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葉月の小学・中学校編
春道パパの奮闘
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夏休み中の愛娘が、臨海学校ということで一泊二日ほど家を不在にする。小学生だけに外泊の機会は少ない。滅多にない友人たちとのお泊りに、葉月は出発前から嬉しそうだった。
そんな長女を玄関で見送ったあと、春道は愛妻にある提案をした。
それは今日一日、春道が家事と育児を全部やるので、和葉には外で遊んできてもらうというものだった。
菜月が生まれてからというもの、妻は家のことに一生懸命でろくに友人と外出もできていなかった。
葉月がいないのもあって、いわゆる休日をとってもらおうと考えた。
二人だけになったリビングで和葉は「ですが……」と表情を曇らせる。
夫婦だけに、何を考えてるのかは大体わかる。恐らく、春道がひとりだけで大丈夫か心配してるのだ。
「一日くらいなら、俺だけで問題はないよ。それよりも、和葉だって久しぶりに友人と遊びたいんじゃないのか?」
そんなこと言ってると、固定電話が鳴った。リビングのソファから立ち上がった和葉が、受話器を取る。すると意外そうな顔をした。
「もしもし……あら、和代?」
電話をかけてきたのは妻の親友で、先日結婚したばかりの女性だった。内容は、一緒にカラオケでもいかないかというお誘いだ。
どうして電話に出てないのに知ってるのかといえば、そうするように頼んだのが他ならぬ春道だからだった。どこで働いているのかは知っていたので、フェミレスまで行って頼んだのである。
「でも……ん? いいえ、何でもないわ。そうね、和代がそこまで言うのなら……」
最初は乗り気でない感じだったが、昔からの親友に誘われてるうちに考えを変えたみたいだ。素直に頷くようになり、電話で待ち合わせの時間まで決めた。
すべて計画どおりに進んでいると、妻に見えないように春道は満足げに頷いた。
やがて会話を終えて、受話器を置いた和葉が元いた場所まで戻ってくる。ソファに腰を下ろし、春道の顔を正面から見てくる。
「友人から外出の誘いがありましたので、春道さんの好意に甘えさせてもらいます。ですが……本当におひとりで大丈夫なのですか?」
任せてくれと胸を叩けるほどの自信はないが、正直に言ったら妻は外出を躊躇ってしまう。男は度胸だと、春道は自信満々な様子を装う。
妻はまだ不安がっていたが、友人の誘いを受けた以上、家事や育児を自分以外の誰かに預けるしかなかった。そして、家にいるのは春道だけだ。
「友達との待ち合わせ時間に遅れたりしないよう、早めに準備をした方がいいんじゃないのか」
今は午前九時。
田中和代との待ち合わせ時間は、午前十時らしかった。春道の分の昼食は気にせず、ゆっくり夜まで遊んで来いと告げる。
「わかりました。ですが、何かあったら、必ず連絡をしてくださいね」
「わかってる。もちろんだ」
春道が力強く頷いたので、ようやく和葉も納得してくれた。
自室に戻り、きちんと化粧をして外出用の服に着替える。妻は普段からある程度の化粧をしており、完全なすっぴんという状態には風呂上りでなければなかなかお目にかかれない。
以前に本人へ大変じゃないかと聞いてみたら、化粧は女性の身だしなみですという回答が返ってきた。
そんな和葉だけに、友人との外出ではあっても、きちんと化粧をしたいと思うのだろう。美人だけに、外へ出れば知らない男に声をかけられるのではないかと心配になる。昔だけでなく今も気になってそわそわしてしまう。
妻への信頼が深まって多少はマシになったものの、こればかりは性格の問題なのでどうしようもなかった。
やがて自室で準備を終えた和葉が、颯爽とリビングへやってきた。
水色のワンピースがとてもよく似合っている。あまりの綺麗さに、言葉を一瞬失ってしまったほどだ。
春道が呆然としていると、小首を傾げて和葉が声をかけてくる。
「春道さん、どうかしたのですか?」
「え? ああ……ワンピースが似合ってて、綺麗だなと思ってさ」
