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桐条京介

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第30話 二人で見上げる月

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「君たちは恋人同士なのか」

 夕刊の配達を終えて、販売所へ戻ってきた哲郎に、所長が問いかけてきた。

 事務所では、まだ水町玲子も働いており、顔を真っ赤にしたまま俯いている。

 こういう時は男性が答えるものだろうと判断し、哲郎はきっぱり「そうです」と答えた。

 水町玲子は、気持ちをはっきり言葉にするのを好む傾向があったし、うやむやな返答をして変な隙を与えるのが嫌だった。

 やり直してきた人生の数だけ、哲郎は最愛の女性を失ってきた。だからこそ、玲子は誰よりも大事な存在になっている。

 自分の恋人だと、堂々と宣言することで、他の男性が近寄ってくるのを防ごうとしたのだ。意図を理解してるのかどうかは不明だが、水町玲子に嫌がってる様子は微塵もなく、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「そうか。だと思ったよ。恋人を大事にするんだぞ」

「ありがとうございます」

 所長に他意はなく、単純に哲郎と玲子の関係が気になっただけみたいだった。

 哲郎が仕事を終えるのに合わせて、水町玲子の業務も終了になった。所長が、わざわざ気を利かせてくれたのは明らかだった。

 精神的には十分すぎるくらい大人でも、現在の外見は中学生そのもの。相手の好意に、遠慮なく甘えさせてもらう。哲郎としても、恋人と紹介した女性と行動を共にできるのはありがたい限りなのである。

 色々と覚悟を決めて家を飛び出した哲郎とは違い、パートナーとして販売所での生活をすることになった水町玲子は、心の準備もないままに親元を離れる決断を下した。

 これまでに何度となく見せられた寂しげな表情が、両親への思いが残っているのを証明していた。

 無理やり忘れさせようとしても、ろくな結果にならないのはわかりきっていた。厳しいようだが、水町玲子自身が克服する心の問題なのである。

 とはいえ、哲郎も恋人として、最大限のフォローはしてあげようと心に決めている。

「お腹、空いただろ。晩飯を食いに行こうぜ」

 つい先日まで普通の中学生だった水町玲子にとって、本格的な労働は今日が初めてとなる。

 外回りほど過酷ではないものの、事務所での仕事も大変なのは同じだった。笑顔こそ浮かべているが、明らかに濃い披露の色が見え隠れしている。

 本当は食欲などないのかもしれないが、それでも玲子は「うん」と哲郎の誘いに応じてくれた。

 所長に「お疲れ様でした」と挨拶してから、今朝も利用した食堂で夕食をとることにする。

 丁度仕事終わりの人間でごった返していて、二人分の席を確保するだけでもひと苦労だった。

 まずは哲郎がメニューにある中から好きな定食を選び、そのあとで水町玲子が同じものを注文する。

 本当は好きなものを食べてほしいのだが、まだ環境に慣れてないのもあり、遠慮する気持ちが働いてしまうのだろう。強引な親切は、時として強要と変わらなくなる。

 ここでも哲郎は、水町玲子が自分から変わってくれるのを待とうと決めた。給料を貰えば、考え方にも多少の幅が出てくるはずである。

 哲郎と玲子が注文したのは野菜炒め定食で、程なくして座っているテーブルに運ばれてきた。

 周囲から立ち昇るたくさんの料理の美味しい匂いで、哲郎の空腹は相当なレベルに達していた。

 いただきますと手を合わせてから箸を掴み、勢いよく白米から口の中に放り込む。頬を膨らませたあとで、温かい食事の味を噛み締める。

 それだけで一日の疲れが吹き飛ぶような気がして、自然と笑顔になる。哲郎の様子を眺めていた水町玲子も、つられるようにいつの間にか笑みを浮かべていた。

「私も、いただきます」

 元はお嬢様だった女性らしく、丁寧な動作で食事前の挨拶をする。

 久しぶりに出会った時とは違い、最近は普通に食事できているので、がっつくような素振りは見せなくなっていた。

 その点を指摘すれば、きっと相手女性は顔を紅くして恥ずかしがる。それはわかっていたが、からかうのはもう少し状況が落ち着いてからにしよう。そんなふうに考えながら、哲郎は夕飯の野菜炒め定食を頬張るのだった。

