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第90話 哲郎の決断
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「二人で、家を出ないか」
哲郎の提案に、寝巻きへ着替えて床に座っている妻がきょとんとする。
梶谷小百合との嫁姑問題に悩んではいるが、哲郎のためにもなんとか解決する必要があると頑張っていたからだ。
実家との関係を壊さないためにも、本来なら円満な雰囲気の中で独立するのが一番良かった。
しかし妻の玲子はすでに一度、梶谷小百合のプレッシャーに耐え切れなくなって家を飛び出している。
それが負い目になって、当初よりもずっと多くの我慢を重ねている可能性が高い。このままでも事態が好転しそうにないだけに、哲郎は決断を下した。
「で、でも……」
哲郎の家族に気を遣っているのか、即決すると思っていた妻の歯切れは悪い。気持ち的には賛成でも、素直に応じられないのは世間体を考慮しているからだろうか。
「俺もそうだけど、玲子だって今日まで色々と頑張ってきただろ。でも正直、うまくいってるとは言えない」
哲郎の指摘に妻が押し黙る。彼女もまた、重苦しい現実の中でもがき疲れていた。
常に笑顔で梶谷小百合へ接し、最近では仕事量もかなりセーブしている。梶谷家へいる時間を増やし、家事などを率先して行おうと努力を続けた。
けれど当の梶谷小百合に協力を拒否される。頑なな母親の態度に哲郎も頭を抱え、なす術を失うのに多くの時間を必要としなかった。
何度も話し合いの機会をもとうと声をかけ続けたけれど、肝心の梶谷小百合の回答はいつも決まって一緒だった。
嫁姑問題など存在しない――。関係の悪化を認めようとしないのだから、改善のための努力さえ行えない。これではいつまで経っても、平和な同居生活を構築できるはずがなかった。
玲子も辛さを決して顔に出さず頑張ってくれているが、毎日接している哲郎には妻が限界なのもわかっていた。
このままでは家族が空中分解する可能性もある。それを防ぐためにも、なんらかの対応策は必要だった。
本来なら穏便な手段を用いたかったが、話し合いにすら応じてくれない梶谷小百合が相手ではそれも難しい。
ならばと父親に頭を下げて頼んでみても、やはり梶谷小百合の態度は変わらなかった。
嫁姑の関係は良好と説明したのを証明するために、哲郎や梶谷哲也の前ではにこやな態度で玲子との会話も積極的に行う。
しかし梶谷小百合と玲子が二人きりになれば状況は一変する。積極的に話しかけても無視をされ、冷たい目で睨みつけられる。
夫の母親だけに、過剰なほどの気を遣っては最終的に自分自身をも苦しめる。足掻いても足掻いても逃れられない現状は、玲子にとって地獄みたいなものだった。
夜に哲郎の部屋で、会話をしても笑顔で「大丈夫」と言ってくれるが、心の中では泣いているに違いなかった。
哲郎も大恩ある親を傷つけたくはないので、ぎりぎりまで仲介をしようと頑張ってきた。
それでもうまくいかず、母親の心情さえもわからないままに時間だけが過ぎていた。
「このまま家に残っていても、状況が好転するとは考えられない。それなら、家を出るべきじゃないかと思ったんだ」
「だ、だけど、あなた。それによってお義父様やお義母様との関係が悪くなるかもしれないわ」
妻が気遣ってくれてるのは、哲郎と両親の関係だった。今回の一件が発端となり、勘当されるという事態も考えられるからだ。
哲郎が決心した以上は、両親に説得されても退かない。妻である玲子には、それがよくわかっていた。ゆえに心配をしているのである。