誤魔化しても仕方ないので、素直に頭へ浮かんでいた感想を告げた。
「あ、ありがとうございます。なんだか、照れますね」
微笑んだあとで頭を下げた和葉は、改めて家事と育児のお願いをしてきた。それに応じながら、春道は妻を見送るために玄関まで一緒に移動する。
「気をつけて楽しんでこいよ」
「はい。春道さんも、無理だけはしないでくださいね」
いってきますと軽く手を振り、バッグ片手に和葉が玄関から出て行った。
*
これで家の中には、春道と菜月の二人だけになった。可愛い次女はようやくひとりで歩けるようになったばかりなので、家事をするための戦力にはならない。
まずは洗い物を片づけてから、菜月の様子を見に行こう。
そう決めて台所に立つが、早速予定変更を余儀なくされる。和葉の部屋から、愛娘の泣き声が聞こえてきたのだ。
「何かあったのか?」
食器洗いを中断させて、春道は和葉の部屋へ向かう。
中に入ると、菜月が床に座り込んで泣いている最中だった。
「どうした。オムツか、それともミルクか?」
聞いてみてハっとする。適当な言葉を喋れるようになったばかりの菜月が、受け答えなどできるはずがない。
真顔で質問をしたあたり、予想以上に春道もパニくってるみたいだった。
「落ち着くんだ。こういう時こそ、冷静にならないとな」
深呼吸をしてから、改めて号泣中の菜月の様子を確認する。
じっくり様子を窺った結果、さっぱりわからないという結論に達した。
オムツ替えなどの経験はあるが、すべて和葉の指示で行ったものだ。春道自身で判断した経験がないのは痛手だった。
大見得を切って家事と育児を任された以上、ここで泣き言は言っていられない。意を決して手を伸ばすも、身体に触れようとするとさらに勢いよく泣かれてしまう。
どうすればいいのかわからず、春道まで泣きたくなってくる。まさか出だしからこうも派手につまずくとは予想もしていなかった。
「おとなしく和葉に電話をするしかないのか。だが、外出したばかりの妻へ頼るのは情けなさすぎだろ」
だが菜月はいまだ泣き止んでくれない。意を決してオムツを確認してみたが、汚れはなかった。ならばと変な顔をして笑わせようとしても、ガラガラを使ってみても、変わらぬ勢いで泣くばかり。
早くも精神が疲弊してきたところで、春道は妻の他にも育児経験のある女性の存在に気づく。
「こういう時こそ、母親を頼るべきだ」
我ながら名案とばかりに、携帯電話を操作して実家に電話をかけた。
幸い家にいてくれたみたいで、すぐに「もしもし」と母親が電話に出た。
「俺だ、春道だ。今、赤ちゃんの――菜月の世話をしてるんだが、泣き止んでくれないんだよ。オムツは汚れてないから、母親を恋しがってるのか?」
「本当ね。電話越しでも泣き声が聞こえてくるわよ。それくらいの勢いで泣いて、抱っこしても泣き止まないなら、お母さんが恋しいわけじゃないと思うわよ」
続いて風邪をひいてないかなど尋ねられたが、そのような兆候すらもない。ただひたすらに泣いているだけだった。
「体調不良でもないのなら、何かしらね。普通はミルクとかなんだけど、さすがに春道でもすぐに試してるでしょうし……」
「――それだ」
「は? アンタ、まさか……」
文句を言われる数秒前なのはわかったので、春道は慌てて電話を切る。
「助かったよ。じゃあ、またな」
携帯電話をジャージのズボンのポケットへしまったあと、泣き続ける菜月を抱えてリビングへ急いだ。片手で抱えたまま、台所で粉ミルクを作る。
「すぐにできるからな。もう少しだけ待っててくれよ」
*
作ったミルクを専用のコップに入れ、ストローを使って飲ませる。和葉に教えてもらったとおりの方法だ。
一歳を迎える頃から徐々に母乳ではなく、ミルクへ移行させた。
大事そうにカップを両手で挟み、んくんくとミルクを飲んだ途端に菜月は上機嫌になった。
安堵の息をふうと吐き、額に滲んだ汗を手の甲で拭う。ミルクに関してはこれでひと安心だ。
あとは昼の食事だが、最近では離乳食だけでなく、少しずつ春道たちと似たような食事をとれるようにもなってきた。
おかげで、家族と一緒に食事をする機会も増えた。
