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第51話 若社長と呼ばれて
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哲朗が高校へ入学してから、すでに一ヶ月以上が経過しようとしていた。抜き打ちの学力テストなど、慌しさだけが目立っていたが、なんとか無事に切り抜けてきた。
日曜日以外は水町家の工場でアルバイトしており、恋人と過ごす時間は以前に比べると減っていた。それを申し訳ないと思っているのか、勤務後には必ず夕飯をご馳走される。
もはや水町家へ婿入りしてるような雰囲気で、慣れてきた工場で働く従業員たちにも最近はよく冷やかされる。
「ほら、もっと早く手を動かす。そんなんじゃ、会社を任せてもらえないよ、若社長」
「そ、その呼び方は止めてくださいよ」
アルバイトを継続しているうちに、教育係の年輩社員とはすっかり仲良くなっていた。
もとより人付き合いが得意なタイプではなかったが、何度も大人になっていれば、自然に対応方法が身についてくる。
年下の若者らしく先輩の顔を立てながら、逆らわないようにして手際よく指示された仕事をこなしていく。
時には目障りにならない程度に自分で仕事を見つけ、所長に褒められれば教育係の男性のおかげですと伝える。
これで大体は大丈夫なのだが、中には八方美人的な態度を嫌う人間もいるので、たまには自分の意見をはっきりと教育係の男性へぶつけてみる。
怒られるのは必至だが、大抵のケースでは話し合いを継続するうちに、相手もこちらの意図を理解してくれる。
哲朗の意見が採用されるかどうかが問題ではなく、話を聞いてもらえるという事実が大切なのだ。そこさえクリアできれば、あとは二の次だった。
何の責任をとる立場でもない一介のアルバイト風情が、大きな声で喚きたてたところで煩わしいだけだ。
どうしても自分の意見を採用してもらいたいのであれば、細かな仕事でも一生懸命にこなして、自分の価値をきちんと評価してもらってからにするべきである。
社会人生活を経て、嫌というほど学んだことだった。相手がこちらに一目置いてくれていなければ、どんな交渉も徒労に終わる。
よしんば話し合いに応じてもらえたとしても、こちらの要求がストレートに通ったりしない。かなり低く見積もられた挙句に、半ば強引に合意を迫られる。これでは意味がなかった。
だからこそ、どうしても通したい案件があれば胸の内で温めておき、時期を見計らって提出なり提案なりをする。
急を要するのであれば、少しでも立場が上の仲が良い従業員に間を取り持ってもらうのもひとつの手だ。しかしその場合は、手柄の半分もしくはそれ以上を仲介者に持っていかれるのを覚悟する必要が出てくる。
もっとも哲朗の場合は、他者の嫉妬さえ気にしないのであれば、社長へ直接進言する方法もとれる。娘と交際している点を利用した手法なので、他の従業員から反感を食らう確率が高いのが難点だった。
とはいえ水町家の経営する工場は、忙しいわりに和気藹々としている。無意味な喧嘩もなく、全員が誇りを持って仕事をしていた。
工場勤務が初めての哲朗の目にも格好よく映り、油まみれでキツい仕事というイメージは頭の中から一掃されていた。
最初は単純な箱詰め作業だったが、アルバイト日数が増えてくるにつれて、色々な仕事場の説明を受けた。
そのあとでもう一度最初の作業へ戻り、あとは数ヵ月後に持ち場を変えるらしかった。これらはすべて所長こと水町玲子の父親の指示であり、傍から見てれば哲朗に工場内すべての仕事を覚えさせようとしてるとしか思えなかった。
まるで後継者みたいな扱いであり、だからこそ従業員の面々は冷やかし半分で哲朗を若社長なんて呼ぶのである。
その際の水町家の反応といえば、父親はただ笑うだけで、娘の玲子はひたすら恥ずかしそうに照れていた。
*
水町家での夕食。すっかり慣れてしまい、いつの間にやらずいぶんと哲朗にとって居心地の良い空間になっていた。
家族団らんを絵に描いたような食事風景の中でおかわりをし、哲朗のために用意されたお茶碗に白米をたくさん入れてもらう。
あまり好き嫌いのない哲朗だけに、水町玲子の母親の作ってくれるおかずを、すべて美味しく頂いていた。
その食いっぷりが気に入ったらしく、ますます水町玲子の父親は哲朗に好印象を抱いたみたいだった。
