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桐条京介

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第72話 卒業式

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 誰にとっても感慨深い卒業式が、今まさに行われようとしていた。何度も体験してきた哲郎にとっても、今回のは特別だった。

 最愛の女性である水町玲子とともに卒業し、一緒に通う大学も決まっている。そしてなにより、晴れ舞台を一度も見せられなかった母親の梶谷小百合が卒業式を見に来てくれる。

 母親の来訪を嫌がる男子学生が多い中、哲郎は自ら望んで母親に来てほしいとお願いしていた。本来の人生では決してできなかった親孝行である。

 当初は着ていく着物がないと躊躇っていた梶谷小百合も、卒業式が近づくにつれてその気になっていた。

 着物なら貯めたお金でプレゼントすると哲郎は申し出たが、最終的には却下された。父親の梶谷哲也が妻である小百合に「たまにはいいだろう」と新しい着物を購入する許可を出したのだ。

 哲郎も見事に一流大学へ合格し、水町玲子とともに地元では将来を期待される若者になっていた。

 末は大臣かと噂された時もあったが、すでに水町家の跡取り娘である玲子と恋仲なのは町中に知れ渡っている。

 アルバイトとして水町家の工場を手伝い、経営を軌道に乗せたのも評価を押し上げるひとつとなっている。

 就職面接など一切受けていないにもかかわらず、在学中から哲郎のもとには高校を卒業したら働いてくれないかというスカウトがひっきりなしにやってきていた。

 バブルが崩壊し、就職氷河期を迎える数十年後の未来とは違い、現在の時代は働き手が自由に会社を選べるだけの権利があった。

 就職も転職も比較的自由にでき、望むなら日雇いの仕事をして、宵越しの金を持たない生活をするのも可能だった。

 けれど今は楽しくて良くとも、将来は悲観的にならざるをえない現状を哲郎は知っている。楽をしようと、日雇いの仕事をしていた人間ばかりでないのもわかっている。

 だからこそ未来では大きな問題になる。どのように解決するのか見出せてない状態で、例のスイッチを手に入れ、哲郎は己の過去をやり直した。

 ゆえにどのように生きていくべきかは、他の人間よりもよく知っている。失敗をしない道を選び、引き際を大切に事を進めるのだ。

 だがまずは将来の社会人生活より、キャンパスライフ。加えて目の前に迫っている卒業式が大事だった。

 卒業式が終われば哲郎と水町玲子は再び上京し、今度は互いの両親も一緒に大学へ通う数年間の居城というべき住むアパートを決める。

 相手方の両親から絶大な信頼を得ている哲郎は、特別に水町玲子と同じアパートに入居するのを許されていた。

 渋々といった感じではなく、哲郎が玲子と同じアパートに入居してくれるのなら、むしろ安全だと水町家の両親に歓迎された。

 女性の方の両親に心から賛同してもらえているのなら、男性側に断る理由は存在しない。多少訝る様子を見せた梶谷小百合は別にして、父親の梶谷哲也は哲郎の好きにしろと言ってくれた。

 同じアパートではあっても、同棲をするわけではない。それに学力が低下して、大学から実家へ連絡がいったりすれば、確実に哲郎の責任になる。

 工場が好調な水町家だけに、娘の玲子は大学に通っている間はアルバイトをする必要がないだけの仕送りを受け取れる予定になっている。

 哲郎の場合も学費を親が負担してくれるのと、生活費は水町家の工場から給料の前借という形で借金をすることになっていた。

 学費もすべて負担したいと水町玲子の父親は言ってくれたのだが、そこまで甘えるわけにはいかないと、哲郎自身がそのような形を望んだのだ。

 これにより大学卒業後は、半ば自動的に水町家の工場へ就職するのが決まった。高校の卒業式を迎えようとしてる時に気の早い話だが、もともと哲郎もそのつもりだったので異論はなかった。