「わかってるよ。それでも俺は、玲子を選ぶ。愛する女性を守るのは、男として当然の役目だからね」
哲郎の言葉で嬉しそうにする妻を見ながら、両親がどのような反応を示すのか考えてみる。
きっと父親の梶谷哲也は「好きにしろ」と言ってくれる。問題は母親の方だった。哲郎でさえも、梶谷小百合のリアクションを想定しきれない。
だが決めたからには、実行するしかない。哲郎は翌日にも、両親へ独立の報告をすると妻へ告げた。
*
「母さん。俺たち、家を出ようと思うんだ」
翌朝、哲郎は先に妻を会社へ向かわせたあと、父親が同席していない状況で母親へ宣言した。
素っ気なく「そう……」と応じるかに思われたが、かなり動揺した様子を見せている。
だが理由を尋ねてきたりはしない。これまでのやりとりから、想像がついているはずだった。
沈黙が息苦しさを呼び、形容し難い雰囲気を作る。すぐに逃げ出したい衝動に駆られるが、お腹に力を入れて踏み止まる。
「……もう、決めたのかしら」
多少の落ち着きを取り戻した梶谷小百合が、今にも泣きそうな声で尋ねてくる。
何度となくひとりで考えた末に、今回の結論へ至っている。今さら思い直すつもりはなかった。
その旨を告げると、酷く悲しそうに梶谷小百合は顔を伏せた。
本来なら相手を慰めるべきなのかもしれないが、哲郎は腹立たしさを覚えていた。
そのような表情をするのであれば、もっと哲郎の言葉を聞き入れて、妻の玲子との関係改善に力を入れてくれてもよかった。
にもかかわらず、当の梶谷小百合は最後まで嫁姑問題と向き合おうとはしなかった。それが今回の事態を招いている。
子供でないのだから、説明されるまでもなく理解しているはずだ。ここまでややこしくなったのは、母親の梶谷小百合にも原因がある。
「母さんは嫁姑問題がないと言ったけれど、俺にはそう思えないんだ。関係改善の兆しを見出せないのなら、離れて暮らすしかないと思う」
「哲郎は気にしすぎなのよ。それとも、玲子さんが何か言っているのかしら」
「いや、玲子はあまり言わないよ。母さんに気を遣ってるんだろう。だから、俺も状況を把握するのに時間がかかった」
もっと早く気づいてあげていれば、何らかの手を打てたかもしれない。しかし過ぎ去った時間を悪戯に戻したりはしたくない。過去へ移動できる能力を持っていたとしてもだ。
人によっては便利な能力を最小限にしか活用しない哲郎を、アホな人間だと笑うだろう。けれどそこは変なプライドみたいなものがあった。
いかに人生をやり直せるとはいえ、努力を怠るべきではない。辛さや苦しみがあるからこそ、人生において喜びや幸せが輝くのだ。
だが今は哲郎の信念を語るより、目の前にある問題をなんとかするのが先決だった。
「前にも言ったとおり、他ならぬ俺自身が現場を目撃してるんだ。問題はないと言われても、はいそうですかと納得できないよ」
本来の人生では学生時代に亡くしているだけに、母親へのイメージは思い出に基づいた綺麗なものだった。
あるべき運命を変えられたまではよかったが、まさかこのような問題を生じることになるとは予想もしていなかった。
だからといって、母親のいなかった人生に戻りたいとは思わない。梶谷小百合も、玲子も側にいてくれるのを誰より哲郎が望んでいた。
そのための努力をしてきたつもりではいたが、今回はうまくいかなかった。とはいえ、簡単に諦めるつもりはない。
別々に暮らしているうちに、梶谷小百合も冷静さを取り戻してくれるはずだ。折を見て再度、話し合いを提案し、妻との関係を良好なものへ改善させるつもりだった。
現状の生活を継続していても、劇的に好転するとは考えにくい。ゆえに哲郎は家を出る決断をした。
