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菜月の中学・高校編

騒乱の修学旅行

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 楽しそうな雰囲気を醸し出す級友たちを横目に、肘をついてぼんやりと車窓から外を眺める菜月は、もう何度目かもわからないため息をついた。

 物憂げな顔が窓に映るたび、これではいけないと思うのだが、どうにも気分が上がってこない。

「なっちー、大丈夫?」

 挙句にこうして、親友の茉優に心配される有様だった。

「ごめんね、茉優。大丈夫よ」

「うん」

 隣に座っている茉優が、菜月の手をギュッと握った。

「何かあったら茉優に言ってね。なっちーのためなら、何でもするよぉ」

「ありがとう」

 菜月は額を彼女の肩にコツンとぶつけた。
 掌から伝わる茉優の温もりが優しくて……心強かった。

「仕方ありません。何もかも忘れて楽しめというのは酷な状況ですから」

 愛花だけでなく、涼子や明美も菜月を気遣ってくれる。

「皆は私を気にしないで……って言うのも無理な話よね。本当は一緒に遊びたいのだけれど……」

 クラスの他の生徒たちは、皆でおやつを食べたり、カードゲームに興じていたりする。

「だったら遊べばいいだろ。函館までは結構かかるしな」

「飛行機ならすぐなんだけどねー」

「ふえ?」

 突如として聞こえてきた声に茉優が顔を上げ、

「な、なっちー! なっちー! た、大変だよぉ!」

「どうしたの? 愛花ちゃんが通行人に勝負を挑んだのかしら」

「ですから! 菜月さんはわたしを――って、どうしてここに実希子コーチがいるんですか!?」

 衝撃的な名前の登場に、菜月も俯き加減だった顔を跳ね起こした。

「はづ姉まで!? こんなとこで何をしているのよ!?」

「何って……北海道旅行だよ」

「……は?」

 当たり前のように繰り出された姉の回答に、菜月は一瞬だけ時間が停止したような錯覚を覚えた。

「実希子ちゃんと一緒に、懐かしの北海道旅行をしようってことになったの」

「せっかく帰省したからには、旧交を温めないとな!」

 葉月の隣で、実希子が得意げに親指を立てた。

「……本気で言っているの?」

「そうだよ?」

「何を考えているのよ!」

 菜月が大声を上げたせいで、電車内がシンとする。
 しかし激情に駆られているせいで、菜月はその事実にすら気付けなかった。

「お祖父ちゃんが大変な時だっていうのに、はづ姉まで家を空けてどうするのよ! パパとママがどんなに苦労しているのか、知っているでしょ!」

「うん、知ってるよ。なっちーが直前まで修学旅行に参加しないで、家の手伝いをするって言ってたこともね」

「だったら!」

「……パパに言われたんだ」

 立ち上がっていた菜月の肩に、葉月が優しく手を置いた。

「今のままじゃ、菜月は修学旅行を楽しめない。お祖父ちゃんを心配してくれるのは嬉しいけど、学校行事はきちんと楽しむべきだって」

「だけど……」

「私もパパと同じ気持ちだよ。なっちーが暗い顔をしてたら、逆にお祖父ちゃんが悲しくなっちゃうんじゃないかな。
 前に約束したでしょ? なるべく笑顔でいようって」

 梳くように菜月の髪の毛を撫でていた葉月が、ポケットからデジタルカメラを取り出した。

「だからこれでなっちーが楽しんでるところを撮影して、帰ってお祖父ちゃんに見せてあげよ? それでこの写真を撮った時はこんな感じでって教えてあげるの。きっと喜んでくれると思うな」

