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男と女の婚活物語(6)
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思わぬ形で、思わぬ告白を聞いてしまった。
泰宏はこの場で腕でも組みたい気分になっていた。
告白をしたのは目の前にいる女性。
祐子はなんと泰宏の義理の弟にあたる春道へ好意を寄せていたのである。
出会って間もないながらも、胸を張って断言できるほどに、泰宏は祐子に惹かれていた。相手の印象も悪くないのではと思っていただけに、あまり嬉しくないサプライズだった。
だからといって、過去のトラウマを克服しようとしている女性を、放置して帰るなどできそうもない。だが、泰宏の任務もそろそろ終わりそうだった。
目の前の女性に涙はほとんど見えなくなっており、時折笑顔が覗けている。吹っ切れてきた証拠であり、祐子はわずかな陰を捨て去り、今よりずっと魅力的な女性になる。
きっかけを作ったのは泰宏だが、最終的に前方の女性の隣にいるのは自分でない可能性が高い。ゆえに相手女性の変化を、嬉しいような悲しいような気分で見つめていた。そんな泰宏に祐子が話しかけてくる。
「ハンカチ……どうしましょうか」
「え?」
思わず泰宏は顔にハテナマークを浮かべた。部屋に来てすぐ、泣き出した女性にハンカチを貸した際、洗って返すと言っていたはずだ。まさか忘れているのだろうか。
どちらにせよ、いちいち指摘するのは躊躇われる。細かい男だと引かれてしまいそうな気がした。そこで泰宏は「差しあげますよ」と答えた。
こだわりのアイテムでもないので、あげたところで問題はなかった。すると相手女性は、意味ありげにクスリとした。
「いいんですか? 戸高さん……いいえ、泰宏さんは、私の涙が大好きな変態さんだったと記憶していますけど」
今度はハテナマークではなく、戸惑いが顔に出る。確かにそういった趣旨の発言をしていた。それをこのタイミングで持ち出されるとは、まったくの想定外だった。
当時は自ら変態かもしれませんと応じたが、ここではどのような対応をするべきか。悩んでいるうちに、額へじっとりと汗をかく。見苦しくなる前になんとかしようと考え、自身のジャケットやポケットをまさぐるが、目当てのものを見つけられなかった。
ひとり悪戦苦闘する泰宏を眺めていた小石川祐子がクスクス笑う。
「さすがの泰宏さんも、弾切れですね」
微笑を浮かべながら、相手女性が二枚のハンカチをテーブルの上に並べた。思わず泰宏は「あ……」と声を出していた。
部屋にお邪魔してすぐに一枚。そしてつい先ほど、もう一枚貸したばかりだった。
泰宏は常々、何かあった時のためにハンカチを二枚持ち歩いている。それを全部、相手女性に渡していたのをすっかり失念していた。
ハンカチもない以上、泰宏は「ハハハ」と笑いながら、人差し指で頬を掻くしかなかった。
*
祐子と泰宏との間に、実に奇妙な空気が流れている。
どうしてこなっているのか。一因はテーブルの上で佇んでいる二枚のハンカチにあるのかもしれない。
何かを探してるように見えたので、相手男性へ借りていたハンカチを見せてみた。もしかしての思いどおり、見た瞬間に泰宏は短く声を上げた。
祐子にハンカチを二枚も貸していたのを、忘れてしまっていたのだろう。
かくいう祐子も、相手男性が複数枚のハンカチを所持していたのを驚いていた。
女性の祐子でも、基本的には一枚しか持って歩かない。照れ隠しに頬を掻く泰宏を楽しく眺めつつも、ある種の違和感を覚えていた。
目の前にいる男性の態度が、どこかよそよそしくなってる感じがする。女の直感なのか、祐子は相手のわずかな異変に気づいていた。
祐子の過去の話を聞いたからなのか。
考えた直後に、心の中で首を左右に振る。
短い付き合いしかないけれど、相手男性がそのようなタイプでないのはわかっている。
ならばどうしてと悩んで、浮かんできた答えが、祐子がこれまで抱いてきた高木春道への想いだった。迂闊にも正直に告白したため、勘違いされた可能性が高い。
だが原因さえわかれば、あとはどうにでもなる。祐子の現在の想い人は、他ならぬ戸高泰宏なのである。ここはからかうよりも、正攻法で行くべきだと判断する。
遊び慣れている男性と違って、下手に駆け引きをしたりすれば、不要な結果を招く可能性も否定できなくなる。
いざ勝負と決意して攻め込もうとした矢先、向こうから話しかけてきた。
「あの……どうして、いきなり私を名前で呼び始めたのですか」
ほんの少し前、祐子は相手男性を「戸高さん」ではなく「泰宏さん」と下の名前で呼んだ。もちろんなんとなしにではなく、親しみとともにきちんとした理由を込めている。焦らしても仕方ないので、直球勝負で泰宏に言葉を返す。
「好意を抱いてるからです」
BGMすら流れていない静かな部屋の中で、半ば告白じみた発言をする。
まるで女学生にでも戻ったような気分になり、恥ずかしさと照れで頬が熱い。
相手がなかなか新しい言葉を発してくれないのが、余計に羞恥を煽る。