「でも、哲郎。一緒に生活をしていれば、意図してなくとも、気まずい空気になる場合もあるでしょう。それにただ注意をしただけで、険悪な仲と捉えるのは早計ではないかしら」
確かに梶谷小百合の言い分にも一理あった。だからこそ、哲郎は何度となく話し合いの場をもとうとしたのだ。
拒絶したのは梶谷小百合自身であり、今回の一件に関しては母親にも責任がある。
「とにかく、もう決めたんだ。近いうちに出て行くよ。父さんには、今夜にでも話をするから」
それだけ言い残すと、哲郎も水町家の工場へ出勤するために自宅をあとにするのだった。
*
出勤すると、妻の玲子は事務所で書類整理をしていた。会計なんかも担当しており、かなりの戦力になっている。
嫁に出したとはいえ、水町家の両親も娘の姿をほぼ毎日見られるので、どことなく嬉しそうだった。
梶谷家で家事を手伝わなくてもいいのかなどと、心配もしてくれる。そんな両親に玲子は、義母との不仲をあえて伝えてないみたいだった。
自分が愚痴ることによって、夫である哲郎が不快な思いをしたら大変と考えているのだ。ゆえに我慢を重ねる結果になる。
友人と大騒ぎでもしてストレスを発散できればよいのだが、この時代ではまだ妻が頻繁に家を空けるのは難しかった。
そこで哲郎の助力が必要になる。これまでは梶谷小百合の目もあって、なかなか勧めてあげられなかったが、独立をすれば状況も変わる。
金銭的にキツいわけでもないので、やはり実家を出るべきなのだと強く意識する。実際に決めたのもあり、多少は心が軽くなるのを感じていた。
「きちんと話をしてきたから」
他に誰も事務所にいないのを確認した上で、哲郎は事務作業を続ける妻の玲子に声をかけた。
すると玲子は笑顔で「ありがとう」と言いながらも、義母である梶谷小百合の心配をした。
「いきなり私たちが家を出ることになって、お義母さんは大丈夫かしら……」
家を出るのは自分のせいだと認識している玲子は、事の他責任を背負い込んでいる。
軽減するために何度も哲郎は「俺が決めたんだから」と言っているが、やはり簡単には納得できないらしい。
「大丈夫だよ。家事だってきちんとできているし、俺たちが家を出れば、逆に負担が減るかもしれないよ」
あれほど好きだった母親なのに、最愛の嫁とのいざこざが原因で少なからず苛々した気持ちを覚えるようになっていた。
だからといって助けなければよかったとは思わないが、もやもやとした気持ちがあるのは確かだ。
「そうだといいんだけど……少し心配だわ」
「問題ないよ」
まだ不安そうな顔をする妻の肩に軽く手を置いてから、哲郎は自分の職場へ向かう。この時までは、楽観的な気持ちが強かった。
しかし仕事が終わって帰宅すると、状況は一転する。
愛妻と一緒に梶谷家へ入った哲郎を待っていたのは、普段とは様子が違う梶谷哲也だった。
てっきり梶谷小百合が独立のことを報告したかと思いきや、父親は哲郎の顔を見るなり、想定外の質問をしてきた。
「母さんを……小百合を見なかったか?」
いきなりの問いかけに哲郎は意味がわからず、間の抜けた声で「え?」と父親に真意を尋ねた。
質問に質問を重ねる無礼な形になってしまったが、そのことを申し訳ないと思う余裕すらなかった。
哲郎の仕事が長引き、一緒に帰ろうと決めていた玲子は社内で待っていてくれた。帰宅できたのは夜遅くなってからで、もう少しで日付も変わろうとしている。
携帯電話なんて便利なアイテムもないため、現在まで母親の動向がわからずにいた。父親の梶谷哲也もつい先ほど帰宅したみたいで、詳しい状況を把握できていなかった。
この間、妻が家出をしたと思ったら、今度は母親が消息不明。何がどうなってるのかわからず、さすがの哲郎も戸惑うばかりだった。
「哲郎君。台所に書置きがあったわ」
