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第73話 卒業式のあとで
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在籍する下級生たちによって、綺麗に飾りつけられた体育館にて、いよいよ卒業式が始まろうとしていた。
廊下で入場を待つ卒業生たちの顔には、例外なく緊張が走っていた。何度も卒業式を体験している哲郎でさえも、独特の厳かな雰囲気に身が締まる思いがする。
同時にこれで三年間、学び親しんだ校舎とお別れになる。同級生の面々を見渡してみれば、すでに涙を流している者もいた。
大学の合格発表が卒業式の前だったので、哲郎と水町玲子も晴れやかな気分で参加できている。
受験をした学生の中には、卒業式と合格発表が同じ日で参加できないという者もいた。知人に見てきてもらう選択肢もあるのだろうが、自分の目で確かめないとどうにも不安らしかった。
哲郎にも教員にも、その学生を責めたりはできない。大学受験の合否によって、その後の人生に影響が出る場合もあるのだ。
そんなことを考えている間に、入場の曲が流れる。ピアノの演奏によって、卒業生たちがクラスごとに体育館へ入場する。
すでに卒業生の両親が体育館の後方に陣取っており、ハンカチを片手に我が子の晴れ舞台を見ている親御さんもいた。
ちらりと保護者の席に視線を向けてみると、水町家の両親の近くに哲郎の母親である梶谷小百合もいた。綺麗な着物を着用し、優しげに微笑んでいる。
それだけで哲郎は嬉しくなり、自然と笑みを浮かべていた。本来なら絶対に見られなかった息子の卒業式。見せてあげられただけでも、親孝行できた気分になる。
子供ではないので手を上げて合図を送ったりはできないが、少しだけそちらを見て目を合わせるのは可能だった。元々梶谷小百合は哲郎を見に来ているので、とりたてて苦労はしない。
見れば水町玲子も、自身の家族と目で何事か会話をしていた。当事者である学生はもちろんだが、その両親にとっても高校の卒業式は一大イベントになる。
この時代、進学校においても就職する人間の割合は少なくない。これまで育ててきた両親にすれば、とりあえずひと段落といったところなのだろう。
大きな拍手で迎えられたりはせずに、粛々とした空気の中で淡々と式が進行される。時折、どこからか聞こえてくる啜り泣きが、他の卒業生の涙を誘う。
人目をはばからずに泣く先輩たちの姿に、今度は式を見守っている下級生たちがもらい泣きする。始まってから数十分で、さらに独特な雰囲気に変化した。
慣れている哲郎はともかく、初めての高校卒業式になる水町玲子も涙を流していた。だがこれで終わりではない。むしろそれぞれの人生はここからスタートと言っても過言ではなかった。
しかし、やっとここまできたという思いは、誰よりも哲郎が強く持っているかもしれない。数々の出来事を乗り越えて、愛する女性と一緒に卒業式へ参加できている。
加えて本来ならいないはずの母親も、哲郎の姿を見守ってくれている。感慨深さに浸っていると、いつの間にやら頬に熱い感触を覚えるようになっていた。
そっと手で触れてみると、甲が透明な液体で濡れた。それが涙だとわかるのに、結構な時間を要した。これまで卒業式で泣いたことのない哲郎が、両目から涙を放出している。
驚きと混乱でわけがわからなくなる哲郎のもとに、一本の腕がスッと伸びてきた。恋人の少女こと水町玲子だ。
これを使ってと微笑みながら、哲郎に自身のハンカチを差し出してくれた。小声で「玲子が困るだろ」と言うと、私は二枚持ってきたからと返ってくる。
それならばと遠慮なしにハンカチを受け取った哲郎は、自身の両目を抑えながらふと思った。自分は今、とても幸せだと。
ひとりだけ別存在のようだったこれまでの卒業式とは違い、最後には他の学生たちと同様に哲郎は目を真っ赤にしていた。
*
卒業式が終了すると、三年生たちは通い慣れた教室へ戻っていた。担任してくれた教員と最後の挨拶を交わすためであり、その場で卒業後の注意事項も伝えられる。
四月になるまでは卒業式を終えても、高校に在籍してる扱いになるので、素行にはくれぐれも気をつけるようにというのが強調されていた。
教室には卒業生の保護者も来ており、後ろの方で立って教員の話を一緒になって聞いている。もちろん哲郎の母親だけでなく、水町玲子の両親の姿もあった。