女に恥をかかせないでよと想いつつも、祐子は泰宏の発言をじっと待ち続ける。
「あの……それは……でも……」
アドバイスしてくれた時とまるで違う相手男性の態度に、少しだけ苛々する。
やはり泰宏は、春道への祐子の想いを気にしているのだ。
もっとズバっときてくれればいいのにとも思うが、そういうタイプでないからこそ、泰宏をここまで好きになったのである。
今さら肉食系に変身されても、どのように対処すればいいのかわからなくなる。
「言いたいことがあるのなら、はっきりとどうぞ」
けしかけたところで、ようやく泰宏が春道について尋ねてきた。
*
「いえ、私が好きなのは、泰宏さんですよ」
相手女性の発言を受けて、泰宏は情けなくも、口をポカンと開けてしまった。
そんな泰宏を見ても、これまでみたいにケラケラ笑ったりしない。
祐子なりの、発言に重みをだすための工夫なのだろう。真剣なのがこちらにもしっかり伝わってくる。
「確かに私は高木春道さんが好きでした。
けれど、もう違います」
断言したあとで、にっこりと祐子が微笑んだ。
「考えてみてください。そもそも、何とも思ってない人に、先ほどみたいな話をするでしょうか」
冗談を言ってるような雰囲気ではないし、この場面でジョークを口にする理由も見当たらなかった。祐子が好意を抱いているのは、紛れもなく泰宏なのである。
「お、驚きました……」
ついさっきまで諦めかけていただけに、泰宏は率直な思いを告げていた。予期せぬ形で両想いになったためか、あまり実感がわかない。
「泰宏さんは、私をどう思ってるんですか」
泰宏本人は自分の気持ちを知っていても、言葉にしなければ相手に伝わらない。
「もちろん、好きです。出会った時から惹かれていました」
告白の経験が少ないだけに、持てる限りの勇気を振り絞る必要があった。答えを半ば知っていても、やはり緊張するものはする。
「うふふ。知ってます」
小悪魔のような笑みを浮かべた祐子が、そんなふうに応じた。
「だって、初対面の日に、プロポーズしてくれたじゃないですか」
「い、いや、あれは……まいったな」
すっかり主導権が向こうに移っている。けれど相手女性は、心から楽しそうにしている。その様子を見ているだけで、泰宏も嬉しくなる。
「やっぱり小石川さんは、笑ってるのが一番素敵です」
自分の気持ちを正直に伝えただけなのだが、何故か小石川は赤面した上に硬直している。どうしたのだろうと思っていると、呆れたように相手女性がため息をついた。
「天然って、本当に最強ですね」
「そうですか?」
「ええ、そうです」
きっぱりと言い切られた。
自分で意識したことはないが、どうやら泰宏は天然というカテゴリーに属する人間みたいだった。
他の人はどう思うかわからないが、個人的にはだからといって何も変わらない。あくまでも、自分は自分なのである。
「小石川さんは、天然なのですか?」
「……残念ですけど、違います。天然って、本当にタチが悪いですよね」
天然に対する評価が、ほんの少し前と大きく変わっている。だがそこを指摘してもどうにもならないので、放置したまま他にすべき質問を相手女性へぶつける。
「私と……結婚を前提としたお付き合いをしていただけませんか」
答えを急ぎすぎてはいけないとわかっているが、どうしてもはっきりさせておきたかった。結婚して家族が欲しいから、わざわざ専用の相談所へ登録したのである。
すぐに返事が返事が貰えるかと思いきや、相手女性は考える素振りを見せる。
「その前に、お返事をしてないのがありましたね」
そんなのがあったろうかと、泰宏は思わず「え?」と聞いてしまった。
「プロポーズのお返事です。それとも、しない方がよろしいですか?」
*
目の前に広がる光景を、祐子は口をポカンと開けて見上げていた。
隣にいる男性――戸高泰宏へプロポーズの返事をしたのが、数日前の出来事だった。
晴れて夫婦になることが決定したあと、夫予定の男性が自分も隠していた事実があると衝撃的な告白をした。
とはいえ、すでに結婚しているとか、隠し子がいるとかでなければ、受け止められる自信があった。余裕の態度で「大丈夫です」と応じた祐子を、休日の今日、とある場所へ案内してくれた。
「実は……この間、招待したのは本当の自宅じゃなかったんだ」
ほんの少しだけバツが悪そうに、泰宏がはにかんでいる。
ここ数日の電話やメールのやりとりを経て、祐子と相手男性の関係が、だいぶナチュラルになってきた。近い将来に夫婦となるのだから、いつまでもお互いに敬語ではやりにくい。
「泰宏さんって……お金持ちだったんだ」
ようやく呟いたのがこの台詞だった。
武家屋敷を連想させる広大な敷地と、歴史を感じさせる立派な建物。明らかに貧乏とは呼べなかった。
よくよく話を聞けば、代々続いている名家の当主なのだという。普通に結婚するだけだと思っていたのが、予期せぬ展開になっている。
「これは……ちょっと大変そうかも」
昔からの名家であればあるほど、しきたりや礼儀作法にうるさいイメージがある。
軽く頬を引き攣らせたあとで、祐子はさらに衝撃的な事実に気付く。
実家とくれば、両親が住んでいる。
両親がいるのであれば、挨拶をしなければならない。