 とんとん拍子に卒業後の話も決まっていたので、哲郎と水町玲子は何の憂いもなく今日という日を迎えていた。

   *

 卒業式に参加する前に、三年間お世話になった校舎の所属教室へ入って、共に学業の日々を過ごしてきた友人たちの別れを惜しむ。

 進学や就職で同じように上京する者とは、顔を合わせる機会があるかもしれないが、他の土地へ移って行く者たちとは次にいつ会えるかはわからない。

 特に仲の良かった友人と離れ離れになるのは、なんとも言えない寂しさを感じさせる。特に親しかった人物がいたわけではない過去の卒業式でも、やはりなんともいえない切なさがあった。

 哲郎でさえそのような状態だったのだから、真剣に友情を温めてきた当事者たちにはなおさらだろう。水町玲子もよく会話をしていた女生徒と、早くも泣きながら抱き合っている。

 微笑ましく眺めていた哲郎だったが、後方から異様な寒気を感じて振り返った。視界に飛び込んできたのは、卒業式を前に感情を昂ぶらせている生徒たちの輪には入らず、ひとりで廊下に佇んでいる男性だった。

 誰だろうと悩む必要もない。哲郎は、こちらを黙って見ている男の名前を知っている。

 高橋和夫――。小学校時代からの友人で、幼い頃は特に仲の良かった男性である。決して頭脳明晰とは言えなかったはずなのに、気がつけば哲郎と同じ進学校に在籍していた。

 過去の人生でもそうだったのだろうかと、何度か頭の中にある記憶の引き出しを開けてみたが、結局はわからずじまいだった。

 どのような意図を持っているかは不明だが、こちらに興味があるのだけは理解できる。もう卒業の日なのだからと、哲郎は水町玲子に何も言わないままで高橋和夫に近づいていく。

「やあ、久しぶりだな」

「ああ……そうなるか」

 以前に姿を見かけた時とは違い、今度は逃げたりせずに接近する哲郎を待っていた。かけた声に応じてもらえたが、歓迎してくれているとは言い難い態度だ。

 何か俺に不満でもあるのかと聞いてみたかったが、せっかくの晴れ舞台に関係をギクシャクさせて、周囲の人間にまで影響を与えるのだけは避けたい。

 幸いにして、高橋和夫の方から辛辣な文句を並べてくるという展開にはなりそうもなかった。

「こちらを見てたみたいだけど?」

「気のせいだろ」

 言葉を選んで相手の心境を探ろうとしてみても、素っ気なく突き放されるので会話が続きそうもない。どうするべきか考えていると、今度もまた背後に誰かの気配を感じた。

「誰と哲郎君が話しているのかと思ったら、和夫君だったのね。お友達どうしだから、別れを惜しんでいたのかしら」

 いきなりの割り込みに相手が気を悪くしないかと心配したが、杞憂に終わる。それどころか荒野に一輪の花が咲いたみたいに、殺伐とした空気がほんの少しだけ和らいだ。

「ああ、そうなんだ。玲子さん、よくわかったね」

 哲郎には見せなかったにこやかな表情に、思わずぎょっとしそうになる。あまりにわかりやすすぎる対応の差だった。

 いかに哲郎が他人に自慢できるほどの鈍感だとはいえ、この状況を見ればさすがに高橋和夫の抱いている気持ちを理解できる。

 明らかに高橋和夫という男性は、哲郎の恋人である水町玲子に惚れていた。だからといって、隠れて想いを告げている様子もなさそうだ。

 その点だけは多少安堵できたが、相手が何を考えているかわからないので油断はできない。もっとも手痛い目にあったいつかの中学生時代とは違い、哲郎もそれなりに成長している。