「哲朗君も、だいぶ工場でのアルバイトに慣れてきたんじゃないか」
「いえ。まだ一ヶ月と少しですし……戸惑うことばかりです。先輩の従業員の方々のおかげで、なんとか様になって見えているだけですよ」
哲朗がそう言うと、何故か恋人の少女が「謙遜しなくていいよ」と本来、所長の父親が言うべき台詞を口にした。
事務所で経理のアルバイトをするようになり、両親との会話の機会が増えたのか、水町家は以前にも増して仲が良くなっていた。
羨ましいことだと、哲朗は心の中でひとりため息をつく。本来は、自分も両親とそうした関係になりたいと願っていた。
ところが家へ帰る途中で銭湯に寄っていくため、自宅へ戻っても、せっかく起きて待っていてくれる母親と会話もせずに眠る場合がほとんどだった。
親孝行するどころか、真逆の行為をしてるのではないかと、日に日に不安が大きくなる。だからといって、水町家との交流を疎かにするわけにもいかなかった。
最愛の恋人の両親と円満な関係を築くのは、すべて玲子との幸せな生活の下地を作るのに繋がる。
前回の人生で、水町玲子がいかに自分の両親を大切に考えているのか思い知らされた。それでも天秤にかけた際には哲朗を選んでくれた。
なにより嬉しい思い出のひとつではあるものの、だからこそ今回の人生では恋人の少女に家族と一緒の楽しい生活をプレゼントしたかった。
そういう意味で考えれば、哲朗が水町家の婿になるのが一番手っ取り早い。しかし、事はそう単純ではない。兄弟がたくさんいるこの時代において、とても珍しいことに両家とも子供はひとりしかいないのである。
ゆえに水町家からすれば、婿が欲しいのは当然だった。だが梶谷家でも嫁を迎え、家に入ってもらいたいと考えるだろう。もの凄く難しい問題になりそうだった。
しかし今は将来を考えるより、どうやって今を精一杯に楽しんでいくかだ。そうでなければ、何度も人生をやり直している意味がなかった。
他の人間が辿る道を塞いでまで、哲朗は己の人生を望む形へ変えてきた。後ろめたさを覚えても、今さら引き返すなんて選択はできそうもなかった。
例のスイッチを使えば過去をやり直せるが、それはすなわち哲朗も水町玲子も不幸せになる未来を選ぶ形になる。過去の人生で繰り返してきた苦い思いをするのは、もうごめんだった。
あまり深く考えていても仕方ないと、哲朗は水町家との会話をしながらの夕食へ意識を戻す。恋人の少女の父親がまだ哲朗を褒めてくれていたみたいだった。
「周りの人への感謝を忘れないのは、哲朗君の長所のひとつだな。玲子も見習うんだぞ」
「わかっています。もちろん、お父さんやお母さんにも感謝しています。なにせ、哲朗君との交際を認めてくれましたからね」
娘の発言を受けて、これは一本とられたとばかりに、玲子の父親が自分の額をピシャリと叩いた。
元から厳しすぎる経営者ではないけれど、さすがに仕事中は真剣な表情になっている。砕けた雰囲気でおどけられるのも、自宅がもたらしてくれる安心感のおかげだろう。
冷静に相手の家庭を分析しつつも、哲朗はいつもみたいに終始、謙虚な態度と台詞で場の空気を壊さないように心がける。
*
「ただいまー」
いつものように水町家からの帰り道の途中で銭湯へ寄り、身体を綺麗にしてから哲朗は自宅へ戻ってきた。
声を聞くなり、すぐに母親の梶谷小百合が玄関まで出迎えてくれる。毎日のことになりつつあるので、夜遅い帰宅を咎められたりはしない。
「お帰りなさい。今日も、水町さんのお宅でご馳走になってきたの」
「うん。バイト帰りにね。断るのも申し訳ないし、ご好意に甘えてきた」
哲朗の一番の楽しみは食事よりも、そのあとに玲子の部屋で一緒に勉強できる点だった。
哲朗は水町家の両親の信頼を十分に勝ち取っており、不届きな真似はしないと信用されている。証拠に、夜でも二人きりになるのを許可してもらっていた。
せっかくの期待を裏切るわけにはいかないため、哲朗と水町玲子の交際は高校生らしく、プラトニック一色だった。
身体は高校生でも、知識は並みの大人よりもずっと成長している。だからこそ、まだ成長しきっていない恋人に手を出すのは躊躇われた。
それがなくとも、交際経験すらなかった哲朗である。何をどうしたらいいのかも、まったくといっていいくらいわからなかった。
時期がくればなるようになる。そうした待ちの構えでゆったりとしていれば、精神的な結びつきがあるだけで幸せに思えた。