「どうして、黙ってたのよ!」
どうしようという混乱具合が、祐子に今の台詞を叫ばせていた。胸倉を掴みかからんばかりの勢いに、気圧された泰宏が「ごめん」と謝罪してきた。
「そうだよね。誰だって騙されてたら、いい気しないよね」
「そっちじゃなくて!」
これまた祐子が叫ぶと、相手男性はキョトンとする。実際に自宅を偽られていたのなど、たいした問題ではなかった。
「私が怒ってるのは、実家に行くなら行くで、教えてくれなかったことよ!」
相手方のご両親に会うような服装でなければ、手土産のひとつも持ってきていない。それに何より、心構えができていなかった。
そんな祐子の不安と緊張をよそに、隣にいる男性は楽観的に笑っている。
泰宏にとっては実の両親だから、別に何とも思わないだろうが祐子は違う。
その点も考慮してほしいものだと、若干の怒りを覚える。
だが次の瞬間の発言を受けて、絶句することになる。
「心配ないよ。だって、親はもう他界してるしね」
あっけらかんと言われたが、内容は実に衝撃的だった。申し訳ない真似をしてしまったと、祐子はシュンとしながら泰宏へ謝った。
「ごめんなさい。私……」
「気にしなくていいよ」
悲しみはすでに癒えているのか、爽やかな笑顔で許してくれた。
「ご両親はその……いつ頃……」
「え? ああ。母は結構前だけど、父は去年だよ」
「そう……去年……
って、去年!?」
目をまん丸にして驚く祐子に、相手男性はさも当然のように頷いた。
「昨年の前半ぐらいかな。急に状態が悪化してね。それきりさ」
*
泰宏は隣の妻となる女性へ説明しながら、当時の様子を思い出していた。
父親はいきなり「具合が悪い」とだけ言って、自宅――つまりは実家での休養生活へ突入した。
あまり口数は多くなく、泰宏が幼少の頃から突拍子もない行動をする人間ではあった。大抵は何かしらの意味が裏にしっかり存在しており、昔から父親の真意を読むのに苦労していた。
もっとも、おかげでメンタルの部分は相当に鍛えられた。今にして思えば、そうした狙いがあったのかもしれない。娘の和葉をすでに勘当していたため、代々続く名家を継ぐのは泰宏しかいなかった。
自分がいついなくなってもいいように、父親の秘書を務めさせたり、様々な前準備を行っていたように思える。そういう意味では、基本的に用意周到な人間だったのかもしれない。
とにもかくにも、そんな父親の教育により、泰宏は立派に自分の人生を生きていられる。
「本当、何もかもがいきなりの親父だったよ」
懐かしむように、泰宏は祐子へ告げた。
名前も知らない人間の子を自分で育てると言い出すあたり、妹の方が父親に似てるのかもしれない。
「寝込んだと思ったら、あっという間だったよ」
一緒に同じ家で生活していた泰宏でさえ、父親がそこまで末期的な状態だとは知らなかった。本当にギリギリまで、家族に悟られることなく仕事を続けた。
当人には自覚症状があったらしく、生前に没後に面倒が発生しないよう、必要な書類を片づけていた。おかげで家にしても会社にしても、拍子抜けするぐらいすんなりと泰宏が引き継げた。
思い出話を聞き終えた後で、申し訳なさそうに祐子が口を開いた。
「あの……ということは、泰宏さんは今、喪中なわけですよね」
「え? ああ、そうだよ」
新しい当主としての最初の仕事こそが、先代の葬儀の喪主を務めることだった。
どうしてそんなのを気にするのだろうと思っていると、もの凄く慌てた様子で相手女性が「いいの?」と聞いてくる。
「喪中なのに、お見合いパーティーにまで参加してたじゃない!」
「そうだね。おかげで祐子にも会えた」
「ええ、そうね。ただの偶然かもしれないけど、私も感謝を――
――じゃなくて!」
どこぞのお笑い芸人なみのオーバーリアクションを、祐子が披露する。
思わず吹き出しそうになったが、そんな真似をしようものなら相手の怒りを買うのは間違いなかった。
「喪主を務めた身でありながら、喪中に結婚相談所なんかに登録なんかして、体裁的に大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。親戚連中には言ってないし。それに、一周忌まであと少しだからね。明けてから式や披露宴を行えば角も立たないよ」
泰宏とて、何も考えてないわけではなかった。
ゆえにきちんと段階を踏んで、婚約から始めたのである。
もちろんまだ、周囲へ祐子の存在を大々的に紹介するつもりもなかった。
*
祐子は、またしても口をあんぐりと開けて、実に間抜けな表情を晒してしまうところだった。
それもこれも今現在隣にいる男性のせいだった。
考えようによっては、招待された家が本物かどうかより、こちらの方が重要な問題になる。
婚約を決めた祐子だったが、泰宏が喪中となると話も変わってくる。
時代の流れとともにあまり意識しない人間も増えているみたいだが、こうした題材は今でもなおデリケートである。
とはいえ、泰宏との仲を諦めるつもりは毛頭なかった。
では何を問題視してるのかといえば、結婚後の親戚との関係である。
法律で禁止されているわけではないにしろ、一般的な常識に照らし合わせて考えれば、喪中の間はおとなしくしてるのが懸命である。
