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第23話 どうして、内野手は誰も投手に声をかけにいかないんだ
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だが、今回の場合はスクイズは行われないだろう。公式戦では特に先制点が重要になるので可能性はあるが、現在は選手の力を見極める練習試合。しかも、かなりの実力差が存在する。要するに群雲学園のナインは、相手に舐められてるのだ。
作戦も何もなく、ただひたすらに打ちまくって勝利する。コールドゲームが設定されていれば、途中で試合終了となるかもしれない。
大半は5回以降の点差によって、事前の取り決めがあれば、途中で球審が試合の打ち切りを宣言する。これをコールドゲームと呼ぶのだ。点差の基準は主催者によってまちまちだが、淳吾が知っている限りでは10点差というのが一般的に思える。
走者がひとりホームベースを踏めば、1点が入る。その積み重ねが得点になる。だからといって、最初からホームベースへ直行していいわけではない。
打者は投手の投げた球をバットで弾き返した直後、まずは一塁を目指す。その後に二塁、三塁と進んで、ようやく本塁に帰ってこられるのだ。
打球によっては一塁を踏んだあとに、二塁まで向かうこともできる。これを二塁打と言う。三塁まで到達できれば三塁打になる。
そして淳吾が体育の授業で経験した本塁打。これは打球が外野にあるフェンスを越えた場合に、一気に本塁まで帰れる一打なのだ。
本塁打を打つのは難しいため、ヒットで一塁に走者が出ると、送りバントなどで二塁へ送ったりして本塁までの距離を縮める。これもスクイズと同じく、野球における作戦のひとつだ。
このようにある程度の知識を所持しているのも、淳吾が男性だからだろう。基本的に男であれば、体育の授業などで一度は野球やサッカーに触れる。
クラスでも野球部に所属している人間はいるし、テレビの地上波なんかでもたまにプロ野球の中継をしたりする。野球を題材にした漫画やアニメも数多く存在するし、現代にはインターネットという便利なものもある。
本気でルールを覚えようと思ったら仮に女性であっても、すぐに淳吾程度の知識は得られる。弟が野球部の土原玲菜も、その点はしっかり把握しているみたいだった。
グラウンドへ視線を戻せば、私立群雲学園野球部は、初回からノーアウト三塁の窮地に陥っている。試合に出ていないとはいえ、中学時代から投手を務めていた相沢武ならともかく、急造にしか思えない伊藤和明では荷が重いようにしか見えない。
それでもゲームが始まったばかりなので投手の交代を選択するわけもなく、伊藤和明がピッチャーのまま練習試合が続行される。
野球を観るのも好きなのか、隣に座っている土原玲菜は、祈るような感じでグラウンド上のバッテリーを見つめる。
マウンドで足を上げ、投球動作に入った伊藤和明が2人目の打者にボールを投げる。インコース気味のストレートだったが、今回もまたあっさりと外野まで飛ばされてしまう。
中翼手が投手に背中を向けて打球を全力で追いかけるも、金属バットに弾き飛ばされた硬式球は無情にも選手の頭上を越えて地面に落下した。
フェンス手前でバウンドしたため本塁打にこそならなかったものの、ライナー性の当たりは簡単に守備陣の隙間を突破していた。
中翼手がフェンスに跳ね返って戻ってきたボールを処理してる間に、三塁ランナーは悠々とホームイン。打ったバッターもスライディングせずに、二塁まで到着する。
こうして伊藤和明は1点を取られてなお、ランナーを二塁に背負うピンチを迎えた。立ち上がりから連打され、早くも顔面が蒼白になる。
かわいそうだと思っても、芝生で見学している淳吾には声をかけることすらできない。よく投手は孤独なんて言われるが、今回の練習試合を観戦していて、改めてそのとおりだなと実感する。
*
続いて伊藤和明が打席に迎えるのは、相手チームの3番バッターだった。アメリカのベースボールでは3番が最強打者とされているが、日本の野球では4番になる。
日本の場合は3番に高確率で安打が狙える好打者タイプが入るケースが多く、現在対戦している高校の野球部の打者も見るからに力にものをいわせて打撃をするタイプではなかった。
