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第二部
第59話 山中の生活
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所属していた事務所の社長が訪ねて来たのは、優綺美麗の消息不明事故から三日が経過してからだった。
「どうやら元気そうだね」
「色々とご迷惑をおかけしました」
緑色の丸椅子に座った社長を主に相手するのは、私と一緒に部屋で一つしかないベッドに腰掛ける満だった。
私も同席はしているが、余計な口を挟むつもりはなかった。もはやすでに優綺美麗ではないのだから。
「最初に計画を聞いた時は驚いたが、どうやら美麗君も賛成はしたみたいだね」
人道的な見地から、自殺は止めたかった。社長はそう付け加えた。
事務所の発展におおいに貢献した優綺美麗に対し、社長は最後まで面倒を見るつもりだったらしい。意外と義理堅い人物だったのである。
私が頭を低くしていれば、今でも一緒に仕事をしていたのかもしれない。ただしその場合、優綺美麗があそこまで売れていたかどうかは怪しいが。
社長という立場上、事務所を第一に考えなければならない。そのせいで私を甘やかして増長させる事態を招いた。その点について彼は頭を下げた。
「気にしないで。入れ替わりが激しい業界だもの。仕方ないわ」
「そうか。美麗君はずいぶん柔らかくなったな。私には過去よりも今の方が魅力的に見えるよ」
「おだてても枕はしないわよ。私はもう優綺美麗ではないのだから」
「わかっているよ。事務所のことは心配いらない。新たな稼ぎ頭がいるからね」
「何年持つかしら」
率直な私の質問に、社長は苦笑するだけで最後まで答えてくれなかった。
里亜砂の人気は日毎に高まっている。まるでかつての優綺美麗のように。
そして同じ道を歩んでもいた。最初はまだ他者を思いやる余裕を残しているが、トップに君臨するうちに少しずつ忘れていく。
今にして思えば恐ろしい世界だ。離れた数日後に我に返ったように気が付くまで、当たり前だと思っていたのも感想に拍車をかける。
頂点にいる時の無敵感は凄まじい。
すべてが自分を中心に回っていると錯覚するほどだ。
ただし歯車が逆回転するように動き出すと落ちるのは一瞬だ。それが優綺美麗であり、油断していれば次は里亜砂の番になる。
社長もそれをわかっていて注意しない。タレントを使い捨てているわけではなく、話を聞いてもらえないのだからどうしようもないのである。
反発するだけならまだしも、人気絶頂字に移籍されると事務所が傾きかねない。仕方なしによいしょをするのも当然の成り行きだった。
「社長には迷惑ばかりかけたわね」
口を挟まないつもりでいたが、自然と謝罪の気持ちがこみあげてくる。
「そんなことはない。
事務所が大きくなったのは、間違いなく優綺美麗のおかげだからね」
そう言って社長は、持ってきた小さなバッグを差し出した。
受け取った満が床に置き、ジッパーを開けて中を見ると結構な額のお金が札で入っていた。
「これは?」
「優綺美麗の退職金だよ。遠慮せずに受け取っておいてくれ。何かと物入りになるだろうしな。それに君の口座に入っていた分もある」
口座を作って正体が知られたくなかった私は、事務所に作ってもらったのを利用していた。
わざわざそこから引き出して持ってきてくれたのだ。もっとも美貌の維持でかなり費やしていたので、残金はあまりない。それでも退職金と合わせると五千万円はありそうだった。
「名目は満君の退職金にしておく。あ、そうそう。こっちは食料だ。もう少し、ここでほとぼりが冷めるのを待ってるといい。あと帰りは送ってもらえるかな。乗って来た車をプレゼントしたいのでね」
社長を街まで送り届けたあと、同じ車に乗ってここまで満が戻ってくる。
そこまで決めてから、満は整形外科の予約が取れるかと質問した。
「美麗君が利用していた病院だな。ふむ。私が医師に頼んで、ここまで来てもらうとしよう。多少は変装できるようになってから、街中へ戻った方がいいだろう」
今後の方針が決まったあと、しばらくは過去の思い出話に花を咲かせた。私の大学時代の話や、満が付き人となる前の話だ。
酷い目に合わせた女性マネージャーたちを思い出しては後悔する。私が落ちぶれたのも当然。支えてくれる人たちをないがしろにしたのだ。むしろまだ助けようとしてくれる社長に感謝しなければならない。
