リセット

桐条京介

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第55話 親孝行

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 今日の教室は、いつも以上のザワめきに包まれていた。理由はひとつ。中間テストの日だからだ。

 普通の授業時間に行うような小テストではなく、一日みっちり使って五教科を行う。成績は廊下へ張り出されるため、生徒たちも必死になる。

 入学して以来初めて、高校で習った問題が出題されるテストになる。それだけに、自身の今の学力レベルを知る重要なイベントでもあった。

 全員が全員、将来を夢見て、難度の高い進学校を受験した生徒たちなのだ。成績を向上させたいと願うのは、当たり前の気持ちだった。

 もちろん哲朗もそのひとり――といいたいところだったが、実はあまり執着していなかった。恋人の少女と同じ大学へ行ければいい程度に考えているため、基本的に学年トップの成績までは求めてないのである。

 だからといって、わざわざ手を抜いて悪い点をとる必要もない。今ある学力で、普通にテストを受ければいいだけだった。

 だが恋人の少女は違う。哲朗に勉強を教えてもらっていたのもあり、少しでも良い点をとろうと気合が入りまくっていた。

 朝のホームルームが終わり、最初の授業時間になる前に「緊張しすぎないようにね」と送ったのだが、あまり効果はみられなかった。

 授業開始の合図が鳴るとすぐに担当の教師が入室してきて、各生徒の机の上にあるものを筆記用具以外片づけさせる。

 そして答案用紙が配られ、中間テストが開始される。最初の教科は、もっとも哲朗が得意としている数学だった。

 すらすらと問題を解いていき、終了時間を待たずに答案用紙を裏返した。見直しも済ませており、抜かりはない。

 横目でチラリと水町玲子の様子を窺うと、一生懸命に数学のテストと格闘している最中だった。心の中で声援を送りつつ、哲朗は目を閉じて割り当てられている時間が終了するのを待った。

 わずかな休み時間になれば、全員が次のテスト科目の教科書を開き、熱心に対策を講じる。哲朗の場合は前日までに済ませており、ある程度の予想もしていた。

 昔懐かしく思える教科書を見ていれば、過去の人生で受けたテストの記憶がおぼろげながらに蘇ってくる。

 そうして手に入れたかすかな情報を元に内容を予測し、哲朗版とも呼べるテストを作り上げた。それをもとに、アルバイトを休ませてもらった前日に、水町玲子と一緒に勉強したのである。

 当の恋人はといえば、休み時間中も一生懸命、哲朗が作った問題を見てテストに備えている。教科書よりも信用してくれているのがわかり、嬉しくなる。

 このようなペースでテストは続けられ、午前中で五教科すべてが終了する。二日に分けて実施する高校もあるが、ここでは一日だけで終わらせるのだ。

「ふう……ようやく終わったね」

 高校での本日のスケジュールが終了するなり、恋人の少女が哲朗の近くへやってきた。

 答案用紙が採点されて返ってくるのは明日になる。なのであとは自由時間だった。

 他の生徒がぞろぞろと帰る中、哲朗と水町玲子も波に飲まれるように下校する。

 途中で学校近くの公園へ立ち寄り、ピクニック気分で家から持参していたお弁当を二人で食べる。

 水町玲子が用意してくれたシートを芝生の上に敷き、そこへ二人並んで座る。

「哲朗君は、テストの手応えはどう? やっぱり今回も、学年トップになるのかな」

 アルバイトが始まるまでの少しの時間。燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、一緒のランチを楽しむ。会話の内容は主にテストについてだった。

