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第50話 初めてのアルバイト
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翌日から、本格的な哲朗の高校生活がスタートする。日中は普通に登校して勉強し、放課後になれば真っ直ぐに帰宅後、水町家へアルバイトをしにいく。
哲朗の通う高校は、本来なら在校生全員が何かしらの部活動をする必要があった。けれど生活に必要なアルバイトなどの理由で、教師から許可がもらえれば特例として免除される。
それを知った哲朗は例の教育指導の男性教師のもとへ赴き、アルバイトの許可を求めた。もちろん、水町玲子も一緒である。
アルバイトをすれば成績が下がる。教師たちの懸念が現実にならないよう、基本的にそちらも禁止されている。代わりに生活が困窮を極めている生徒のために、奨学金制度も他と比べて充実していた。
だがやはり何にでも、特例というのは存在する。哲朗の優秀な学力を目の当たりにした教育指導や担任は特別にとアルバイトの許可をくれた。
一流大学へ進学するための費用を稼ぐため――。教員たちが一番納得できる理由を用意し、ぶつけた結果に見事勝ち取った。水町玲子の場合はアルバイトというより、家の手伝いをするという形になった。
そうなれば厳密にアルバイトではないので、学校側からは何の口出しもできない。これは担任教師が授けてくれた知恵だった。
ありがたく思っている哲朗に、教師たちは成績が下降したらアルバイトをすぐに辞めるという条件を突きつけてきた。一見すれば不条理にも思えるが、元々は禁止されているのを特例で認めてもらったのだ。その程度の制約はあって当然である。
すべてを承諾した哲朗は、こうして水町家でアルバイトができるようになった。そして、今日が記念すべき一日目となる。水町工場の所長でもある玲子の父親に従業員をひととおり紹介されたあと、年輩の男性社員の下で働くように指示される。
昔から水町工場で働いているベテランらしく、人柄と仕事の腕を考慮されて、哲朗の教育係に任命されたみたいだった。
「アルバイトでも、従業員に変わりはねえからな。きっちり働いてくれや」
言葉遣いは乱暴だが、ニカっとした際の歯の抜けた笑顔はどこか愛嬌を感じさせる。小柄ながらも腕っ節は相当なもので、仮に喧嘩を売ったとしても、わずか数分で返り討ちにあうのは想像に難くない。
もっとも最初からそんなつもりないので、無用の心配だった。教育係の男性社員へ丁寧に挨拶をしてから、水町工場で組み立てている部品等についての説明を受ける。
未来で言うところの完全な中小企業で、大企業が発売している商品の様々な部品の生産と納入を行っている。テレビや冷蔵庫など、日本全体の内需が拡大しているので、工場はかなりの好景気に包まれているみたいだった。
借金をしてまで導入した機械がおおいに役立っているようで、水町玲子の父親の判断が大当たりした結果だった。従業員の顔にも活気が満ちており、物作りの日本と呼ばれる現場をリアルタイムで目撃している。
本来なら将来は信用金庫の行員として、デスク上に並べられた書類とにらめっこする予定になっている。けれど、すでに過去は多分に変えられている。同時に哲朗の前にある選択肢も、従来よりもずっと増えていた。
高校を卒業すると同時に工場へ就職し、そのまま大好きな水町玲子との未来を考えるのもひとつの道だった。アルバイトを紹介してくれたのだから、恋人の父親も嫌な顔はしないだろう。
とはいえ、水町玲子本人は大学へ行きたがるかもしれないので、現在の時点で性急に将来について決める必要はなかった。
「と、まあ、こんなところだ。大体は把握できたか」
「はい。わかりました」
工場へ勤務する前に哲朗は学生服から専用の作業着に、他の従業員も使っているロッカーで着替えさせられている。いつの間に準備していたのか、胸ポケットのところには所有者の哲朗の名前が書かれていた。
*
アルバイト初日にして、簡単な作業とはいえ、哲朗にも役割が割り当てられていた。出来上がった部品を並べて箱へ詰めるだけだが、工場勤務が初めての哲朗はそれなりの緊張感を覚える。
単調な工程なので、今日のアルバイトが終わる頃にはだいぶ手馴れてきたが、疲労感は想定していたよりもずっと強かった。
午後七時になり、哲朗のアルバイト時間が終了する。基本的に午後四時からの三時間勤務になっていた。
