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第二部
第55話 東雲杏里と糸原満と優綺美麗
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案の定、足蹴にした禿げ社長の妨害で私の仕事は激減した。
不利な噂も流しているみたいで、いかに付き人の満が努力しようとも、どうしようもない状況になった。
けれど私はまだ諦めていなかった。必ず再起の機会は訪れると信じている。その時のためにも自宅で待機しているより、事務所で満と作戦会議をするべきだろう。
そう思って朝から事務所へやってきたが、出会う人間全員が妙によそよそしい。挨拶すらされず、無視に近い状態だ。
不愉快な態度に怒りを爆発させようとしていた時、事務所内で満を見つけた。彼にしては珍しく、呆然と廊下に立ち尽くしている。
「何かあったの?」
私が近づくと、驚いたように満は顔をこちらに向け、そして悲しそうに伏せた。
彼が立っているのは、私専用の個室の前だ。まさかと思い小走りで近づくと、部屋のプレートが里亜砂専用個室に変えられていた。
「どういう……こと……?」
廊下の騒ぎを聞きつけたのか、ドアが開かれる。顔を出したのは里亜砂ではなく、以前に私専用のお茶汲みをしていた女性だった。
こちらを見るなり不機嫌そうに顔を歪め、何か用でもあるのかと聞いてくる。
「今度は里亜砂に鞍替えしたの。大きそうなわりに、ずいぶんと軽いお尻ね」
「……落ちぶれた女に言われたくないです。仕事が欲しいなら、里亜砂様に土下座してお願いしたらどうですか。おこぼれが貰えるかもしれませんよ」
「――っ! 誰に向かって生意気な口をきいてるのよ!」
振り上げた手が、何者かに捕まれる。驚いて自分の手を確認すると、事務所の社長が自身の指で私の手首を拘束していた。
「里亜砂君専用のスタッフに暴行を働こうとするのはやめてくれないか。機嫌を損ねたらどう責任を取るつもりだ」
かつてないほど厳しく、感情のこもっていない冷めた目が向けられる。言いようのない恐怖に、お腹の奥から寒気がこみあげる。
「で、でも、この部屋は私のでしょう!」
視線の重圧に負けないよう声を張り上げるも、そもそもくぐってきた修羅場の数が違う。小間使いのように思っていた社長は、想像よりもずっと巨大な存在だったのだと今頃自覚する。
「君のではない。事務所に貢献してくれているトップのものだ。その観点から考慮すると、使用すべき部屋の主は里亜砂君だ」
つまらない説明をさせるなとばかりに、吐き捨てるように社長は言った。
何も言い返せなくなった私を、いい気味だと所詮は誰の下でもお茶汲み程度の価値しかない女が笑う。
「あら、皆さんお揃いでどうかしたんですか?」
タイミングを計っていたみたいに、お茶汲みの女の背後から里亜砂が姿を現した。女王へ道を譲るように、女はすぐに退ける。媚びた笑みを浮かべ、へこへこする姿は醜悪極まりない。
「美麗さんじゃないですか。ご用があるのでしたら、私の部屋でお伺いしますよ」
里亜砂の目が細まる。おぞましいとしか表現しようのない笑顔を見れば、この女の本性がわかる。
顔立ちも容姿もずっと北川希よりも上だが、本質は以前の彼女と変わらない。これまでは私の立ち位置もあって大人しくしていたが、とうとう牙を剥き出しにした。
「それと少しだけ聞こえてたけど、失礼なことを言っては駄目よ」
チラリと一瞬だけ、里亜砂は自分専用にしたお茶汲みの女を見る。
「私程度から天下の美麗さんが仕事をもらうはずがないでしょう。ねえ?」
再び私に向けられた視線には明確な嘲りが含まれていた。
里亜砂の横暴を制止する人間は誰もいない。かつて私が散々好き勝手してきた時のように。
