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第30話 涙と笑顔

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 翌日の朝に目覚まし時計よりも早く鳴った電話が、崩壊を告げる合図となった。

 急遽休みを取らせてもらった透は、午後の居間で一人来客を待っていた。綾乃も奏もそれぞれの出勤場所へおり、ここにはいない。

 ドアがノックされる。やってきたのは眼鏡をかけ、ひょろっとした細長い男性と小太りの中年女性の二人組だった。

 二人は市役所の人間だった。つい先日、匿名の通報を受けたという。

「立花透さんですよね。実は貴方が、血縁関係にない二人の少女と暮らしているという通報がありました。事実ですか?」

 きちんと名刺も見せてもらう。朝の電話は市役所からで、事情を聞きたいというものだった。

 昨夜の時点で綾乃たちは帰宅していたので、朝に電話で報告した。

 電話向こうで先手を打たれたと、爪を噛むような音をさせた綾乃が印象的だった。

 市役所の人間相手に嘘をつくわけにもいかず、透は問われた内容を認める。

「はい。父の隠し子だと言って会いに来ました。その時点で真偽は不明でしたが、本当であれば妹になるのとすでに夜だったのもあって追い返せませんでした。事実がわかるまでのつもりでしたが、二人の希望もあって私が養っています」

 言い淀んだりすれば、やましいことをしているという印象を与えかねない。相手の目を見て、しっかりとした口調で透は答えた。

 通報内容が記されてあるのか、手帳サイズのメモ帳を開き、男性が片手で眼鏡をくいと上げる。

「それが事実かは判断しかねますが、通報した方は誘拐ではないかと疑っているみたいですね。その点についてはどうですか?」

「違います。もうすぐその姉妹が学校から帰宅しますので、直接お話を伺ってもらえればと思います」

 姉妹の登校前に、事情は説明してある。今日ばかりは寄り道をせずに、学校が終わればすぐに帰宅する予定になっていた。

「では、誘拐や監禁の類ではないということですね」

 小太りの中年女性が念を押すように聞いた。口の動きに合わせて頬の肉が揺れる。

 改めて透は自身の潔白を訴える。匿名の投稿者の情報を知りたかったが、それについては教えてもらえなかった。

 午前中に市役所で透の身辺調査をしているはずだが、接し方を見る限りあまり信用されてないのがわかる。

 さらに幾つかのやりとりをしているうちに、里奈と奈流が揃って帰宅した。居間へ呼ぶと、緊張した面持ちで入ってくる。

 透の隣に二人で座り、市役所の人間に促される形でまずは自己紹介を行った。その後に本格的な質疑応答となる。

 透と暮らすようになった経緯を尋ねられた里奈は、ありのままの事実を二人に伝えた。

「お兄ちゃんは、本当なら何の関係もない私たち姉妹を受け入れてくれました。誘拐なんてとんでもないです! 誰がそんなことを言ったんですか!」

 いつになく里奈は本気で怒っている。発言こそないが、奈流も不満を表すべく唇を尖らせる。

 市役所から派遣された男女は、どうしたものかと顔を見合わせる。

 求めに応じて家の中も見てもらったが、奇妙な点は一切なく、むしろ姉妹は普通に暮らしている。

 それはそうだろう。透に他の意図はなく、一緒に暮らさせてほしいという頼みを家族として受け入れただけなのだから。

「立花さんの職場や、女の子たちの学校の関係者にも話は聞いていますが……どうやら誘拐という感じではありませんね。脅されてもいないようですし」

 奏や修治、それに綾乃も透たちの味方をしてくれたのだろう。誘拐犯として警察へ通報される心配はなくなったみたいだった。

 自分たちの言葉を聞いてもらえたと、里奈や奈流の顔にも安堵が広がる。

 しかし事態はここでハッピーエンドとはならなかった。

「ですが、血縁者でもない少女との同居というのは、仮に善意であろうとも問題があります。市役所として看過できません。仮に養子とするにしても、申し訳ありませんが立花さんの年収では……」