ひとつため息をついてから、ロッカーへ向かう。まだ残業をしている人がいるのに、仕事を終えるのは気がひけたが、アルバイトが正社員の人間にそこまで気を遣うのは逆に失礼になるかもしれない。
そう考えて素直に勤務を終了すると、哲朗は事務所に呼ばれた。そこには水町玲子の父親だけでなく、制服姿のままの玲子本人もいた。
「哲朗君、お疲れ様。初めてのアルバイトはどうだったかな」
「はい。新鮮でしたけど、疲れました」
哲朗の言葉に、社長は「そうだろう」と大きな声で笑った。その横には、鉛筆で帳簿に色々と書き込んでいる水町玲子がいる。
ロッカーで作業着を脱いだ哲朗は、再び学生服を着て事務所へ来ていた。タイムカードを押す機械が事務所にあるので、他の従業員の方々も続々とやってくる。
ひとりひとりにきちんと「お疲れ様でした」と挨拶してから、哲朗は恋人の少女が座っている席へ近づいた。
哲朗が工場勤務のアルバイトをしている間、水町玲子は事務所で経理の手伝いをすると事前に聞いていた。
いつもは玲子の母親が担当しており、年度末になれば税理士へ様々な書類の提出を依頼する。
信用金庫で行員を勤めていた経験を過去の人生でしている哲郎だけに、そうした書類の記入方法等もある程度は理解していた。
「もう少し待ってね。私もお父さんに頼まれたところを、終わらせるから。そうしたら、一緒に晩御飯を食べましょう」
「え。でも、さすがに毎日ご馳走になって帰るわけには……」
考えてみれば、自宅で両親と一緒に食事する機会は、ここ最近になってグッと減っていた。
親孝行をしようと決めたばかりだっただけに、今日くらいは早めに自宅へ戻ろうと考えていた。
その旨を告げようとしたのだが、最愛の恋人が先ほどまでの笑顔から一転、急に不機嫌そうになってしまった。
なにごとかと慌ててるところへ「哲朗君は、私と一緒にご飯を食べたくないのね」なんて言葉が飛んできた。
完全に誤解されている。なんとか釈明しようとするも、すねてしまった恋人はなかなか話を聞いてくれようとしない。こうなると、もはや哲朗に選択権はなかった。
「わかったよ。それじゃあ、ご馳走になって帰るから。これで、俺が玲子と食事するのを嫌がってないってわかるだろ」
降参した哲朗が恋人の意にそう選択をすると、途端に嬉しそうな顔をする。笑顔があまりにも可愛くて、仕方ないなと思えてくる。
恋愛経験の乏しい哲朗にはこれまでまったくわからなかったが、これが惚れた弱みというやつなのだろうか。近くで一連のやりとりを眺めていた恋人の父親が、ずっと楽しげにニヤニヤしている。
「早くも哲朗君は、玲子の尻にしかれているみたいだな。将来はカカア天下になりそうだ」
「ちょっ――お、お父さんってば。あまり変なことを言わないで。帳簿に間違って記入してしまうかもしれないわよ」
もう少しだけ照れる恋人を見ていたかったが、玲子の父親は「それは困るな」とからかうのを止めてしまった。
代わりに哲朗がからかってもあまり意味がないどころか、逆効果になりそうだったので、黙って水町玲子の仕事が終わるのを待つことにする。
*
「あれ……ここ、数字が違うんじゃないかな」
背後から恋人の仕事ぶりを観察している途中で、哲朗はふとした違和感を覚えた。正体を探っていくと、帳簿上での計算ミスを発見した。
まったく気づいてなかった恋人は哲朗の指摘に慌て、自分が書いてきた帳簿のチェックを開始する。
「ほら、ここだよ。備品の減価償却費の欄。計算を間違えてるんじゃないかな」
信用金庫にいた経験のある哲朗にとって、帳簿関連は得意分野でもある。わかりやすく恋人の少女に教えて、間違いを訂正させる。
よくよく見ると、水町玲子が担当している帳簿は昨年ので、現在の経理にはなんら影響の出ないものだった。さすがに、いかに実の娘でもいきなり本物の経理をやらせられなかったのだろう。
まずは過去の決算等で使用した書類などで、どのように経理をしていくか練習させているのだ。これならば失敗しても会社自体にダメージはないし、実際の収支を元にしているからより現実的な勉強になる。
父親と母親のどちらが考えたかはわからないが、水町玲子の経理の腕を上昇させるには効果的な手段に思えた。
「本当だ。哲朗君って、凄いね。何でも知っているみたい」
哲朗の知識には恋人の少女だけでなく、その父親も感嘆の声を上げた。