「でも、どうしてもというのなら考えてあげなくもないですよ。ねえ、美麗さん。私、ワンちゃんが欲しいんです。言ってる意味、わかりますよね?」
周囲から嘲笑が起こる。社長でさえも仕方ないな言いたげな呆れ気味に笑う。
里亜砂は私に犬になれと言ったのだ。仕事が欲しければ、床で四つん這いになってワンワン鳴けと。
反抗すれば追い出せるし、承諾すれば徹底的にもてあそべばいい。いつだったか私も似たような真似をしたなと、唐突に思い出した。
自身の行いが巡り巡るのが人生だというのなら、現在の事態を招いたのも私に他ならない。これも運命なのだろう。
「犬を飼いたいならペットショップにでも行きなさい。
……邪魔したわね」
背を向けて歩く。四つん這いにこそならなかったが、今の私は無様な負け犬そのものだった。
*
事務所が私のためにと契約していたマンションからも退去を命じられた。同じ部屋に里亜砂が住みたいと要求したらしかった。
あの女は執拗に私の立場や持ち物を奪った。当然のように満にも引き抜きがあったらしいが、彼はそれを当たり前のように拒絶した。
事務所での居場所を失い、住居も追い出された。身の回りの品をほぼ処分し、貯金を持って私は満が探したホテルの一室で生活するようになっていた。
満は隣に部屋を取り、就寝時以降は常に私のそばにいる。かいがいしく世話をするためだ。
スマホにかかってきた電話の応対を終えてすぐ、満は私に内容を伝える。
「電話は社長からでした。これまでの貢献もあるので、解雇はしないそうです。歩合制なので働かなければ給料は出せないとの話ですが」
「看板がなければ仕事はできないけれど、今の私には宝の持ち腐れね。移籍先も見つけられないのに、飼い殺しみたいな真似をするとは恐れ入るわ」
恐らくは里亜砂が社長にそうするよう進言したのだ。これで私が事務所を辞めれば、恩義に足を向けたと正面切って業界内で敵対するつもりなのだろう。
皮肉だった。私が活躍したおかげで業界内での立ち位置を上げた事務所が、ここにきて最大の障害となったのである。
「たいした女ね。もう私に勝ち目はないわ。いっそ、愛犬にでもなってあげようかしら。ワンワンってね」
ワインの入ったグラスを高々と持ち上げる。ルビー色の液体に、窓から見える夜景が映る。
今度はそちらへ視線を向けて「綺麗ね」と呟く。高層からの眺めは、何度見ても飽きることはない。
「こんなことなら、前の家でもっとゆっくり夜景を堪能しておくべきだったわね」
気に入っていた住居を追い出されてから、何日が経過しただろうか。今日まで私は何をするでもなく、日中からワインを飲む生活を続けていた。
「美麗さんに弱気な発言は似合いませんよ。私も協力しますので頑張りましょう」
せっかくの満の励ましだが、室内へ空しく木霊すだけだ。
もはや私の心には届かない。
「頑張る? 無理よ。あの女の打つ手に不備があるとは思えないわ」
グラスに残っていたワインを飲み干す。アルコールで目が回るのさえ、今はとても気持ちがよかった。
「ねえ」酔いに任せて質問をする。「どうして貴方は引き抜きに応じないの?」
やはり知っていたかという顔をしたあと、満は考え込むようにしばし口を閉じた。答えを急いではいないし、話したくないのならそれでも構わなかった。
ワインボトルから無造作にグラスへ中身を注ぎ、唇をつけて喉を上下させる。浴びるように飲むとは、まさにこのことだろう。
見下していたが、日中から酒を飲む人間の気持ちが多少はわかる気がした。酔わなければとても現実に向き合えそうもない。
酒臭い息を天井へ吐き出し、ソファにもたれる私の隣に満が唐突に座った。これまでの彼であればありえない行動だった。
「フフ。酔った私を見て、付き人から男になるつもり?」
