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桐条京介

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第80話 おめでたい席と緊張する婚約者

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 どうしてここまで緊張したのだろう。そう思えるほどに、事はすんなりと展開した。

 反対されたりはせず、苦労して考えた言葉の数々も無駄になる。それでも悩んだ時間は自分の糧になったはずだと、哲郎は納得していた。

「ほら、哲郎君。今日ばかりは特別だ。君も飲みなさい」

 社長に勧められたのはお酒だった。祝いの席なので飲むべきなのだが、もともと下戸なのもあり、哲郎は申し訳なくも断った。

 すると水町玲子の母親が「まだ未成年ですものね」と助け舟を出してくれた。

 個人的に保護者が同席しており、公の場などではなく、自宅だけに限るなら未成年の飲酒も良いのではないかと考えたりもする。

 もっとも未成年の飲酒は基本的に法律違反なので、推奨するものではない。やはり社会へ出た以上、そこに存在するルールを守りながら生活するのが一人前の大人だと考える。

 なので成人前にお酒を呑むのに抵抗はないのだが、先々を考えた場合に、無理なものは無理と発言しておくべきと判断した。

 幸いにも婚約者の父親は、酒を断れたからといって激怒するタイプの人間ではなかった。加えて、相手もさほどお酒に強くないのもある。

 水町玲子もアルコールとは無縁の生活を送っていた。今回も哲郎に合わせて、食事をしながらお茶を飲んでいる。

 例外は水町玲子の母親だった。普段は飲酒しないらしいのだが、今回は祝いの席というのもあり、亭主のを少しだけ分けてもらっていた。

 亭主関白ではあるものの、水町家の両親はある程度同じ立ち位置で会話をしたり、仕事をしたりしている。数十年先の未来ではあまり珍しくないが、この時代では比較的新しい家族の形になるかもしれない。

「それにしても、めでたいな」

 食事が開始された時から、社長はとにかく楽しそうに笑っていた。めだたいというフレーズも何回聞いたかわからない。

 実際にはまだ結婚ではなく、婚約をしただけなのだが、それでも水町玲子の両親はおおいに喜んでくれていた。

 本来なら婿をとりたいはずなのに、娘の「お嫁にいきたい」という願いを快く聞き入れてくれた。

 自分たちは本家ではないのでというのが理由みたいだが、それでも珍しいケースだと思えた。

 本当に娘の幸せを考えてくれる良い両親なのが、他人であるはずの哲郎にもわかる。過去の人生では悲しい末路を辿ったけれど、好きで落ちぶれたわけではない。どうしようもなかったのだ。