   *

 夕食を終えたあと、哲郎は水町玲子とともに住み込みで借りている部屋へ戻った。

 街中を探せば遊べる場所のひとつやふたつはあるだろう。けれど、そんな余裕はなかった。

 加えて哲郎と玲子は、駆け落ち同然でこの地へやってきたのだ。無警戒に遊び歩いた挙句に、関係者に見つかりでもしたら、取り返しのつかない事態になる。

 退屈かもしれないが、まずはきちんとした年齢になるまで、この販売所で貯金をしようと決めている。とはいえ、水町玲子が望むのであれば漫画の一冊くらいなら買っても問題ない。

 そう考えて尋ねてみるも、娯楽品を欲しがるような素振りは微塵も見せなかった。むしろ、哲郎が欲しいものだけ買ってほしいというニュアンスで、丁重に事態された。

 貯金を考えている哲郎にはありがたい限りだったが、何も買わなくていいかといえば、そうではない。娯楽品はどうでもよくても、日用雑貨などはどうしても必要になる。

 加えて水町玲子はもちろん、哲郎も十分な数の着替えを持っていなかった。さらにはお風呂の問題もある。

 住み込みの販売所にはお風呂が設置されてはいるものの、共用なのである。住人の中で若い女性が水町玲子ひとりとなれば、とても安心して使用できるはずもない。

 少々高上がりになってしまうが、近所に銭湯があればそこを利用するのが一番だと考えていた。

 哲郎が年齢を重ねた時代では、相当数が潰れてしまっているが、過去とも呼べる現在ではそれこそかなりの店舗が営業している。

「少し……この辺りを散歩してみようか」

 部屋で十分な食休みをとったあと、哲郎はおもいきって玲子を誘ってみた。

 テレビはもちろん、ラジオもない部屋へいるよりはと考えたのか、水町玲子は快く応じてくれる。

 こうして哲郎は水町玲子とともに、販売所から再び外へ出た。

 先ほど夕飯を食べた食堂を通り過ぎ、土地勘のない街をぶらぶら歩く。この地へ辿りついた事情が事情なので、繁華街へ向かったりはしない。

 あくまでも新聞販売所の近所を散策する。しばらく歩いていると、案の定と言うべきか、一件の銭湯を発見した。

 午後七時を過ぎた現在では仕事帰りの人間などで混雑していそうだが、もう少しすると賑わいもひと段落するに違いない。

「こんなところに、銭湯があったんだね」

「そうみたいだな。あとで入浴しにこよう」

「え? でも販売所にお風呂があったよ」

「わかってる。でも、こっちの方がリラックスできそうじゃないか? 俺が奢るから、銭湯にしようぜ」

 当初は不思議そうにしていたが、やがて哲郎が銭湯を勧める理由を理解したらしく、少しだけ照れたような声で玲子が「ありがとう」とお礼を言ってきた。

 改めて間近で想い人の顔を見ると、哲郎まで照れ臭くなってくる。ふと浮かんだ「綺麗だ」という感想も言葉にできず、口をもごもごさせるだけだった。

「そ、そうと決まれば、入浴の道具とか買う必要があるな。あと、着替えも」

 普通に着替えを買おうなんて言えば、水町玲子の性格上、着ている服だけで大丈夫と言いかねない。

 けれど銭湯の利用を絡めたことにより、あまり抵抗なく着替えを購入するつもりになってくれた。

 並んで街を歩きながら、ふと目に付いた個人の洋服店に入る。ありがたいことに靴下や下着も取り扱っていたので、この一店舗だけで着替え類の買物は済みそうだった。

   *

 哲郎が洋服の下見をしている間に、水町玲子が必要な分だけ下着を購入する。

 洋服は一緒に見られても、さすがに下着だけはそうもいかない。仮に哲郎が気にしないと言ったところで、相手女性が嫌がるのは火を見るより明らかだった。

 水町玲子が洋服を販売しているスペースへ向かってきたのを確認してから、今度は哲郎が自分の下着を何点か手に取った。