基本は和葉の膝の上が指定席になる。たまに葉月がお姉ちゃんらしさを発揮して、菜月と一緒に食べたりもする。
微笑ましい光景を思い出し、少しだけ春道の頬が緩んだ。
「一年前は何かを食べるどころか、歩いたりもできなかったのにな」
一年という同じ時間を過ごしてきたが、赤ちゃんの成長具合は想像よりもずっと早かった。一歳にもなれば色々な制限が外れてきて、ぐっと人間に近くなる。
二歳になれば、もっと動いたり喋ったりできているのだろう。そう考えては、今からウキウキする。今や春道も、立派な親ばかだった。
もっとも妻にそう言ったところで、葉月の父親になった時からですと返されそうな気もする。
とりあえず菜月も落ち着いたので、台所で洗い物を再開する。だが、またしても途中で手を止めるはめになる。リビングで遊ばせていた菜月が泣きだしたからだ。
「今度はどうしたんだ」
手を拭いてから菜月のところへ急ぐ。今度こそオムツかと思ったが、どうやら違うみたいだ。ミルクも飲ませたばかりなので、欲してるとは思えない。
だとしたら何なのか。理由を判明させるだけでも相当の労力が必要だった。毎日これをやってる妻のありがたさがよくわかる。
「ん? もしかして、転んだのか? どこをぶつけたんだ」
どうやら菜月は歩いて遊んでる最中にバランスを崩して転び、床に膝を打ちつけてしまったみたいだった。大人でも痛いと感じるのだから、まだ一歳の赤ちゃんが大泣きするのは当然だった。
あやすために春道が抱きかかえると、菜月はわりとすぐに泣きやんでくれた。そのまま高い高いをしてあげたりしてるうちに、機嫌の良さも戻ってくる。
これでようやく洗い物ができそうだが、自由に遊ばせておいてまた転んだりしたら困る。悩んだ末に春道は、片手で菜月を抱えながら洗い物をすることにした。
大変ながらもなんとか終わらせると、またしても菜月がグズつくそぶりを見せた。
今度は何となく予想がついた。きっとトイレだ。まだ自在にトイレを扱える年齢ではないので、すぐに和葉の部屋へ移動してオムツの様子を見る。
案の定だったのですぐに取り換える。菜月がキャッキャッと笑いだしたのを見て、ようやくホっとする。
「やれやれ。ひとりでの育児の大変さがよくわかるな」
早くも疲労感を滲ませながら、今度は昼食の準備をする。春道のだけではなく、菜月のも必要だ。段々と食べれるようになってきてるとはいえ、まだまだ柔らかいもの以外は無理だ。
和葉が用意してくれた鮭などがあるので、それとおかゆを一緒に食べさせる。おかずなどは、ある程度和葉が前日から用意してくれてるので楽だ。
どうしてそうなってるのかといえば、和葉が風邪などで寝込んだ場合に春道や葉月が菜月の世話をしやすくするためだった。
*
午後になってからも、ひとりで満足に行動できない菜月は事あるごとに泣いて春道を呼んだ。そのたびに悪戦苦闘しては、なんとか無事に乗り切る。
同じような展開を繰り返してるうちに、長女の葉月が臨海学校から帰宅した。
春道から事情を聞くと、すぐに菜月の世話を手伝ってくれた。これでだいぶ楽になった。
夕方すぎには和葉も帰宅し、家事と育児をバトンタッチした。慣れない仕事で疲れた春道は、そのままソファでひと休みする。
*
数分後。リビングのソファで横になり、すやすやと寝息をたてる春道の顔を、葉月が覗き込んだ。
「ママー。パパが寝てるよー」
母親の和葉も様子を見にくる。
「本当ね」
「よっぽど、疲れたんだねー」
「そうね。フフ、でも気遣いはとても嬉しかったです。ありがとう、春道さん」
友人に白状させて、今回の件がすべて春道の計画だというのは確認済みだ。
朝に電話を受けた時点である程度は感づいていたのだが、せっかくだからと春道の好意に甘えた。おかげで久しぶりに、友人とのお喋りなども楽しめた。
心から感謝する和葉の言葉が聞こえたのか、菜月までもが床を這うようにしてソファの近くへやってきた。ソファを掴んで立ち上がると、ぐったりしてる春道をじーっと見てから口を開いた。
「あーがと」
「え? あっ、ママ。もしかして今、菜月はありがとうって言ったんじゃ……」
葉月が興奮気味に言った。
愛娘の言葉に、和葉がそうですねとゆっくり頷く。
