったら人前では完璧な菜月さんにすっかりメロメロで、先日なんかはとうとう泊まったらどうかしらなんて狂った提案をしたんです!」

 狂った提案とはなかなか失礼だが、かなり厳しく指導している自覚があるだけに菜月は何も言えない。その代わりにこんな提案をしてみる。

「もし愛花ちゃんが合格できたら、宏和のスマホの番号を教えてあげるわよ?」

 目の色が変わった。

「ほ、本当ですか!?」

「そんなに気合を入れなくても、愛花ちゃんが直接本人に聞けばいいんじゃないの?」

 明美がもっともな質問をする。

「そ、そんなプライベートなことまで聞いて、図々しい女だと思われたらどうするんです!」

「乙女ね」
「乙女だな」

 明美と涼子の声がハモった。
 もじもじとしながらも嬉しそうな愛花と正式に約束を交わし、菜月はスクールバッグをテーブルに置く。

「願いを叶えるためには努力が必要よね。パンも食べたし、ここで軽く勉強していきましょう」

「え!? せ、せめて今日くらいはお休みを……」

「――愛花ちゃん?」

「ひいっ! そ、その目はやめてください!」

 恐れ戦く愛花の隣で、涼子も顔を引きつらせる。

「人でも殺しそうな目だったな」

「愛花ちゃんが怖がるわけね。でも、丁度良かったかも」

「何で?」

「あたしたちじゃ、愛花ちゃんにあそこまで厳しくできないもの」

「確かに。泣いて頼まれたら、サボるのを認めそうだしな」

 よし、と涼子は手を叩いた。

「かわいそうだけど、心を鬼にして愛花を菜月に預けとこう」

「あたしたちも勉強しないといけないしね」

「は、薄情者! それでも小学生時代からの友人なんですか!」

「いいから、まずはこの問題を解く。制限時間は一分。不正解の場合は課題量を三倍に増やすわよ」

「いやあああ」

 ずいと詰め寄る菜月から逃げるように、頭を抱えた愛花はテーブルに突っ伏した。
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