淳吾の理想でいえば3番は好打者。4番は本塁打と安打が両方狙える万能型。そして5番には長打率の高いパワーヒッターを置きたい。だが、すべてがすべて狙いどおりにできるなら、何事も苦労はなかった。
とにもかくにも今から伊藤和明が対戦する相手の3番打者は本塁打よりも、外野手の間を抜ける二塁打などの長打を警戒するようなタイプに思えた。もっとも、1番と2番打者にもすでに痛打されて点を失ってるので、今さらな感はある。
それでもまったく知らない人間が投手を務めてるわけではないので、少しでも頑張ってほしい。観戦する淳吾の体にも、勝手に力が入る。過去に野球部へ所属した経験はなくとも、観戦するのは元々好きだった。
3番打者への1球目。これまでストレートを続けて完璧に打たれてるので、捕手の土原玲二はスピードは劣るけれど、大きく斜めに曲がるのが特徴の変化球――カーブを要求したみたいだった。
野球には数多くの変化球があるけれど、過去から現代まで一番有名に思える。小学生でも投げる選手がいるくらいで、チェンジアップと並んで比較的投げやすい球種なのかもしれない。
淳吾に投手経験はないのでそこまで詳しくはわからないが、他にも横に曲がるスライダーや、縦に落ちるフォーク。スライダーと逆方向に曲がるシュートなど思いつく限りでも結構な種類が存在する。
変化球を投げるためにはボールの握りを変える必要があり、同じカーブでも人によっては独特の握り方をしている場合も多い。だが伊藤和明の場合は投手になって日が浅そうなので、誰かに教えられた握りをそのまま使用しているに違いなかった。
伊藤和明の投じたカーブはストライクコースから大きく外れ、捕手の土原玲二が捕るのを苦労するほどの有様だった。明らかに緊張のせいで、力が入りすぎている。
野球だけに限らず、何事も力みすぎると失敗を招く。どんな大舞台であったとしても、いかに平常心を保てるかが勝負の分かれ目になる。
などと考えている淳吾自体が極端なあがり症なので、小学生時代の運動会ですら走る前は心臓が口から飛び出そうなくらい緊張しまくっていた。
そんなことを考えてるうちに、伊藤和明が2球目を投げる。しかし、これもカーブがコントロールしきれずにすっぽ抜けてボールになる。
たった数球投げただけなのに、早くも緊張などからくる疲労で伊藤和明は肩で大きく息をする。
「……どうして、内野手は誰も投手に声をかけにいかないんだ……」
無意識に呟かれた淳吾の言葉に、かすかな驚きとともに土原玲菜が反応する。
隣に座っている美貌の女先輩に顔をまじまじと見られても気にならないくらい、淳吾は集中して試合を観ていた。
その中で投じられた3球目はストレートで、少しコースは外れているけれど、今までよりはまともなところへ向かっていた。
これで少しは安堵できるかと思った直後、相手打者のバットが水平にスイングされ、甲高い金属音がグラウンド中へ響き渡った。
金属バットの真芯で捉えられた硬球はもの凄い勢いで空気を切り裂き、淳吾がバックスクリーン側へ視線を動かした時には、すでにフェンスを越えたあとだった。
好打者タイプと思ってたのを謝罪したいくらいの豪快な本塁打で、これで相手チームには新たに2点が追加された。
*
あっという間の3失点。慌てて土原玲二がマウンドへ向かうも、打たれた伊藤和明はすでに憔悴しきっていた。チームに迷惑をかけた申し訳なさと、自分自身の不甲斐なさゆえか、すぐには顔を上げられない。
足元を凝視したままの伊藤和明に、マウンドに集まった内野手たちが声をかけたり、肩に手を置いたりする。3点は失ったけれど、まだ初回。ここで伊藤和明が立ち直れば、試合の行方はまだまだわからない。
しかし観客はそう思わないのか、新入生だけで結成されてる野球部をひと目見に来た在学生たちが次々と座っていた芝生から立ち上がる。
立ち見していた連中もグラウンドに背を向け、ただでさえあまり多くなかったギャラリーが一気に激減する。さすがに淳吾はまだ帰ろうと思わないが、周囲の反応に少しだけ悲しくなる。
伊藤和明だって、何も点を取られたくて投手を務めてるわけじゃない。恐らくは、相沢武が連投しないで済む対策の一環としてマウンドに登ってるのだ。だからこそ、このような場面でも交代する気配は見られない。
仮に何失点しようとも、この試合は伊藤和明に任せると事前に決めてるのだろう。相沢武以外の投手を育て、守備の精度を高めるには効果的だといえる。