梶谷哲也とともに家の中を捜索していた玲子が、1枚の紙切れを持って哲郎のもとへ駆け寄ってくる。
母親の書置きに間違いがなければ、玲子の発見した紙によって少しは事態が進展するはずだ。
哲郎の提案に、寝巻きへ着替えて床に座っている妻がきょとんとする。
梶谷小百合との嫁姑問題に悩んではいるが、哲郎のためにもなんとか解決する必要があると頑張っていたからだ。
実家との関係を壊さないためにも、本来なら円満な雰囲気の中で独立するのが一番良かった。
しかし妻の玲子はすでに一度、梶谷小百合のプレッシャーに耐え切れなくなって家を飛び出している。
それが負い目になって、当初よりもずっと多くの我慢を重ねている可能性が高い。このままでも事態が好転しそうにないだけに、哲郎は決断を下した。
「で、でも……」
哲郎の家族に気を遣っているのか、即決すると思っていた妻の歯切れは悪い。気持ち的には賛成でも、素直に応じられないのは世間体を考慮しているからだろうか。
「俺もそうだけど、玲子だって今日まで色々と頑張ってきただろ。でも正直、うまくいってるとは言えない」
哲郎の指摘に妻が押し黙る。彼女もまた、重苦しい現実の中でもがき疲れていた。
常に笑顔で梶谷小百合へ接し、最近では仕事量もかなりセーブしている。梶谷家へいる時間を増やし、家事などを率先して行おうと努力を続けた。
けれど当の梶谷小百合に協力を拒否される。頑なな母親の態度に哲郎も頭を抱え、なす術を失うのに多くの時間を必要としなかった。
何度も話し合いの機会をもとうと声をかけ続けたけれど、肝心の梶谷小百合の回答はいつも決まって一緒だった。
嫁姑問題など存在しない――。関係の悪化を認めようとしないのだから、改善のための努力さえ行えない。これではいつまで経っても、平和な同居生活を構築できるはずがなかった。
玲子も辛さを決して顔に出さず頑張ってくれているが、毎日接している哲郎には妻が限界なのもわかっていた。
このままでは家族が空中分解する可能性もある。それを防ぐためにも、なんらかの対応策は必要だった。
本来なら穏便な手段を用いたかったが、話し合いにすら応じてくれない梶谷小百合が相手ではそれも難しい。
ならばと父親に頭を下げて頼んでみても、やはり梶谷小百合の態度は変わらなかった。
嫁姑の関係は良好と説明したのを証明するために、哲郎や梶谷哲也の前ではにこやな態度で玲子との会話も積極的に行う。
しかし梶谷小百合と玲子が二人きりになれば状況は一変する。積極的に話しかけても無視をされ、冷たい目で睨みつけられる。
夫の母親だけに、過剰なほどの気を遣っては最終的に自分自身をも苦しめる。足掻いても足掻いても逃れられない現状は、玲子にとって地獄みたいなものだった。
夜に哲郎の部屋で、会話をしても笑顔で「大丈夫」と言ってくれるが、心の中では泣いているに違いなかった。
哲郎も大恩ある親を傷つけたくはないので、ぎりぎりまで仲介をしようと頑張ってきた。
それでもうまくいかず、母親の心情さえもわからないままに時間だけが過ぎていた。
「このまま家に残っていても、状況が好転するとは考えられない。それなら、家を出るべきじゃないかと思ったんだ」
「だ、だけど、あなた。それによってお義父様やお義母様との関係が悪くなるかもしれないわ」
妻が気遣ってくれてるのは、哲郎と両親の関係だった。今回の一件が発端となり、勘当されるという事態も考えられるからだ。
哲郎が決心した以上は、両親に説得されても退かない。妻である玲子には、それがよくわかっていた。ゆえに心配をしているのである。
「わかってるよ。それでも俺は、玲子を選ぶ。愛する女性を守るのは、男として当然の役目だからね」