 気を遣って担当者は最後の言葉をボカしたが、格安のボロアパートに住んでいる時点で収入に余裕がないのは明らかだった。

「貴方たちもゆっくり暮らせた方がいいわよね?」

 中年女性に聞かれた里奈と奈流は、申し合わせたように同じタイミングで首を左右に振った。

「びんぼーでもいいもん! 奈流、お兄ちゃんといっしょがいい! だってかぞくだもん!」

「でもね、生活に困窮しては意味がないでしょう?」

「大丈夫です。我慢するところは我慢しますから。このままお兄ちゃんと暮らさせてください。お願いします!」

 必死になって頼み込む里奈の剣幕に押され、またしても市役所の二人はどうすればいいのか悩みだしたみたいだった。

「……私たちの一存では決められませんので、今日のところはこれで失礼させていただきます。とりあえずは誘拐など犯罪の恐れもないようですしね」

 三人で玄関まで見送りに出たあと、居間へ戻る。不安の光を宿した、四つの瞳が透を見る。

「大丈夫だ」

 それは根拠のない言葉だった。けれど透にはそう言うしかなかった。

 頷きながらも、やはりどこかまだ不安げな姉妹。もしかしたらこの時すでに、誰もがこの同居生活の行く末の暗さに気づいていたのかもしれない。





 雨の残る朝。窓にぶつかる雫の音を背に、透は電話から聞こえる声に耳を傾ける。

 居間の食卓に置いている右手が無意識に握り拳を作る。噛んだ唇からは今にも血が流れそうだ。

「誘拐ではないと判明しましたが、どういうことかクレームの電話が多く、このまま放置はできないという結論になりました」

 余計な軋轢を防ぐためにも、姉妹は大人になるまで然るべき施設へ預けるのが最適。それが市役所の判断だった。

 独身でも養子をとるのは可能とはいえ、少ない年収がネックになるのは昨日に聞いた通りだった。

 何より市役所が問題視しているのは、クレームの電話の多さだった。

 血が繋がってないのに引き取ったのは、人に言えない願望を持つせいだ。そんな感じの苦情が殺到しているらしかった。

 これまで一切なかったのに、先日から急激に増えたと市役所の人間は言った。

 クレームを入れている人間の裏に誰がいるかは、深く考えるまでもない。首尾よく透から金銭を奪えなかった神崎が嫌がらせのためにやっているのだ。

 あくまでも個人的な予想でしかないが、引き離した姉妹を施設に入れた後、神崎は自分で引き取って透から金を引っ張る材料にしようとしているのかもしれない。

 仮にそうだとしたら、とことんまでクズな女だ。

 歯ぎしりをしながらも、透は何度も市役所の人間に考え直しを求めた。けれど上層部が決めた事案なので、覆らないと冷徹に返された。

 逆に、どうして血の繋がらない姉妹にそこまでこだわるのかと怪しまれる。ただ姉妹の身を案じてるだけだと言っても信じてもらえない。

 それでも透は素直に従うつもりはなかった。家族と認めた少女たちを、自分の手で守りたかった。

 しかし状況は日にちが経過するごとに悪くなっていく。

 クレームの電話は透が勤務する会社や姉妹が通う小学校にまで頻繁に入るようになり、特に父母の間で噂になる速度は凄まじかった。

 会社では奏がかばい、同僚の修治が透を擁護してくれた。

 小学校の長である綾乃も全力で守ろうとしてくれた。

 けれど苦情へ過敏に反応する会社の幹部や、教育委員会などからの風当たりは増すばかりだった。

 透を守ろうとするがゆえに、奏や綾乃の立場さえ危うくなりだした。そうなるともう、自分たちだけが我儘を言うわけにはいかなかった。

 最初に市役所から電話がきてから十日後の夜。透は決断せざるを得なくなる。

 夜になって三人が居間で夕食をとる。当初は総菜が多かったものの、今では透の帰宅後に三人で作るのが日課になっていた。

 できたばかりの肉じゃがはほかほかで、美味しそうな湯気を立ち上らせている。だが誰も箸をつけない。

 いつにも増して重苦しい雰囲気が場を包んでいた。やがて里奈が食卓の上へ静かに箸を置いた。小さな音が鳴る。

「私たち、施設へ行きます」

 震える声。しかし意志は強く、目は真っ直ぐに透を見る。

 奈流の肩が揺れる。すすり泣く声が居間に響く。里奈一人が決めたのではなく、姉妹が話し合って選んだ決断だった。

「……そうか」

 それしか言えない自分が情けなかった。透の目にも涙が滲んだ。守ると言っておきながら、神崎の嫌がらせ一つ押し返せずにこの有様である。

「施設だと、奈流とも一緒にいられますし、それに、これ以上はご迷惑をおかけできません」

 一緒に居たいと望むほどに、周囲の人間も巻き添えにしてしまう。それを避けたいがゆえに決めたことだとわかるからこそ、透も反対はできなかった。

 思うところがないわけではない。裁判になってでも、神崎律子とやりあいたい気持ちはある。

 だがその結果、透が破滅したとしたら姉妹は一生深い心の傷を負うはめになる。

 徹底的に抗戦すると決めても、責任を感じている姉妹はきっと隠れて市役所と連絡を取って施設へ行くのを決めるだろう。

「思えば、お兄ちゃんには迷惑ばかりかけてしまいました。本当にごめんなさい」

「謝るのは俺の方だ。結局、何もしてやれなかった。お前たちには家族のありがたみというか、温かさみたいなのを再認識させてもらったのにな。恩一つ返せない。きっと親父もあの世で怒ってるな」

「そんなことはないです。お兄ちゃんにはたくさん……よく……して、もらって……」

 こぼれようとする涙を、懸命に耐えようとする里奈。

 健気な姿を見せられて、兄である透が女々しくするわけにはいかない。

 諦めたくはないが、すでに透の力ではどうにもできない状況になってしまっていた。

 未来が決まってしまったのなら、せめて最後は笑顔で別れよう。出会いが悲しかったものではなく、楽しい思い出とするためにも。

「……なあ。明日は日曜日だ。皆で遊園地にでも行くか」

 目元を服の袖で拭い、最初に笑顔を見せたのは里奈だった。

「いいですね。私、お弁当を作りたいです」

「ひくっ、ぐすっ。じゃあ、奈流も……てつだう」

 誰もが無理をして、場を明るくしようとしていた。

「じゃあ三人で作るか。俺はおにぎり係な」

「一番簡単なのじゃないですか。お兄ちゃん、ずるい。奈流もそう思うよね」

「そうだよー。お兄ちゃんがおにぎり係なら、奈流はあじみ係するー」

「そっちの方がずるくないか? それに味見は手伝いなのか?」

「てつだいなのでーす」

 奈流が笑う。透も里奈も笑う。

 無理やりだった笑い声が、徐々に本来のものに変わる。

 別れの瞬間がいつになるかはまだわからないが、それまで全力で家族として過ごそう。透はそう思った。
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