だが一番気にしなければならない当人に、そういう気配が見えなかった。
「和葉もそうだったけど、祐子も必要以上に気にしすぎじゃないか」
夫予定の男性の台詞内にあった人名に、即座に祐子が反応する。
泰宏の妹は、あのしっかり者の高木和葉なのである。このことを知ったら、文句のひとつやふたつは当たり前に出てくるはずだった。
その旨を指摘しても、やはり相手男性はあまり気にしなかった。
「和葉は何も言わないと想うよ。自分も喪中に、春道君の親戚だかいとこだかの披露宴に参加したみたいだからね」
祐子は思わずズッコケそうになる。
しっかりした女性のように見えて、意外と抜けている面もあるのだろうか。
そんなことを想っていると、泰宏が続けて該当の一件を説明してくれる。
「咄嗟の参加ですっかり失念していたみたいでね。披露宴の最中に気づいたらしく。あとで俺に電話してきて謝ってたよ」
あっけらかんとした話しぶりから考えれば、妹の行動を兄として許したのがわかる。
「和葉も戸高家から勘当された身で、遺産相続もすべて放棄している。親戚連中も気にしていながら、戸高の本家には最初から娘はいなかったものと考えてるよ」
「それは……さすがに、あんまりなんじゃ……」
かわいそうになってきたのもあり、自然とそんな台詞が祐子の口からこぼれていた。和葉の実の兄でもある相手男性は、苦笑しながら肩をすくめてみせる。
「田舎であるがゆえに、勘当の持つ意味も大きい。もうその家とは関係ないと通告されたんだからね。俺が次の当主でなかったら、戸高家の敷居を跨げていたかもわからないんだ」
そのあとで「親父も全部わかってて、勘当したんだろうけどね」と付け加えた。
話を聞いている限り、戸高家の実子は二人だけ。和葉が除名されれば、必然的に泰宏が家を継ぐことになる。
父娘の間で関係が消滅していても、兄妹に確執がなければ家へ戻るのも可能だ。
そこまで計算した上で勘当していたのだとしたら、戸高家の先代当主はかなりの策士である。
もしかしたら自分は、とんでもない家に嫁入りしようとしてるのかもしれない。
改めて祐子は、そんなふうに思った。
*
父は間違いなく娘を愛していた。
他人の心を読む特殊能力はないが、それだけは泰宏にもわかっていた。
だからこそ直感的に父がヤバいのではないかと察した瞬間、勘当されていた妹に連絡をとった。
「そうなんだ……」
祐子の声で、泰宏は会話中だったのを思い出す。
感傷に浸るより先に、相手の疑問を解消するために説明を続ける必要があった。
「親戚連中に、和葉の行動は教えていない。もっとも、言ったところで問題ないけどね」
ハハハと泰宏が笑うと、すかさず相手女性は訝しげな表情を浮かべた。明らかに顔へクエスチョンマークが出現している。
「親戚連中が知ったところで、やっぱり勘当された子だなで終わりだよ。今さら和葉も、戸高家関係者の印象を良くしたいなんて考えてないだろうしね」
親子の縁を切られた立場なだけに、妹の和葉も色々と覚悟してるのは間違いない。とりあえずは相手女性も、泰宏の説明に納得してくれたみたいだった。
「もちろん、挙式や披露宴は喪が明けてからするつもりだよ。その点は心配しなくても大丈夫」
故人よりも、今生きている人間を大事にしたい。
そのように考える泰宏でも、最低限のマナーくらいは心得ている。
向こうもそう判断してくれたのか、安堵の表情を浮かべていた。
「それなら、婚約だけにしておいて、周りへは内緒にしましょう」
祐子が悪戯っぽい笑みを浮かべる。秘密にしておき、あとで驚かせてやろうという魂胆が見てとれる。
婚約といっても大々的にするのではなく、相手方の両親へ挨拶し、許可を貰うと同時に事情を説明するつもりだった。
考えを伝えると「それでいいと思う」と、祐子が言ってくれた。
結婚についての方針が決まったところで、泰宏はかねてより考えていた計画を相手女性へ伝える。
「え? 妹さんと春道さんの式も一緒にですか」
「ああ。春道君に好意を抱いていた祐子は嫌かもしれないけど……」
目の前にいる女性の心情を思えば、決して良い提案でないのはわかっていた。それでも泰宏は、妹の和葉へ結婚式を挙げさせてやりたかった。
勘当したはずの娘のために、貯金通帳を残していた父親の願いのような気がしていた。
とはいえ妻となる女性が反対すれば、無理に己の要望を押しつけるわけにはいかない。けれど祐子は嫌な顔ひとつせずに、泰宏の願いを受け入れてくれた。
あまりにすんなりすぎたので、逆に泰宏が驚いて「本当にいいの?」と聞いてしまった。
「泰宏さんが言うのなら、何か理由があるんでしょ。私のことなら気にしないで。春道さんとも式を挙げてると思えば楽しいし」
普通の男性なら苦笑するかもしれないが、泰宏の場合はまったく違った。
「祐子は本当に優しいね」
心からそう思ったので告げただけなのだが、相変わらずの慣れない様子で相手女性が赤面している。
「不思議ね。正直、苦手なタイプなのに、どうしてこれほど好きになったんだろう」
まだ頬を紅潮させている祐子の呟きに、泰宏は即座に言葉を返した。