 水町玲子は自身のテストの点数がとにかく気になるらしく、お弁当を食べてる間中、ずっと心配していた。

   *

 公園での昼食を終えれば、水町家の工場でのアルバイトが待っている。

 まだまだ一人前とは言い難いものの、それなりに仕事もできるようになっていた。

 工場の機器に関するある程度の知識があったのと、社会人として積んだ経験が存分に哲朗を助けてくれた。

 高校生ながらも、テキパキと作業をする哲朗は決して足手まといにならないため、他の社員たちは使い勝手よさそうにあれこれと指示を出してくる。

 所長である水町玲子の父親の配慮で、すべての作業工程を覚えるように様々な社員の下につかされているので、今のところは広く浅く仕事を覚えている。

 本来なら何十年後の世界に存在しているだけに、パソコンなどを含めた機械系の操作も人並み以上にこなせた。結果、アルバイトながらも重宝されている。

 アルバイト代なんてほとんど期待していなかったのに、初給料は申し訳なくなるぐらいの額だった。

 正社員の給料には到底及ばないものの、高校生が持つにしてはかなり多いほどの金額である。さすがに哲朗は給料袋の中身を見た瞬間に、所長へ返還を申し出た。

 恋人の家族の役に、少しでもたてればいいと始めたアルバイト。貰える給料は何円でも構わなかった。

 けれど水町玲子の父親は「働きに対する正当な報酬」と、哲朗の申し出を却下した。

 あまりにしつこく断るのも相手に失礼なので、好意に甘えて受け取ったものの、使うあてがない。結局アルバイト代の大半は、貯金という形で哲朗の部屋の引き出しに入れられている。

 そんなある日、哲朗はふと両親に何か買ってあげようと考える。そこでアルバイトが休みの日に、珍しく高校から早く帰宅した。

 いつもならアルバイトがなくとも、水町家で玲子と一緒に過ごしてばかりいる。

 たまに場所が哲朗の部屋になることはあっても、恋人と仲良く同じ時間を共有するのには変わりなかった。

 にもかかわらず、今日ばかりは哲朗ひとりの帰宅である。出迎えてくれた母親の梶谷小百合が、驚いて「どうしたの」と尋ねてきた。

「今日は母さんと出かけようかと思ってね。アルバイト代も貯まってるし、何か買ってあげるよ」

 本来の人生では親孝行など何ひとつできないまま、母親は他界してしまった。

 それを考えれば、こうした機会が設けられるのは、哲朗にとって相当の喜びになる。

 唐突に外出へ誘われた梶谷小百合は、水仕事で荒れた手をエプロンで拭きながら「急にどうしたの」と先ほどとほぼ同じ台詞を口にしてくる。

「日頃の感謝の気持ちだよ。別にたいしたことじゃないさ」

 学生時代から同年代の女性と縁がなかった哲朗は、母親と自宅で過ごす時間が多かった。だからといって、マザコンと呼ばれるほどではないと自覚している。

 けれどそれはもしかして、哲朗が高校生の時に母親を失ってしまったからかもしれない。大人になっても存命していたら、一体どのような状況になっていたのか。

 いくら考えても、今の哲朗の答えを導きだせるはずがない。その中でひとつだけはっきりしているのは、生きている母親の姿を見ていられて嬉しいという気持ちだった。

 失った命はどんなに頑張っても、決して取り戻せない。それが世の中の理である。現在の哲朗の状況が特異なだけで、同じような軌跡が誰にでも起こる可能性は限りなくゼロに近い一パーセント程度。要するに、ありえないと断言できるようなシチュエーションなのだ。

 しかし哲朗に限っては、現実にありえている。ゆえに他の人々にすまなく思いながらも、分不相応な権利を幾度も行使させてもらっていた。

 おかげで水町玲子とは順調な交際を継続させているし、こうして母親に恩返しをする機会も手に入れられた。自分はなんと幸福なのだ。哲朗は改めて、そうした思いを強くしていた。

   *

 母親の梶谷小百合が余所行きの服に着替えるのを待ってから、哲朗は一緒に家を出て、近所の商店街へと向かっていた。

 八百屋や魚屋。普段よく利用するお店の他に、少しばかり高級そうな呉服屋なども並んでいる。地元の人間は大半がここで買物をするため、商店街はいつも多くの人で賑わっていた。