 予想しうる最悪の事態になっても、黙って奪われるつもりはなかった。加えて、水町玲子が簡単に他の男性へなびくような女性でないのもわかっている。

 哲郎が相手のことをしっかり考えて対処していく限り、不運な未来を迎える可能性は低いと自信を持てるようにもなっていた。

「それなら邪魔をしたら申し訳ないね。私は教室に戻るから、哲郎君はもう少し高橋和夫君と話しているといいよ」

 気を遣ってくれたのだろうが、残された哲郎と高橋和夫の間には、なんともいえない気まずい空気が流れていた。

   *

「……玲子がいるといないとでは、ずいぶんと態度が違うんだな」

 悩んだ末に哲郎は、おもいきってストレートに自身の疑念を高橋和夫にぶつけてみた。

 幼少時は確かに一番の親友だった。何をするにも一緒で、野球などのやり方を教えてくれたのも目の前にいる男性だった。

 本来の人生では中学校くらいまで、仲の良かった友人として付き合っていた。高校、大学、社会人と人生のステージを進んでいくうちに、いつしか関係は疎遠になった。

 高橋和夫との関係が特別なのではなく、大半の友人とは同じ感じだった。社会に出ればそこで出会った仲間との付き合いが多くなり、学生時代からの友人は、数えるくらいしかいなくなる。

 もっとも哲郎は社交的な人間ではなかったので、大人になったからといって誰かと親密な関係を築いたりはできなかった。

 同性相手でもこの有様なのに、異性との良好な関係を構築できるはずもない。人生をやり直せるスイッチを手に入れてなかったら、きっと悲惨な結末になっていたのは想像に難くなかった。

 そうでなくとも、本来の哲郎がいた時代では老人の孤独死なんてのが話題になっていた。哲郎が本格的な老人になる十年後あたりは、さらに悪化している可能性も考えられる。

「……気のせいだろ」

 高橋和夫がポツリと放ったひと言で、哲郎の思考は回想を終えて、今いる時代へ帰ってきた。

 目の前の相手に集中しようとしたが、気付いた時には高橋和夫は哲郎に背を向けていた。

 去り際の台詞に違和感を覚えようとも、追いかけてさらに問い詰めようとはしなかった。本能が不気味な存在の高橋和夫に、あまりかかわるなと警告していた。

「気のせいさ」

 誰にではなく呟いた哲郎は、無理やりにでも高橋和夫の言葉を信じようと決めた。それが一番楽だったからだ。

 明らかに高橋和夫は、水町玲子に特別な感情を抱いている。しかし哲郎と恋人の絆は数々の試練を経て、より強固になっていた。

 運命の赤い糸が見えるのであれば、きっと哲郎と水町玲子の小指は極太の赤い糸で繋がっているはずだった。

 どのような横槍が入ろうとも、しっかりと水町玲子だけを見つめていれば迷ったりしない。自信を持って、断言できるほどに哲郎も成長していた。

 教室へ戻ると、すぐに水町玲子が駆け寄ってきた。周囲は相変わらず、間もなく訪れる卒業式についての話題で盛り上がっている。

 その中でひとり沈痛な面持ちをしていたであろう哲郎を心配してくれたのだ。どことなく不安そうな表情をしてるのが、何よりの証拠だった。

 せっかくの舞台で恋人の少女にこのような顔をさせていてはいけないと、哲郎はやはり強引に高橋和夫の存在を頭から締め出した。

「なんだ、卒業式が始まる前から泣きそうになってるの? 意外と玲子は泣き虫だったんだね」

「え……もう、意外とはないでしょう。私だって多感な女の子ですもの。切なくなったりはするわ」

 少し拗ねた感じの恋人に、哲郎は笑いながら「ごめん、ごめん」と謝る。冗談だとわかりきっていただけに、別に相手も怒ったりしていない。

 むしろ哲郎に少しでも元気が戻ったのを見て、安心しているようでもあった。そこから元気がなかったのは、仲の良い友人と離れるためだと判断したみたいだった。

「頻繁に会ってるようには感じなかったけれど、本当に哲郎君と高橋和夫君は仲が良かったのね。親友と離れるのは寂しいでしょう」

「いや、大丈夫だよ。俺には玲子がいるからね」

「哲郎君たら……でも、嬉しいかな」

 微笑む水町玲子を見て、哲郎は絶対にこの笑顔を手放したりしないと、改めて心の中で強く誓っていた。
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