「工場の備品に興味を持っていたくらいだから、経理に精通していても不思議はないのかもしれないが、それにしても優秀なのは確かだね」
「すみません。出すぎた真似でしたでしょうか」
失敗を前提にして練習させていたのだとしたら、下手に助け舟を出すのは水町玲子のためにならない。娘を鍛えようとしていた所長の計画を、狂わせた可能性もある。
しかし水町玲子の父親は「そんなことはない」と嬉しそうに笑ったあとで、哲朗をここぞとばかりに褒めてくる。
「学校の勉強だけでなく、経理の数字にも強いとなれば、仮に玲子と別れたとしても、ここでのアルバイトを続行してもらいたいくらいだよ」
所長はジョークのつもりだったのだろうが、ひとりだけ納得できない人間がいた。娘の水町玲子である。
「お父さん。冗談でも、そんなことを言わないでください。私と哲朗君は、絶対に別れたりなんてしません。そうだよね」
同意を突然に求められた哲朗は瞬時に反応しきれず、間の抜けた声で「え?」と返すだけの失態を演じてしまった。
本来の哲朗は女性心に鈍さ全開なので、このような応対をするのは日常茶飯事だった。元々は、異性と会話する機会さえ少ない人生を送ってきたのだ。
だが人生をやり直しているうちに、少しずつ女性に対する免疫もできてきている。おかげですぐに、間違ったリアクションをしたと気づけた。
水町玲子が新たな反応をする前に、急いで「そのとおりです。僕は玲子さんを本気で好いてますから」と愛の告白を相手の父親の前で行った。
意外にロマンチストな一面がある水町玲子は、哲朗の行動を男らしいと評価してくれたみたいで、余計な混乱を招く事態だけはなんとか防げた。
全力で安堵している哲朗の心情を察したのか、水町玲子の父親が肩に優しく手を置いてきた。
「もちろんだとも。そうでなければ、娘との交際を許可していないよ。これからも玲子をよろしく頼むよ、哲朗君」
哲朗が「わかりました」と応じたところで、ミスの修正も含めて玲子の仕事も終了したみたいだった。
怒ったり笑ったりしながらも、きっちり手だけは動かしている点は、しっかりした両親の血を引いているだけあった。
他人を信用しやすい性格も受け継いでいるみたいだが、それは哲朗が側にいてフォローするつもりだった。
田所六郎たちが計画した運営資金の持ち逃げみたいな計画で、水町家が不幸になるのだけは絶対に阻止してみせる。それが哲朗の使命のようにも思えた。
哲朗の通う高校は、本来なら在校生全員が何かしらの部活動をする必要があった。けれど生活に必要なアルバイトなどの理由で、教師から許可がもらえれば特例として免除される。
それを知った哲朗は例の教育指導の男性教師のもとへ赴き、アルバイトの許可を求めた。もちろん、水町玲子も一緒である。
アルバイトをすれば成績が下がる。教師たちの懸念が現実にならないよう、基本的にそちらも禁止されている。代わりに生活が困窮を極めている生徒のために、奨学金制度も他と比べて充実していた。
だがやはり何にでも、特例というのは存在する。哲朗の優秀な学力を目の当たりにした教育指導や担任は特別にとアルバイトの許可をくれた。
一流大学へ進学するための費用を稼ぐため――。教員たちが一番納得できる理由を用意し、ぶつけた結果に見事勝ち取った。水町玲子の場合はアルバイトというより、家の手伝いをするという形になった。
そうなれば厳密にアルバイトではないので、学校側からは何の口出しもできない。これは担任教師が授けてくれた知恵だった。
ありがたく思っている哲朗に、教師たちは成績が下降したらアルバイトをすぐに辞めるという条件を突きつけてきた。一見すれば不条理にも思えるが、元々は禁止されているのを特例で認めてもらったのだ。その程度の制約はあって当然である。
すべてを承諾した哲朗は、こうして水町家でアルバイトができるようになった。そして、今日が記念すべき一日目となる。水町工場の所長でもある玲子の父親に従業員をひととおり紹介されたあと、年輩の男性社員の下で働くように指示される。
昔から水町工場で働いているベテランらしく、人柄と仕事の腕を考慮されて、哲朗の教育係に任命されたみたいだった。
「アルバイトでも、従業員に変わりはねえからな。きっちり働いてくれや」
言葉遣いは乱暴だが、ニカっとした際の歯の抜けた笑顔はどこか愛嬌を感じさせる。小柄ながらも腕っ節は相当なもので、仮に喧嘩を売ったとしても、わずか数分で返り討ちにあうのは想像に難くない。