これも最高で、六十余年も生きた経験を持つ哲朗ならではだろう。一般の高校生同士の付き合いであったならば、こうはいかなかった可能性もある。
若さゆえの過ちを犯す確率が極端に低い代わりに、若さならではの勢いで人生を生き抜く度胸も失っている。どちらがいいかはわからないが、とりあえず哲朗は今の自分に満足している。
本来なら異性とまともに会話もできなかった自分が、高校生の身分でありながら、恋人の家でアルバイトをして、一緒に食事をしたりする文字どおりの青春の日々を送っている。
高校生活といえば、勉強ひと筋の記憶しかない哲朗には、最近の日々の中で紡がれる風景はすべてが新鮮で楽しかった。
「そうなの……お腹の方は大丈夫? よかったら、夜食を用意しましょうか」
せっかくの申し出ではあるものの、疲れてる哲朗は早く布団に入ろうと考えた。しかし急に親孝行の文字が脳裏へ浮かんできて、即座に行動へ移すのを躊躇わせた。
アルバイトに慣れてきたのもあり、ほんの少しではあっても、当初よりは体力に余裕がある。母親と会話をするくらいなら、大丈夫だろうと判断を変更した。
「じゃあ、軽く……もらおうかな」
普段は「いらない」のひと言だけで、自分の部屋へ入っていた。そんな哲朗が床に座ったのを見て、母親の梶谷小百合はとても嬉しそうな顔をした。
ほとんど会話がなかっただけに、母親も寂しかったのかもしれない。最初の人生を思い出してみても、哲朗とは仲が良かった記憶しか残ってなかった。
哲朗自身も母親の存在を好意的に捉えており、反抗期みたいなのはなかったはずだ。それだけに過去へ戻ってきた当初は、若々しく元気な梶谷小百合の姿に、涙さえ流しそうになった。
その感動もどこへやら。いるのが当たり前みたいに思えるような現在では、母親の存在を軽々に考えすぎていたかもしれない。自身の行動を反省しつつも、やはり水町玲子優先の生活だけは変えられないという結論へ達してしまう。
母親が用意してくれたお茶漬けを適度に食していると、父親の梶谷哲也も居間へやってきた。哲朗が帰ってきたのを知って、わざわざ出てきたのかもしれない。
あまりにも毎日帰りが遅いので、お説教でもされるのかと一瞬だけ身構える。しかし父親は「こちらにもお茶漬けをくれないか」と予想外の行動に出た。
いつもの自分のポジションに座り、梶谷小百合に用意してもらったお茶漬けを、哲朗と同じようにゆっくりと食べ始めたのである。
日曜日以外は水町家の工場でアルバイトしており、恋人と過ごす時間は以前に比べると減っていた。それを申し訳ないと思っているのか、勤務後には必ず夕飯をご馳走される。
もはや水町家へ婿入りしてるような雰囲気で、慣れてきた工場で働く従業員たちにも最近はよく冷やかされる。
「ほら、もっと早く手を動かす。そんなんじゃ、会社を任せてもらえないよ、若社長」
「そ、その呼び方は止めてくださいよ」
アルバイトを継続しているうちに、教育係の年輩社員とはすっかり仲良くなっていた。
もとより人付き合いが得意なタイプではなかったが、何度も大人になっていれば、自然に対応方法が身についてくる。
年下の若者らしく先輩の顔を立てながら、逆らわないようにして手際よく指示された仕事をこなしていく。
時には目障りにならない程度に自分で仕事を見つけ、所長に褒められれば教育係の男性のおかげですと伝える。
これで大体は大丈夫なのだが、中には八方美人的な態度を嫌う人間もいるので、たまには自分の意見をはっきりと教育係の男性へぶつけてみる。
怒られるのは必至だが、大抵のケースでは話し合いを継続するうちに、相手もこちらの意図を理解してくれる。
哲朗の意見が採用されるかどうかが問題ではなく、話を聞いてもらえるという事実が大切なのだ。そこさえクリアできれば、あとは二の次だった。
何の責任をとる立場でもない一介のアルバイト風情が、大きな声で喚きたてたところで煩わしいだけだ。
どうしても自分の意見を採用してもらいたいのであれば、細かな仕事でも一生懸命にこなして、自分の価値をきちんと評価してもらってからにするべきである。
社会人生活を経て、嫌というほど学んだことだった。相手がこちらに一目置いてくれていなければ、どんな交渉も徒労に終わる。
よしんば話し合いに応じてもらえたとしても、こちらの要求がストレートに通ったりしない。かなり低く見積もられた挙句に、半ば強引に合意を迫られる。これでは意味がなかった。