「それが、人間ってものじゃないかな」
泰宏はこの場で腕でも組みたい気分になっていた。
告白をしたのは目の前にいる女性。
祐子はなんと泰宏の義理の弟にあたる春道へ好意を寄せていたのである。
出会って間もないながらも、胸を張って断言できるほどに、泰宏は祐子に惹かれていた。相手の印象も悪くないのではと思っていただけに、あまり嬉しくないサプライズだった。
だからといって、過去のトラウマを克服しようとしている女性を、放置して帰るなどできそうもない。だが、泰宏の任務もそろそろ終わりそうだった。
目の前の女性に涙はほとんど見えなくなっており、時折笑顔が覗けている。吹っ切れてきた証拠であり、祐子はわずかな陰を捨て去り、今よりずっと魅力的な女性になる。
きっかけを作ったのは泰宏だが、最終的に前方の女性の隣にいるのは自分でない可能性が高い。ゆえに相手女性の変化を、嬉しいような悲しいような気分で見つめていた。そんな泰宏に祐子が話しかけてくる。
「ハンカチ……どうしましょうか」
「え?」
思わず泰宏は顔にハテナマークを浮かべた。部屋に来てすぐ、泣き出した女性にハンカチを貸した際、洗って返すと言っていたはずだ。まさか忘れているのだろうか。
どちらにせよ、いちいち指摘するのは躊躇われる。細かい男だと引かれてしまいそうな気がした。そこで泰宏は「差しあげますよ」と答えた。
こだわりのアイテムでもないので、あげたところで問題はなかった。すると相手女性は、意味ありげにクスリとした。
「いいんですか? 戸高さん……いいえ、泰宏さんは、私の涙が大好きな変態さんだったと記憶していますけど」
今度はハテナマークではなく、戸惑いが顔に出る。確かにそういった趣旨の発言をしていた。それをこのタイミングで持ち出されるとは、まったくの想定外だった。
当時は自ら変態かもしれませんと応じたが、ここではどのような対応をするべきか。悩んでいるうちに、額へじっとりと汗をかく。見苦しくなる前になんとかしようと考え、自身のジャケットやポケットをまさぐるが、目当てのものを見つけられなかった。
ひとり悪戦苦闘する泰宏を眺めていた小石川祐子がクスクス笑う。
「さすがの泰宏さんも、弾切れですね」
微笑を浮かべながら、相手女性が二枚のハンカチをテーブルの上に並べた。思わず泰宏は「あ……」と声を出していた。
部屋にお邪魔してすぐに一枚。そしてつい先ほど、もう一枚貸したばかりだった。
泰宏は常々、何かあった時のためにハンカチを二枚持ち歩いている。それを全部、相手女性に渡していたのをすっかり失念していた。
ハンカチもない以上、泰宏は「ハハハ」と笑いながら、人差し指で頬を掻くしかなかった。
*
祐子と泰宏との間に、実に奇妙な空気が流れている。
どうしてこなっているのか。一因はテーブルの上で佇んでいる二枚のハンカチにあるのかもしれない。
何かを探してるように見えたので、相手男性へ借りていたハンカチを見せてみた。もしかしての思いどおり、見た瞬間に泰宏は短く声を上げた。
祐子にハンカチを二枚も貸していたのを、忘れてしまっていたのだろう。
かくいう祐子も、相手男性が複数枚のハンカチを所持していたのを驚いていた。
女性の祐子でも、基本的には一枚しか持って歩かない。照れ隠しに頬を掻く泰宏を楽しく眺めつつも、ある種の違和感を覚えていた。
目の前にいる男性の態度が、どこかよそよそしくなってる感じがする。女の直感なのか、祐子は相手のわずかな異変に気づいていた。
祐子の過去の話を聞いたからなのか。
考えた直後に、心の中で首を左右に振る。
短い付き合いしかないけれど、相手男性がそのようなタイプでないのはわかっている。
ならばどうしてと悩んで、浮かんできた答えが、祐子がこれまで抱いてきた高木春道への想いだった。迂闊にも正直に告白したため、勘違いされた可能性が高い。
だが原因さえわかれば、あとはどうにでもなる。祐子の現在の想い人は、他ならぬ戸高泰宏なのである。ここはからかうよりも、正攻法で行くべきだと判断する。
遊び慣れている男性と違って、下手に駆け引きをしたりすれば、不要な結果を招く可能性も否定できなくなる。
いざ勝負と決意して攻め込もうとした矢先、向こうから話しかけてきた。
「あの……どうして、いきなり私を名前で呼び始めたのですか」
ほんの少し前、祐子は相手男性を「戸高さん」ではなく「泰宏さん」と下の名前で呼んだ。もちろんなんとなしにではなく、親しみとともにきちんとした理由を込めている。焦らしても仕方ないので、直球勝負で泰宏に言葉を返す。
「好意を抱いてるからです」
BGMすら流れていない静かな部屋の中で、半ば告白じみた発言をする。
まるで女学生にでも戻ったような気分になり、恥ずかしさと照れで頬が熱い。
相手がなかなか新しい言葉を発してくれないのが、余計に羞恥を煽る。
女に恥をかかせないでよと想いつつも、祐子は泰宏の発言をじっと待ち続ける。
「あの……それは……でも……」
アドバイスしてくれた時とまるで違う相手男性の態度に、少しだけ苛々する。
やはり泰宏は、春道への祐子の想いを気にしているのだ。
