空を舞う白球

桐条京介

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第51話 ――打って!

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 この大会の直前まで、関係者ではなかった栗本加奈子にまで涙ながらにお願いされてなお、自分は己の保身のためだけに打席へ立つのを拒むのか。考えるたびに、怒りにも似た気持ちを覚える。唇を震わせる淳吾へ、さらに他の野球部員が頭を下げてくる。主将の土原玲二だけでなく、ネクストバッターズサークルへ入るために準備をしていた相沢武までもがだ。

 ベンチにいる全員が、頭を下げる異様な光景だった。自分の体裁だけを気にするだけの人間になるのかと自問自答したあとで、淳吾はベンチから立ち上がる。側に置いていたバットを手に持ち、マネージャーの女性にヘルメットを取ってほしいとお願いする。

「――うんっ! 頑張ってね、仮谷っち!」

「ああ……せいぜい、俺を出場させてしまったのを後悔してくれ」

 自嘲気味に笑いながら、淳吾はひとりでベンチから出る。一応は持参していた手袋を装着し、ゆっくりと打席に向かう。その直前で何度か屈伸運動をして、緊張しすぎている気持ちを落ち着けようとする。

 こうなったら恥をかくだけの結果に終わったとしても、全力で相手投手と勝負してやろう。その気持ちだけを胸に、球審へ頭を下げてから打席に入る。

 公式戦のバッターボックスは、これまでに経験したものとは雰囲気が違っていた。独特の緊張感に肌がヒリつく。黙ってるだけで息切れしそうになる。こんな感覚は初めてだ。似たような体験すらした記憶がなかった。中学時代の陸上の大会で覚えた緊張感とは、まったくの別物だった。

 淳吾が打席内で戸惑いを覚えていようとも、試合は続行される。マウンドの上で相手投手とほんの少しだけ目が合う。ギラついた視線を向けてくるのかと思いきや、どこか余裕がありそうに見えた。1塁に走者こそいるものの、クリーンヒットで許したものではない。加えて、ここまでの試合展開で私立群雲学園の攻撃陣の実力は大体わかっている。安心とまではいかなくとも、多少の油断をしてるのだけは間違いなさそうだった。

 3番、4番以外に警戒する打者はいない。代打で出てきたのは、少数しか在籍していないチームにもかかわらず、控えにされてしまった男。見下される条件は、十分すぎるほどに揃いまくっていた。

 初球から慎重にコースを外してくる可能性は低い。間違って淳吾をフォアボールで出せば、得点圏にランナーを背負った状態で、危険な打者の相沢武と対戦しなければいけなくなる。

 淳吾が相手投手の立場だったら、なんとしても自分からアウトを取ろうと考える。けれど慎重にいきすぎて、カウントを悪くもしたくない。心理的な優位さを確保するためにも、とにかくストライクを先行しようとする。

 対戦相手のデータがないだけに、変化球を投じて様子を見るのも手だ。しかし、これまでの試合展開で、相手投手のスピードボールをジャストミートできたバッターはほとんどいない。例外は、相沢武と土原玲二だけだ。

 下手に遅い球を投げて、まぐれ当たりでヒットを打たれるのも避けたい。当然の心理だ。淳吾より、後に続く3番と4番を警戒してるのもあって、厳しい攻めはない。

 この時点で断言してしまうのもどうかとは思ったが、慎重になるより、開き直るくらいで丁度いい。あれもこれもと欲張って、なんとかできるほどの打力はない。

 よし、いくぞと気合を入れ、バッティングセンターを利用して会得した構えをとる。体格がさほどでもないだけに、相手投手は淳吾から打たれそうなプレッシャーなんて感じないはずだ。

 本来ならなめられるのをよしとしないが、今回ばかりは別だ。打てる可能性を上げてくれるのなら、どんな屈辱にだって耐える自信があった。

   *

 打席で構えてる最中に「待ってました!」という大きな声援が飛んできた。

 誰のものかは、いちいち観客席を確認しなくてもわかる。相沢武への叱咤激励がされた際に、小笠原茜が試合観戦するために球場へ来ているのを確認できていたからだ。

 内心で苦笑を浮かべる余裕もないほど、今の淳吾は集中しきっていた。視線は常にマウンドにいる投手を捉え、どうすれば自分が相手の球を打てるのかを、頭の中でひっきりなしに考える。

 まともに組み合うような形になったら、経験も実力も劣る淳吾が不利なのは十分承知している。小技を使えるようま技術もない。相手投手を攻略して、活躍できる可能性は皆無に等しかった。

 考えれば考えるほどに、どうすればいいのかがわからなくなっていく。打開策を必死で求めているのに、頭脳にそっぽを向かれる。おい、なんとかしてくれよと自分自身を頭の中で怒鳴ってみても、はい、わかりましたなんて返事をしてくれるはずがなかった。

 相手投手との睨み合いみたいな状況に耐えられなくなった淳吾は、審判にタイムを要求して打席を外させてもらう。バッターボックスの外でしゃがみこみ、両手でスパイクの紐を結び直す。本当に緩んでいたわけじゃなく、単なる時間稼ぎだ。

 最初から勝負を逃げてる時点で、勝ち目なんてあるはずがなかった。万が一の奇跡を期待するには、前向きになるのが第一歩だとわかっていても、簡単にはポジティブになれない。ここでまた思考が、それならどうすればいいのかという1文に辿り着く。まるで袋小路にでも迷い込んでしまったような気分だ。