*
社長の訪問から数日後、設備を整えた小型バスみたいな車に乗って整形外科の医師がやってきた。
社長が運転して、廃墟まで招いたのである。助手をするらしく受付の女性も一緒だった。
「生きてたのね、よかった!」
会うなり抱きついてきた受付女性の背中をさすり、私は大丈夫と返す。
再会の喜びもそこそこに、車内で私の診察が始まる。
「新しく作り変えるのは無理でも、若干元の配置に戻すのは可能だろう。それだけでもずいぶんと印象は変わる。あとはなるべく自然に年齢と共に崩れていくようにせんとな」
「お願いします」
美しさだけを求めた優綺美麗は死んだ。ここにいるのは満にプロポーズされた東雲杏里だ。
車内で簡単な術式が行われ、経過を見守る。
数日後に包帯を取ったあとの私の顔は、優綺美麗によく似た女性と言えるくらいになっていた。
医師の事前の説明通り大きく変わったわけでないのに、印象は結構変化している。思えば最初に整形手術を受けた際にも同様の感想を持った。
私でも綺麗になれるんだと感動して、どんどん新しい手術がしたくなった。そして掛井広大との一件を経て、私は優綺美麗へ変わる決心をした。
ずいぶんと遠い昔のように思える。手鏡で今の自分の顔を確認しながら、そんなことばかりを考えていた。
「痛むのかい?」
車中に様子を見に来ていた満が心配そうに聞く。
「大丈夫よ。これで本当に優綺美麗でなくなったのだと思ってね。ウフフ。ただのそっくりさんか」
完璧な美からは遠ざかったが、容姿で悩んでいた頃に比べればずっと顔立ちは整っていた。さらに、ほんの少しだけ東雲杏里の面影が戻ってきた。
良いのか悪いのかはともかくとして、久しぶりに見る本来の自分の一部は、捨て去ったはずなのに妙な安堵感を覚えさせた。
「感傷に浸るのもいいが、街を離れる前に一度見せに来るといい」
「はい。ありがとうございました」
隣で一緒にお礼を言う満は、文字通り私の夫みたいだった。
「それじゃあ、私は先生を送りがてら帰る。君たちがここを離れる時は電話をしてくれ。後片付けは私がしよう」
「何から何までお世話になります」頭を下げたのは満だ。
「気にしないでくれ。満君にも世話にはなったからね。では、これでさよならだ。恐らく君たちとはもう会うこともないだろう」
繋がりのあった優綺美麗は死亡濃厚な消息不明。この場に存在する東雲杏里とは、まったくの他人になる。社長がそう言うのも当然だった。
私自身にも業界へ戻るつもりがないことから、頷いて握手をした。
「さようなら。お世話になりました」
「こちらこそ。色々あったけど、終わってみればいい思い出だよ。満君と幸せにね」
医師や受付嬢も乗せた車を運転し、社長はいなくなる。
周囲には再びシンとした空気が戻り、鳥や虫の鳴き声しか聞こえない。
「僕たちはあと数日してから山を下りよう」
「わかったわ。そうなるとまたしばらくは、水で濡らしたタオルで体を拭くだけになるわね」
社長が用意してくれた車内にはシャワーを浴びるスペースもあったので、そこで何日かぶりに体も洗えた。その点はかなりありがたかった。
「もう少しだけ辛抱してくれるかい。街を離れたら温泉に行ったりもできるだろうからさ」
「ありがとう。楽しみにして頑張るわ」
*
この場に人がいるとバレるとマズいので、水も電気も使えない。それでも慣れてしまえば、意外と山の中での生活も悪くはなかった。
社長が追加で持ってきた水もまだまだ残っているし、食料も十分だ。運動するスペースに困らなければ、人の目を気にする必要もない。
社長が持ってきてくれた強力な虫よけのおかげで、山中の家でもそうした面では快適である。
たまには衣服を身に着けず過ごしてみるのも面白い。初めて遊んだ時はおおいに戸惑ってくれた満だが、最近では順応して慌てないのでつまらなくなりつつあるが。
火を使えば、時間はかかるがお湯は沸かせられる。食料の用意は大抵が満の役目だった。
「普通の女性に戻るのであれば、料理もしっかり勉強した方がいいわね」
漏らした呟きに、家の中で調理中の満が反応する。
「気にしなくていいよ。僕がやればいいしね。
杏里はそこにいてくれるだけでいいんだ」
「ありがとう。ああ、そうだ。満は知ってるかしら」
「何を?」
「女は優しくされると、浮気する生物らしいわよ」
さらりと言ってのけた私の前で、満は膝から崩れ落ちそうになる。
「そ、それだけは勘弁してよ。