もっとズバっときてくれればいいのにとも思うが、そういうタイプでないからこそ、泰宏をここまで好きになったのである。
今さら肉食系に変身されても、どのように対処すればいいのかわからなくなる。
「言いたいことがあるのなら、はっきりとどうぞ」
けしかけたところで、ようやく泰宏が春道について尋ねてきた。
*
「いえ、私が好きなのは、泰宏さんですよ」
相手女性の発言を受けて、泰宏は情けなくも、口をポカンと開けてしまった。
そんな泰宏を見ても、これまでみたいにケラケラ笑ったりしない。
祐子なりの、発言に重みをだすための工夫なのだろう。真剣なのがこちらにもしっかり伝わってくる。
「確かに私は高木春道さんが好きでした。
けれど、もう違います」
断言したあとで、にっこりと祐子が微笑んだ。
「考えてみてください。そもそも、何とも思ってない人に、先ほどみたいな話をするでしょうか」
冗談を言ってるような雰囲気ではないし、この場面でジョークを口にする理由も見当たらなかった。祐子が好意を抱いているのは、紛れもなく泰宏なのである。
「お、驚きました……」
ついさっきまで諦めかけていただけに、泰宏は率直な思いを告げていた。予期せぬ形で両想いになったためか、あまり実感がわかない。
「泰宏さんは、私をどう思ってるんですか」
泰宏本人は自分の気持ちを知っていても、言葉にしなければ相手に伝わらない。
「もちろん、好きです。出会った時から惹かれていました」
告白の経験が少ないだけに、持てる限りの勇気を振り絞る必要があった。答えを半ば知っていても、やはり緊張するものはする。
「うふふ。知ってます」
小悪魔のような笑みを浮かべた祐子が、そんなふうに応じた。
「だって、初対面の日に、プロポーズしてくれたじゃないですか」
「い、いや、あれは……まいったな」
すっかり主導権が向こうに移っている。けれど相手女性は、心から楽しそうにしている。その様子を見ているだけで、泰宏も嬉しくなる。
「やっぱり小石川さんは、笑ってるのが一番素敵です」
自分の気持ちを正直に伝えただけなのだが、何故か小石川は赤面した上に硬直している。どうしたのだろうと思っていると、呆れたように相手女性がため息をついた。
「天然って、本当に最強ですね」
「そうですか?」
「ええ、そうです」
きっぱりと言い切られた。
自分で意識したことはないが、どうやら泰宏は天然というカテゴリーに属する人間みたいだった。
他の人はどう思うかわからないが、個人的にはだからといって何も変わらない。あくまでも、自分は自分なのである。
「小石川さんは、天然なのですか?」
「……残念ですけど、違います。天然って、本当にタチが悪いですよね」
天然に対する評価が、ほんの少し前と大きく変わっている。だがそこを指摘してもどうにもならないので、放置したまま他にすべき質問を相手女性へぶつける。
「私と……結婚を前提としたお付き合いをしていただけませんか」
答えを急ぎすぎてはいけないとわかっているが、どうしてもはっきりさせておきたかった。結婚して家族が欲しいから、わざわざ専用の相談所へ登録したのである。
すぐに返事が返事が貰えるかと思いきや、相手女性は考える素振りを見せる。
「その前に、お返事をしてないのがありましたね」
そんなのがあったろうかと、泰宏は思わず「え?」と聞いてしまった。
「プロポーズのお返事です。それとも、しない方がよろしいですか?」
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目の前に広がる光景を、祐子は口をポカンと開けて見上げていた。
隣にいる男性――戸高泰宏へプロポーズの返事をしたのが、数日前の出来事だった。
晴れて夫婦になることが決定したあと、夫予定の男性が自分も隠していた事実があると衝撃的な告白をした。
とはいえ、すでに結婚しているとか、隠し子がいるとかでなければ、受け止められる自信があった。余裕の態度で「大丈夫です」と応じた祐子を、休日の今日、とある場所へ案内してくれた。
「実は……この間、招待したのは本当の自宅じゃなかったんだ」
ほんの少しだけバツが悪そうに、泰宏がはにかんでいる。
ここ数日の電話やメールのやりとりを経て、祐子と相手男性の関係が、だいぶナチュラルになってきた。近い将来に夫婦となるのだから、いつまでもお互いに敬語ではやりにくい。
「泰宏さんって……お金持ちだったんだ」
ようやく呟いたのがこの台詞だった。
武家屋敷を連想させる広大な敷地と、歴史を感じさせる立派な建物。明らかに貧乏とは呼べなかった。
よくよく話を聞けば、代々続いている名家の当主なのだという。普通に結婚するだけだと思っていたのが、予期せぬ展開になっている。
「これは……ちょっと大変そうかも」
昔からの名家であればあるほど、しきたりや礼儀作法にうるさいイメージがある。
軽く頬を引き攣らせたあとで、祐子はさらに衝撃的な事実に気付く。
実家とくれば、両親が住んでいる。
両親がいるのであれば、挨拶をしなければならない。
「どうして、黙ってたのよ!」
どうしようという混乱具合が、祐子に今の台詞を叫ばせていた。胸倉を掴みかからんばかりの勢いに、気圧された泰宏が「ごめん」と謝罪してきた。
