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第95話 スイッチの譲渡
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哲郎の問いかけに対して、中年男性は当たり前のように「やり直すんだよ」と答えた。
「どんな結末が待っていたとしても、絶対に今よりは幸せなはずだ」
そう言った中年男性の顔は真面目そのもので、心から自分の言葉を信じているようだった。
だが実際に幾度も過去をやり直してきた哲郎は知っている。この世に絶対なんてないことを。人生をリセットできても、幸せになれなかった事実を。
「絶対なんて断言はできないでしょう。今が本当に最低なのかどうかなんて、自分自身でわかるはずもありません」
丁寧な口調で諭すように告げたが、絶望のどん底にいると思い込んでいる男が、素直に哲郎の言葉を聞き入れてくれるはずがなかった。
すぐに喧嘩腰になり、哲郎へ「アンタに俺の何がわかる」と掴みかかってくる。
襟首を掴みあげられても、哲郎は一切抵抗しない。仮に殺されたとしても、例のスイッチの効力で過去のどこかへ戻るだけだ。
原因はいまだ不明でも、スイッチの力で過去へ戻らされているのだけは明確だった。そうでなければ、人間が勝手にタイムスリップするなど不可能だった。
常識外の展開を何度も経験しているだけに、生死への関心が鈍っているのかもしれない。ゆえに中年男性が殴りかかろうとしていても、抵抗する素振りを一切見せなかった。
その様子に相手男性の方が驚き、喧嘩する気もなくしたとばかりに、力いっぱい握り締めていた哲郎の襟首を離した。
「アンタ、一体……何なんだ」
「……人間ですよ。ただ少々……いいえ、かなり特殊な体験をしてますけどね」
繰り返してきた人生を思い出しながら笑うと、すぐ側にいる中年男性は余計混乱したとばかりに首を傾げた。
「なんだかよくわからねえが、まあ、いいさ。素直に飯を食わせてもらったことには感謝しておくよ」
お腹が膨れて多少は冷静になれたのか、出会った頃よりかは穏やかな表情で中年男性が哲郎にお礼を言ってきた。
「別に構いませんよ。それより、ひとつだけお聞きしてもいいですか」
「あん? 何だ」
「貴方は、これからどうするつもりなのですか」
相手の行く末に不安を覚えていた哲郎は、思わずそんな質問をした。
すると中年男性は豪快に笑ったあとで、寂しそうな表情を浮かべて「さあな」とだけ告げた。
そのまま去りゆく背中が、本人に代わって、この世には幸せなんてなかったと愚痴ってるような気がした。
黙って相手を見送れば、きっと二度と会えない。中年男性がどこへ行くかわからないからではなく、違う理由でそうなるような気がする。
せっかくの縁というわけでもないが、どうせ捨てようとしてる命ならばと、哲郎はおもいきって中年男性を呼び止めた。
一応は食料を奢ってもらった恩を感じているのか、何度目かの呼びかけで中年男性は哲郎の方を振り向いた。
「まだ何か用があるのか」
律儀に戻ってきた中年男性が、ややうんざりした様子で哲郎に問いかけてくる。
もちろん、悪戯してみかっただけ、などとくだらない冗談を言うつもりはなかった。
「大事な話がある。私を信頼するのであれば、ついてきてくれればいい。そうでなければ、無視をしてほしい」
切実な真剣さを感じ取ったのか、威勢の良かった中年男性が、哲郎に一瞬だけ怯んだ。
しかしすぐに気を取り直し、哲郎にどういう意味だと聞いてきた。
道端で倒れるくらいに追いつめられておきながら、他人の話に簡単に乗ったりしない。もしかしたら、哲郎よりも精神力は上かもしれなかった。
「先ほど、過去へ戻りたいと言っていたでしょう。望むなら、叶えてあげられますよ」
返答はすぐに返ってこない。当たり前である。過去に行けると言われて信じるような人間ばかりだったら、この世界の行く末が心から心配になる。
怪しんだり、不審がるのは当然。それでもなお、中年男性が過去へ戻れるチャンスを欲するかどうか。哲郎が興味があるのは、その一点だけだった。
*
ずいぶんと悩んだみたいだったが、結局、中年男性は哲郎についてきた。
もはや己の人生は終わったものと考え、今さらどうなっても構わないと考えたのだろう。相手男性の瞳には、悲壮感にも似た決意が見えている。