「春道さんにも聞こえたみたいですよ。寝ながら嬉しそうに笑っています」
「あ、本当だねー」
愉快そうに笑う和葉と愛娘たちに見守られながら眠る春道は、とても幸せそうに見えた。
そんな長女を玄関で見送ったあと、春道は愛妻にある提案をした。
それは今日一日、春道が家事と育児を全部やるので、和葉には外で遊んできてもらうというものだった。
菜月が生まれてからというもの、妻は家のことに一生懸命でろくに友人と外出もできていなかった。
葉月がいないのもあって、いわゆる休日をとってもらおうと考えた。
二人だけになったリビングで和葉は「ですが……」と表情を曇らせる。
夫婦だけに、何を考えてるのかは大体わかる。恐らく、春道がひとりだけで大丈夫か心配してるのだ。
「一日くらいなら、俺だけで問題はないよ。それよりも、和葉だって久しぶりに友人と遊びたいんじゃないのか?」
そんなこと言ってると、固定電話が鳴った。リビングのソファから立ち上がった和葉が、受話器を取る。すると意外そうな顔をした。
「もしもし……あら、和代?」
電話をかけてきたのは妻の親友で、先日結婚したばかりの女性だった。内容は、一緒にカラオケでもいかないかというお誘いだ。
どうして電話に出てないのに知ってるのかといえば、そうするように頼んだのが他ならぬ春道だからだった。どこで働いているのかは知っていたので、フェミレスまで行って頼んだのである。
「でも……ん? いいえ、何でもないわ。そうね、和代がそこまで言うのなら……」
最初は乗り気でない感じだったが、昔からの親友に誘われてるうちに考えを変えたみたいだ。素直に頷くようになり、電話で待ち合わせの時間まで決めた。
すべて計画どおりに進んでいると、妻に見えないように春道は満足げに頷いた。
やがて会話を終えて、受話器を置いた和葉が元いた場所まで戻ってくる。ソファに腰を下ろし、春道の顔を正面から見てくる。
「友人から外出の誘いがありましたので、春道さんの好意に甘えさせてもらいます。ですが……本当におひとりで大丈夫なのですか?」
任せてくれと胸を叩けるほどの自信はないが、正直に言ったら妻は外出を躊躇ってしまう。男は度胸だと、春道は自信満々な様子を装う。
妻はまだ不安がっていたが、友人の誘いを受けた以上、家事や育児を自分以外の誰かに預けるしかなかった。そして、家にいるのは春道だけだ。
「友達との待ち合わせ時間に遅れたりしないよう、早めに準備をした方がいいんじゃないのか」
今は午前九時。
田中和代との待ち合わせ時間は、午前十時らしかった。春道の分の昼食は気にせず、ゆっくり夜まで遊んで来いと告げる。
「わかりました。ですが、何かあったら、必ず連絡をしてくださいね」
「わかってる。もちろんだ」
春道が力強く頷いたので、ようやく和葉も納得してくれた。
自室に戻り、きちんと化粧をして外出用の服に着替える。妻は普段からある程度の化粧をしており、完全なすっぴんという状態には風呂上りでなければなかなかお目にかかれない。
以前に本人へ大変じゃないかと聞いてみたら、化粧は女性の身だしなみですという回答が返ってきた。
そんな和葉だけに、友人との外出ではあっても、きちんと化粧をしたいと思うのだろう。美人だけに、外へ出れば知らない男に声をかけられるのではないかと心配になる。昔だけでなく今も気になってそわそわしてしまう。
妻への信頼が深まって多少はマシになったものの、こればかりは性格の問題なのでどうしようもなかった。
やがて自室で準備を終えた和葉が、颯爽とリビングへやってきた。
水色のワンピースがとてもよく似合っている。あまりの綺麗さに、言葉を一瞬失ってしまったほどだ。
春道が呆然としていると、小首を傾げて和葉が声をかけてくる。
「春道さん、どうかしたのですか?」
「え? ああ……ワンピースが似合ってて、綺麗だなと思ってさ」
誤魔化しても仕方ないので、素直に頭へ浮かんでいた感想を告げた。
「あ、ありがとうございます。なんだか、照れますね」
微笑んだあとで頭を下げた和葉は、改めて家事と育児のお願いをしてきた。それに応じながら、春道は妻を見送るために玄関まで一緒に移動する。
「気をつけて楽しんでこいよ」