新生したといっても過言ではない野球部だけに、今は練習試合であったとしても、勝ち癖をつけておきたい時期に思える。にもかかわらず、こんなおもいきった判断をするとは、なんとも潔かった。
ひょっとすると部員は初心者ばかりでも、率いている監督は凄い人なのかもしれない。そう考えた淳吾は、その点について隣に座っている土原玲菜に尋ねてみた。
「監督なら、私たちのクラスの担任で、数学を担当している老齢の男性よ。学生の自主性を重んじる良い先生ではあるけれど、野球の実力があるとは思えないわ」
野球部の監督になったいきさつも、たまたま担当している部活がなかったからだけの理由らしかった。しかも、もうすぐ定年なのであまりルールを覚えようともしないと教えてもらう。
「全面的に協力をしてくれてるわけではないけれど、贅沢は言えないわ。部員数がギリギリの野球部を担当してもらえて、試合でも監督としてベンチにいてくれるだけありがたいもの」
確かにそのとおりだった。潰れかけの野球部を担当したところで、余計な労力が増えるだけで定年間近の男性教員には得など何もないのだ。
では選手たちに指示は出てないのだろうか。それについては、土原玲菜の弟でもある捕手の土原玲二が代行してすべてを行ってるみたいだった。
ベンチにいれば監督の代わりに指示を出し、守備位置についてて伝令が必要な時は、決められた合図をベンチに送ったりするらしかった。
捕手という立場上、グラウンドでは内外野の動きも含めて把握しておく必要があるので、監督を代行するには最適な人物でもある。だからこそ、土原玲二に白羽の矢が立ったのだろう。
初心者だらけのチームをまとめ、投手をリードしながら作戦も考える。ひとり何役かわからない有様だ。淳吾なら、ほぼ確実に途中でギブアップする。
マウンド上でこの試合の投手である伊藤和明を励ましたあと、集まっていたチームメイトがまたそれぞれの守備位置へ戻っていく。
土原玲二が伊藤和明を鼓舞するように自身の左手で、右手にはめているキャッチャーミットを強く叩いた。ここに投げ込んでこい。そんなメッセージが構えから読み取れる。
バッテリーを組む捕手の意図を察した伊藤和明も力強く頷き、期待に応えるように全力で腕を振る。
そのかいあって初回はこの3失点だけで終わった。次は1回の裏に突入し、私立群雲学園野球部が攻撃をする番だ。
作戦も何もなく、ただひたすらに打ちまくって勝利する。コールドゲームが設定されていれば、途中で試合終了となるかもしれない。
大半は5回以降の点差によって、事前の取り決めがあれば、途中で球審が試合の打ち切りを宣言する。これをコールドゲームと呼ぶのだ。点差の基準は主催者によってまちまちだが、淳吾が知っている限りでは10点差というのが一般的に思える。
走者がひとりホームベースを踏めば、1点が入る。その積み重ねが得点になる。だからといって、最初からホームベースへ直行していいわけではない。
打者は投手の投げた球をバットで弾き返した直後、まずは一塁を目指す。その後に二塁、三塁と進んで、ようやく本塁に帰ってこられるのだ。
打球によっては一塁を踏んだあとに、二塁まで向かうこともできる。これを二塁打と言う。三塁まで到達できれば三塁打になる。
そして淳吾が体育の授業で経験した本塁打。これは打球が外野にあるフェンスを越えた場合に、一気に本塁まで帰れる一打なのだ。
本塁打を打つのは難しいため、ヒットで一塁に走者が出ると、送りバントなどで二塁へ送ったりして本塁までの距離を縮める。これもスクイズと同じく、野球における作戦のひとつだ。
このようにある程度の知識を所持しているのも、淳吾が男性だからだろう。基本的に男であれば、体育の授業などで一度は野球やサッカーに触れる。
クラスでも野球部に所属している人間はいるし、テレビの地上波なんかでもたまにプロ野球の中継をしたりする。野球を題材にした漫画やアニメも数多く存在するし、現代にはインターネットという便利なものもある。
本気でルールを覚えようと思ったら仮に女性であっても、すぐに淳吾程度の知識は得られる。弟が野球部の土原玲菜も、その点はしっかり把握しているみたいだった。
グラウンドへ視線を戻せば、私立群雲学園野球部は、初回からノーアウト三塁の窮地に陥っている。試合に出ていないとはいえ、中学時代から投手を務めていた相沢武ならともかく、急造にしか思えない伊藤和明では荷が重いようにしか見えない。