 結局、考えをまとめられないまま淳吾は立ち上がる。再び打席内へ足を踏み入れ、マウンドで仁王立ちしている投手と対面する。待たされた怒りもあって、全身から絶対に打たせないという気迫を漲らせてるに違いない。そう思って相手を見たが、示していた態度は想像とはまったく違っていた。

 打席を外したりするのを見て、こちらに余裕がないのを理解したのだろう。最初に向き合った時よりも、明らかに余裕のある顔つきになっていた。体格はさほどよくなく、さらには少ない部員数の野球部で補欠だった男だ。ここまで私立群雲学園をきっちり抑えてきた相手投手に、今さら警戒する理由など見当たらない。

 なめられてたまるか、なんて怒りはわいてこない。淳吾が相手投手の立場なら、似たようなリアクションをしたからだ。

 こちらは弱者で、向こうは強者。立場の違いを理解した上で勝負に臨まないと、番狂わせが起きそうな雰囲気すら作り出せずに負けてしまう。

 自分に相手を怯ませられるような強打者のオーラはない。それならいっそ、弱者としての立場を利用しまくればいい。消極的な作戦かもしれないが、私立群雲学園の勝利を手助けするにはそれしかなかった。

 幸いにして相手は淳吾を見下し、油断をしてくれている。そこに付け込んで勝機を見出すのだ。

 よく考えろという課題を自分に出す。先ほどは結論が出なかった。相手が本気で向かってくると想定していたからだ。しかし、今回は舐めきって対戦してくれるという前提で予想をする。当たるかどうかはともかく、準備は大切だ。やっておいても損はしない。

 これまで私立群雲学園野球部のメンバーは、相沢武と土原玲二を除いて、大半が変化球はおろか直球すらまともに打ち返せないでいた。淳吾の実力を知るためにも、まずは真っ直ぐから入ってくる可能性が高くなるのではないか。

   *

 最初に少し考えたとおり、遅い変化球ではまぐれ当たりをされる危険性がある。

 直球についていけそうもないタイプなら、単調な攻めになろうとも力でグイグイ押すのがもっとも効果的だ。わざわざ淳吾が指摘しなくとも、相手バッテリーは必要十分すぎるほどに理解してるだろう。

 初球からボールにはしたくないと考えるはずだ。ストライクコースに、ストレートが来る確率はぐっと上がる。

 長打は警戒したいので、コースは低め。真ん中低めに目線を置き、そこを中心に円を描くような範囲でボールを待つ。それが淳吾の考えた作戦だった。もちろんリスクは伴う。相手投手がきちんとしたコントロールで四隅に投げ込んできたらお手上げ。おとなしく白旗を振って降参するしかない。

 分が悪い博打のようにも思えるが、元々の実力が足りてない淳吾が相手投手のボールをなんとか打つには、おもいきった覚悟が必要だった。打てずに終わって、罵られる結果しか待っていないのだとしても、出来る限りの努力はしておきたかった。

 相手投手がマウンド上で振りかぶり、ゆっくりと足を上げる。ためを作ってから球の威力を増幅させるために、下半身と上半身を連動させる。相沢武のとは違うフォームだが、こちらも安田学みたいな癖のある投げ方ではなかった。それだけ自分の実力に自信を持っているのかもしれない。

 3年間きちんと部活に励み、実力を高めてきたのだから自信があって当然だ。淳吾みたいなバッターに打たれたら、悔やんでも悔やみきれないだろう。だが、譲れない事情というのはどちらにも存在する。だからこそ投手と打者はグラウンド内で対戦をする。

 伸ばされた相手投手の腕がしなり、手に握っていた硬球を話す。バッティングセンターのアームとは比べものにならない臨場感と迫力に、圧倒されそうになる。だが、不思議と飲み込まれたりはしなかった。眩暈を起こしそうなほどの緊張も吐き気もない。淳吾の視界に映っているのは腕を振り終えたばかりの相手投手だけだった。

 相手投手が足を上げるタイミングに合わせて、淳吾も打撃動作の準備を終えている。手が見えた瞬間にはもう足を下ろしていて、スパイクで打席内の土を踏みしめる。願いを込めるように前へ出した左足でタイミングを取りながら、向かってくるボールへ力負けしないように上半身へ力を漲らせる。

 風を切る音までは聞こえないが、相手投手の放ったボールは一直線に淳吾の方へと向かってくる。球種はストレート。コースは低めよりだ。

 両腕に力が入る。割れそうなくらいに口の中で奥歯がぶつかる。呼吸をするのも忘れて、力任せにバットを振ろうとしたその瞬間だった。

 ――打って!

 透き通るような声が、淳吾の耳の奥まで届いてきた。女性の声で、聞き覚えもある。誰が自分に声援を送ってくれたのだろう。一瞬だけだったが、そんなことを考えてるうちに全身からふっと力が抜けていた。改めて前を見ると、すぐ側までボールが迫ってきていた。

 バットが、結局修正しなかったアッパー気味の軌道を描く。強く意識したのは、ボールの芯の少しだけ下を叩いて、バックスピンをかけるというものだった。そうすれば打球はよく飛ぶようになる。早朝に参加させてもらっている草野球チームで得た情報だった。

 ボールはきちんと見えている。バットも理想どおりに振れている。タイミングも合っている。

 視界の中で、向かってくるボールと繰り出したバットが衝突する。

 ――キィン! 強く大きな金属音がグラウンドに響く。

 両手へかすかに残る心地よい痺れを感じながら、淳吾は見つめる。雲ひとつない青く澄んだ大空に、舞い上がったばかりの白球を。
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