哲郎が案内したのは、自分の住んでいるアパートの部屋だった。相手方からすれば、どうして家に招待されるのか不思議で仕方ないはずだ。
部屋に上がってもらい、適当なところに座って待つように告げる。客となった中年男性をひとり残し、哲郎が向かったのは小さなタンスがある場所だった。
幼い頃は勉強机の引き出しに隠していたが、大きくなってくるとそうもいかなくなる。古くなった実家を処分した際に、保管する場所も変更を余儀なくされた。
タンスの引き出しの中、白い綺麗な布に包まれて、例のスイッチは何十年も眠っていた。哲郎が自らの意思で作動させ、過去へ戻ることはなくなっている。
どのような選択をしたとしても、上手くいってると実感した矢先に再び過去へ戻されるのだ。最初は負けるものかと歯を食いしばって人生をやり直していたが、いつしか絶望とともに諦めるようになった。
理由はわからないが、哲郎に幸せになってくほしくないみたいで、誰とも触れ合わない孤独な人生を送っていれば、辿ってきた道筋がリセットされたりしなかった。
スイッチを手放したくても、手放せない。そんな哲郎の前に現れたのが、部屋に上げたばかりの中年男性だった。
警戒感を露にしながら胡坐をかいている男のところに、哲郎はタンスの引き出しから取り出したスイッチを持って戻る。
男の正面側に座り、白い布ごと持ってきたスイッチをテーブルの上に置く。何事かと覗き込んだ中年男性は、余計に哲郎の意図がわからなくなったみたいだった。
「これは一体、何なんだ」
相手が疑問に思うのも当然だった。いきなり変なスイッチを差し出されて、事情をすべて理解できる人間などいるはずがない。
「これは……貴方が心の底から求めていたものだ」
「俺が? 何のことかわからねえな……」
「貴方は、過去に戻りたいと言っていたと記憶しているが……」
「あ? 確かに言ったが……だから、どうだって言うんだ」
延々と続きそうな訳のわからない展開に業を煮やし、少し苛々した様子で男が聞いてきた。
なにも哲郎とて、好んで遠まわしな言い方をしているのではない。ストレートに告げたとしても、呆れられるのが目に見ているので、どうしても先ほどみたいな話し方になってしまうだけだ。
「信じられないでしょうが……これは、過去へ戻れるスイッチです」
「……はあ?」
案の定、哲郎の正面に座っている中年男性は目を丸くした。この男は何を言っているんだ。口を開かなくとも、相手が何を言いたいのかは態度ですぐにわかった。
「だから最初に、信じられないでしょうがと加えました。ただ、私の言うことはすべて事実なのです。これから詳しく説明しますが、途中で興味を失ったのであれば、帰ってもらって結構です」
そう前置きをしてから、哲郎は自身が歩んできた信じられない人生を中年男性に教える。
豪快に爆笑されるか、頭が狂ってると思われるか。そのどちらかしかないと思っていたが、意外なほど男は真剣に哲郎の話を聞いてくれた。
途中で席を立ったりせずに最後まで聞き終え、腕組みをしながらテーブルの上に置かれている例のスイッチと睨めっこをする。
「危険は説明したとおりです。所有者となれば、自らの意思で人生を終えるのは不可能になる。今となっては、寿命を迎えれば素直に人生終了となるのかも怪しいくらいですからね」
*
これだけ理不尽な出来事が身に降りかかっているのだ。順風満帆な人生の果てに迎えるエンディングなど、とても信じられなくなっていた。
しかし考えてみれば、そもそもスイッチの存在自体がイレギュラーなのだ。こんなものがこの世に存在していたは、規則も何もあったものじゃない。
ゆえに哲郎は恨み言をあまり口にせず、己の身に起きた出来事を粛々と受け止めるようになった。楽な儲け話には裏があるのと同様に、このスイッチにもデメリットがあっただけにすぎないのだ。
この点を隠して譲渡するのは不義理だと思っていたので、そうした面も哲郎は包み隠さず中年男性に教えた。それでも譲渡されるのを選択するのであれば、あとは相手方の責任となる。
回答を待つ間、重苦しい時間が流れる。そう予想していたが、中年男性はあっさりと首を縦に振った。
「くれるのであれば、貰っていくぞ」
何も考えずに発言したと思い、哲郎は親切心からきちんと悩んだ上の結果かと尋ねてみる。
「正直、アンタの説明を全部信じてはいねえよ。けど嘘をつくなら、もっとましな説明を考えるだろ」
心から信じてはいないが、もしかしたらと思っている。相手の口ぶりから、そのような精神状況なのだとわかった。