 今なら哲郎は繰り返してきた人生の中のひとつで、水町玲子が自分を置いて両親のもとへ戻った理由がよくわかる。

 今回は何の憂いもない。すべて順調にこなしてきて、ようやくここまでこぎつけた。大変なこともあるけれど、それすらも楽しいと感じるくらいに充実していた。

「哲郎君のご両親にはご報告をしたの」

「いえ、まだです。近いうちには報告をしてきます。両親も祝福してくれると思います」

 水町玲子の母親の問いかけに対する哲郎の言葉を聞き、今度は婚約者当人が顔を硬直させた。

 婚約者の両親に挨拶するのは、なにも哲郎だけではない。立場だけに関していえば、二人とも大差はなかった。

 水町玲子の視線になれば、哲郎が婚約者になるのだ。今度は自分が、相手の両親へ挨拶する番になる。

 哲郎は学生時代から水町玲子の両親とよく会っているが、逆のパターンはあまりないはずだ。

 哲郎の家に遊びに来たことは何度もあるが、母親の梶谷小百合とじっくり話している姿は見た覚えがない。だからこそ余計に、水町玲子は緊張を強くしていた。

 娘の状態に気づいた母親が、おかしそうに吹きだした。今からカチコチになっているのが、笑いのつぼに入ったらしかった。

「今から緊張しても仕方ないでしょう。それに、哲郎君もいるのだから大丈夫よ」

 母親の言葉に頷くも、食事の間中、水町玲子は緊張と一緒に過ごしていた。

   *

 水町家での夕食を終えたのが夜遅かったのもあり、この日は哲郎だけが梶谷家へ帰宅することになった。

 恋人の両親は宿泊していくのを勧めてくれたが、実家でも特に母親の梶谷小百合が哲郎が戻ってくるのを待っている。

 その辺の事情も説明して納得してもらい、暗い夜道のひとりで歩く。だいぶ増えてはきていたが、やはりまだ街灯の数は少ない。女性単独で行動するには危険すぎる状況だ。

 もっとも男性であったとしても、背後から暗闇に紛れて誰かに襲われれば回避しようがない。よほど勘が鋭い人間なら話は別だが、哲郎は鈍感であったし、武術の心得もなかった。

 水町玲子に想いを抱く男性が、哲郎を邪魔に思ってナイフで刺そうとする。未来で定番となっている午後の昼のメロドラマならば、十分にありえそうな展開だった。

 けれど現実はドラマほどに奇妙ではなく、哲郎は何の危険もなく実家へ到着した。ただいまと声をかけてからドアを開けると、すぐに母親の梶谷小百合が玄関まで出迎えに来てくれた。

「おかえりなさい。でも、今回は遅かったのね」

 週末に水町家での仕事のために帰省する際には、もっと早く自宅に到着している。そのため、梶谷小百合は先ほどの台詞を口にしたのだ。

 同棲しているのは教えてるものの、婚約についてはまだだった。報告は水町玲子と一緒にしようと決めていたので、あえて哲郎は「そうだね」とだけ応じて理由を告げなかった。

 多少の不審は抱いたみたいだが、息子が一時的にでも帰ってきた嬉しさが勝ったのか、梶谷小百合はそれ以上の追及はしてこなかった。

 後日きちんと説明と報告を行うつもりだったので、哲郎にはありがたく感じた。家の中に入ると、すでに父親の梶谷哲也は就寝していた。朝が早いのもあり、床に就くのはわりと早い。

 想定していたとおりだったので、改めて今夜、水町玲子を家へ連れてこなくてよかったと安堵する。報告は大事だが、深夜に眠っている両親をたたき起こしてまでするべきではない。

 そのような真似をしようものなら常識がないと一喝され、婚約を認めてもらえなくなる可能性まで出てくる。

 悪戯にリスクを高めるよりは、きちんとした日程を組んで、互いの両親に挨拶すべきだと哲郎は考えていた。

「晩御飯はどうするの。今から食べる?」

「いえ。今日は水町さんの家でご馳走になってきましたので。せっかく作ってくれてただろうに、申し訳ありません」

 尊敬して敬うべき両親に対しては、つい敬語になることが多々あった。

 そのたびに母親の梶谷小百合は、どことなく寂しそうな顔をする。生意気盛りだった子供の頃の口調を、懐かしく感じているのかもしれない。

 とはいえ大学生となった今でも、わりと普通の口調で応対したりもする。例のスイッチで様々な時代を生きてきたせいか、たまにどのように会話をするべきか、わからなくなる時もあった。

 そこで哲郎が解決策として導きだしたのが、困った時は丁寧な言葉遣いというものだった。おかげで今日までは、なんとか余計なアクシデントを発生させずに生きてこられている。