子供同士が交際しているのもあるためか、隣同士に立って、時折小声で何事かを話したりしている。仲が良いのは結構なので、哲郎にとっても嬉しい限りだった。
教員の話が終わり、解散となると同時に仲の良かった生徒たちが集まりだす。各々が手にノートを携えており、寄せ書きをしてもらおうとしていた。
哲郎の席にも数人の生徒たちが押し寄せ、瞬く間に身動きがとれない状態になる。今日ばかりは母親の梶谷小百合と一緒に下校しようと考えていたのだが、邪魔をするのは悪いと判断したらしく先に教室から退出してしまった。
いつの間にか水町玲子の両親の姿も見えなくなっており、哲郎の母親と一緒に学校をあとにしたみたいだった。
結局、学校に通う最後の日も、水町玲子と一緒に下校することがほぼ決定した。まだ相手の意思は確認していないが、拒絶されたりはしない自信があった。
もしかしたら高橋和夫が立ち塞がるのではないかと考えたが、哲郎たちが所属する教室へやってきそうな気配はなかった。
安堵の息をつきながら、求められるままに哲郎はクラスメートたちの寄せ書きに応じる。級友へ向けてひと言を添えたあと、名前を記入して終了する。
全員が哲郎のひと言を欲しがっているのか、いつの間にやら行列ができていた。退屈がって恋人の少女が先に帰るのではないかと危惧したが、水町玲子もまた大勢のクラスメートに囲まれていた。
不意に目が合うと、お互い困ったねといった感じの微笑を浮かべた。揃って下校時間が遅くなると確信した哲郎は、安心してクラスメートの寄せ書きに集中する。
時間を気にせずに並ぶ級友に「どうして、そんなに寄せ書きを欲しがるの」と尋ねてみた。これまで繰り返してきた人生で、哲郎は一度たりとも寄せ書きを求められた経験はなかった。
卒業式が終わるとすぐに帰宅していたせいもあるだろうが、普段からクラスメートとの会話は皆無に近かった。そんな哲郎に話しかけてくる者は、ひとりたりともいなかったのである。
並んでいるクラスメートのうち、ひとりの女生徒が哲郎の質問に答えてくれる。きっと有名になるから――。それが寄せ書きを求める女生徒の理由だった。
「過度な期待をしすぎだよ。俺はそんな大層な人間ではないのだから」
本心だったのだが、哲郎がそう言うと周囲からすぐに「謙遜するなよ」という声が上がった。
常に学年どころか全国でもトップレベルの成績をとり続けたことや、学力で異性交遊禁止の学校に特例で水町玲子との交際を認めさせた一件。果てには修学旅行の際の頼りがいまで告げられる。
褒められなれてない哲郎にとって、なんともむず痒い限りだった。どんなに否定をしても、たくさんの笑いとともにかき消される。
「私も哲郎君の寄せ書きを、きちんと貰っておかないとね」
気付けばひと足先にクラスメートから開放された水町玲子が、悪戯っぽく舌を出しながら列の最後尾に並んでいた。
おいおいと頬をかくと、教室に残っている級友が爆笑した。明らかに輪の中心にいるのは哲郎で、主役と呼べる立ち位置にいた。
柄じゃないと思いながらも、どこかで現状を心地良く感じている自分もいた。たまにはこういうのも悪くない。いつの間にか哲郎も、周囲の学生と同じように笑みを浮かべていた。
卒業式では皆と一緒に泣き、卒業式後は通い慣れた教室で皆と一緒に笑っている。これが本当の青春なのだなと、哲郎は改めて例のスイッチに感謝するのだった。
*
哲郎と水町玲子が、通い慣れた道を歩いて帰宅する頃には、すでに周囲は漆黒の闇に包まれていた。
数十年後の未来みたいにカラオケ屋で騒いだりはできないものの、代わりにまだ数多く存在する喫茶店で級友たちと高校生活の想い出について語り合った。
本来なら喫茶店の利用は校則で不可になっているのだが、来店したのが全員卒業生だと知ると、特別にマスターが入店を許可してくれた。
それどころか、全員に卒業したお祝いとコーヒーをご馳走してくれたのである。全員で感謝しつつ、数時間も居座ってしまった。それでもマスターは嫌な顔ひとつせずに、時折こちらの話を聞いては懐かしげに微笑んでいた。
卒業後は気軽に会えなくなると直感的に理解しているのか、誰しもがなかなか解散の言葉を口にできなかった。
最初に「そろそろ帰ろう」と提案したのは、やはり哲郎だった。これ以上は店の迷惑になると考えたからだ。
皆が同じように思っていたのだろう。誰からも反対意見が出なかったのが証拠だった。