優しくしたら駄目というなら、僕は一体どうすればいいんだ」
本気で悩む満がおかしくて、私は声を上げて笑う。
「冗談よ。でも、少しくらい私にも料理や家事をやらせてね」
「もちろんだよ。一緒にやろう」
そう言った満の隣まで行き、単純作業だが二人で行う。
「キャンプ生活というか、山の中での生活が初めての共同作業になるわね」
「こういうのもいいよ。他の人にはできない体験だからね」
簡単なレトルト食品を作り、二人で向かい合って食べる。
誰かとする食事といえば、優綺美麗になって以降はスポンサーとのものが大半だった。
一人でも優雅さを崩さないためにと、あえて高級店ばかりで食事をした。かなりの出費にはなったが、それはそれで良い経験となった。
しかし優綺美麗の元々は東雲杏里であり、決して高級舌ではなかった。レトルトや冷凍食品でも美味しい美味しいと平らげていたくらいなのである。
毎日似たような食事をしてるうちに当時の味を思い出し、引っ張られるように気持ちもその頃に戻りつつあるみたいだった。
「ねえ」食事が終盤に差し掛かった頃、唐突に私は話題を変える。「満は本当に私と結婚するつもりなの?」
相手の気持ちはわかっていたが、どうしても確かめずにはいられなかった。
「もちろんだよ。僕の気持ちに嘘はない」
想像通りの答えが返ってくる。嬉しい気持ちと一緒に不安もこみ上げる。
「なら、後で私の家に行きましょう」
「そうだね。ご両親に結婚の報告をしないとね」
「今の私を見たら、驚くでしょうけどね」
長らく行方不明だった娘が、顔を変えて生きていた。しかもひょっこりと戻ってくるのだ。驚いて腰を抜かす程度で済めばいい方かもしれない。
だが問題はそこではなかった。私に愛をくれた満に、どうしても見せなければならないものがある。
「整形する前の写真が、実家にしか残ってないのよ」
私の手持ち分はすべて処分した。あるとしたら、母親が持っているのだけだ。
「満に見てほしい。そして決めてもらいたい。本当に私と結婚するのかどうかを」
いつも誰かにからかわれ、容姿にコンプレックスを持ちながらも親友と一緒にそれなりに楽しく暮らしていた頃の私。
満が本来の私を見ても気持ちを変えないのか。それをどうしても知りたかった。一度は捨てた実家へ戻ろうと考えるほどに。
瞳に決意が宿っていたのか、詳しく事情を聞かずとも満はすぐに承諾した。
「どうやら元気そうだね」
「色々とご迷惑をおかけしました」
緑色の丸椅子に座った社長を主に相手するのは、私と一緒に部屋で一つしかないベッドに腰掛ける満だった。
私も同席はしているが、余計な口を挟むつもりはなかった。もはやすでに優綺美麗ではないのだから。
「最初に計画を聞いた時は驚いたが、どうやら美麗君も賛成はしたみたいだね」
人道的な見地から、自殺は止めたかった。社長はそう付け加えた。
事務所の発展におおいに貢献した優綺美麗に対し、社長は最後まで面倒を見るつもりだったらしい。意外と義理堅い人物だったのである。
私が頭を低くしていれば、今でも一緒に仕事をしていたのかもしれない。ただしその場合、優綺美麗があそこまで売れていたかどうかは怪しいが。
社長という立場上、事務所を第一に考えなければならない。そのせいで私を甘やかして増長させる事態を招いた。その点について彼は頭を下げた。
「気にしないで。入れ替わりが激しい業界だもの。仕方ないわ」
「そうか。美麗君はずいぶん柔らかくなったな。私には過去よりも今の方が魅力的に見えるよ」
「おだてても枕はしないわよ。私はもう優綺美麗ではないのだから」
「わかっているよ。事務所のことは心配いらない。新たな稼ぎ頭がいるからね」
「何年持つかしら」
率直な私の質問に、社長は苦笑するだけで最後まで答えてくれなかった。
里亜砂の人気は日毎に高まっている。まるでかつての優綺美麗のように。
そして同じ道を歩んでもいた。最初はまだ他者を思いやる余裕を残しているが、トップに君臨するうちに少しずつ忘れていく。
今にして思えば恐ろしい世界だ。離れた数日後に我に返ったように気が付くまで、当たり前だと思っていたのも感想に拍車をかける。
頂点にいる時の無敵感は凄まじい。
すべてが自分を中心に回っていると錯覚するほどだ。
ただし歯車が逆回転するように動き出すと落ちるのは一瞬だ。それが優綺美麗であり、油断していれば次は里亜砂の番になる。