「……僕が引き抜きに応じないのはね、今度こそ最後まで君の隣にいたいからなんだ。例えそれが恋人同士でなくともね」
遠い昔に聞き慣れた口調が、耳孔を優しく撫でる。
アルコールの影響で閉じられかけている瞳を、ゆっくりと隣の満に向ける。
「どういう……意味かしら」
「とても大好きな女性がいたんだ。けれど僕は最後まで彼女を見てあげられなかった。気持ちに気づいてあげられなかった。そんな自分が嫌だった」
満の口からこぼれるのは、まるで懺悔だった。
自らをいつもの私ではなく僕と呼び、真っ直ぐにこちらを見る。嘘偽りを感じさせない綺麗な瞳だった。
「その人の名前は東雲杏里。僕が今でも大好きな女性だよ」
彼が私に向ける瞳を見れば、正体がバレているのは明らかだった。
今さら隠す必要もないので、笑って肯定する。
「そっか、知ってたんだ。アハハ、幻滅したでしょ。付き人をしている間、我儘しか言ってないものね」
「気にしてないよ。僕は最初から君のすべてを受け止めるつもりでいたんだ。今度は決して目を逸らさないと決めていた。どんなことになってもね」
「……どうして?」
「さあ? 好きになった人へ尽くすのに理由がいるのかい?」
「質問に質問で返すのは感心しないわ。貴方はまだ私の付き人なのよ」
「ならきちんと答えるよ。君が好きだからだ。途中で現実を背負いきれずに逃げてしまったけれど、その気持ちに嘘はない」
断言した満の恰好良さに、自然と頬が緩む。いまだかつて、私をこんなにも真っ直ぐに愛してくれた人はいなかった。
美貌を得たのはいいけれど、考えてみれば大学へ入学した当初の幸せは戻ってこなかった。
「何のことはないわね。私はただ復讐がしたかったんだわ。美しいものが評価されるこの世界に。トラウマを作る原因となった自分の容姿に」
目を閉じ、グラスをテーブルに置いて深呼吸をする。
「貴方に聞いてほしいことがあるの」
「君が望むなら、いつまでだって聞くよ」
「くだらない話よ。容姿に劣っていたとある少女のね」
付き合っていた当時のことはよく覚えてないけれど、きっと彼には過去を詳しく話してないだろう。
一から順に、私は辿ってきたこれまでの人生を告白する。
楽になりたいのとは違う。単純に私が生きてきた証を誰かに残したかったのかもしれない。
話し終えると同時に、私は満に抱きしめられた。大人になった彼の腕の中は、とても温かかった。
「今度こそ、ずっと一緒にいるよ。僕が好きになったのは君の心だ。トラウマも劣等感もすべて受け止める」
彼の気持ちが嬉しくて、私はつい口走ってしまう。
「それなら、私と一緒に死んで」
予想もしていなかったお願いに、さすがの満も言葉を失う。見開いた瞳に宿る驚愕が、不安定な輝きとなって揺れる。
「もう手術はできない。誰よりも綺麗でありたいと願った私は、これから誰よりも醜い顔へと崩れていく」
「そうと決まったわけじゃ……」
「散々メスを入れてきた顔が、他の人と同じように年を取っていけるとは思わないわ。無理したツケは必ずどこかでやってくる。最初から覚悟していたことよ」
満の厚い胸板に、アルコールで上気した頬を寄せる。余計に熱を持ち、反応した心臓が強く跳ねる。
「でもね、私は後悔していない。醜い豚のようだった東雲杏里は優綺美麗となり、世間から氷の女帝やら美の女神やらと崇め奉られたのよ。あれは心地よかったな。一生の思い出だわ」
スポットライトを浴びたかったわけじゃない。美しさに蹂躙された私は、ただひたすらに美しさを蹂躙したかった。
その結果が華憐となった北川希や、他の女性タレントたちへの追い落としに繋がった。本来なら私よりずっと綺麗な女が平伏す姿を見て、歪みきった中毒性のある快感に溺れた。それは異性と肌を重ねるよりずっと素晴らしかった。
「いつかは終わりが訪れる。それが今なの。だから、私はここで人生を終える。少しでも美しさを維持できている姿で」