哲郎の言葉で嬉しそうにする妻を見ながら、両親がどのような反応を示すのか考えてみる。
きっと父親の梶谷哲也は「好きにしろ」と言ってくれる。問題は母親の方だった。哲郎でさえも、梶谷小百合のリアクションを想定しきれない。
だが決めたからには、実行するしかない。哲郎は翌日にも、両親へ独立の報告をすると妻へ告げた。
*
「母さん。俺たち、家を出ようと思うんだ」
翌朝、哲郎は先に妻を会社へ向かわせたあと、父親が同席していない状況で母親へ宣言した。
素っ気なく「そう……」と応じるかに思われたが、かなり動揺した様子を見せている。
だが理由を尋ねてきたりはしない。これまでのやりとりから、想像がついているはずだった。
沈黙が息苦しさを呼び、形容し難い雰囲気を作る。すぐに逃げ出したい衝動に駆られるが、お腹に力を入れて踏み止まる。
「……もう、決めたのかしら」
多少の落ち着きを取り戻した梶谷小百合が、今にも泣きそうな声で尋ねてくる。
何度となくひとりで考えた末に、今回の結論へ至っている。今さら思い直すつもりはなかった。
その旨を告げると、酷く悲しそうに梶谷小百合は顔を伏せた。
本来なら相手を慰めるべきなのかもしれないが、哲郎は腹立たしさを覚えていた。
そのような表情をするのであれば、もっと哲郎の言葉を聞き入れて、妻の玲子との関係改善に力を入れてくれてもよかった。
にもかかわらず、当の梶谷小百合は最後まで嫁姑問題と向き合おうとはしなかった。それが今回の事態を招いている。
子供でないのだから、説明されるまでもなく理解しているはずだ。ここまでややこしくなったのは、母親の梶谷小百合にも原因がある。
「母さんは嫁姑問題がないと言ったけれど、俺にはそう思えないんだ。関係改善の兆しを見出せないのなら、離れて暮らすしかないと思う」
「哲郎は気にしすぎなのよ。それとも、玲子さんが何か言っているのかしら」
「いや、玲子はあまり言わないよ。母さんに気を遣ってるんだろう。だから、俺も状況を把握するのに時間がかかった」
もっと早く気づいてあげていれば、何らかの手を打てたかもしれない。しかし過ぎ去った時間を悪戯に戻したりはしたくない。過去へ移動できる能力を持っていたとしてもだ。
人によっては便利な能力を最小限にしか活用しない哲郎を、アホな人間だと笑うだろう。けれどそこは変なプライドみたいなものがあった。
いかに人生をやり直せるとはいえ、努力を怠るべきではない。辛さや苦しみがあるからこそ、人生において喜びや幸せが輝くのだ。
だが今は哲郎の信念を語るより、目の前にある問題をなんとかするのが先決だった。
「前にも言ったとおり、他ならぬ俺自身が現場を目撃してるんだ。問題はないと言われても、はいそうですかと納得できないよ」
本来の人生では学生時代に亡くしているだけに、母親へのイメージは思い出に基づいた綺麗なものだった。
あるべき運命を変えられたまではよかったが、まさかこのような問題を生じることになるとは予想もしていなかった。
だからといって、母親のいなかった人生に戻りたいとは思わない。梶谷小百合も、玲子も側にいてくれるのを誰より哲郎が望んでいた。
そのための努力をしてきたつもりではいたが、今回はうまくいかなかった。とはいえ、簡単に諦めるつもりはない。
別々に暮らしているうちに、梶谷小百合も冷静さを取り戻してくれるはずだ。折を見て再度、話し合いを提案し、妻との関係を良好なものへ改善させるつもりだった。
現状の生活を継続していても、劇的に好転するとは考えにくい。ゆえに哲郎は家を出る決断をした。
「でも、哲郎。一緒に生活をしていれば、意図してなくとも、気まずい空気になる場合もあるでしょう。それにただ注意をしただけで、険悪な仲と捉えるのは早計ではないかしら」