「おや、哲朗君。今日は恋人ではなくて、お母さんとお出かけかい?」

 見知った顔の八百屋の店主に、店先でからかわれる。商店街での立ち話も日常生活のひとこまとなってるだけに、哲朗や小百合も当たり前に応じる。

「ええ。珍しく、今日は息子から誘われました」

 少しばかり嬉しそうに微笑んだ母親が、いつもみたいによい商品はないかと店先を覗く。未来のスーパーとは違うレトロな感じが、哲朗に懐かしさを覚えさせる。

 水町玲子関連の出来事が色々ありすぎたせいで、しばらく意識していなかったが、同じ地域でありながら、やはり未来と過去では視界に映る風景が大きく異なる。

 どちらがいいとは一概に言い難い。過去も未来も、それぞれに一長一短のように思える。結局のところ、今を一生懸命に楽しむのが一番なのである。

「母さん。八百屋だったら、帰りに寄ろう」

 哲朗がわざわざ小百合と一緒に外出した目的は、日頃のお礼にプレゼントを買ってあげることだった。

 この時代、都会ならともかく、田舎町に大きなデパートなんて存在しない。玩具なら個人の玩具屋さん。宝石なら宝石屋で買い求めるのが普通なのである。

 和服用の帯のひとつでもと思っていたが、母親の小百合は首を縦に振らなかった。

 代わりに選んだのが、安めのかんざしだった。貯めてあるアルバイト料をすべてつぎ込んでもいいと思っていただけに、拍子抜けしそうになる。

「こう見えて、結構貯められてるんだ。もっと高いのだって、買ってあげられるよ」

 そう言う哲朗に対して、穏やかな表情を浮かべている小百合は、ゆっくりと首を左右に振った。

「値段は関係ないわ。哲朗が初めて働いて稼いだお金で、買ってくれたものなら、お母さんはどんなものでも嬉しいの」

 あまり出費をさせたくないと、こちらに気を遣ってくれてるのはわかったが、それでも母親の梶谷小百合は心から嬉しそうにしていた。

 母親の姿を見ているだけで、哲朗の心も温かくなってくる。本人が喜んでくれるのが一番だと、望まれるままにかんざしを購入してプレゼントする。

「ふふ。似合っているかしら」

 和服姿で外出していた母親は、早速かんざしを身につけ、哲朗にお披露目してきた。

「もちろん似合っているよ」

 ふと哲朗は自らが過ごした本来の人生――つまりは最初の人生で、こんなに楽しそうな母親の笑顔を見たことがあるだろうかと考えた。

 答えは否だ。いつも優しく穏やかに見守ってくれてはいたが、はしゃいでいる姿を記憶の中から見つけ出すのは不可能だった。

「喜んでもらえて嬉しいよ。どこかで食事してから帰ろうか?」

「いいえ。お父さんのために晩御飯を作らないといけないわ。それに今日のお礼に、いつも以上に腕を振るってあげるから、楽しみにしているといいわよ」

 ここ最近は水町家でご馳走になる機会が多かっただけに、自宅での家族団らんを行うケースは極端に減っていた。

 どちらがより楽しいとかはなく、哲朗にとっては両方ともに至福の時間になる。

 従来の人生で十分に親孝行できなかった母親のためにも、今日ばかりは家族全員で食事をとろうと決めた。

「それなら、さっきの八百屋で買物して帰ろうか。今日ばかりは、俺が夕食代を支払うよ」

「その必要はありません。自分のために貯金しておきなさい。哲朗ひとりを食べさせてあげるくらいは、十分にできますから」

 母親として梶谷小百合に凛と告げられれば、子供の哲朗はそれ以上逆らえなかった。

 やはりどこまでいっても親は親で、子は子なのだ。そんな思いを強くした一日になった。
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