哲郎とて、最初からすべてを理解してもらえるとは考えていなかった。半信半疑であっても、相手に感謝したいくらいだ。
「永遠に人生を終えられずに、グルグルやり直す結果になったとしても、やっぱり俺はもう一回チャンスがもらえるなら、それにすがりてえんだ」
出会った当初の喧嘩腰な態度からは信じられないほど、中年男性は弱々しく呟いた。
「このまま終わるなんて、悔しすぎるんだよ。本当に過去へ戻れるのなら、後はどうなってもいい……!」
心を引き裂かれるような出来事でも経験してきたのか、まるで親の仇でもとりにいかんばかりに中年男性は熱くなっている。
そこまで決意しているのであれば、哲郎にはもう何も言う資格はなかった。無言で頷いたあと、ゆっくりとテーブルの上にあるスイッチを中年男性へ差し出す。
出会ったばかりの男性の喉が上下に動く。生唾を飲み込みながら、おずおずとスイッチに手を伸ばす。指先で軽く触れ、危険がないかどうかを判断したあとで、しっかりと握り締める。
「あとはそのスイッチを実際に貴方が使用すれば、所有権も移る。考え直すのなら、今が最後の機会に――」
途中で哲郎は口の動きを止めた。言葉を投げかける予定だった相手が、すでに目の前から消失していたからだ。
中年男性と一緒に、例のスイッチも存在を消していた。これで所有権は先ほどの中年男性に移った。
哲郎はスイッチの呪縛から解放され、二度と過去へ戻れなくなった代わりに、平々凡々な人生を終わらせる権利を再び手にできた。
人生をやり直せなくなったのを、今さら勿体ないとは思わなかった。何度もリセットしてるうちに、やはり人生は一度きりであるからこそ大切なのだと思うようになっていた。
「これで、あとは終わりを待つだけか」
ひとりきりになった部屋で、天井を見上げて呟く。例のスイッチを手に入れてから色々あったが、これで全部終わりだ。そう思うと、安堵の息が漏れた。
望んだとおりの人生を送れなかったのは残念だが、これも運命だったのだと素直に受け入れる。
そうしてひと段落したあと、哲郎は重大な問題を思い出す。出会った中年男性に買ったばかりの食糧をすべてプレゼントしてしまったので、明日から食べるものがないのだ。
「仕方ない。もう一度、買物へ行くとするか」
そう言って苦笑しながら、哲郎はゆっくりと立ち上がるのだった。
「どんな結末が待っていたとしても、絶対に今よりは幸せなはずだ」
そう言った中年男性の顔は真面目そのもので、心から自分の言葉を信じているようだった。
だが実際に幾度も過去をやり直してきた哲郎は知っている。この世に絶対なんてないことを。人生をリセットできても、幸せになれなかった事実を。
「絶対なんて断言はできないでしょう。今が本当に最低なのかどうかなんて、自分自身でわかるはずもありません」
丁寧な口調で諭すように告げたが、絶望のどん底にいると思い込んでいる男が、素直に哲郎の言葉を聞き入れてくれるはずがなかった。
すぐに喧嘩腰になり、哲郎へ「アンタに俺の何がわかる」と掴みかかってくる。
襟首を掴みあげられても、哲郎は一切抵抗しない。仮に殺されたとしても、例のスイッチの効力で過去のどこかへ戻るだけだ。
原因はいまだ不明でも、スイッチの力で過去へ戻らされているのだけは明確だった。そうでなければ、人間が勝手にタイムスリップするなど不可能だった。
常識外の展開を何度も経験しているだけに、生死への関心が鈍っているのかもしれない。ゆえに中年男性が殴りかかろうとしていても、抵抗する素振りを一切見せなかった。
その様子に相手男性の方が驚き、喧嘩する気もなくしたとばかりに、力いっぱい握り締めていた哲郎の襟首を離した。
「アンタ、一体……何なんだ」
「……人間ですよ。ただ少々……いいえ、かなり特殊な体験をしてますけどね」
繰り返してきた人生を思い出しながら笑うと、すぐ側にいる中年男性は余計混乱したとばかりに首を傾げた。
「なんだかよくわからねえが、まあ、いいさ。素直に飯を食わせてもらったことには感謝しておくよ」
お腹が膨れて多少は冷静になれたのか、出会った頃よりかは穏やかな表情で中年男性が哲郎にお礼を言ってきた。
「別に構いませんよ。それより、ひとつだけお聞きしてもいいですか」
「あん? 何だ」
「貴方は、これからどうするつもりなのですか」
相手の行く末に不安を覚えていた哲郎は、思わずそんな質問をした。
すると中年男性は豪快に笑ったあとで、寂しそうな表情を浮かべて「さあな」とだけ告げた。