「はい。春道さんも、無理だけはしないでくださいね」
いってきますと軽く手を振り、バッグ片手に和葉が玄関から出て行った。
*
これで家の中には、春道と菜月の二人だけになった。可愛い次女はようやくひとりで歩けるようになったばかりなので、家事をするための戦力にはならない。
まずは洗い物を片づけてから、菜月の様子を見に行こう。
そう決めて台所に立つが、早速予定変更を余儀なくされる。和葉の部屋から、愛娘の泣き声が聞こえてきたのだ。
「何かあったのか?」
食器洗いを中断させて、春道は和葉の部屋へ向かう。
中に入ると、菜月が床に座り込んで泣いている最中だった。
「どうした。オムツか、それともミルクか?」
聞いてみてハっとする。適当な言葉を喋れるようになったばかりの菜月が、受け答えなどできるはずがない。
真顔で質問をしたあたり、予想以上に春道もパニくってるみたいだった。
「落ち着くんだ。こういう時こそ、冷静にならないとな」
深呼吸をしてから、改めて号泣中の菜月の様子を確認する。
じっくり様子を窺った結果、さっぱりわからないという結論に達した。
オムツ替えなどの経験はあるが、すべて和葉の指示で行ったものだ。春道自身で判断した経験がないのは痛手だった。
大見得を切って家事と育児を任された以上、ここで泣き言は言っていられない。意を決して手を伸ばすも、身体に触れようとするとさらに勢いよく泣かれてしまう。
どうすればいいのかわからず、春道まで泣きたくなってくる。まさか出だしからこうも派手につまずくとは予想もしていなかった。
「おとなしく和葉に電話をするしかないのか。だが、外出したばかりの妻へ頼るのは情けなさすぎだろ」
だが菜月はいまだ泣き止んでくれない。意を決してオムツを確認してみたが、汚れはなかった。ならばと変な顔をして笑わせようとしても、ガラガラを使ってみても、変わらぬ勢いで泣くばかり。
早くも精神が疲弊してきたところで、春道は妻の他にも育児経験のある女性の存在に気づく。
「こういう時こそ、母親を頼るべきだ」
我ながら名案とばかりに、携帯電話を操作して実家に電話をかけた。
幸い家にいてくれたみたいで、すぐに「もしもし」と母親が電話に出た。
「俺だ、春道だ。今、赤ちゃんの――菜月の世話をしてるんだが、泣き止んでくれないんだよ。オムツは汚れてないから、母親を恋しがってるのか?」
「本当ね。電話越しでも泣き声が聞こえてくるわよ。それくらいの勢いで泣いて、抱っこしても泣き止まないなら、お母さんが恋しいわけじゃないと思うわよ」
続いて風邪をひいてないかなど尋ねられたが、そのような兆候すらもない。ただひたすらに泣いているだけだった。
「体調不良でもないのなら、何かしらね。普通はミルクとかなんだけど、さすがに春道でもすぐに試してるでしょうし……」
「――それだ」
「は? アンタ、まさか……」
文句を言われる数秒前なのはわかったので、春道は慌てて電話を切る。
「助かったよ。じゃあ、またな」
携帯電話をジャージのズボンのポケットへしまったあと、泣き続ける菜月を抱えてリビングへ急いだ。片手で抱えたまま、台所で粉ミルクを作る。
「すぐにできるからな。もう少しだけ待っててくれよ」
*
作ったミルクを専用のコップに入れ、ストローを使って飲ませる。和葉に教えてもらったとおりの方法だ。
一歳を迎える頃から徐々に母乳ではなく、ミルクへ移行させた。
大事そうにカップを両手で挟み、んくんくとミルクを飲んだ途端に菜月は上機嫌になった。
安堵の息をふうと吐き、額に滲んだ汗を手の甲で拭う。ミルクに関してはこれでひと安心だ。
あとは昼の食事だが、最近では離乳食だけでなく、少しずつ春道たちと似たような食事をとれるようにもなってきた。
おかげで、家族と一緒に食事をする機会も増えた。
基本は和葉の膝の上が指定席になる。たまに葉月がお姉ちゃんらしさを発揮して、菜月と一緒に食べたりもする。
微笑ましい光景を思い出し、少しだけ春道の頬が緩んだ。
「一年前は何かを食べるどころか、歩いたりもできなかったのにな」
一年という同じ時間を過ごしてきたが、赤ちゃんの成長具合は想像よりもずっと早かった。一歳にもなれば色々な制限が外れてきて、ぐっと人間に近くなる。