「そうだよね。誰だって騙されてたら、いい気しないよね」
「そっちじゃなくて!」
これまた祐子が叫ぶと、相手男性はキョトンとする。実際に自宅を偽られていたのなど、たいした問題ではなかった。
「私が怒ってるのは、実家に行くなら行くで、教えてくれなかったことよ!」
相手方のご両親に会うような服装でなければ、手土産のひとつも持ってきていない。それに何より、心構えができていなかった。
そんな祐子の不安と緊張をよそに、隣にいる男性は楽観的に笑っている。
泰宏にとっては実の両親だから、別に何とも思わないだろうが祐子は違う。
その点も考慮してほしいものだと、若干の怒りを覚える。
だが次の瞬間の発言を受けて、絶句することになる。
「心配ないよ。だって、親はもう他界してるしね」
あっけらかんと言われたが、内容は実に衝撃的だった。申し訳ない真似をしてしまったと、祐子はシュンとしながら泰宏へ謝った。
「ごめんなさい。私……」
「気にしなくていいよ」
悲しみはすでに癒えているのか、爽やかな笑顔で許してくれた。
「ご両親はその……いつ頃……」
「え? ああ。母は結構前だけど、父は去年だよ」
「そう……去年……
って、去年!?」
目をまん丸にして驚く祐子に、相手男性はさも当然のように頷いた。
「昨年の前半ぐらいかな。急に状態が悪化してね。それきりさ」
*
泰宏は隣の妻となる女性へ説明しながら、当時の様子を思い出していた。
父親はいきなり「具合が悪い」とだけ言って、自宅――つまりは実家での休養生活へ突入した。
あまり口数は多くなく、泰宏が幼少の頃から突拍子もない行動をする人間ではあった。大抵は何かしらの意味が裏にしっかり存在しており、昔から父親の真意を読むのに苦労していた。
もっとも、おかげでメンタルの部分は相当に鍛えられた。今にして思えば、そうした狙いがあったのかもしれない。娘の和葉をすでに勘当していたため、代々続く名家を継ぐのは泰宏しかいなかった。
自分がいついなくなってもいいように、父親の秘書を務めさせたり、様々な前準備を行っていたように思える。そういう意味では、基本的に用意周到な人間だったのかもしれない。
とにもかくにも、そんな父親の教育により、泰宏は立派に自分の人生を生きていられる。
「本当、何もかもがいきなりの親父だったよ」
懐かしむように、泰宏は祐子へ告げた。
名前も知らない人間の子を自分で育てると言い出すあたり、妹の方が父親に似てるのかもしれない。
「寝込んだと思ったら、あっという間だったよ」
一緒に同じ家で生活していた泰宏でさえ、父親がそこまで末期的な状態だとは知らなかった。本当にギリギリまで、家族に悟られることなく仕事を続けた。
当人には自覚症状があったらしく、生前に没後に面倒が発生しないよう、必要な書類を片づけていた。おかげで家にしても会社にしても、拍子抜けするぐらいすんなりと泰宏が引き継げた。
思い出話を聞き終えた後で、申し訳なさそうに祐子が口を開いた。
「あの……ということは、泰宏さんは今、喪中なわけですよね」
「え? ああ、そうだよ」
新しい当主としての最初の仕事こそが、先代の葬儀の喪主を務めることだった。
どうしてそんなのを気にするのだろうと思っていると、もの凄く慌てた様子で相手女性が「いいの?」と聞いてくる。
「喪中なのに、お見合いパーティーにまで参加してたじゃない!」
「そうだね。おかげで祐子にも会えた」
「ええ、そうね。ただの偶然かもしれないけど、私も感謝を――
――じゃなくて!」
どこぞのお笑い芸人なみのオーバーリアクションを、祐子が披露する。
思わず吹き出しそうになったが、そんな真似をしようものなら相手の怒りを買うのは間違いなかった。
「喪主を務めた身でありながら、喪中に結婚相談所なんかに登録なんかして、体裁的に大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。親戚連中には言ってないし。それに、一周忌まであと少しだからね。明けてから式や披露宴を行えば角も立たないよ」
泰宏とて、何も考えてないわけではなかった。
ゆえにきちんと段階を踏んで、婚約から始めたのである。
もちろんまだ、周囲へ祐子の存在を大々的に紹介するつもりもなかった。
*
祐子は、またしても口をあんぐりと開けて、実に間抜けな表情を晒してしまうところだった。
それもこれも今現在隣にいる男性のせいだった。
考えようによっては、招待された家が本物かどうかより、こちらの方が重要な問題になる。
婚約を決めた祐子だったが、泰宏が喪中となると話も変わってくる。
時代の流れとともにあまり意識しない人間も増えているみたいだが、こうした題材は今でもなおデリケートである。
とはいえ、泰宏との仲を諦めるつもりは毛頭なかった。
では何を問題視してるのかといえば、結婚後の親戚との関係である。
法律で禁止されているわけではないにしろ、一般的な常識に照らし合わせて考えれば、喪中の間はおとなしくしてるのが懸命である。
だが一番気にしなければならない当人に、そういう気配が見えなかった。