いつぶりだろうか。
私は笑っていた。
断言できるほど心の底から。
不利な噂も流しているみたいで、いかに付き人の満が努力しようとも、どうしようもない状況になった。
けれど私はまだ諦めていなかった。必ず再起の機会は訪れると信じている。その時のためにも自宅で待機しているより、事務所で満と作戦会議をするべきだろう。
そう思って朝から事務所へやってきたが、出会う人間全員が妙によそよそしい。挨拶すらされず、無視に近い状態だ。
不愉快な態度に怒りを爆発させようとしていた時、事務所内で満を見つけた。彼にしては珍しく、呆然と廊下に立ち尽くしている。
「何かあったの?」
私が近づくと、驚いたように満は顔をこちらに向け、そして悲しそうに伏せた。
彼が立っているのは、私専用の個室の前だ。まさかと思い小走りで近づくと、部屋のプレートが里亜砂専用個室に変えられていた。
「どういう……こと……?」
廊下の騒ぎを聞きつけたのか、ドアが開かれる。顔を出したのは里亜砂ではなく、以前に私専用のお茶汲みをしていた女性だった。
こちらを見るなり不機嫌そうに顔を歪め、何か用でもあるのかと聞いてくる。
「今度は里亜砂に鞍替えしたの。大きそうなわりに、ずいぶんと軽いお尻ね」
「……落ちぶれた女に言われたくないです。仕事が欲しいなら、里亜砂様に土下座してお願いしたらどうですか。おこぼれが貰えるかもしれませんよ」
「――っ! 誰に向かって生意気な口をきいてるのよ!」
振り上げた手が、何者かに捕まれる。驚いて自分の手を確認すると、事務所の社長が自身の指で私の手首を拘束していた。
「里亜砂君専用のスタッフに暴行を働こうとするのはやめてくれないか。機嫌を損ねたらどう責任を取るつもりだ」
かつてないほど厳しく、感情のこもっていない冷めた目が向けられる。言いようのない恐怖に、お腹の奥から寒気がこみあげる。
「で、でも、この部屋は私のでしょう!」
視線の重圧に負けないよう声を張り上げるも、そもそもくぐってきた修羅場の数が違う。小間使いのように思っていた社長は、想像よりもずっと巨大な存在だったのだと今頃自覚する。
「君のではない。事務所に貢献してくれているトップのものだ。その観点から考慮すると、使用すべき部屋の主は里亜砂君だ」
つまらない説明をさせるなとばかりに、吐き捨てるように社長は言った。
何も言い返せなくなった私を、いい気味だと所詮は誰の下でもお茶汲み程度の価値しかない女が笑う。
「あら、皆さんお揃いでどうかしたんですか?」
タイミングを計っていたみたいに、お茶汲みの女の背後から里亜砂が姿を現した。女王へ道を譲るように、女はすぐに退ける。媚びた笑みを浮かべ、へこへこする姿は醜悪極まりない。
「美麗さんじゃないですか。ご用があるのでしたら、私の部屋でお伺いしますよ」
里亜砂の目が細まる。おぞましいとしか表現しようのない笑顔を見れば、この女の本性がわかる。
顔立ちも容姿もずっと北川希よりも上だが、本質は以前の彼女と変わらない。これまでは私の立ち位置もあって大人しくしていたが、とうとう牙を剥き出しにした。
「それと少しだけ聞こえてたけど、失礼なことを言っては駄目よ」
チラリと一瞬だけ、里亜砂は自分専用にしたお茶汲みの女を見る。
「私程度から天下の美麗さんが仕事をもらうはずがないでしょう。ねえ?」
再び私に向けられた視線には明確な嘲りが含まれていた。
里亜砂の横暴を制止する人間は誰もいない。かつて私が散々好き勝手してきた時のように。
「でも、どうしてもというのなら考えてあげなくもないですよ。ねえ、美麗さん。私、ワンちゃんが欲しいんです。言ってる意味、わかりますよね?」
周囲から嘲笑が起こる。社長でさえも仕方ないな言いたげな呆れ気味に笑う。