「…………」

「お祖父ちゃんにとっては何よりのお土産になるよ。それでこの次は一緒に行こうって、元気になって皆で旅行しようって、言ってあげよう」

「……はづ姉」

 姉の胸に顔を埋め、菜月は声を殺して泣いた。
 突然の乱入者と騒ぎに驚いていたクラスメートは、学級委員長らしく愛花が落ち着かせてくれていた。

   *

「うっほー! 函館だぞ、函館!」

「あ、実希子ちゃん。あっちにイカ焼きが売ってるよ!」

 百万ドルと称される函館の夜景。幻想的な姿に誰もが息を呑む中、場違いな歓声が菜月の周囲にだけ響いていた。

「あのね、はづ姉に実希子ちゃん」

 仲良くイカ焼きを頬張る大人二人を、菜月は目の前に立たせた。

「電車では元気づけてもらったし、してくれた話もありがたかったわ。おかげで綺麗な写真も撮れた。でもね? 修学旅行について回るのは違うと思うの」

「おいおい、誤解してるぞ、なっちー」

 イカ焼きを呑み込んだ実希子が、ずいっと顔を近づけてくる。

「アタシと葉月の旅行コースが、たまたまなっちーたちと被ってただけだ」

「そんなたまたまがあるわけないでしょう!」

 だが葉月は、あっさりと菜月の指摘を否定する。

「思い出のコースを辿ってるだけだからね。昔と行先が変わってなければ、かち合うのはむしろ当たり前だよ」

「確かにそうですね」

「愛花ちゃん、納得しないで!」

 五人で班を組んでいた菜月たちと、真や恭介が所属する男子班はほとんど一緒に行動しているが、そこにOGとはいえ今回の旅行では部外者な葉月たちが加わっていた。

「なっちーは気にしすぎなんだよ。他の連中みたいに楽にしてろよ」

 性格はともかく、容姿は優れている大人の女性が近くにいれば、年頃の男子生徒が喜ぶのは当然だった。

 引率の教師も様子を見に来たものの、その中に葉月や実希子を知る年配の教師がいたせいで思い出話が盛り上がり、いつの間にか存在を黙認されてしまったのである。

「そういえば実希子ちゃんは夜に先生と飲み会するんだっけ?」

「おお、教え子と呑むのは初めてだって今から張り切ってたな」

「あー、聞きたくない。もの凄く聞きたくない」

 耳を塞いで逃げるように二人から離れると、改めて菜月は函館の夜景を見下ろした。

「本当に綺麗ね……」

 この場に着くまでの山道はそれなりに大変だったが、これを見られるなら十分に許容できる苦労だった。

「お祖父さんにいい報告ができそうだね」

 いつの間にか隣にいた真が菜月を見て微笑んだ。

「そうね。隣には彼氏がいましたなんて加えたら、ますます喜びそうだわ」

「え? ええ!?」

「何よ? そう言われるのは迷惑なのかしら?」

「そ、そんなことないよ! 僕なんか嬉しくて両親にも報告――あっ!」

 しまったとばかりに真は手で口を押さえるが、そんなのは秘密にもなっていなかった。

「真のママとパパの反応を見れば、簡単に予想できるわよ。この前はきちんと挨拶もしたし、むしろ末永く息子をよろしくお願いしますと頼まれたわ」

「……いつの間に……」

「フフ。プリントを届けに行った時には、真とこうなるなんて夢にも思わなかったわ」

「僕もだよ。でも、菜月ちゃんが目の前に現れた時、何かが変わるような……そんな予感がしたんだ」

「恥ずかしい台詞ね」

「きっと一緒に夜景を見てるせいだね」

 照れ臭くも心地よい無言の時が、春の風とともに二人の間を吹き抜けていく。
 夏が近づきつつあっても夜はまだ少し肌寒い。
 隣に立つ彼氏にほんのちょっとだけ菜月は身を寄せようとして、

