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桐条京介

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第21話 悲壮な決意

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 目を腫らして行った学校の帰り道。やはり待ち合わせ場所に、恋人の少女の姿はなかった。

 どこで何を間違ったのか。それとも、どうしようもない運命だったのか。悩んでも悩んでも答えは出ない。

 疲労困憊となって帰宅した哲郎を、母親の小百合が心配する。

 けれどその声すら、今の哲郎には届かない。頭の中へ浮かんでいるのは、常に水町玲子のことだけだった。

 まるで抜け殻みたいな日々が続き、気づけば哲郎は中学を卒業しようとしていた。

 そんなある日、自宅に一通の手紙が届いた。差出人は、いつかと同じ水町玲子だった。

 消印もしっかりあり、差し出し先は東京の住所になっている。

 どうやら水町家は、夜逃げ先の場所として東京を選んだみたいだった。

 もしかしたら、親しくしている人間がいたのかもしれない。とにもかくにも、水町玲子は無事みたいである。

 急いで自室へ戻って、震える指で封を切る。中には、やはり一枚だけ紙が入っていた。

 ――お久しぶりです。何も言えずに哲郎君の前から去って、ごめんなさい。

 懐かしい水町玲子の字が、瑞々しく紙の上で踊っている。それだけで、哲郎は嬉しくなった。

 ――私は今、東京にいます。なんとか生活できていますので、心配しないでください。

 その後の詳細な住所も書かれていた。すぐに会いたい気分になったが、哲郎は待てと自分を戒める。

 中学校を卒業すれば義務教育も終わる。そうすれば、東京へ行っても就職できる。

 当分先の未来と違い、この時代の中卒者は金の卵ともてはやされている。就職は、それこそ売り手市場だった。

 だがその一方で、果たして本当に相手の役に立てるだろうかとも考える。

 従来の人生どおりに勉学へ励み、大学を卒業して銀行へ入社したあとで、迎えに行っても遅くはない。そこまでの道順なら、一度辿っただけによく覚えている。

 収入も安定しているし、同年代の人間と比べても、多くの給料を貰っていた自負がある。

 水町玲子も充分に養え、無機質だった人生に確かな彩が加えられる。

 何を目的にすればいいか、わからなくなっていた哲郎の目の前が、急に開けたような気がした。

 早速、哲郎は水町玲子へ返す手紙の作成へとりかかる。

 自分は今でも水町玲子を想っていること。大人になるまで待っててほしいこと。そして、必ず迎えに行くと最後に加える。

 書き終えたあとで近所の郵便局へ走って行き、封筒を購入して配達を依頼する。

 郵便局を出た哲郎の目は、決意に燃えていた。必ず優秀な人間になって、初恋の少女と想いを遂げる。

 新しくできた目標に感謝を覚えた哲郎は、急ぎ足で自宅へ帰る。

 母親へのただいまの挨拶もそこそこに自室の勉強机へ向かい、ひたすらに教科書をめくってはノートをとる。

 幸いにして、哲郎の家は食うに困らない環境だった。欲しがれば、参考書なんかも買ってもらえた。

 好きで勉強するのであればと、両親ともに哲郎へ協力してくれた。

 残りの中学生活を、脇目も振らずに勉強へ費やした。修学旅行の最中も、参考書を離さなかった。

 不思議なもので、こうした人生をやり直したくて過去へ戻ってきたのに、気づけば従来どおりの中学生活を送っている哲郎がいた。

 三年時には巻原桜子や貝塚美智子ともクラスが別だったため、会話をする機会もまったくなくなっていた。

 一年生の頃は人に囲まれていたのに、現在の哲郎はひとりぼっちである。

 けれど孤独には元から慣れっこであり、どのように行動すればいいかもわかっている。