里亜砂は私に犬になれと言ったのだ。仕事が欲しければ、床で四つん這いになってワンワン鳴けと。
反抗すれば追い出せるし、承諾すれば徹底的にもてあそべばいい。いつだったか私も似たような真似をしたなと、唐突に思い出した。
自身の行いが巡り巡るのが人生だというのなら、現在の事態を招いたのも私に他ならない。これも運命なのだろう。
「犬を飼いたいならペットショップにでも行きなさい。
……邪魔したわね」
背を向けて歩く。四つん這いにこそならなかったが、今の私は無様な負け犬そのものだった。
*
事務所が私のためにと契約していたマンションからも退去を命じられた。同じ部屋に里亜砂が住みたいと要求したらしかった。
あの女は執拗に私の立場や持ち物を奪った。当然のように満にも引き抜きがあったらしいが、彼はそれを当たり前のように拒絶した。
事務所での居場所を失い、住居も追い出された。身の回りの品をほぼ処分し、貯金を持って私は満が探したホテルの一室で生活するようになっていた。
満は隣に部屋を取り、就寝時以降は常に私のそばにいる。かいがいしく世話をするためだ。
スマホにかかってきた電話の応対を終えてすぐ、満は私に内容を伝える。
「電話は社長からでした。これまでの貢献もあるので、解雇はしないそうです。歩合制なので働かなければ給料は出せないとの話ですが」
「看板がなければ仕事はできないけれど、今の私には宝の持ち腐れね。移籍先も見つけられないのに、飼い殺しみたいな真似をするとは恐れ入るわ」
恐らくは里亜砂が社長にそうするよう進言したのだ。これで私が事務所を辞めれば、恩義に足を向けたと正面切って業界内で敵対するつもりなのだろう。
皮肉だった。私が活躍したおかげで業界内での立ち位置を上げた事務所が、ここにきて最大の障害となったのである。
「たいした女ね。もう私に勝ち目はないわ。いっそ、愛犬にでもなってあげようかしら。ワンワンってね」
ワインの入ったグラスを高々と持ち上げる。ルビー色の液体に、窓から見える夜景が映る。
今度はそちらへ視線を向けて「綺麗ね」と呟く。高層からの眺めは、何度見ても飽きることはない。
「こんなことなら、前の家でもっとゆっくり夜景を堪能しておくべきだったわね」
気に入っていた住居を追い出されてから、何日が経過しただろうか。今日まで私は何をするでもなく、日中からワインを飲む生活を続けていた。
「美麗さんに弱気な発言は似合いませんよ。私も協力しますので頑張りましょう」
せっかくの満の励ましだが、室内へ空しく木霊すだけだ。
もはや私の心には届かない。
「頑張る? 無理よ。あの女の打つ手に不備があるとは思えないわ」
グラスに残っていたワインを飲み干す。アルコールで目が回るのさえ、今はとても気持ちがよかった。
「ねえ」酔いに任せて質問をする。「どうして貴方は引き抜きに応じないの?」
やはり知っていたかという顔をしたあと、満は考え込むようにしばし口を閉じた。答えを急いではいないし、話したくないのならそれでも構わなかった。
ワインボトルから無造作にグラスへ中身を注ぎ、唇をつけて喉を上下させる。浴びるように飲むとは、まさにこのことだろう。
見下していたが、日中から酒を飲む人間の気持ちが多少はわかる気がした。酔わなければとても現実に向き合えそうもない。
酒臭い息を天井へ吐き出し、ソファにもたれる私の隣に満が唐突に座った。これまでの彼であればありえない行動だった。
「フフ。酔った私を見て、付き人から男になるつもり?」
「……僕が引き抜きに応じないのはね、今度こそ最後まで君の隣にいたいからなんだ。例えそれが恋人同士でなくともね」
遠い昔に聞き慣れた口調が、耳孔を優しく撫でる。
アルコールの影響で閉じられかけている瞳を、ゆっくりと隣の満に向ける。
「どういう……意味かしら」