「少し残念だけれど、気にしなくていいわよ。もう哲郎も、立派な大人ですものね。昔から、大人びた子供ではあったけれど」

 そう言って過去を懐かしむように、梶谷小百合が微笑んだ。少し照れくさかったが、哲郎も付き合って「そうですかね」と応じる。

「そうよ。小さい頃から恋人を作って、気がつけばそこのお家で働いていたり、ね。お母さん、何回も驚かされたわ」

 父親の梶谷哲也が寝ている影響もあるのか、普段よりも楽しそうに哲郎へ話しかけてくる。

 改めて本来の人生を思い返せば、母親とこのような会話をした経験はなかった。過去を振り返る余裕を得るより先に、失ってしまったからだ。

 失った際の孤独感と、現在、顔を見ていられる幸福感。相反する二つの感情を同時に味わった哲郎は、わけがわからないまま涙を流していた。

   *

「……変な子ね」

 哲郎の涙を見た梶谷小百合は、そんな呟きをこぼした。決して叱ってるような感じではなく、優しく見守っているかのごとく微笑んでいる。

 母親との記憶は幼い頃のしかないため、何もかもが新鮮だった。嬉しくもあり、ほんの少しだけ照れ臭くもある。なんとも形容し難い、複雑な感情だ。

 とはいえ嫌ではなく、むしろこのような状況に出会えたのを幸せに思っている。過去を変えるのは、本来はいけないことなのだろうが、哲郎は心から例のスイッチに感謝していた。

「もしかしたら、また驚くことになるかもしれませにんよ」

 手の甲で涙を拭った哲郎が悪戯っぽく言うと、一瞬だけきょとんとしたあとで、梶谷小百合は実に怪訝そうな顔をした。

「まだ何かあるのかしら。本当に困った子ね」

 たしなめるような発言をしてきたものの、どういうことなのか詳しく聞いたりしない。恐らくは父親が同席の際に話されるのだと、短いやりとりの中で気づいたのだろう。

 そして運命の日がやってくる。ゆっくりと懐かしの我が家で休んだあと、哲郎は水町家へ出向いていた。もちろん、仕事をするためだ。

 テキパキと仕事をこなしながら時間の経過を確認する。昼になり、夕方になると、哲郎は普段より早めに退社させてもらう。理由がわかっている社長は、当然のごとく笑顔で了承してくれた。

 帰宅の途についた哲郎の隣には、恋人の女性がいる。どちらかといえば、水町玲子の家へ一緒に向かうケースが多かったので、珍しいとも言える光景だった。

「え、ええと……本日はお日柄も良く……」

「お、おい……まさか、本当にそんな挨拶をするつもりなのか」

 大きく深呼吸をした直後に、いきなりシミュレーションを始めた恋人女性へ思わず哲郎はそんな指摘をした。

 普段の水町玲子とは違い、本格的な哲郎の両親への挨拶を前に、明らかにテンパっていた。

 先ほどから何回も「大丈夫か」と尋ねているのだが、そのたびに勢いよく顔を上下させるだけだった。

 何度も人生をやり直して、常人以上に経験を積んでいる哲郎でさえも、昨日はあの有様だったのだ。緊張する水町玲子を、とてもからかったりできない。

 手土産のおまんじゅうを片手に歩きながら、どのような挨拶が良いのか、必死になって恋人の女性は考えていた。

「このたびはまことにご愁傷様で……」

「少し落ち着いてくれよ。玲子は一体、どんな目的で俺の家に行くつもりなんだ」

「そ、それは……もちろん、婚約の許可をもらうためよ」

 理由は間違っていないが、声のトーンが従来とは大きく異なっている。言葉の半数以上が裏返る異常さだ。

「だったら、ご愁傷様はおかしいだろう。冗談にしても笑えないぞ」

「え? あ……ご、ごめんなさい。そうよね……このたびは、まことにおめでとうございますの方が良いわよね」

 目が本気だったので、危うさを感じた哲郎は自分がきちんと報告すると恋人女性に告げる。

「こういう言い方が正しいのかわからないけど、俺は男だからね。こういう時ぐらいはきちんと決めるよ」

 頼りがいのある男性を演出したつもりだったが、賞賛を送ってほしい相手には、残念ながらこちらの言葉は届いてないみたいだった。

 哲郎の実家である梶谷宅が見えてきてもなお、隣で水町玲子はぶつぶつと自分が言うべき挨拶を模索している。

 こうなったら出たとこ勝負だと覚悟を決めた哲郎は、かつてないほど不安そうな恋人を連れて、両親が待つ自宅の玄関のドアを開けるのだった。
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