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第23話 待ってるの意味
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「何だ……ここは……」
絶句。その言葉以外に、哲郎の状態を表せなかった。
水町家の前で出会った中年女性。哲郎を憐れに思ったからかどうかは不明だが、とにかくひとつの住所を教えてくれた。
記憶した住所を頼りに、辿りついた場所は歓楽街だった。
どうしてこんな住所を、中年女性が哲郎に教えたのか。理由を考えると、動悸が止まらなくなる。
緊張で気分が重苦しくなり、想像される最悪な事態がテンションを下げさせる。
まだ決まったわけじゃない。歓楽街だからといって、すべてがすべてそうしたお店とは限らないはずだ。
気持ちを沈みかけさせている自分へ言い聞かせながら、両足を動かし続ける。
徐々に目的地が近づいてくるにつれて、足取りが重くなる。
いわゆる風俗店が建ち並ぶゾーンに入っていた。
「ありがとうございました」
聞こえてきた若い女性の声。どことなく聞き覚えがあるとわかった瞬間、哲郎は息ができなくなった。
視界に映る前方のお店から出てきたひとりの女性が、先ほどの声の主みたいだった。
哲郎の位置からは、紅いワンピースを身に纏っている背中しか見えないが、抜群のスタイルだというのだけは外見でわかる。
「……玲子?」
恐る恐る哲郎は、恋人の名前を口にしてみる。
まだ日中にもかかわらず、賑わっている歓楽街で、思いのほか哲郎の声はよく通った。
哲郎の言葉が耳に届いた女性は、驚いた様子で振り返った。
瞬間的に目と目が合い、哲郎の瞳に女性の顔が映る。
美しく成長している女性には、少女の頃の面影が見て取れる。間違いなく、水町玲子本人だとわかった。
それなのに相手女性は、人違いだとばかりに顔を逸らして、出てきたばかりのお店の中へ戻ろうとする。
「待ってくれよ。玲子なんだろ」
本当に人違いであれば、丁寧な言葉遣いをしなければ失礼に当たる。
けれど、哲郎には女性が水町玲子である絶対の自信があった。
急いで紅いワンピースの女性のもとへ駆け寄り、逃がさないように腕を掴む。間近で見ると、鮮烈に相手の綺麗さが伝わってくる。
「……人違いです」
細く小さな声だったが、透き通るぐらいの美しさがあった。
記憶にある水町玲子の声の感じを残しつつ、より透明感溢れるものに進化している。
だが恋愛感情は進化どころか、退化しているような印象さえ受ける。
一体何があったのか。そればかりが気になった。
「どうして、そんなことを言うんだ。梶谷哲郎だよ。覚えているだろ」
相変わらず目を合わせてくれようとしない女性に、心の拠り所にしてきたハガキを見せる。
水町玲子から送られてきた手紙やハガキは、ひとつ残らず大切に保管していた。
思い出話になるだろうかと、その内の何点かを持参してきた。
誤魔化しきれないと思ったのか、少し悲しげに女性は、自分が水町玲子本人であるとようやく認めてくれた。
「……お久しぶりね、哲郎君」
再開を喜ぶ華やかな笑顔――というには、あまりにもかけ離れた愛想笑いだった。
しかも目は笑っておらず、一応の礼儀として形式的に浮かべたにすぎない。いわゆる大人の対応である。
当たり前の話だが、時間の経過とともに、少女は大人の女性になっていた。
美しい容姿は、幾度も哲郎が想像してきたとおりだったが、それ以外の様々な部分では何かが違ってるような気がする。
うまく説明はできないが、纏っている悲しそうで儚げな雰囲気がそう思わせるのかもしれなかった。
「今日は、何かの用事で東京に?」