社長もそれをわかっていて注意しない。タレントを使い捨てているわけではなく、話を聞いてもらえないのだからどうしようもないのである。
反発するだけならまだしも、人気絶頂字に移籍されると事務所が傾きかねない。仕方なしによいしょをするのも当然の成り行きだった。
「社長には迷惑ばかりかけたわね」
口を挟まないつもりでいたが、自然と謝罪の気持ちがこみあげてくる。
「そんなことはない。
事務所が大きくなったのは、間違いなく優綺美麗のおかげだからね」
そう言って社長は、持ってきた小さなバッグを差し出した。
受け取った満が床に置き、ジッパーを開けて中を見ると結構な額のお金が札で入っていた。
「これは?」
「優綺美麗の退職金だよ。遠慮せずに受け取っておいてくれ。何かと物入りになるだろうしな。それに君の口座に入っていた分もある」
口座を作って正体が知られたくなかった私は、事務所に作ってもらったのを利用していた。
わざわざそこから引き出して持ってきてくれたのだ。もっとも美貌の維持でかなり費やしていたので、残金はあまりない。それでも退職金と合わせると五千万円はありそうだった。
「名目は満君の退職金にしておく。あ、そうそう。こっちは食料だ。もう少し、ここでほとぼりが冷めるのを待ってるといい。あと帰りは送ってもらえるかな。乗って来た車をプレゼントしたいのでね」
社長を街まで送り届けたあと、同じ車に乗ってここまで満が戻ってくる。
そこまで決めてから、満は整形外科の予約が取れるかと質問した。
「美麗君が利用していた病院だな。ふむ。私が医師に頼んで、ここまで来てもらうとしよう。多少は変装できるようになってから、街中へ戻った方がいいだろう」
今後の方針が決まったあと、しばらくは過去の思い出話に花を咲かせた。私の大学時代の話や、満が付き人となる前の話だ。
酷い目に合わせた女性マネージャーたちを思い出しては後悔する。私が落ちぶれたのも当然。支えてくれる人たちをないがしろにしたのだ。むしろまだ助けようとしてくれる社長に感謝しなければならない。
*
社長の訪問から数日後、設備を整えた小型バスみたいな車に乗って整形外科の医師がやってきた。
社長が運転して、廃墟まで招いたのである。助手をするらしく受付の女性も一緒だった。
「生きてたのね、よかった!」
会うなり抱きついてきた受付女性の背中をさすり、私は大丈夫と返す。
再会の喜びもそこそこに、車内で私の診察が始まる。
「新しく作り変えるのは無理でも、若干元の配置に戻すのは可能だろう。それだけでもずいぶんと印象は変わる。あとはなるべく自然に年齢と共に崩れていくようにせんとな」
「お願いします」
美しさだけを求めた優綺美麗は死んだ。ここにいるのは満にプロポーズされた東雲杏里だ。
車内で簡単な術式が行われ、経過を見守る。
数日後に包帯を取ったあとの私の顔は、優綺美麗によく似た女性と言えるくらいになっていた。
医師の事前の説明通り大きく変わったわけでないのに、印象は結構変化している。思えば最初に整形手術を受けた際にも同様の感想を持った。
私でも綺麗になれるんだと感動して、どんどん新しい手術がしたくなった。そして掛井広大との一件を経て、私は優綺美麗へ変わる決心をした。
ずいぶんと遠い昔のように思える。手鏡で今の自分の顔を確認しながら、そんなことばかりを考えていた。
「痛むのかい?」
車中に様子を見に来ていた満が心配そうに聞く。
「大丈夫よ。これで本当に優綺美麗でなくなったのだと思ってね。ウフフ。ただのそっくりさんか」
完璧な美からは遠ざかったが、容姿で悩んでいた頃に比べればずっと顔立ちは整っていた。さらに、ほんの少しだけ東雲杏里の面影が戻ってきた。
良いのか悪いのかはともかくとして、久しぶりに見る本来の自分の一部は、捨て去ったはずなのに妙な安堵感を覚えさせた。
「感傷に浸るのもいいが、街を離れる前に一度見せに来るといい」
「はい。ありがとうございました」
隣で一緒にお礼を言う満は、文字通り私の夫みたいだった。
「それじゃあ、私は先生を送りがてら帰る。君たちがここを離れる時は電話をしてくれ。後片付けは私がしよう」
「何から何までお世話になります」頭を下げたのは満だ。
「気にしないでくれ。満君にも世話にはなったからね。では、これでさよならだ。恐らく君たちとはもう会うこともないだろう」
繋がりのあった優綺美麗は死亡濃厚な消息不明。この場に存在する東雲杏里とは、まったくの他人になる。社長がそう言うのも当然だった。