全員で同じ道を歩きながら、ひとりまたひとりと列から離れて、自分の家へ帰っていく。そして最後に哲郎と水町玲子の二人だけになった。
「もう、すっかり夜だね」
大きく伸びをしながら、満天の星空を見上げる水町玲子。宙に舞った何気ない呟きも、哲郎にはまるで宝石みたいに輝いて感じられる。
恋愛とはほぼ無関係な日々を送っていた最初の人生が、なんとも勿体無く思えてくる。歩いている道の先に何があろうとも、抱いている幸せとともに乗り越えていける。
若干、甘い考えかもしれないが、若さゆえの特権だと自分自身を無理やり納得させる。今、哲郎が生きている時代こそ現代であり、すべてなのだ。
「ずいぶんと、皆で話し込んでいたからな」
哲郎の言葉に、恋人の少女が「本当ね」と頷く。見せてくれた笑顔も素敵なのだが、すんなりと口にできない自分にもどかしさを覚える。
ロマンチックな言動が好きと知っているのに、うまく立ち回れない。性分なのは重々承知しているが、たまには稀代のプレイボーイみたいに振舞えたらいいのにと思ったりもする。
もっとも未来で言うところのチャラ男になった哲郎を、大和撫子と呼称してもいいくらいの水町玲子が、今と変わらずに愛してくれるかはわからない。
やはり無理に背伸びをしたりせずに、素の自分が一番なのだと理解する。それでも変わりたい願望があるのなら、一気にやろうとはせずに徐々に性格や容姿を変化させていけばいい。人生はあくまで自由なのだ。
「でも、楽しかったね」
「ああ、楽しかった」
「また、皆と会いたいな」
「会えるさ、きっと」
「うん。哲郎君がそう言ってくれて、安心した」
言葉どおり安堵した様子の水町玲子が、浮かべた微笑をプレゼントするように哲郎へ近づいてきた。
無意識のうちにお互いの距離が縮まり、嫌でも意識せざるを得なくなる。変な考えはおこすなと自分を戒めるも、整ったシチュエーションの中で最愛の女性を前にすれば、平静を保つのはさすがの哲郎でも難しかった。
動悸がする。不思議な高揚感に体が包まれる。けれど、どれもが不快ではなく、むしろ生きている実感を与えてくれる。
ロマンチックな言葉も、プレイボーイな仕草も必要なかった。夜空を埋め尽くす星々に見守られながら、重ねた唇の感触が脳に記憶される。
ぎこちなく細くしなやかな身体を抱きしめた両手には、恋人の体温と同時に、緊張によるかすかな震えが伝わってきていた。
廊下で入場を待つ卒業生たちの顔には、例外なく緊張が走っていた。何度も卒業式を体験している哲郎でさえも、独特の厳かな雰囲気に身が締まる思いがする。
同時にこれで三年間、学び親しんだ校舎とお別れになる。同級生の面々を見渡してみれば、すでに涙を流している者もいた。
大学の合格発表が卒業式の前だったので、哲郎と水町玲子も晴れやかな気分で参加できている。
受験をした学生の中には、卒業式と合格発表が同じ日で参加できないという者もいた。知人に見てきてもらう選択肢もあるのだろうが、自分の目で確かめないとどうにも不安らしかった。
哲郎にも教員にも、その学生を責めたりはできない。大学受験の合否によって、その後の人生に影響が出る場合もあるのだ。
そんなことを考えている間に、入場の曲が流れる。ピアノの演奏によって、卒業生たちがクラスごとに体育館へ入場する。
すでに卒業生の両親が体育館の後方に陣取っており、ハンカチを片手に我が子の晴れ舞台を見ている親御さんもいた。
ちらりと保護者の席に視線を向けてみると、水町家の両親の近くに哲郎の母親である梶谷小百合もいた。綺麗な着物を着用し、優しげに微笑んでいる。
それだけで哲郎は嬉しくなり、自然と笑みを浮かべていた。本来なら絶対に見られなかった息子の卒業式。見せてあげられただけでも、親孝行できた気分になる。
子供ではないので手を上げて合図を送ったりはできないが、少しだけそちらを見て目を合わせるのは可能だった。元々梶谷小百合は哲郎を見に来ているので、とりたてて苦労はしない。
見れば水町玲子も、自身の家族と目で何事か会話をしていた。当事者である学生はもちろんだが、その両親にとっても高校の卒業式は一大イベントになる。
この時代、進学校においても就職する人間の割合は少なくない。これまで育ててきた両親にすれば、とりあえずひと段落といったところなのだろう。
大きな拍手で迎えられたりはせずに、粛々とした空気の中で淡々と式が進行される。時折、どこからか聞こえてくる啜り泣きが、他の卒業生の涙を誘う。