二歳になれば、もっと動いたり喋ったりできているのだろう。そう考えては、今からウキウキする。今や春道も、立派な親ばかだった。
もっとも妻にそう言ったところで、葉月の父親になった時からですと返されそうな気もする。
とりあえず菜月も落ち着いたので、台所で洗い物を再開する。だが、またしても途中で手を止めるはめになる。リビングで遊ばせていた菜月が泣きだしたからだ。
「今度はどうしたんだ」
手を拭いてから菜月のところへ急ぐ。今度こそオムツかと思ったが、どうやら違うみたいだ。ミルクも飲ませたばかりなので、欲してるとは思えない。
だとしたら何なのか。理由を判明させるだけでも相当の労力が必要だった。毎日これをやってる妻のありがたさがよくわかる。
「ん? もしかして、転んだのか? どこをぶつけたんだ」
どうやら菜月は歩いて遊んでる最中にバランスを崩して転び、床に膝を打ちつけてしまったみたいだった。大人でも痛いと感じるのだから、まだ一歳の赤ちゃんが大泣きするのは当然だった。
あやすために春道が抱きかかえると、菜月はわりとすぐに泣きやんでくれた。そのまま高い高いをしてあげたりしてるうちに、機嫌の良さも戻ってくる。
これでようやく洗い物ができそうだが、自由に遊ばせておいてまた転んだりしたら困る。悩んだ末に春道は、片手で菜月を抱えながら洗い物をすることにした。
大変ながらもなんとか終わらせると、またしても菜月がグズつくそぶりを見せた。
今度は何となく予想がついた。きっとトイレだ。まだ自在にトイレを扱える年齢ではないので、すぐに和葉の部屋へ移動してオムツの様子を見る。
案の定だったのですぐに取り換える。菜月がキャッキャッと笑いだしたのを見て、ようやくホっとする。
「やれやれ。ひとりでの育児の大変さがよくわかるな」
早くも疲労感を滲ませながら、今度は昼食の準備をする。春道のだけではなく、菜月のも必要だ。段々と食べれるようになってきてるとはいえ、まだまだ柔らかいもの以外は無理だ。
和葉が用意してくれた鮭などがあるので、それとおかゆを一緒に食べさせる。おかずなどは、ある程度和葉が前日から用意してくれてるので楽だ。
どうしてそうなってるのかといえば、和葉が風邪などで寝込んだ場合に春道や葉月が菜月の世話をしやすくするためだった。
*
午後になってからも、ひとりで満足に行動できない菜月は事あるごとに泣いて春道を呼んだ。そのたびに悪戦苦闘しては、なんとか無事に乗り切る。
同じような展開を繰り返してるうちに、長女の葉月が臨海学校から帰宅した。
春道から事情を聞くと、すぐに菜月の世話を手伝ってくれた。これでだいぶ楽になった。
夕方すぎには和葉も帰宅し、家事と育児をバトンタッチした。慣れない仕事で疲れた春道は、そのままソファでひと休みする。
*
数分後。リビングのソファで横になり、すやすやと寝息をたてる春道の顔を、葉月が覗き込んだ。
「ママー。パパが寝てるよー」
母親の和葉も様子を見にくる。
「本当ね」
「よっぽど、疲れたんだねー」
「そうね。フフ、でも気遣いはとても嬉しかったです。ありがとう、春道さん」
友人に白状させて、今回の件がすべて春道の計画だというのは確認済みだ。
朝に電話を受けた時点である程度は感づいていたのだが、せっかくだからと春道の好意に甘えた。おかげで久しぶりに、友人とのお喋りなども楽しめた。
心から感謝する和葉の言葉が聞こえたのか、菜月までもが床を這うようにしてソファの近くへやってきた。ソファを掴んで立ち上がると、ぐったりしてる春道をじーっと見てから口を開いた。
「あーがと」
「え? あっ、ママ。もしかして今、菜月はありがとうって言ったんじゃ……」
葉月が興奮気味に言った。
愛娘の言葉に、和葉がそうですねとゆっくり頷く。
「春道さんにも聞こえたみたいですよ。寝ながら嬉しそうに笑っています」
「あ、本当だねー」
愉快そうに笑う和葉と愛娘たちに見守られながら眠る春道は、とても幸せそうに見えた。
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