だからこそ、どうしても通したい案件があれば胸の内で温めておき、時期を見計らって提出なり提案なりをする。
急を要するのであれば、少しでも立場が上の仲が良い従業員に間を取り持ってもらうのもひとつの手だ。しかしその場合は、手柄の半分もしくはそれ以上を仲介者に持っていかれるのを覚悟する必要が出てくる。
もっとも哲朗の場合は、他者の嫉妬さえ気にしないのであれば、社長へ直接進言する方法もとれる。娘と交際している点を利用した手法なので、他の従業員から反感を食らう確率が高いのが難点だった。
とはいえ水町家の経営する工場は、忙しいわりに和気藹々としている。無意味な喧嘩もなく、全員が誇りを持って仕事をしていた。
工場勤務が初めての哲朗の目にも格好よく映り、油まみれでキツい仕事というイメージは頭の中から一掃されていた。
最初は単純な箱詰め作業だったが、アルバイト日数が増えてくるにつれて、色々な仕事場の説明を受けた。
そのあとでもう一度最初の作業へ戻り、あとは数ヵ月後に持ち場を変えるらしかった。これらはすべて所長こと水町玲子の父親の指示であり、傍から見てれば哲朗に工場内すべての仕事を覚えさせようとしてるとしか思えなかった。
まるで後継者みたいな扱いであり、だからこそ従業員の面々は冷やかし半分で哲朗を若社長なんて呼ぶのである。
その際の水町家の反応といえば、父親はただ笑うだけで、娘の玲子はひたすら恥ずかしそうに照れていた。
*
水町家での夕食。すっかり慣れてしまい、いつの間にやらずいぶんと哲朗にとって居心地の良い空間になっていた。
家族団らんを絵に描いたような食事風景の中でおかわりをし、哲朗のために用意されたお茶碗に白米をたくさん入れてもらう。
あまり好き嫌いのない哲朗だけに、水町玲子の母親の作ってくれるおかずを、すべて美味しく頂いていた。
その食いっぷりが気に入ったらしく、ますます水町玲子の父親は哲朗に好印象を抱いたみたいだった。
「哲朗君も、だいぶ工場でのアルバイトに慣れてきたんじゃないか」
「いえ。まだ一ヶ月と少しですし……戸惑うことばかりです。先輩の従業員の方々のおかげで、なんとか様になって見えているだけですよ」
哲朗がそう言うと、何故か恋人の少女が「謙遜しなくていいよ」と本来、所長の父親が言うべき台詞を口にした。
事務所で経理のアルバイトをするようになり、両親との会話の機会が増えたのか、水町家は以前にも増して仲が良くなっていた。
羨ましいことだと、哲朗は心の中でひとりため息をつく。本来は、自分も両親とそうした関係になりたいと願っていた。
ところが家へ帰る途中で銭湯に寄っていくため、自宅へ戻っても、せっかく起きて待っていてくれる母親と会話もせずに眠る場合がほとんどだった。
親孝行するどころか、真逆の行為をしてるのではないかと、日に日に不安が大きくなる。だからといって、水町家との交流を疎かにするわけにもいかなかった。
最愛の恋人の両親と円満な関係を築くのは、すべて玲子との幸せな生活の下地を作るのに繋がる。
前回の人生で、水町玲子がいかに自分の両親を大切に考えているのか思い知らされた。それでも天秤にかけた際には哲朗を選んでくれた。
なにより嬉しい思い出のひとつではあるものの、だからこそ今回の人生では恋人の少女に家族と一緒の楽しい生活をプレゼントしたかった。
そういう意味で考えれば、哲朗が水町家の婿になるのが一番手っ取り早い。しかし、事はそう単純ではない。兄弟がたくさんいるこの時代において、とても珍しいことに両家とも子供はひとりしかいないのである。
ゆえに水町家からすれば、婿が欲しいのは当然だった。だが梶谷家でも嫁を迎え、家に入ってもらいたいと考えるだろう。もの凄く難しい問題になりそうだった。
しかし今は将来を考えるより、どうやって今を精一杯に楽しんでいくかだ。そうでなければ、何度も人生をやり直している意味がなかった。
他の人間が辿る道を塞いでまで、哲朗は己の人生を望む形へ変えてきた。後ろめたさを覚えても、今さら引き返すなんて選択はできそうもなかった。
例のスイッチを使えば過去をやり直せるが、それはすなわち哲朗も水町玲子も不幸せになる未来を選ぶ形になる。過去の人生で繰り返してきた苦い思いをするのは、もうごめんだった。
あまり深く考えていても仕方ないと、哲朗は水町家との会話をしながらの夕食へ意識を戻す。恋人の少女の父親がまだ哲朗を褒めてくれていたみたいだった。
「周りの人への感謝を忘れないのは、哲朗君の長所のひとつだな。玲子も見習うんだぞ」