もっとも最初からそんなつもりないので、無用の心配だった。教育係の男性社員へ丁寧に挨拶をしてから、水町工場で組み立てている部品等についての説明を受ける。
未来で言うところの完全な中小企業で、大企業が発売している商品の様々な部品の生産と納入を行っている。テレビや冷蔵庫など、日本全体の内需が拡大しているので、工場はかなりの好景気に包まれているみたいだった。
借金をしてまで導入した機械がおおいに役立っているようで、水町玲子の父親の判断が大当たりした結果だった。従業員の顔にも活気が満ちており、物作りの日本と呼ばれる現場をリアルタイムで目撃している。
本来なら将来は信用金庫の行員として、デスク上に並べられた書類とにらめっこする予定になっている。けれど、すでに過去は多分に変えられている。同時に哲朗の前にある選択肢も、従来よりもずっと増えていた。
高校を卒業すると同時に工場へ就職し、そのまま大好きな水町玲子との未来を考えるのもひとつの道だった。アルバイトを紹介してくれたのだから、恋人の父親も嫌な顔はしないだろう。
とはいえ、水町玲子本人は大学へ行きたがるかもしれないので、現在の時点で性急に将来について決める必要はなかった。
「と、まあ、こんなところだ。大体は把握できたか」
「はい。わかりました」
工場へ勤務する前に哲朗は学生服から専用の作業着に、他の従業員も使っているロッカーで着替えさせられている。いつの間に準備していたのか、胸ポケットのところには所有者の哲朗の名前が書かれていた。
*
アルバイト初日にして、簡単な作業とはいえ、哲朗にも役割が割り当てられていた。出来上がった部品を並べて箱へ詰めるだけだが、工場勤務が初めての哲朗はそれなりの緊張感を覚える。
単調な工程なので、今日のアルバイトが終わる頃にはだいぶ手馴れてきたが、疲労感は想定していたよりもずっと強かった。
午後七時になり、哲朗のアルバイト時間が終了する。基本的に午後四時からの三時間勤務になっていた。
ひとつため息をついてから、ロッカーへ向かう。まだ残業をしている人がいるのに、仕事を終えるのは気がひけたが、アルバイトが正社員の人間にそこまで気を遣うのは逆に失礼になるかもしれない。
そう考えて素直に勤務を終了すると、哲朗は事務所に呼ばれた。そこには水町玲子の父親だけでなく、制服姿のままの玲子本人もいた。
「哲朗君、お疲れ様。初めてのアルバイトはどうだったかな」
「はい。新鮮でしたけど、疲れました」
哲朗の言葉に、社長は「そうだろう」と大きな声で笑った。その横には、鉛筆で帳簿に色々と書き込んでいる水町玲子がいる。
ロッカーで作業着を脱いだ哲朗は、再び学生服を着て事務所へ来ていた。タイムカードを押す機械が事務所にあるので、他の従業員の方々も続々とやってくる。
ひとりひとりにきちんと「お疲れ様でした」と挨拶してから、哲朗は恋人の少女が座っている席へ近づいた。
哲朗が工場勤務のアルバイトをしている間、水町玲子は事務所で経理の手伝いをすると事前に聞いていた。
いつもは玲子の母親が担当しており、年度末になれば税理士へ様々な書類の提出を依頼する。
信用金庫で行員を勤めていた経験を過去の人生でしている哲郎だけに、そうした書類の記入方法等もある程度は理解していた。
「もう少し待ってね。私もお父さんに頼まれたところを、終わらせるから。そうしたら、一緒に晩御飯を食べましょう」
「え。でも、さすがに毎日ご馳走になって帰るわけには……」
考えてみれば、自宅で両親と一緒に食事する機会は、ここ最近になってグッと減っていた。
親孝行をしようと決めたばかりだっただけに、今日くらいは早めに自宅へ戻ろうと考えていた。
その旨を告げようとしたのだが、最愛の恋人が先ほどまでの笑顔から一転、急に不機嫌そうになってしまった。
なにごとかと慌ててるところへ「哲朗君は、私と一緒にご飯を食べたくないのね」なんて言葉が飛んできた。
完全に誤解されている。なんとか釈明しようとするも、すねてしまった恋人はなかなか話を聞いてくれようとしない。こうなると、もはや哲朗に選択権はなかった。
「わかったよ。それじゃあ、ご馳走になって帰るから。これで、俺が玲子と食事するのを嫌がってないってわかるだろ」
降参した哲朗が恋人の意にそう選択をすると、途端に嬉しそうな顔をする。笑顔があまりにも可愛くて、仕方ないなと思えてくる。