そのまま去りゆく背中が、本人に代わって、この世には幸せなんてなかったと愚痴ってるような気がした。
黙って相手を見送れば、きっと二度と会えない。中年男性がどこへ行くかわからないからではなく、違う理由でそうなるような気がする。
せっかくの縁というわけでもないが、どうせ捨てようとしてる命ならばと、哲郎はおもいきって中年男性を呼び止めた。
一応は食料を奢ってもらった恩を感じているのか、何度目かの呼びかけで中年男性は哲郎の方を振り向いた。
「まだ何か用があるのか」
律儀に戻ってきた中年男性が、ややうんざりした様子で哲郎に問いかけてくる。
もちろん、悪戯してみかっただけ、などとくだらない冗談を言うつもりはなかった。
「大事な話がある。私を信頼するのであれば、ついてきてくれればいい。そうでなければ、無視をしてほしい」
切実な真剣さを感じ取ったのか、威勢の良かった中年男性が、哲郎に一瞬だけ怯んだ。
しかしすぐに気を取り直し、哲郎にどういう意味だと聞いてきた。
道端で倒れるくらいに追いつめられておきながら、他人の話に簡単に乗ったりしない。もしかしたら、哲郎よりも精神力は上かもしれなかった。
「先ほど、過去へ戻りたいと言っていたでしょう。望むなら、叶えてあげられますよ」
返答はすぐに返ってこない。当たり前である。過去に行けると言われて信じるような人間ばかりだったら、この世界の行く末が心から心配になる。
怪しんだり、不審がるのは当然。それでもなお、中年男性が過去へ戻れるチャンスを欲するかどうか。哲郎が興味があるのは、その一点だけだった。
*
ずいぶんと悩んだみたいだったが、結局、中年男性は哲郎についてきた。
もはや己の人生は終わったものと考え、今さらどうなっても構わないと考えたのだろう。相手男性の瞳には、悲壮感にも似た決意が見えている。
哲郎が案内したのは、自分の住んでいるアパートの部屋だった。相手方からすれば、どうして家に招待されるのか不思議で仕方ないはずだ。
部屋に上がってもらい、適当なところに座って待つように告げる。客となった中年男性をひとり残し、哲郎が向かったのは小さなタンスがある場所だった。
幼い頃は勉強机の引き出しに隠していたが、大きくなってくるとそうもいかなくなる。古くなった実家を処分した際に、保管する場所も変更を余儀なくされた。
タンスの引き出しの中、白い綺麗な布に包まれて、例のスイッチは何十年も眠っていた。哲郎が自らの意思で作動させ、過去へ戻ることはなくなっている。
どのような選択をしたとしても、上手くいってると実感した矢先に再び過去へ戻されるのだ。最初は負けるものかと歯を食いしばって人生をやり直していたが、いつしか絶望とともに諦めるようになった。
理由はわからないが、哲郎に幸せになってくほしくないみたいで、誰とも触れ合わない孤独な人生を送っていれば、辿ってきた道筋がリセットされたりしなかった。
スイッチを手放したくても、手放せない。そんな哲郎の前に現れたのが、部屋に上げたばかりの中年男性だった。
警戒感を露にしながら胡坐をかいている男のところに、哲郎はタンスの引き出しから取り出したスイッチを持って戻る。
男の正面側に座り、白い布ごと持ってきたスイッチをテーブルの上に置く。何事かと覗き込んだ中年男性は、余計に哲郎の意図がわからなくなったみたいだった。
「これは一体、何なんだ」
相手が疑問に思うのも当然だった。いきなり変なスイッチを差し出されて、事情をすべて理解できる人間などいるはずがない。
「これは……貴方が心の底から求めていたものだ」
「俺が? 何のことかわからねえな……」
「貴方は、過去に戻りたいと言っていたと記憶しているが……」
「あ? 確かに言ったが……だから、どうだって言うんだ」
延々と続きそうな訳のわからない展開に業を煮やし、少し苛々した様子で男が聞いてきた。
なにも哲郎とて、好んで遠まわしな言い方をしているのではない。ストレートに告げたとしても、呆れられるのが目に見ているので、どうしても先ほどみたいな話し方になってしまうだけだ。
「信じられないでしょうが……これは、過去へ戻れるスイッチです」
「……はあ?」
案の定、哲郎の正面に座っている中年男性は目を丸くした。この男は何を言っているんだ。口を開かなくとも、相手が何を言いたいのかは態度ですぐにわかった。