「おい、葉月! あそこでなっちーと真がラブシーンをしてやがるぞ!」

「そ、それはまだ早いよ、なっちー!」

 クラスメートの注目と同情のクスクス笑いを浴びるはめになった。

   *

「終わってしまうと、あっという間だったよなー」

 帰りのフェリーでそんな感想を口にしたのは、修学旅行中の菜月のクラスメートではなかった。

「それなら実希子ちゃんだけ北海道に残ればいいじゃない。
 野生にかえれるわよ?」

「だからアタシはゴリラじゃないっつーの!」

 実希子は憤る演技をしただけで、すぐにいつもの人懐っこい笑みで顔を満たした。

「いやー、でも楽しかったよ。久しぶりに葉月ともたくさん話せたし」

「たまにはこういうのもいいよね。勧めてくれたパパに感謝かな」

「だなー。好美や柚や発情猿を悔しがらせることもできたし」

「アハハ。今度は皆で一緒に来ようね」

 修学旅行生並に北海道を満喫した二人は、当たり前のように菜月らと一緒に座っていた。

「でも……はづ姉は本当に良かったの?」

 あっけらかんとしているようでいて、誰よりも家族想いの葉月だ。考えなしに、何日も家を空けるとは思えなかった。

「いいんだよ」

 優しい目で菜月を見つめ、葉月は言った。

「葉月たちにしか言えないこともある。それと同じで、葉月たちがいない時にしか言えないことだってあるんだよ。きっとパパにもお祖父ちゃんにもね」

「パパとお祖父ちゃんに水入らずの時間を作ってあげたってこと?」

「うーん……それに近いのかな? ともかくママも同じような考えを持ってたから、おもいきって実希子ちゃんを誘って旅行に来たんだ。なっちーも心配だったしね」

 ウインクする姉に、菜月は毒気が抜かれたようにため息をつく。

「家族の総意なのはわかったわ。おかげでなかなか楽しめた修学旅行だったし。
 ただ……」

 横目で見た実希子が、不思議そうにした顔を傾げる。

「実希子ちゃんの旅費って、自分で出してるの?」

「おいおい、只今絶賛ニート中のアタシにそんな余裕があるわけないだろ」

「ってことはパパ持ちね。呆れた。はづ姉一人で良かったのではないの?」

 菜月に尋ねられた姉は、恥ずかしそうに頬を掻き、

「一人で修学旅行生に混ざるなんて恥ずかしいし……仮に拒否されたら孤独な旅行になっちゃうし……。その点、実希子ちゃんがいれば寂しくないしね」

「だから特攻役として指名したのね。納得したわ。確かに堂々と母校の修学旅行に乱入するなんて、実希子ちゃん以外にできそうもないもの」

 この旅行中において、実希子という存在をすっかり認知してしまったクラスメートがどっと笑う。

「そんな褒めるなって。あっはっは」

「褒めてないのだけれど」

「よし! お礼に帰ったら、なっちーの練習だけ倍にしてやるからな!」

「望むところよ」

「ほう? やる気だな、なっちー」

 実希子の目がスッと細まる。

「もちろんよ。けれどこの現代社会において差別は重大な問題だわ。私だけ上手くなっては申し訳ないから、部員全員の練習量を増やすのを提案するわ」

「よしきた!」

「よしきた! じゃないよね!? あたしたち何か関係あったの!?」

 ソフトボール部を頑張ってはいても、基本的には練習嫌いの明美が泣きそうになる。
 しかし勝負大好きの愛花は菜月に負けてなるものかと承諾し、元から熱血な性格で実希子によく懐いている涼子も明美の味方をしてくれない。

 最後の望みとばかりに明美は茉優を見るが、

「皆と一緒にいる時間が増えるんだねぇ」

 と現実を理解しているのかもわからない発言をしだしたので、諦めて肩を落とすしかなかった。

「もうっ! わかったわよ! あたしだってやってやるわよ! うわあああん!」

「……明美ちゃんが壊れた……やり過ぎたみたいね、実希子ちゃん」

「アタシのせいか!? そもそもの元凶はなっちーだろ! なあ、葉月」

「え? 私、わかんない。あ、そっちのお菓子と交換する?」

「はづ姉、私の級友と着々と親交を深めないで!」

   *

「……なんてことばかりあったものだから、とても疲れたわ」

 昼過ぎに帰宅するなり、軽くシャワーを浴びて赴いた病室で、菜月はベッドで上半身を起こしている祖父に、修学旅行中の顛末を報告していた。

「そうかそうか。菜月も葉月も楽しそうでよかったなあ」

 朗らかに笑う祖父はすっかり痩せていて、腕に刺さる点滴の針も痛々しい。
 それでも痛がる素振りなどは一切見せず、菜月と葉月の来訪も歓迎してくれた。
 部屋の隅では春道と和葉も、菜月の話を聞いていた。

「まさかこの歳になって、はづ姉と一緒に旅行するとは思わなかったけれど」

「いい思い出になったろ?」

 春道がニヤニヤしながら聞いてきた。

「そうね。一緒に集合写真に写ろうとした実希子ちゃんを全力で阻止したのは、生涯忘れられそうもないわ」

「あ、あはは……」

 葉月が苦笑いを顔に張りつけた。問題の実希子はゆっくりお見舞いしろと、病室への同行を辞退していた。

「でも、なんやかんやで素直に楽しめもしたわ。実希子ちゃんなりの方法で気遣ってくれたのがわかるから、責めたりはできないわね。恥ずかしいから、面と向かってお礼も言えないけれど」

「フフッ。実希子ちゃんのことだもん。
 なっちーの心の中なんてきっとお見通しだよ」

「かもしれないわね。
 なんだか憧れていたお姉ちゃんができたみたいな気持ちだわ」

「えっ!? なっちーなっちー、お姉ちゃんならここにいるよ? 大好きなお姉ちゃんだよ? どうして記憶から抹消しちゃってるのかなー?」

 目の前にヌッと顔を出し、抗議してくる姉に、菜月はデジタルカメラに保存されていた写真の数々を見せつける。

「お小遣いが限られている妹の前で、好き放題に食べまくる姉なんて姉ではありません」

「はうっ!」

「ほら見てよ、お祖父ちゃん。これなんて私たちの自由行動についてきた挙句、一番高い海鮮丼を食べているのよ」

「はっはっは。満面の笑みを浮かべてるな」

「そ、それはっ! なっちーにだって色々と奢ってあげたじゃない!」

 不用意な葉月の発言に、普段から厳しい母親の耳がピクリとした。

「葉月? 菜月と接触するのは構わないけど、他の生徒の手前、お小遣いを渡したりするのは慎みなさいと何度も忠告したはずよね?」

「うぐっ! お、お祖父ちゃーん!」

「こら、葉月。都合が悪くなると、お義父さんに甘えるのはよしなさい!」

 葉月に軽く抱き着かれた祖父は、心から嬉しそうに微笑む。

「楽しいなあ。賑やかなのは嬉しいなあ。きっと……母さんも見てるよなあ」

「ああ……そうだな」

 春道が頷き、少しだけしんみりしたところで、ギュッとスカートを掴んでから菜月は元気よく立ち会って祖父に次の写真を見せた。

 楽しいと思ってもらえる時間が、少しでも長く続くように……。
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