「和葉もそうだったけど、祐子も必要以上に気にしすぎじゃないか」
夫予定の男性の台詞内にあった人名に、即座に祐子が反応する。
泰宏の妹は、あのしっかり者の高木和葉なのである。このことを知ったら、文句のひとつやふたつは当たり前に出てくるはずだった。
その旨を指摘しても、やはり相手男性はあまり気にしなかった。
「和葉は何も言わないと想うよ。自分も喪中に、春道君の親戚だかいとこだかの披露宴に参加したみたいだからね」
祐子は思わずズッコケそうになる。
しっかりした女性のように見えて、意外と抜けている面もあるのだろうか。
そんなことを想っていると、泰宏が続けて該当の一件を説明してくれる。
「咄嗟の参加ですっかり失念していたみたいでね。披露宴の最中に気づいたらしく。あとで俺に電話してきて謝ってたよ」
あっけらかんとした話しぶりから考えれば、妹の行動を兄として許したのがわかる。
「和葉も戸高家から勘当された身で、遺産相続もすべて放棄している。親戚連中も気にしていながら、戸高の本家には最初から娘はいなかったものと考えてるよ」
「それは……さすがに、あんまりなんじゃ……」
かわいそうになってきたのもあり、自然とそんな台詞が祐子の口からこぼれていた。和葉の実の兄でもある相手男性は、苦笑しながら肩をすくめてみせる。
「田舎であるがゆえに、勘当の持つ意味も大きい。もうその家とは関係ないと通告されたんだからね。俺が次の当主でなかったら、戸高家の敷居を跨げていたかもわからないんだ」
そのあとで「親父も全部わかってて、勘当したんだろうけどね」と付け加えた。
話を聞いている限り、戸高家の実子は二人だけ。和葉が除名されれば、必然的に泰宏が家を継ぐことになる。
父娘の間で関係が消滅していても、兄妹に確執がなければ家へ戻るのも可能だ。
そこまで計算した上で勘当していたのだとしたら、戸高家の先代当主はかなりの策士である。
もしかしたら自分は、とんでもない家に嫁入りしようとしてるのかもしれない。
改めて祐子は、そんなふうに思った。
*
父は間違いなく娘を愛していた。
他人の心を読む特殊能力はないが、それだけは泰宏にもわかっていた。
だからこそ直感的に父がヤバいのではないかと察した瞬間、勘当されていた妹に連絡をとった。
「そうなんだ……」
祐子の声で、泰宏は会話中だったのを思い出す。
感傷に浸るより先に、相手の疑問を解消するために説明を続ける必要があった。
「親戚連中に、和葉の行動は教えていない。もっとも、言ったところで問題ないけどね」
ハハハと泰宏が笑うと、すかさず相手女性は訝しげな表情を浮かべた。明らかに顔へクエスチョンマークが出現している。
「親戚連中が知ったところで、やっぱり勘当された子だなで終わりだよ。今さら和葉も、戸高家関係者の印象を良くしたいなんて考えてないだろうしね」
親子の縁を切られた立場なだけに、妹の和葉も色々と覚悟してるのは間違いない。とりあえずは相手女性も、泰宏の説明に納得してくれたみたいだった。
「もちろん、挙式や披露宴は喪が明けてからするつもりだよ。その点は心配しなくても大丈夫」
故人よりも、今生きている人間を大事にしたい。
そのように考える泰宏でも、最低限のマナーくらいは心得ている。
向こうもそう判断してくれたのか、安堵の表情を浮かべていた。
「それなら、婚約だけにしておいて、周りへは内緒にしましょう」
祐子が悪戯っぽい笑みを浮かべる。秘密にしておき、あとで驚かせてやろうという魂胆が見てとれる。
婚約といっても大々的にするのではなく、相手方の両親へ挨拶し、許可を貰うと同時に事情を説明するつもりだった。
考えを伝えると「それでいいと思う」と、祐子が言ってくれた。
結婚についての方針が決まったところで、泰宏はかねてより考えていた計画を相手女性へ伝える。
「え? 妹さんと春道さんの式も一緒にですか」
「ああ。春道君に好意を抱いていた祐子は嫌かもしれないけど……」
目の前にいる女性の心情を思えば、決して良い提案でないのはわかっていた。それでも泰宏は、妹の和葉へ結婚式を挙げさせてやりたかった。
勘当したはずの娘のために、貯金通帳を残していた父親の願いのような気がしていた。
とはいえ妻となる女性が反対すれば、無理に己の要望を押しつけるわけにはいかない。けれど祐子は嫌な顔ひとつせずに、泰宏の願いを受け入れてくれた。
あまりにすんなりすぎたので、逆に泰宏が驚いて「本当にいいの?」と聞いてしまった。
「泰宏さんが言うのなら、何か理由があるんでしょ。私のことなら気にしないで。春道さんとも式を挙げてると思えば楽しいし」
普通の男性なら苦笑するかもしれないが、泰宏の場合はまったく違った。
「祐子は本当に優しいね」
心からそう思ったので告げただけなのだが、相変わらずの慣れない様子で相手女性が赤面している。
「不思議ね。正直、苦手なタイプなのに、どうしてこれほど好きになったんだろう」
まだ頬を紅潮させている祐子の呟きに、泰宏は即座に言葉を返した。
「それが、人間ってものじゃないかな」
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