 昼夜を問わない勉強漬けの生活で、哲郎の成績はみるみる上昇。中学校の三者面談では、母親の小百合は担任の教師に褒められるだけだった。

 自分の息子が成績優秀なのは、やはり喜ばしいのか、その夜は結構なご馳走が食卓に並んだ。これも記憶にあるとおりの出来事だった。

   *

 ゲームでいえば、ロード機能を使って分岐点からやり直したはずが、気づけば最初の人生と同じ道を歩んでいる。

 これも一興かと内心で苦笑しつつも、哲郎はかつてない使命感に燃えていた。

 一番目の人生と圧倒的に違う点は、他にする事がないからではなく、誰かのために勉強しているところだった。

 誰かというのは、もちろん恋人の少女である水町玲子のことだ。以前に出した手紙の返事はまだこないが、哲郎の気合は生半可なレベルではなかった。

 近辺でも最難関の高校に難なく合格し、まずは最初の第一歩をしっかりと踏み出した。

 巻原桜子や貝塚美智子らとの別れでもあったが、哲郎は中学校の卒業式に何の感慨も見出せなかった。

 これも記憶の中の卒業式と変わらず、まったく同じ人生を繰り返してる気分になる。

 だがすぐにそうした気分は吹き飛ぶ。高校合格の際にも手紙を出していたが、ついに水町玲子から返信が来たのである。

 水町玲子は素直に哲郎へのお礼を書いており、ずっと待っているとのメッセージもあった。

 ますます哲郎のやる気に火がつき、これまで以上に勉学へ励む。友人を作る気もなく、見据えているのは恋人との輝かしい未来だけだった。

 そのため、哲郎は重大な案件を忘れていた。母親の小百合のことである。

   *

 高校に入学して一年、つまりには二年生になったある日。近所で交通事故が発生する。

 場所も日にちも、確かに記憶の中へ残っていた。にもかかわらず、哲郎は失念していた。

 被害者の名前は梶谷小百合。つまりは哲郎の母親だった。

 親族だけを集めた葬儀の中、哲郎は呆然と母の遺影を持ちながら立ち尽くしていた。

 喪主となった父親がテキパキと作業をし、ひとり取り残されている哲郎は、まるで別世界へいるような感覚に襲われる。

「どうして……俺は……」

 この頃には、僕や私という故障ではなく、誰に対しても自分を俺と呼ぶようになっていた。

 哲郎少年として過ごしてるうちに、思考も感覚も学生の頃へすっかり戻っていたのだ。

 だからだったのかもしれない。その日も勉強に勤しんでいた哲郎は、母親の命日に気づけなかった。

 人生をやり直せると知って、なんとかしようと真っ先に考えたのは母親の事故だった。

 それなのに哲郎は、自分のことしか考えていなかった。後悔と自責の念がやってきては、哲郎の心の中で不気味なワルツを踊る。

 どうにもできない無力感に苛まれながら、哲郎は母親の葬儀を終えた。

 実質的にはすべて父親が取り仕切ってくれたので、ただ参列していたにすぎないが、それでもどっと心労が押し寄せた。

「睡眠くらいは、しっかりとっておけよ」

 葬儀を終えて親族が帰った梶谷家。シンと静まり返った家の中、二人きりになった家族の父親が不器用ながらも、そんな言葉で気遣ってくれた。

 違うんだよ、父さん。哲郎は心の中で叫ぶ。

 本当は防げていた。本当は回避できていた。本当は、本当は……母さんはこんな目にあわなくて済んだんだよ。

 心の中には怒号が渦巻き、ひたすら己を責め立てる。

 憔悴しきった哲郎は睡眠をとるべく、ひとり自室に戻る。

 何も言葉を発しないまま、ゆっくりと机の引き出しを開く。そこには例のスイッチがある。

 最近は使用について考えてなかっただけに、こうして目にするのもずいぶん久しぶりだった。

 ギュッと握り締めたが……哲郎は、最後までスイッチを押さなかった。

 スイッチを押せば過去へ戻れる。やり直せる。けれど、水町玲子へ会うまでの時間が引き伸ばされる。