哲郎も充分に成長しているのだが、そうした点に触れないまま、用件だけを尋ねてくる。
そこにかつてのような親愛さは感じられず、哲郎は戸惑いを強める。
「用事って……玲子に会いに来たんだよ」
「……あら、そうなの」
返事も素っ気無く、久しぶりの恋人との再会を喜んでるようにはとても見えなかった。
「貰ったハガキの住所を参考にして、電車に乗ってきたんだ」
今度は返事もない。訝しげな視線を、哲郎へ向けてくるだけだった。
見るからに記憶の中の水町玲子とは違う。言葉は悪いが、やさぐれているという形容がピッタリ当てはまる。
服装も胸元を強調するようなワンピースで、目のやりどころに困る。
「どうしたの、顔が赤いわ」
相手の吐息が鼻にかかるぐらいまで、顔が近づけられる。
眼前で見る水町玲子の顔には、厚すぎるぐらいの化粧が施されていた。
すでに二十歳を超えているのだから、化粧ぐらいは当たり前だ。けれど、恰好と相まって、どうしても嫌な想像をしてしまう。
不安を杞憂に変えるべく、哲郎は水町玲子へ会いに来た理由を告げる。
「……迎えに来た?」
きょとんとした様子で聞いていた恋人へ、哲郎は大きく頷いてみせる。
「就職はきちんと決まったし、大学もあと一年で卒業する。だから、玲子を迎えに来たんだ」
水町家が夜逃げして以降にやりとりしていた手紙で、哲郎は玲子に必ず迎えに行くと約束していた。
その約束を、今日こそ守る。固い決意でやってきた哲郎は、熱い口調で自身の想いを目の前にいる女性へ訴えた。
――ありがとう、哲郎君。満面の笑みを浮かべた水町玲子が、歓喜の涙を流しながら胸へ飛び込んでくる。
頭の中で何度も繰り返し再生された映像。すべては単なる想像にすぎなかったが、実現するだろうという根拠のない自信が哲郎にはあった。
けれど現実はかくも厳しく、すべてがバラ色には染まってくれなかった。
「そう……そんな約束もしていたのね」
喜んでくれると思っていた水町玲子の表情が、未だかつて見たことがないぐらいにかげる。
悲哀を含んだ微笑はどこまでも寂しげで、哲郎とは歩んできた人生が違うと無言で語っていた。
夜逃げした水町家は、遠く離れた東京でどのように暮らしていたのか。ずっと気になっていた疑問なのに、口にするのが躊躇われた。
触れてはいけないパンドラの箱みたいに禍々しく、不穏な空気さえはらんでいる。
箱をひっくり返しても希望は見つかりそうになく、初めてこの日、哲郎は無情な時間の流れを痛感した。
確かに交わっていたはずの人生が、いつの間にか離れていたのである。
ひたすら前だけを見て、突き進んできた。すべて、哲郎と水町玲子の未来へ繋がると信じていた。
「お、俺と一緒に行こう……これからは、二人で……」
「――止めて!」
哲郎の言葉が、ピシャリと途中でシャットダウンさせられた。
相手の迫力に気圧され、言葉を続けられなくなる。
「哲郎君だって、もう気づいているでしょう?」
「き、気づくって……何にかな」
平静を装おうとしてるのに、勝手に声がかすれる。増大する嫌な予感を追い払いたいのに、てこでも哲郎の側から移動してくれなかった。
「見て……私の服装。今、何の仕事をしてると思う?」
「……や、止めてくれ!」
今度は哲郎が大きな声を上げた。
半ば予想はついているものの、水町玲子本人の口からは聞きたくなかった。
だが相手は哲郎みたいに途中で会話を止めたりせず、変わらぬ勢いで言葉を紡いでくる。
「名前も知らない男の人を相手に、お酒を注いでいるの。媚びるように笑顔を浮かべて、お客さんにしなだれかかって、お金を稼いでいるのよ」
最初の人生で大学生をしていた頃の哲郎なら、水町玲子の言葉をそのまま受け取っていた。