確かに梶谷小百合の言い分にも一理あった。だからこそ、哲郎は何度となく話し合いの場をもとうとしたのだ。
拒絶したのは梶谷小百合自身であり、今回の一件に関しては母親にも責任がある。
「とにかく、もう決めたんだ。近いうちに出て行くよ。父さんには、今夜にでも話をするから」
それだけ言い残すと、哲郎も水町家の工場へ出勤するために自宅をあとにするのだった。
*
出勤すると、妻の玲子は事務所で書類整理をしていた。会計なんかも担当しており、かなりの戦力になっている。
嫁に出したとはいえ、水町家の両親も娘の姿をほぼ毎日見られるので、どことなく嬉しそうだった。
梶谷家で家事を手伝わなくてもいいのかなどと、心配もしてくれる。そんな両親に玲子は、義母との不仲をあえて伝えてないみたいだった。
自分が愚痴ることによって、夫である哲郎が不快な思いをしたら大変と考えているのだ。ゆえに我慢を重ねる結果になる。
友人と大騒ぎでもしてストレスを発散できればよいのだが、この時代ではまだ妻が頻繁に家を空けるのは難しかった。
そこで哲郎の助力が必要になる。これまでは梶谷小百合の目もあって、なかなか勧めてあげられなかったが、独立をすれば状況も変わる。
金銭的にキツいわけでもないので、やはり実家を出るべきなのだと強く意識する。実際に決めたのもあり、多少は心が軽くなるのを感じていた。
「きちんと話をしてきたから」
他に誰も事務所にいないのを確認した上で、哲郎は事務作業を続ける妻の玲子に声をかけた。
すると玲子は笑顔で「ありがとう」と言いながらも、義母である梶谷小百合の心配をした。
「いきなり私たちが家を出ることになって、お義母さんは大丈夫かしら……」
家を出るのは自分のせいだと認識している玲子は、事の他責任を背負い込んでいる。
軽減するために何度も哲郎は「俺が決めたんだから」と言っているが、やはり簡単には納得できないらしい。
「大丈夫だよ。家事だってきちんとできているし、俺たちが家を出れば、逆に負担が減るかもしれないよ」
あれほど好きだった母親なのに、最愛の嫁とのいざこざが原因で少なからず苛々した気持ちを覚えるようになっていた。
だからといって助けなければよかったとは思わないが、もやもやとした気持ちがあるのは確かだ。
「そうだといいんだけど……少し心配だわ」
「問題ないよ」
まだ不安そうな顔をする妻の肩に軽く手を置いてから、哲郎は自分の職場へ向かう。この時までは、楽観的な気持ちが強かった。
しかし仕事が終わって帰宅すると、状況は一転する。
愛妻と一緒に梶谷家へ入った哲郎を待っていたのは、普段とは様子が違う梶谷哲也だった。
てっきり梶谷小百合が独立のことを報告したかと思いきや、父親は哲郎の顔を見るなり、想定外の質問をしてきた。
「母さんを……小百合を見なかったか?」
いきなりの問いかけに哲郎は意味がわからず、間の抜けた声で「え?」と父親に真意を尋ねた。
質問に質問を重ねる無礼な形になってしまったが、そのことを申し訳ないと思う余裕すらなかった。
哲郎の仕事が長引き、一緒に帰ろうと決めていた玲子は社内で待っていてくれた。帰宅できたのは夜遅くなってからで、もう少しで日付も変わろうとしている。
携帯電話なんて便利なアイテムもないため、現在まで母親の動向がわからずにいた。父親の梶谷哲也もつい先ほど帰宅したみたいで、詳しい状況を把握できていなかった。
この間、妻が家出をしたと思ったら、今度は母親が消息不明。何がどうなってるのかわからず、さすがの哲郎も戸惑うばかりだった。
「哲郎君。台所に書置きがあったわ」
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