 巻き戻しはできても、決して早送りはできない。それがこのスイッチの覆せないルールでもあった。

   *

 何度も母親の遺影の前で謝罪した哲郎が選んだのは、このまま自らの人生の時間を進めるというものだった。

 親不孝者と罵られて当然。それでもなお、哲郎は自分の人生で初めて手に入れたといっても過言ではない、恋人の愛のために生きようと決めた。

 高校在学中も必死になって勉強をする。おかげで教師とは仲良くなれたが、同級生とはさっぱりだった。

 授業中であろうと、休憩時間であろうと、変わらずひたすら教科書やノートとにらめっこしている。

 むしろ不気味な存在として異端視されている。だが、これはこれで利点もある。

 特異な人間として扱われてるだけに、不良からの虐めなどに一切あわなかった。

 不良たちも勉強ひと筋の哲郎を、標的にしにくかったのだ。加えて、担任を筆頭に教師からの人気は極めて高い。

 高校始まって以来の秀才ではないかと賞賛され、将来は大臣かなどといった期待半分の発言まで出ていた。

 本来なら喜んでくれるはずの母親は、もう哲郎と会話することはない。父親も仕事で夜が遅かった。

 庭や風呂の掃除。洗濯や夕食の準備をしたあとで、哲郎は勉強を開始する。

 以前と比べると勉強時間は減っていたが、学校できちんと授業を受けているので問題はなかった。

 それでなくても、哲郎は一度受験戦争を見事に勝ち抜いている。

 そこへ今回の知識が加わるのだから、もっと上の大学を目指してもいいぐらいだった。

 けれどそのつもりはない。そんな真似をして、本来の未来と大きく変わってしまったら元も子もないかった。

 大学を卒業して、銀行員として安定した職に就く。ここまでは最初の人生と一緒である。

 変更点は、そんな哲郎の隣に水町玲子がいることだ。そのためなら、母親の事故でさえも目をつぶった。

 やり直せる選択肢があるのにスイッチを使用せず、まっすぐに人生を突き進む。その果てにあるのが幸せだと信じて、とにかく走り抜ける。

 水町玲子と手紙のやりとりをしながら、哲郎は高校生活を終える。

 大学受験はもちろん合格。報告の手紙を送ったが、返事はこなかった。

 住所は知っているが、電話番号までは教えてもらっておらず、手紙以外に連絡のとりようはない。こちらから出向けばいいのだが、妻に迎える生活力を身につけるまではという変な意地が哲郎にあった。

 大丈夫。連絡は途切れがちでも、水町玲子は哲郎を必ず待っていてくれる。

 頻繁なやりとりはなくなったが、ごく稀に届けられるハガキが哲郎に自信を与えた。

 大学へ入学してもサークルなどには入らず、就職へのコネをつくるのを優先した。

 どの大学教師が、どのような大学OBとコネを持っているかは十分に承知している。

 以前の人生をそのままなぞればいいのだから、とりたてて苦労はしなかった。

 成長した哲郎は、やがて二十歳を迎える。この頃には、大学へ通うためにひとり暮らしをしていた。

 下宿先の管理人は年老いた男性で、美人の孫娘なんかもいない。漫画で見るような人生が、そうそう転がってるはずもないのだ。

 そこまで考えて哲郎は苦笑する。何より自分の人生が、漫画みたいではないか。非現実的な展開を経て、この場にいる。

 老婆と出会って手に入れた特権により、哲郎は幸せな人生を手に入れようとしている。

 大学三年の終盤には無事に就職も決まり、あとは卒業を待つだけになった。

 それは初恋の完全成就までのカウントダウンでもある。

 ここまでくれば大丈夫だろう。そう判断した哲郎は、若干フライング気味ながらも、水町玲子へ会いに行こうと決めた。

 少女の頃の記憶しかないが、きっと綺麗に成長してるはずだ。根拠のない確信とともに、初恋の女性と再び会うため、哲郎は電車へ乗り込むのだった。
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