私自身にも業界へ戻るつもりがないことから、頷いて握手をした。
「さようなら。お世話になりました」
「こちらこそ。色々あったけど、終わってみればいい思い出だよ。満君と幸せにね」
医師や受付嬢も乗せた車を運転し、社長はいなくなる。
周囲には再びシンとした空気が戻り、鳥や虫の鳴き声しか聞こえない。
「僕たちはあと数日してから山を下りよう」
「わかったわ。そうなるとまたしばらくは、水で濡らしたタオルで体を拭くだけになるわね」
社長が用意してくれた車内にはシャワーを浴びるスペースもあったので、そこで何日かぶりに体も洗えた。その点はかなりありがたかった。
「もう少しだけ辛抱してくれるかい。街を離れたら温泉に行ったりもできるだろうからさ」
「ありがとう。楽しみにして頑張るわ」
*
この場に人がいるとバレるとマズいので、水も電気も使えない。それでも慣れてしまえば、意外と山の中での生活も悪くはなかった。
社長が追加で持ってきた水もまだまだ残っているし、食料も十分だ。運動するスペースに困らなければ、人の目を気にする必要もない。
社長が持ってきてくれた強力な虫よけのおかげで、山中の家でもそうした面では快適である。
たまには衣服を身に着けず過ごしてみるのも面白い。初めて遊んだ時はおおいに戸惑ってくれた満だが、最近では順応して慌てないのでつまらなくなりつつあるが。
火を使えば、時間はかかるがお湯は沸かせられる。食料の用意は大抵が満の役目だった。
「普通の女性に戻るのであれば、料理もしっかり勉強した方がいいわね」
漏らした呟きに、家の中で調理中の満が反応する。
「気にしなくていいよ。僕がやればいいしね。
杏里はそこにいてくれるだけでいいんだ」
「ありがとう。ああ、そうだ。満は知ってるかしら」
「何を?」
「女は優しくされると、浮気する生物らしいわよ」
さらりと言ってのけた私の前で、満は膝から崩れ落ちそうになる。
「そ、それだけは勘弁してよ。
優しくしたら駄目というなら、僕は一体どうすればいいんだ」
本気で悩む満がおかしくて、私は声を上げて笑う。
「冗談よ。でも、少しくらい私にも料理や家事をやらせてね」
「もちろんだよ。一緒にやろう」
そう言った満の隣まで行き、単純作業だが二人で行う。
「キャンプ生活というか、山の中での生活が初めての共同作業になるわね」
「こういうのもいいよ。他の人にはできない体験だからね」
簡単なレトルト食品を作り、二人で向かい合って食べる。
誰かとする食事といえば、優綺美麗になって以降はスポンサーとのものが大半だった。
一人でも優雅さを崩さないためにと、あえて高級店ばかりで食事をした。かなりの出費にはなったが、それはそれで良い経験となった。
しかし優綺美麗の元々は東雲杏里であり、決して高級舌ではなかった。レトルトや冷凍食品でも美味しい美味しいと平らげていたくらいなのである。
毎日似たような食事をしてるうちに当時の味を思い出し、引っ張られるように気持ちもその頃に戻りつつあるみたいだった。
「ねえ」食事が終盤に差し掛かった頃、唐突に私は話題を変える。「満は本当に私と結婚するつもりなの?」
相手の気持ちはわかっていたが、どうしても確かめずにはいられなかった。
「もちろんだよ。僕の気持ちに嘘はない」
想像通りの答えが返ってくる。嬉しい気持ちと一緒に不安もこみ上げる。
「なら、後で私の家に行きましょう」
「そうだね。ご両親に結婚の報告をしないとね」
「今の私を見たら、驚くでしょうけどね」
長らく行方不明だった娘が、顔を変えて生きていた。しかもひょっこりと戻ってくるのだ。驚いて腰を抜かす程度で済めばいい方かもしれない。
だが問題はそこではなかった。私に愛をくれた満に、どうしても見せなければならないものがある。
「整形する前の写真が、実家にしか残ってないのよ」
私の手持ち分はすべて処分した。あるとしたら、母親が持っているのだけだ。
「満に見てほしい。そして決めてもらいたい。本当に私と結婚するのかどうかを」
いつも誰かにからかわれ、容姿にコンプレックスを持ちながらも親友と一緒にそれなりに楽しく暮らしていた頃の私。
満が本来の私を見ても気持ちを変えないのか。それをどうしても知りたかった。一度は捨てた実家へ戻ろうと考えるほどに。
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