けれど異性と縁がない人生だったとはいえ、哲郎は一度、老齢までまっとうしている。
世の中の条理と不条理もある程度知っており、知識と経験をそれなりに貯えていた。
やり直しの人生において、便利だと思っていた特性が、ここへきて恨めしく思えた。
水町玲子は言葉で説明した以上の接客をして、日々を過ごしてきた。そこまで教えなかったのは、羞恥かそれとも優しさか。哲郎には判断できなかった。
*
――帰って。静かに水町玲子は、哲郎へ告げてきた。
けれどそう言われても、相手は離れていても長年想い続けてきた愛しい女性。すんなり諦められるのなら、東京までやってくるはずがなかった。
店に戻りたがる女性を引き止め、哲郎は先ほどと同じ台詞を繰り返した。
「俺ひとりで帰るつもりはないよ。帰るなら、玲子も一緒だ」
相手女性がどんな状態であれ、すべてを現実として受け止める覚悟があった。
話を聞いた直後は戸惑いもしたが、やはり水町玲子が哲郎の想い人である事実は変わらない。そのことを何度も説明する。
想いよ届けとばかりに、普段の哲郎からは想像できないぐらい熱い口調で水町玲子を説得する。
しかし相手女性は応じてくれるどころか、せっかく合った目さえすぐに逸らす。明らかに哲郎を避けている。
ハガキのやりとりはあったので、身体は離れていても心は通じていると信じていた。
にもかかわらず、現実は違った。普通の日常どころか、想定外の生活を想い人は送っていた。
それでも逃げることなく、向き合おうと考えた。けれど肝心の水町玲子が、心を許してくれていない。
何でも話し合い、仲良く過ごせていた昔が嘘みたいだった。
「これまでの人生で何があったとしても、俺たちならやり直せる。昔みたいに並んで歩けるよ」
「もう、いい加減にしてよ!」
大きな声で叫んだ水町玲子の瞳には、大量の涙が滲んでいる。
ほどなくそれらは大きな粒となり、メイクが施されている頬を流れる。
「昔とは……違うのよ」
酷く悲しそうな声と態度が、これまで歩いてきた人生の悲惨さをうかがわせる。
だからこそ、哲郎は水町玲子を幸せにしてあげたかった。
「違わないよ。だって、俺は今でも君を愛している!」
歯が浮きそうになるぐらい恥ずかしい台詞なのに、驚くほどすんなりと口から出てきた。
目の前にいる女性への想いが本物である証拠なのだが、相手へ感動も歓喜も与えられなかった。
「嘘よ。出鱈目を言わないで」
「嘘なんかじゃない。俺は――」
「――だったら! だったら……どうして、もっと前に迎えに来てくれなかったのよ!」
感情を剥き出しにしながら、過去にはなかった迫力で玲子が詰め寄ってくる。
押し殺していた怒りや悲しみが一気に溢れ、自分ひとりでは処理できなくなっている。
「ずっと、手紙を出してたじゃない! 住所だってわかっていたはずでしょう! なのに……それなのにっ!」
握った両拳で、どんどんと哲郎の胸を叩いてくる。
響く衝撃が鈍い痛みを連れてくる。けれど肉体的な苦痛よりも、心が受けるダメージの方が厳しかった。
待っててくれている。言葉は同じでも、哲郎と水町玲子では意味が全然違った。
哲郎が成長するのを待っていたのではなく、すぐにでも迎えに来てくれるのを待っていたのだ。
それゆえに、夜逃げしたにもかかわらず、住所がバレる危険を冒してまで、哲郎へ手紙を送り続けた。
なのに哲郎は真意を理解できず、自分勝手な願望を相手女性へ押しつけていたのである。
それに気づいた時、自然と哲郎の両目からも涙が溢れていた。
二人で泣き喚いていたため、店から屈強な男が出てきたのにも気づけなかった。
「何をしている。早く仕事へ戻らないか!」