人目をはばからずに泣く先輩たちの姿に、今度は式を見守っている下級生たちがもらい泣きする。始まってから数十分で、さらに独特な雰囲気に変化した。
慣れている哲郎はともかく、初めての高校卒業式になる水町玲子も涙を流していた。だがこれで終わりではない。むしろそれぞれの人生はここからスタートと言っても過言ではなかった。
しかし、やっとここまできたという思いは、誰よりも哲郎が強く持っているかもしれない。数々の出来事を乗り越えて、愛する女性と一緒に卒業式へ参加できている。
加えて本来ならいないはずの母親も、哲郎の姿を見守ってくれている。感慨深さに浸っていると、いつの間にやら頬に熱い感触を覚えるようになっていた。
そっと手で触れてみると、甲が透明な液体で濡れた。それが涙だとわかるのに、結構な時間を要した。これまで卒業式で泣いたことのない哲郎が、両目から涙を放出している。
驚きと混乱でわけがわからなくなる哲郎のもとに、一本の腕がスッと伸びてきた。恋人の少女こと水町玲子だ。
これを使ってと微笑みながら、哲郎に自身のハンカチを差し出してくれた。小声で「玲子が困るだろ」と言うと、私は二枚持ってきたからと返ってくる。
それならばと遠慮なしにハンカチを受け取った哲郎は、自身の両目を抑えながらふと思った。自分は今、とても幸せだと。
ひとりだけ別存在のようだったこれまでの卒業式とは違い、最後には他の学生たちと同様に哲郎は目を真っ赤にしていた。
*
卒業式が終了すると、三年生たちは通い慣れた教室へ戻っていた。担任してくれた教員と最後の挨拶を交わすためであり、その場で卒業後の注意事項も伝えられる。
四月になるまでは卒業式を終えても、高校に在籍してる扱いになるので、素行にはくれぐれも気をつけるようにというのが強調されていた。
教室には卒業生の保護者も来ており、後ろの方で立って教員の話を一緒になって聞いている。もちろん哲郎の母親だけでなく、水町玲子の両親の姿もあった。
子供同士が交際しているのもあるためか、隣同士に立って、時折小声で何事かを話したりしている。仲が良いのは結構なので、哲郎にとっても嬉しい限りだった。
教員の話が終わり、解散となると同時に仲の良かった生徒たちが集まりだす。各々が手にノートを携えており、寄せ書きをしてもらおうとしていた。
哲郎の席にも数人の生徒たちが押し寄せ、瞬く間に身動きがとれない状態になる。今日ばかりは母親の梶谷小百合と一緒に下校しようと考えていたのだが、邪魔をするのは悪いと判断したらしく先に教室から退出してしまった。
いつの間にか水町玲子の両親の姿も見えなくなっており、哲郎の母親と一緒に学校をあとにしたみたいだった。
結局、学校に通う最後の日も、水町玲子と一緒に下校することがほぼ決定した。まだ相手の意思は確認していないが、拒絶されたりはしない自信があった。
もしかしたら高橋和夫が立ち塞がるのではないかと考えたが、哲郎たちが所属する教室へやってきそうな気配はなかった。
安堵の息をつきながら、求められるままに哲郎はクラスメートたちの寄せ書きに応じる。級友へ向けてひと言を添えたあと、名前を記入して終了する。
全員が哲郎のひと言を欲しがっているのか、いつの間にやら行列ができていた。退屈がって恋人の少女が先に帰るのではないかと危惧したが、水町玲子もまた大勢のクラスメートに囲まれていた。
不意に目が合うと、お互い困ったねといった感じの微笑を浮かべた。揃って下校時間が遅くなると確信した哲郎は、安心してクラスメートの寄せ書きに集中する。
時間を気にせずに並ぶ級友に「どうして、そんなに寄せ書きを欲しがるの」と尋ねてみた。これまで繰り返してきた人生で、哲郎は一度たりとも寄せ書きを求められた経験はなかった。
卒業式が終わるとすぐに帰宅していたせいもあるだろうが、普段からクラスメートとの会話は皆無に近かった。そんな哲郎に話しかけてくる者は、ひとりたりともいなかったのである。
並んでいるクラスメートのうち、ひとりの女生徒が哲郎の質問に答えてくれる。きっと有名になるから――。それが寄せ書きを求める女生徒の理由だった。
「過度な期待をしすぎだよ。俺はそんな大層な人間ではないのだから」
本心だったのだが、哲郎がそう言うと周囲からすぐに「謙遜するなよ」という声が上がった。
常に学年どころか全国でもトップレベルの成績をとり続けたことや、学力で異性交遊禁止の学校に特例で水町玲子との交際を認めさせた一件。果てには修学旅行の際の頼りがいまで告げられる。