「とても大好きな女性がいたんだ。けれど僕は最後まで彼女を見てあげられなかった。気持ちに気づいてあげられなかった。そんな自分が嫌だった」
満の口からこぼれるのは、まるで懺悔だった。
自らをいつもの私ではなく僕と呼び、真っ直ぐにこちらを見る。嘘偽りを感じさせない綺麗な瞳だった。
「その人の名前は東雲杏里。僕が今でも大好きな女性だよ」
彼が私に向ける瞳を見れば、正体がバレているのは明らかだった。
今さら隠す必要もないので、笑って肯定する。
「そっか、知ってたんだ。アハハ、幻滅したでしょ。付き人をしている間、我儘しか言ってないものね」
「気にしてないよ。僕は最初から君のすべてを受け止めるつもりでいたんだ。今度は決して目を逸らさないと決めていた。どんなことになってもね」
「……どうして?」
「さあ? 好きになった人へ尽くすのに理由がいるのかい?」
「質問に質問で返すのは感心しないわ。貴方はまだ私の付き人なのよ」
「ならきちんと答えるよ。君が好きだからだ。途中で現実を背負いきれずに逃げてしまったけれど、その気持ちに嘘はない」
断言した満の恰好良さに、自然と頬が緩む。いまだかつて、私をこんなにも真っ直ぐに愛してくれた人はいなかった。
美貌を得たのはいいけれど、考えてみれば大学へ入学した当初の幸せは戻ってこなかった。
「何のことはないわね。私はただ復讐がしたかったんだわ。美しいものが評価されるこの世界に。トラウマを作る原因となった自分の容姿に」
目を閉じ、グラスをテーブルに置いて深呼吸をする。
「貴方に聞いてほしいことがあるの」
「君が望むなら、いつまでだって聞くよ」
「くだらない話よ。容姿に劣っていたとある少女のね」
付き合っていた当時のことはよく覚えてないけれど、きっと彼には過去を詳しく話してないだろう。
一から順に、私は辿ってきたこれまでの人生を告白する。
楽になりたいのとは違う。単純に私が生きてきた証を誰かに残したかったのかもしれない。
話し終えると同時に、私は満に抱きしめられた。大人になった彼の腕の中は、とても温かかった。
「今度こそ、ずっと一緒にいるよ。僕が好きになったのは君の心だ。トラウマも劣等感もすべて受け止める」
彼の気持ちが嬉しくて、私はつい口走ってしまう。
「それなら、私と一緒に死んで」
予想もしていなかったお願いに、さすがの満も言葉を失う。見開いた瞳に宿る驚愕が、不安定な輝きとなって揺れる。
「もう手術はできない。誰よりも綺麗でありたいと願った私は、これから誰よりも醜い顔へと崩れていく」
「そうと決まったわけじゃ……」
「散々メスを入れてきた顔が、他の人と同じように年を取っていけるとは思わないわ。無理したツケは必ずどこかでやってくる。最初から覚悟していたことよ」
満の厚い胸板に、アルコールで上気した頬を寄せる。余計に熱を持ち、反応した心臓が強く跳ねる。
「でもね、私は後悔していない。醜い豚のようだった東雲杏里は優綺美麗となり、世間から氷の女帝やら美の女神やらと崇め奉られたのよ。あれは心地よかったな。一生の思い出だわ」
スポットライトを浴びたかったわけじゃない。美しさに蹂躙された私は、ただひたすらに美しさを蹂躙したかった。
その結果が華憐となった北川希や、他の女性タレントたちへの追い落としに繋がった。本来なら私よりずっと綺麗な女が平伏す姿を見て、歪みきった中毒性のある快感に溺れた。それは異性と肌を重ねるよりずっと素晴らしかった。
「いつかは終わりが訪れる。それが今なの。だから、私はここで人生を終える。少しでも美しさを維持できている姿で」
いつぶりだろうか。
私は笑っていた。
断言できるほど心の底から。
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