 デザイン性豊かな下着など、この時代にはあまりない。仮にあったとしても、こだわりもないので哲郎の場合は身に着けられればどのようなものでもよかった。

 哲郎も洋服売り場に合流すると、水町玲子が洋服を一着だけ手に持った。あくまで必要最小限の買物で済ませようとするあたり、やはりこちらに気を遣っているのがわかる。

 かといって強引に勧めすぎても、相手女性が喜んでくれるかは微妙なところだった。

 少しだけ考えたのち、哲郎は会計をする直前に一着のワンピースを掴んでカウンターへ置いた。

「哲郎君?」

「……俺からのプレゼント」

 それだけ言うと、女性との交際経験の少なさからくる照れと緊張で顔を真っ赤にする。

 ここまでやっておいて「いらない!」と断られたらどうしようと不安になったが、さすがにこちらの意を汲んでくれた。

「ありがとう。本当に嬉しい」

 浮かべた明るい笑顔のおかげで、哲郎は自分の行動が正しかったのだと核心を持てた。

 カウンターで代金を計算している中年男性の店主が、微笑みながら「恋人想いの男性でよかったね」と水町玲子へ声をかけた。

 はにかみながらも頷く水町玲子の姿を見てれば、それだけで心が温かくなる。これから訪れる苦労がどれだけ大きくても、乗り越えていけると思えるのだ。

「若い恋人たちの未来が幸せであるように、これはおじさんからの贈り物だ」

 そう言うと洋服店の店主らしき中年男性は、水町玲子の分の洋服一着分を無料にしてくれた。

「ありがとうございます」

 水町玲子と声を揃えてお礼を言ったあと、購入した洋服を両手に持って店を後にする。

「あとは、入浴道具だけだな」

 この時代はスーパーよりも、まだ個人の商店の方がずっと数が多い。洋服店から少し進んだ先に、今度は雑貨店も発見できた。

 タオルや石鹸などの他に、鉛筆やノートなどの文房具も購入しておく。仕事で使うかどうかはわからなくとも、色々と役に立つのは確かだ。

 購入したばかりのノートの一冊を、水町玲子へ預ける。日記代わりにしてもいいし、かなりの使い道がある。

 とりあえず現状で必要な分の着替えなどを購入したと判断して、哲郎と玲子は一度部屋へ戻る。

 持ち帰った荷物を部屋に置いたあとで、今度は入浴するために銭湯へ出かける。

 想像以上に疲れていたらしく、湯船に浸かっている途中で哲郎は危うく眠りそうになった。

 精神は十分に成長した大人でも、現在の肉体はあくまで成長途中の中学生のものなのである。

 販売所の仕事が早くも負担になってるのかもしれないが、水町玲子と一緒にいられる今を考えれば、多少の無理さえ苦にならなかった。

 今度こそ、絶対に幸せにするんだ。銭湯で疲れをとりながら、哲郎は改めて己の心に強く誓った。

   *

「ごめんなさい。待たせちゃったかな」

 ひと足先に銭湯から出て、外で待っていた哲郎を見た水町玲子が申し訳なさそうな顔をする。

「俺も今上がったとこだから、気にしなくていいよ。それより、早く帰ろうぜ」

 街灯もあまりないので、すでに周囲は相当暗くなっている。

 女性ひとりで歩かせるには、あまりにも危険な闇の中で哲郎は水町玲子とともに帰宅の途につく。

 その途中でどちらからともなく手を繋ぎ、お風呂上りのポカポカした体温を互いに感じる。夜の寒さもまったく気にならず、夜道を歩いている不安も綺麗さっぱり消え去る。

「あ、見て、哲郎君。お月様がまん丸だよ」

「本当だ……凄いな」

 言われて見上げた夜空のど真ん中で、俺が主役だとばかりに黄色の満月が光り輝いている。

 思わず目を奪われる月夜を、哲郎と玲子は手を繋いだまま、しばらく一緒に眺めていた。
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