「だから最初に、信じられないでしょうがと加えました。ただ、私の言うことはすべて事実なのです。これから詳しく説明しますが、途中で興味を失ったのであれば、帰ってもらって結構です」
そう前置きをしてから、哲郎は自身が歩んできた信じられない人生を中年男性に教える。
豪快に爆笑されるか、頭が狂ってると思われるか。そのどちらかしかないと思っていたが、意外なほど男は真剣に哲郎の話を聞いてくれた。
途中で席を立ったりせずに最後まで聞き終え、腕組みをしながらテーブルの上に置かれている例のスイッチと睨めっこをする。
「危険は説明したとおりです。所有者となれば、自らの意思で人生を終えるのは不可能になる。今となっては、寿命を迎えれば素直に人生終了となるのかも怪しいくらいですからね」
*
これだけ理不尽な出来事が身に降りかかっているのだ。順風満帆な人生の果てに迎えるエンディングなど、とても信じられなくなっていた。
しかし考えてみれば、そもそもスイッチの存在自体がイレギュラーなのだ。こんなものがこの世に存在していたは、規則も何もあったものじゃない。
ゆえに哲郎は恨み言をあまり口にせず、己の身に起きた出来事を粛々と受け止めるようになった。楽な儲け話には裏があるのと同様に、このスイッチにもデメリットがあっただけにすぎないのだ。
この点を隠して譲渡するのは不義理だと思っていたので、そうした面も哲郎は包み隠さず中年男性に教えた。それでも譲渡されるのを選択するのであれば、あとは相手方の責任となる。
回答を待つ間、重苦しい時間が流れる。そう予想していたが、中年男性はあっさりと首を縦に振った。
「くれるのであれば、貰っていくぞ」
何も考えずに発言したと思い、哲郎は親切心からきちんと悩んだ上の結果かと尋ねてみる。
「正直、アンタの説明を全部信じてはいねえよ。けど嘘をつくなら、もっとましな説明を考えるだろ」
心から信じてはいないが、もしかしたらと思っている。相手の口ぶりから、そのような精神状況なのだとわかった。
哲郎とて、最初からすべてを理解してもらえるとは考えていなかった。半信半疑であっても、相手に感謝したいくらいだ。
「永遠に人生を終えられずに、グルグルやり直す結果になったとしても、やっぱり俺はもう一回チャンスがもらえるなら、それにすがりてえんだ」
出会った当初の喧嘩腰な態度からは信じられないほど、中年男性は弱々しく呟いた。
「このまま終わるなんて、悔しすぎるんだよ。本当に過去へ戻れるのなら、後はどうなってもいい……!」
心を引き裂かれるような出来事でも経験してきたのか、まるで親の仇でもとりにいかんばかりに中年男性は熱くなっている。
そこまで決意しているのであれば、哲郎にはもう何も言う資格はなかった。無言で頷いたあと、ゆっくりとテーブルの上にあるスイッチを中年男性へ差し出す。
出会ったばかりの男性の喉が上下に動く。生唾を飲み込みながら、おずおずとスイッチに手を伸ばす。指先で軽く触れ、危険がないかどうかを判断したあとで、しっかりと握り締める。
「あとはそのスイッチを実際に貴方が使用すれば、所有権も移る。考え直すのなら、今が最後の機会に――」
途中で哲郎は口の動きを止めた。言葉を投げかける予定だった相手が、すでに目の前から消失していたからだ。
中年男性と一緒に、例のスイッチも存在を消していた。これで所有権は先ほどの中年男性に移った。
哲郎はスイッチの呪縛から解放され、二度と過去へ戻れなくなった代わりに、平々凡々な人生を終わらせる権利を再び手にできた。
人生をやり直せなくなったのを、今さら勿体ないとは思わなかった。何度もリセットしてるうちに、やはり人生は一度きりであるからこそ大切なのだと思うようになっていた。
「これで、あとは終わりを待つだけか」
ひとりきりになった部屋で、天井を見上げて呟く。例のスイッチを手に入れてから色々あったが、これで全部終わりだ。そう思うと、安堵の息が漏れた。
望んだとおりの人生を送れなかったのは残念だが、これも運命だったのだと素直に受け入れる。
そうしてひと段落したあと、哲郎は重大な問題を思い出す。出会った中年男性に買ったばかりの食糧をすべてプレゼントしてしまったので、明日から食べるものがないのだ。
「仕方ない。もう一度、買物へ行くとするか」
そう言って苦笑しながら、哲郎はゆっくりと立ち上がるのだった。
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