恋愛経験の乏しい哲朗にはこれまでまったくわからなかったが、これが惚れた弱みというやつなのだろうか。近くで一連のやりとりを眺めていた恋人の父親が、ずっと楽しげにニヤニヤしている。
「早くも哲朗君は、玲子の尻にしかれているみたいだな。将来はカカア天下になりそうだ」
「ちょっ――お、お父さんってば。あまり変なことを言わないで。帳簿に間違って記入してしまうかもしれないわよ」
もう少しだけ照れる恋人を見ていたかったが、玲子の父親は「それは困るな」とからかうのを止めてしまった。
代わりに哲朗がからかってもあまり意味がないどころか、逆効果になりそうだったので、黙って水町玲子の仕事が終わるのを待つことにする。
*
「あれ……ここ、数字が違うんじゃないかな」
背後から恋人の仕事ぶりを観察している途中で、哲朗はふとした違和感を覚えた。正体を探っていくと、帳簿上での計算ミスを発見した。
まったく気づいてなかった恋人は哲朗の指摘に慌て、自分が書いてきた帳簿のチェックを開始する。
「ほら、ここだよ。備品の減価償却費の欄。計算を間違えてるんじゃないかな」
信用金庫にいた経験のある哲朗にとって、帳簿関連は得意分野でもある。わかりやすく恋人の少女に教えて、間違いを訂正させる。
よくよく見ると、水町玲子が担当している帳簿は昨年ので、現在の経理にはなんら影響の出ないものだった。さすがに、いかに実の娘でもいきなり本物の経理をやらせられなかったのだろう。
まずは過去の決算等で使用した書類などで、どのように経理をしていくか練習させているのだ。これならば失敗しても会社自体にダメージはないし、実際の収支を元にしているからより現実的な勉強になる。
父親と母親のどちらが考えたかはわからないが、水町玲子の経理の腕を上昇させるには効果的な手段に思えた。
「本当だ。哲朗君って、凄いね。何でも知っているみたい」
哲朗の知識には恋人の少女だけでなく、その父親も感嘆の声を上げた。
「工場の備品に興味を持っていたくらいだから、経理に精通していても不思議はないのかもしれないが、それにしても優秀なのは確かだね」
「すみません。出すぎた真似でしたでしょうか」
失敗を前提にして練習させていたのだとしたら、下手に助け舟を出すのは水町玲子のためにならない。娘を鍛えようとしていた所長の計画を、狂わせた可能性もある。
しかし水町玲子の父親は「そんなことはない」と嬉しそうに笑ったあとで、哲朗をここぞとばかりに褒めてくる。
「学校の勉強だけでなく、経理の数字にも強いとなれば、仮に玲子と別れたとしても、ここでのアルバイトを続行してもらいたいくらいだよ」
所長はジョークのつもりだったのだろうが、ひとりだけ納得できない人間がいた。娘の水町玲子である。
「お父さん。冗談でも、そんなことを言わないでください。私と哲朗君は、絶対に別れたりなんてしません。そうだよね」
同意を突然に求められた哲朗は瞬時に反応しきれず、間の抜けた声で「え?」と返すだけの失態を演じてしまった。
本来の哲朗は女性心に鈍さ全開なので、このような応対をするのは日常茶飯事だった。元々は、異性と会話する機会さえ少ない人生を送ってきたのだ。
だが人生をやり直しているうちに、少しずつ女性に対する免疫もできてきている。おかげですぐに、間違ったリアクションをしたと気づけた。
水町玲子が新たな反応をする前に、急いで「そのとおりです。僕は玲子さんを本気で好いてますから」と愛の告白を相手の父親の前で行った。
意外にロマンチストな一面がある水町玲子は、哲朗の行動を男らしいと評価してくれたみたいで、余計な混乱を招く事態だけはなんとか防げた。
全力で安堵している哲朗の心情を察したのか、水町玲子の父親が肩に優しく手を置いてきた。
「もちろんだとも。そうでなければ、娘との交際を許可していないよ。これからも玲子をよろしく頼むよ、哲朗君」
哲朗が「わかりました」と応じたところで、ミスの修正も含めて玲子の仕事も終了したみたいだった。
怒ったり笑ったりしながらも、きっちり手だけは動かしている点は、しっかりした両親の血を引いているだけあった。
他人を信用しやすい性格も受け継いでいるみたいだが、それは哲朗が側にいてフォローするつもりだった。
田所六郎たちが計画した運営資金の持ち逃げみたいな計画で、水町家が不幸になるのだけは絶対に阻止してみせる。それが哲朗の使命のようにも思えた。
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