それでもゲームが始まったばかりなので投手の交代を選択するわけもなく、伊藤和明がピッチャーのまま練習試合が続行される。
野球を観るのも好きなのか、隣に座っている土原玲菜は、祈るような感じでグラウンド上のバッテリーを見つめる。
マウンドで足を上げ、投球動作に入った伊藤和明が2人目の打者にボールを投げる。インコース気味のストレートだったが、今回もまたあっさりと外野まで飛ばされてしまう。
中翼手が投手に背中を向けて打球を全力で追いかけるも、金属バットに弾き飛ばされた硬式球は無情にも選手の頭上を越えて地面に落下した。
フェンス手前でバウンドしたため本塁打にこそならなかったものの、ライナー性の当たりは簡単に守備陣の隙間を突破していた。
中翼手がフェンスに跳ね返って戻ってきたボールを処理してる間に、三塁ランナーは悠々とホームイン。打ったバッターもスライディングせずに、二塁まで到着する。
こうして伊藤和明は1点を取られてなお、ランナーを二塁に背負うピンチを迎えた。立ち上がりから連打され、早くも顔面が蒼白になる。
かわいそうだと思っても、芝生で見学している淳吾には声をかけることすらできない。よく投手は孤独なんて言われるが、今回の練習試合を観戦していて、改めてそのとおりだなと実感する。
*
続いて伊藤和明が打席に迎えるのは、相手チームの3番バッターだった。アメリカのベースボールでは3番が最強打者とされているが、日本の野球では4番になる。
日本の場合は3番に高確率で安打が狙える好打者タイプが入るケースが多く、現在対戦している高校の野球部の打者も見るからに力にものをいわせて打撃をするタイプではなかった。
淳吾の理想でいえば3番は好打者。4番は本塁打と安打が両方狙える万能型。そして5番には長打率の高いパワーヒッターを置きたい。だが、すべてがすべて狙いどおりにできるなら、何事も苦労はなかった。
とにもかくにも今から伊藤和明が対戦する相手の3番打者は本塁打よりも、外野手の間を抜ける二塁打などの長打を警戒するようなタイプに思えた。もっとも、1番と2番打者にもすでに痛打されて点を失ってるので、今さらな感はある。
それでもまったく知らない人間が投手を務めてるわけではないので、少しでも頑張ってほしい。観戦する淳吾の体にも、勝手に力が入る。過去に野球部へ所属した経験はなくとも、観戦するのは元々好きだった。
3番打者への1球目。これまでストレートを続けて完璧に打たれてるので、捕手の土原玲二はスピードは劣るけれど、大きく斜めに曲がるのが特徴の変化球――カーブを要求したみたいだった。
野球には数多くの変化球があるけれど、過去から現代まで一番有名に思える。小学生でも投げる選手がいるくらいで、チェンジアップと並んで比較的投げやすい球種なのかもしれない。
淳吾に投手経験はないのでそこまで詳しくはわからないが、他にも横に曲がるスライダーや、縦に落ちるフォーク。スライダーと逆方向に曲がるシュートなど思いつく限りでも結構な種類が存在する。
変化球を投げるためにはボールの握りを変える必要があり、同じカーブでも人によっては独特の握り方をしている場合も多い。だが伊藤和明の場合は投手になって日が浅そうなので、誰かに教えられた握りをそのまま使用しているに違いなかった。
伊藤和明の投じたカーブはストライクコースから大きく外れ、捕手の土原玲二が捕るのを苦労するほどの有様だった。明らかに緊張のせいで、力が入りすぎている。
野球だけに限らず、何事も力みすぎると失敗を招く。どんな大舞台であったとしても、いかに平常心を保てるかが勝負の分かれ目になる。
などと考えている淳吾自体が極端なあがり症なので、小学生時代の運動会ですら走る前は心臓が口から飛び出そうなくらい緊張しまくっていた。
そんなことを考えてるうちに、伊藤和明が2球目を投げる。しかし、これもカーブがコントロールしきれずにすっぽ抜けてボールになる。
たった数球投げただけなのに、早くも緊張などからくる疲労で伊藤和明は肩で大きく息をする。
「……どうして、内野手は誰も投手に声をかけにいかないんだ……」
無意識に呟かれた淳吾の言葉に、かすかな驚きとともに土原玲菜が反応する。