強制的に水町玲子と哲郎が離される。
店の中へ玲子が連れて行かれたあと、今度は屈強な男性と哲郎は向かい合うことになった。
絶句。その言葉以外に、哲郎の状態を表せなかった。
水町家の前で出会った中年女性。哲郎を憐れに思ったからかどうかは不明だが、とにかくひとつの住所を教えてくれた。
記憶した住所を頼りに、辿りついた場所は歓楽街だった。
どうしてこんな住所を、中年女性が哲郎に教えたのか。理由を考えると、動悸が止まらなくなる。
緊張で気分が重苦しくなり、想像される最悪な事態がテンションを下げさせる。
まだ決まったわけじゃない。歓楽街だからといって、すべてがすべてそうしたお店とは限らないはずだ。
気持ちを沈みかけさせている自分へ言い聞かせながら、両足を動かし続ける。
徐々に目的地が近づいてくるにつれて、足取りが重くなる。
いわゆる風俗店が建ち並ぶゾーンに入っていた。
「ありがとうございました」
聞こえてきた若い女性の声。どことなく聞き覚えがあるとわかった瞬間、哲郎は息ができなくなった。
視界に映る前方のお店から出てきたひとりの女性が、先ほどの声の主みたいだった。
哲郎の位置からは、紅いワンピースを身に纏っている背中しか見えないが、抜群のスタイルだというのだけは外見でわかる。
「……玲子?」
恐る恐る哲郎は、恋人の名前を口にしてみる。
まだ日中にもかかわらず、賑わっている歓楽街で、思いのほか哲郎の声はよく通った。
哲郎の言葉が耳に届いた女性は、驚いた様子で振り返った。
瞬間的に目と目が合い、哲郎の瞳に女性の顔が映る。
美しく成長している女性には、少女の頃の面影が見て取れる。間違いなく、水町玲子本人だとわかった。
それなのに相手女性は、人違いだとばかりに顔を逸らして、出てきたばかりのお店の中へ戻ろうとする。
「待ってくれよ。玲子なんだろ」
本当に人違いであれば、丁寧な言葉遣いをしなければ失礼に当たる。
けれど、哲郎には女性が水町玲子である絶対の自信があった。
急いで紅いワンピースの女性のもとへ駆け寄り、逃がさないように腕を掴む。間近で見ると、鮮烈に相手の綺麗さが伝わってくる。
「……人違いです」
細く小さな声だったが、透き通るぐらいの美しさがあった。
記憶にある水町玲子の声の感じを残しつつ、より透明感溢れるものに進化している。
だが恋愛感情は進化どころか、退化しているような印象さえ受ける。
一体何があったのか。そればかりが気になった。
「どうして、そんなことを言うんだ。梶谷哲郎だよ。覚えているだろ」
相変わらず目を合わせてくれようとしない女性に、心の拠り所にしてきたハガキを見せる。
水町玲子から送られてきた手紙やハガキは、ひとつ残らず大切に保管していた。
思い出話になるだろうかと、その内の何点かを持参してきた。
誤魔化しきれないと思ったのか、少し悲しげに女性は、自分が水町玲子本人であるとようやく認めてくれた。
「……お久しぶりね、哲郎君」
再開を喜ぶ華やかな笑顔――というには、あまりにもかけ離れた愛想笑いだった。
しかも目は笑っておらず、一応の礼儀として形式的に浮かべたにすぎない。いわゆる大人の対応である。
当たり前の話だが、時間の経過とともに、少女は大人の女性になっていた。
美しい容姿は、幾度も哲郎が想像してきたとおりだったが、それ以外の様々な部分では何かが違ってるような気がする。
うまく説明はできないが、纏っている悲しそうで儚げな雰囲気がそう思わせるのかもしれなかった。
「今日は、何かの用事で東京に?」
哲郎も充分に成長しているのだが、そうした点に触れないまま、用件だけを尋ねてくる。
そこにかつてのような親愛さは感じられず、哲郎は戸惑いを強める。