褒められなれてない哲郎にとって、なんともむず痒い限りだった。どんなに否定をしても、たくさんの笑いとともにかき消される。
「私も哲郎君の寄せ書きを、きちんと貰っておかないとね」
気付けばひと足先にクラスメートから開放された水町玲子が、悪戯っぽく舌を出しながら列の最後尾に並んでいた。
おいおいと頬をかくと、教室に残っている級友が爆笑した。明らかに輪の中心にいるのは哲郎で、主役と呼べる立ち位置にいた。
柄じゃないと思いながらも、どこかで現状を心地良く感じている自分もいた。たまにはこういうのも悪くない。いつの間にか哲郎も、周囲の学生と同じように笑みを浮かべていた。
卒業式では皆と一緒に泣き、卒業式後は通い慣れた教室で皆と一緒に笑っている。これが本当の青春なのだなと、哲郎は改めて例のスイッチに感謝するのだった。
*
哲郎と水町玲子が、通い慣れた道を歩いて帰宅する頃には、すでに周囲は漆黒の闇に包まれていた。
数十年後の未来みたいにカラオケ屋で騒いだりはできないものの、代わりにまだ数多く存在する喫茶店で級友たちと高校生活の想い出について語り合った。
本来なら喫茶店の利用は校則で不可になっているのだが、来店したのが全員卒業生だと知ると、特別にマスターが入店を許可してくれた。
それどころか、全員に卒業したお祝いとコーヒーをご馳走してくれたのである。全員で感謝しつつ、数時間も居座ってしまった。それでもマスターは嫌な顔ひとつせずに、時折こちらの話を聞いては懐かしげに微笑んでいた。
卒業後は気軽に会えなくなると直感的に理解しているのか、誰しもがなかなか解散の言葉を口にできなかった。
最初に「そろそろ帰ろう」と提案したのは、やはり哲郎だった。これ以上は店の迷惑になると考えたからだ。
皆が同じように思っていたのだろう。誰からも反対意見が出なかったのが証拠だった。
全員で同じ道を歩きながら、ひとりまたひとりと列から離れて、自分の家へ帰っていく。そして最後に哲郎と水町玲子の二人だけになった。
「もう、すっかり夜だね」
大きく伸びをしながら、満天の星空を見上げる水町玲子。宙に舞った何気ない呟きも、哲郎にはまるで宝石みたいに輝いて感じられる。
恋愛とはほぼ無関係な日々を送っていた最初の人生が、なんとも勿体無く思えてくる。歩いている道の先に何があろうとも、抱いている幸せとともに乗り越えていける。
若干、甘い考えかもしれないが、若さゆえの特権だと自分自身を無理やり納得させる。今、哲郎が生きている時代こそ現代であり、すべてなのだ。
「ずいぶんと、皆で話し込んでいたからな」
哲郎の言葉に、恋人の少女が「本当ね」と頷く。見せてくれた笑顔も素敵なのだが、すんなりと口にできない自分にもどかしさを覚える。
ロマンチックな言動が好きと知っているのに、うまく立ち回れない。性分なのは重々承知しているが、たまには稀代のプレイボーイみたいに振舞えたらいいのにと思ったりもする。
もっとも未来で言うところのチャラ男になった哲郎を、大和撫子と呼称してもいいくらいの水町玲子が、今と変わらずに愛してくれるかはわからない。
やはり無理に背伸びをしたりせずに、素の自分が一番なのだと理解する。それでも変わりたい願望があるのなら、一気にやろうとはせずに徐々に性格や容姿を変化させていけばいい。人生はあくまで自由なのだ。
「でも、楽しかったね」
「ああ、楽しかった」
「また、皆と会いたいな」
「会えるさ、きっと」
「うん。哲郎君がそう言ってくれて、安心した」
言葉どおり安堵した様子の水町玲子が、浮かべた微笑をプレゼントするように哲郎へ近づいてきた。
無意識のうちにお互いの距離が縮まり、嫌でも意識せざるを得なくなる。変な考えはおこすなと自分を戒めるも、整ったシチュエーションの中で最愛の女性を前にすれば、平静を保つのはさすがの哲郎でも難しかった。
動悸がする。不思議な高揚感に体が包まれる。けれど、どれもが不快ではなく、むしろ生きている実感を与えてくれる。
ロマンチックな言葉も、プレイボーイな仕草も必要なかった。夜空を埋め尽くす星々に見守られながら、重ねた唇の感触が脳に記憶される。
ぎこちなく細くしなやかな身体を抱きしめた両手には、恋人の体温と同時に、緊張によるかすかな震えが伝わってきていた。
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