「わかっています。もちろん、お父さんやお母さんにも感謝しています。なにせ、哲朗君との交際を認めてくれましたからね」
娘の発言を受けて、これは一本とられたとばかりに、玲子の父親が自分の額をピシャリと叩いた。
元から厳しすぎる経営者ではないけれど、さすがに仕事中は真剣な表情になっている。砕けた雰囲気でおどけられるのも、自宅がもたらしてくれる安心感のおかげだろう。
冷静に相手の家庭を分析しつつも、哲朗はいつもみたいに終始、謙虚な態度と台詞で場の空気を壊さないように心がける。
*
「ただいまー」
いつものように水町家からの帰り道の途中で銭湯へ寄り、身体を綺麗にしてから哲朗は自宅へ戻ってきた。
声を聞くなり、すぐに母親の梶谷小百合が玄関まで出迎えてくれる。毎日のことになりつつあるので、夜遅い帰宅を咎められたりはしない。
「お帰りなさい。今日も、水町さんのお宅でご馳走になってきたの」
「うん。バイト帰りにね。断るのも申し訳ないし、ご好意に甘えてきた」
哲朗の一番の楽しみは食事よりも、そのあとに玲子の部屋で一緒に勉強できる点だった。
哲朗は水町家の両親の信頼を十分に勝ち取っており、不届きな真似はしないと信用されている。証拠に、夜でも二人きりになるのを許可してもらっていた。
せっかくの期待を裏切るわけにはいかないため、哲朗と水町玲子の交際は高校生らしく、プラトニック一色だった。
身体は高校生でも、知識は並みの大人よりもずっと成長している。だからこそ、まだ成長しきっていない恋人に手を出すのは躊躇われた。
それがなくとも、交際経験すらなかった哲朗である。何をどうしたらいいのかも、まったくといっていいくらいわからなかった。
時期がくればなるようになる。そうした待ちの構えでゆったりとしていれば、精神的な結びつきがあるだけで幸せに思えた。
これも最高で、六十余年も生きた経験を持つ哲朗ならではだろう。一般の高校生同士の付き合いであったならば、こうはいかなかった可能性もある。
若さゆえの過ちを犯す確率が極端に低い代わりに、若さならではの勢いで人生を生き抜く度胸も失っている。どちらがいいかはわからないが、とりあえず哲朗は今の自分に満足している。
本来なら異性とまともに会話もできなかった自分が、高校生の身分でありながら、恋人の家でアルバイトをして、一緒に食事をしたりする文字どおりの青春の日々を送っている。
高校生活といえば、勉強ひと筋の記憶しかない哲朗には、最近の日々の中で紡がれる風景はすべてが新鮮で楽しかった。
「そうなの……お腹の方は大丈夫? よかったら、夜食を用意しましょうか」
せっかくの申し出ではあるものの、疲れてる哲朗は早く布団に入ろうと考えた。しかし急に親孝行の文字が脳裏へ浮かんできて、即座に行動へ移すのを躊躇わせた。
アルバイトに慣れてきたのもあり、ほんの少しではあっても、当初よりは体力に余裕がある。母親と会話をするくらいなら、大丈夫だろうと判断を変更した。
「じゃあ、軽く……もらおうかな」
普段は「いらない」のひと言だけで、自分の部屋へ入っていた。そんな哲朗が床に座ったのを見て、母親の梶谷小百合はとても嬉しそうな顔をした。
ほとんど会話がなかっただけに、母親も寂しかったのかもしれない。最初の人生を思い出してみても、哲朗とは仲が良かった記憶しか残ってなかった。
哲朗自身も母親の存在を好意的に捉えており、反抗期みたいなのはなかったはずだ。それだけに過去へ戻ってきた当初は、若々しく元気な梶谷小百合の姿に、涙さえ流しそうになった。
その感動もどこへやら。いるのが当たり前みたいに思えるような現在では、母親の存在を軽々に考えすぎていたかもしれない。自身の行動を反省しつつも、やはり水町玲子優先の生活だけは変えられないという結論へ達してしまう。
母親が用意してくれたお茶漬けを適度に食していると、父親の梶谷哲也も居間へやってきた。哲朗が帰ってきたのを知って、わざわざ出てきたのかもしれない。
あまりにも毎日帰りが遅いので、お説教でもされるのかと一瞬だけ身構える。しかし父親は「こちらにもお茶漬けをくれないか」と予想外の行動に出た。
いつもの自分のポジションに座り、梶谷小百合に用意してもらったお茶漬けを、哲朗と同じようにゆっくりと食べ始めたのである。
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