「用事って……玲子に会いに来たんだよ」
「……あら、そうなの」
返事も素っ気無く、久しぶりの恋人との再会を喜んでるようにはとても見えなかった。
「貰ったハガキの住所を参考にして、電車に乗ってきたんだ」
今度は返事もない。訝しげな視線を、哲郎へ向けてくるだけだった。
見るからに記憶の中の水町玲子とは違う。言葉は悪いが、やさぐれているという形容がピッタリ当てはまる。
服装も胸元を強調するようなワンピースで、目のやりどころに困る。
「どうしたの、顔が赤いわ」
相手の吐息が鼻にかかるぐらいまで、顔が近づけられる。
眼前で見る水町玲子の顔には、厚すぎるぐらいの化粧が施されていた。
すでに二十歳を超えているのだから、化粧ぐらいは当たり前だ。けれど、恰好と相まって、どうしても嫌な想像をしてしまう。
不安を杞憂に変えるべく、哲郎は水町玲子へ会いに来た理由を告げる。
「……迎えに来た?」
きょとんとした様子で聞いていた恋人へ、哲郎は大きく頷いてみせる。
「就職はきちんと決まったし、大学もあと一年で卒業する。だから、玲子を迎えに来たんだ」
水町家が夜逃げして以降にやりとりしていた手紙で、哲郎は玲子に必ず迎えに行くと約束していた。
その約束を、今日こそ守る。固い決意でやってきた哲郎は、熱い口調で自身の想いを目の前にいる女性へ訴えた。
――ありがとう、哲郎君。満面の笑みを浮かべた水町玲子が、歓喜の涙を流しながら胸へ飛び込んでくる。
頭の中で何度も繰り返し再生された映像。すべては単なる想像にすぎなかったが、実現するだろうという根拠のない自信が哲郎にはあった。
けれど現実はかくも厳しく、すべてがバラ色には染まってくれなかった。
「そう……そんな約束もしていたのね」
喜んでくれると思っていた水町玲子の表情が、未だかつて見たことがないぐらいにかげる。
悲哀を含んだ微笑はどこまでも寂しげで、哲郎とは歩んできた人生が違うと無言で語っていた。
夜逃げした水町家は、遠く離れた東京でどのように暮らしていたのか。ずっと気になっていた疑問なのに、口にするのが躊躇われた。
触れてはいけないパンドラの箱みたいに禍々しく、不穏な空気さえはらんでいる。
箱をひっくり返しても希望は見つかりそうになく、初めてこの日、哲郎は無情な時間の流れを痛感した。
確かに交わっていたはずの人生が、いつの間にか離れていたのである。
ひたすら前だけを見て、突き進んできた。すべて、哲郎と水町玲子の未来へ繋がると信じていた。
「お、俺と一緒に行こう……これからは、二人で……」
「――止めて!」
哲郎の言葉が、ピシャリと途中でシャットダウンさせられた。
相手の迫力に気圧され、言葉を続けられなくなる。
「哲郎君だって、もう気づいているでしょう?」
「き、気づくって……何にかな」
平静を装おうとしてるのに、勝手に声がかすれる。増大する嫌な予感を追い払いたいのに、てこでも哲郎の側から移動してくれなかった。
「見て……私の服装。今、何の仕事をしてると思う?」
「……や、止めてくれ!」
今度は哲郎が大きな声を上げた。
半ば予想はついているものの、水町玲子本人の口からは聞きたくなかった。
だが相手は哲郎みたいに途中で会話を止めたりせず、変わらぬ勢いで言葉を紡いでくる。
「名前も知らない男の人を相手に、お酒を注いでいるの。媚びるように笑顔を浮かべて、お客さんにしなだれかかって、お金を稼いでいるのよ」
最初の人生で大学生をしていた頃の哲郎なら、水町玲子の言葉をそのまま受け取っていた。
けれど異性と縁がない人生だったとはいえ、哲郎は一度、老齢までまっとうしている。