隣に座っている美貌の女先輩に顔をまじまじと見られても気にならないくらい、淳吾は集中して試合を観ていた。
その中で投じられた3球目はストレートで、少しコースは外れているけれど、今までよりはまともなところへ向かっていた。
これで少しは安堵できるかと思った直後、相手打者のバットが水平にスイングされ、甲高い金属音がグラウンド中へ響き渡った。
金属バットの真芯で捉えられた硬球はもの凄い勢いで空気を切り裂き、淳吾がバックスクリーン側へ視線を動かした時には、すでにフェンスを越えたあとだった。
好打者タイプと思ってたのを謝罪したいくらいの豪快な本塁打で、これで相手チームには新たに2点が追加された。
*
あっという間の3失点。慌てて土原玲二がマウンドへ向かうも、打たれた伊藤和明はすでに憔悴しきっていた。チームに迷惑をかけた申し訳なさと、自分自身の不甲斐なさゆえか、すぐには顔を上げられない。
足元を凝視したままの伊藤和明に、マウンドに集まった内野手たちが声をかけたり、肩に手を置いたりする。3点は失ったけれど、まだ初回。ここで伊藤和明が立ち直れば、試合の行方はまだまだわからない。
しかし観客はそう思わないのか、新入生だけで結成されてる野球部をひと目見に来た在学生たちが次々と座っていた芝生から立ち上がる。
立ち見していた連中もグラウンドに背を向け、ただでさえあまり多くなかったギャラリーが一気に激減する。さすがに淳吾はまだ帰ろうと思わないが、周囲の反応に少しだけ悲しくなる。
伊藤和明だって、何も点を取られたくて投手を務めてるわけじゃない。恐らくは、相沢武が連投しないで済む対策の一環としてマウンドに登ってるのだ。だからこそ、このような場面でも交代する気配は見られない。
仮に何失点しようとも、この試合は伊藤和明に任せると事前に決めてるのだろう。相沢武以外の投手を育て、守備の精度を高めるには効果的だといえる。
新生したといっても過言ではない野球部だけに、今は練習試合であったとしても、勝ち癖をつけておきたい時期に思える。にもかかわらず、こんなおもいきった判断をするとは、なんとも潔かった。
ひょっとすると部員は初心者ばかりでも、率いている監督は凄い人なのかもしれない。そう考えた淳吾は、その点について隣に座っている土原玲菜に尋ねてみた。
「監督なら、私たちのクラスの担任で、数学を担当している老齢の男性よ。学生の自主性を重んじる良い先生ではあるけれど、野球の実力があるとは思えないわ」
野球部の監督になったいきさつも、たまたま担当している部活がなかったからだけの理由らしかった。しかも、もうすぐ定年なのであまりルールを覚えようともしないと教えてもらう。
「全面的に協力をしてくれてるわけではないけれど、贅沢は言えないわ。部員数がギリギリの野球部を担当してもらえて、試合でも監督としてベンチにいてくれるだけありがたいもの」
確かにそのとおりだった。潰れかけの野球部を担当したところで、余計な労力が増えるだけで定年間近の男性教員には得など何もないのだ。
では選手たちに指示は出てないのだろうか。それについては、土原玲菜の弟でもある捕手の土原玲二が代行してすべてを行ってるみたいだった。
ベンチにいれば監督の代わりに指示を出し、守備位置についてて伝令が必要な時は、決められた合図をベンチに送ったりするらしかった。
捕手という立場上、グラウンドでは内外野の動きも含めて把握しておく必要があるので、監督を代行するには最適な人物でもある。だからこそ、土原玲二に白羽の矢が立ったのだろう。
初心者だらけのチームをまとめ、投手をリードしながら作戦も考える。ひとり何役かわからない有様だ。淳吾なら、ほぼ確実に途中でギブアップする。
マウンド上でこの試合の投手である伊藤和明を励ましたあと、集まっていたチームメイトがまたそれぞれの守備位置へ戻っていく。
土原玲二が伊藤和明を鼓舞するように自身の左手で、右手にはめているキャッチャーミットを強く叩いた。ここに投げ込んでこい。そんなメッセージが構えから読み取れる。
バッテリーを組む捕手の意図を察した伊藤和明も力強く頷き、期待に応えるように全力で腕を振る。
そのかいあって初回はこの3失点だけで終わった。次は1回の裏に突入し、私立群雲学園野球部が攻撃をする番だ。
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