世の中の条理と不条理もある程度知っており、知識と経験をそれなりに貯えていた。
やり直しの人生において、便利だと思っていた特性が、ここへきて恨めしく思えた。
水町玲子は言葉で説明した以上の接客をして、日々を過ごしてきた。そこまで教えなかったのは、羞恥かそれとも優しさか。哲郎には判断できなかった。
*
――帰って。静かに水町玲子は、哲郎へ告げてきた。
けれどそう言われても、相手は離れていても長年想い続けてきた愛しい女性。すんなり諦められるのなら、東京までやってくるはずがなかった。
店に戻りたがる女性を引き止め、哲郎は先ほどと同じ台詞を繰り返した。
「俺ひとりで帰るつもりはないよ。帰るなら、玲子も一緒だ」
相手女性がどんな状態であれ、すべてを現実として受け止める覚悟があった。
話を聞いた直後は戸惑いもしたが、やはり水町玲子が哲郎の想い人である事実は変わらない。そのことを何度も説明する。
想いよ届けとばかりに、普段の哲郎からは想像できないぐらい熱い口調で水町玲子を説得する。
しかし相手女性は応じてくれるどころか、せっかく合った目さえすぐに逸らす。明らかに哲郎を避けている。
ハガキのやりとりはあったので、身体は離れていても心は通じていると信じていた。
にもかかわらず、現実は違った。普通の日常どころか、想定外の生活を想い人は送っていた。
それでも逃げることなく、向き合おうと考えた。けれど肝心の水町玲子が、心を許してくれていない。
何でも話し合い、仲良く過ごせていた昔が嘘みたいだった。
「これまでの人生で何があったとしても、俺たちならやり直せる。昔みたいに並んで歩けるよ」
「もう、いい加減にしてよ!」
大きな声で叫んだ水町玲子の瞳には、大量の涙が滲んでいる。
ほどなくそれらは大きな粒となり、メイクが施されている頬を流れる。
「昔とは……違うのよ」
酷く悲しそうな声と態度が、これまで歩いてきた人生の悲惨さをうかがわせる。
だからこそ、哲郎は水町玲子を幸せにしてあげたかった。
「違わないよ。だって、俺は今でも君を愛している!」
歯が浮きそうになるぐらい恥ずかしい台詞なのに、驚くほどすんなりと口から出てきた。
目の前にいる女性への想いが本物である証拠なのだが、相手へ感動も歓喜も与えられなかった。
「嘘よ。出鱈目を言わないで」
「嘘なんかじゃない。俺は――」
「――だったら! だったら……どうして、もっと前に迎えに来てくれなかったのよ!」
感情を剥き出しにしながら、過去にはなかった迫力で玲子が詰め寄ってくる。
押し殺していた怒りや悲しみが一気に溢れ、自分ひとりでは処理できなくなっている。
「ずっと、手紙を出してたじゃない! 住所だってわかっていたはずでしょう! なのに……それなのにっ!」
握った両拳で、どんどんと哲郎の胸を叩いてくる。
響く衝撃が鈍い痛みを連れてくる。けれど肉体的な苦痛よりも、心が受けるダメージの方が厳しかった。
待っててくれている。言葉は同じでも、哲郎と水町玲子では意味が全然違った。
哲郎が成長するのを待っていたのではなく、すぐにでも迎えに来てくれるのを待っていたのだ。
それゆえに、夜逃げしたにもかかわらず、住所がバレる危険を冒してまで、哲郎へ手紙を送り続けた。
なのに哲郎は真意を理解できず、自分勝手な願望を相手女性へ押しつけていたのである。
それに気づいた時、自然と哲郎の両目からも涙が溢れていた。
二人で泣き喚いていたため、店から屈強な男が出てきたのにも気づけなかった。
「何をしている。早く仕事へ戻らないか!」
強制的に水町玲子と哲郎が離される。
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