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第二部
第52話 後悔の涙と最後の悪足掻き
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偶然に見かけた町工場横の家屋内で、同じく偶然見かけた北川希に案内されて座っている。
嫌味を言うわけでもなく、当たり前のように用意された座布団の上にである。大切なお客様用らしく、それなりに柔らかい。
どうして彼女に誘われるままついてきたのか、自分でも不思議だった。他人の落ちぶれた姿を見て、まだ大丈夫と安心したかったのだろうか。
自身の考えも整理できないうちに、北川希は非常に手際よく緑茶とケーキを用意した。
「近所のケーキ屋さんのなんですが、意外と美味しいんですよ。美麗さんのお口には合わないかもしれませんが」
少し恥ずかしげに舌を出す。華憐だった頃よりも動作が自然で、魅力があるように思えた。
「……そう」
普段なら安物だと罵って手を付けたりしないのだが、今度も何故だか素直に食べていた。近所で評判らしいが、やはり高級店の味には及ばない。
一口だけ頂戴したあと、フォークをケーキの乗っているお皿の脇に置く。
持っていたハンドバッグからハンカチを取り出し、ショートケーキの生クリームで濡れた唇を拭く。
「それにしても、こんな所で美麗さんを見かけるなんて驚きました」
「私もよ」
正直な感想を返す。てっきり夢破れて、失意のまま地元へ帰ったとばかり思っていた。そこで小さな地区のお姫様として君臨し、好き勝手に振る舞っているのだと。
「いつの間にか、貴女は例のお店を辞めていたようだしね」
私の発言内容を認め、どこか懐かしそうに希は目を細めた。
「ええ、その通りです。芸能界で上へ行きたくて、私はずいぶん無理をしました。結構な額の借金を作るほどに。水商売で働くようになって最初は順調でしたが、徐々に指名は減りました。返済もままならなくなった頃、お店の常連客の一人だった男性に求婚されたんです。一目惚れだったそうですよ」
楽しそうにウフフと希は笑う。
「あまりにも熱心だったのと、借金を返済したい一心で私は結婚を受け入れました。もちろん愛情はなく、最初から最後まで金銭目的です。男性からの借金を肩代わりするという申し出がなければ、プロポーズを冷たく突っぱねていたでしょうね」
希が言うには、夫としたのは冴えない風貌の男性だった。すぐに彼女が親密そうに声をかけていた作業員の顔が浮かぶ。
「一年くらい結婚してあげたら、さっさと離婚しようと思ってたんです。元々の目的が目的ですからね。借金を返済してくれたお礼に抱かせてはあげましたが、そこに愛情は一ミリも存在しませんでした」
そう思っていたというくらいなのだから、現在では結婚してとうに一年は過ぎているのだろう。なのに彼女は今もその冴えない夫と一緒にいる。何故なのか聞く前に、希自身が理由を説明する。もしかしたら、誰かに言いたくてたまらなかったのかもしれない。
「彼はいつでも一生懸命でした。愚直なほどに単純で、けれど凄い優しくて。夫と一緒に暮らすうちに、少しずつ私の心は変わっていきました。まるで憑き物が落ちたように軽くなり、他人への思いやりは大切だと思うようになったんです。おかしいですよね。優綺美麗に復讐したい一心で、あらゆる手を使って業界をのし上がろうとした女なのに」
希の目尻に、微かな涙が浮かぶ。それはまるで後悔の証みたいだった。
「いつだったか私はすべてを彼に告白しました。私が華憐だということは薄々知っていたみたいですが、裏の実態はわからなかったでしょうから。別れも覚悟していましたが、夫は笑顔ですべて受け入れてくれたのです。あの時の驚きと喜びは、きっと生涯忘れられません」
気がつけば汚いと思っていたはずの町工場を積極的に手伝っていた。希の話はそこで一旦区切られた。とても晴れやかな顔をしている。
「もう業界への未練はないみたいね」
「はい。憧れてはいましたが、飛び込もうとは思ってなかった世界なので」
「きっかけは私だったものね。さぞ恨んでいるでしょう」
当たり前だと返ってくると思いきや、笑顔を崩さずに希は静かに首を左右に振った。
「酷い真似や発言をしたという後悔はありますが、恨んではいません。ですが一つだけ忠告をさせて下さい。他人を思いやる心を持ってください。そうすれば美麗さんはもっと人気が出るはずです。一時的にとはいえ私が付け込めたのも、そうした行為から生まれる小さな隙があったからです。当時から噂になっていたくらいですから、今もきっと……」
そこから先は言い辛いとばかりに口をつぐんだが、大きなお世話以外の何でもない。私の人生は私のもの。ならば行く先や移動手段は自分で決める。他人の指図は受けない。これまでもそうしてきた。
「せっかくの忠告だけれど、間に合っているわ」
「……差し出がましいかもしれませんが、最近は露出も減ってきてますよね。それは美麗さんの魅力が原因なのではなく、態度に問題があると思うんです」
「あら、まだお説教を続けるつもりなのね。自分を追い落とした相手に、ずいぶんと優しいこと」
一度だけ言葉を詰まらせるが、何が彼女を突き動かしているのか口を開くのをやめようとしない。
「……ずっと前、美麗さんがどのようなお考えで私と当時付き合っていた彼氏との仲を壊し、手酷くからかったのかはわかりません。もしかしたら単純にそうしたかっただけなのかもしれませんが、先ほども話した通りに恨んではいないんです」
「どうして?」
少しだけ言い難そうにしていたが、やがて意を決して希は理由を話し始める。
「……私にも似たようなことをした経験があるからです。恋仲の男女を別れさせたというものではありませんが、今思い返しても虫唾が走るような酷い真似を高校時代に同級生へしてしまいました」
希の口から高校時代という単語が出て、反射的にあの頃の光景が蘇る。
クラスのアイドルだった北川希。好きだった男性。親友だった轟和美。それぞれの顔が浮かんでは消えていく。
懐かしく好ましい思い出もあるはずなのに、こみあげてくるのは憎悪ばかり。楽園はすべて黒い炎で焼き尽くされてしまっていた。
私の瞳に宿る憎しみに気づかず、悲し気に目を伏せた希は神経を逆撫でする台詞を続ける。
「その同級生の女子は容姿に優れていなくて、同じような感じの女子といつも二人で仲良くしていました。ある時、彼女はクラスメートの男子に恋をしました。その心をもてあそび、からかい、嘲り笑ったんです。
最低以外に表現のしようがない方法で」
よく覚えているわ。喉元の言葉を危うく吐き出しそうになる。その時の憐れな少女こそが、この私なのだから。
「当時の私は醜い人間は虐められて当たり前なんて酷い偏見を持っていました。本当にクズです。それしか言いようがありません」
そうねと相槌も打たず、黙って希の話を聞く。彼女が会話をどう終わらせるのかを知りたかった。
「その子の名前は東雲杏里と言いました。今はどこで何をしているのかわかりませんが、可能なら謝りたい。土下座をしてもいいから、許してもらえるまで何度でも謝りたいんです……!」
過去の罪を償いたいと、かつての面影の残る北川希が顔面をくしゃくしゃにする。
こぼれ落ちる涙が一滴二滴とテーブルへ落ちるたび、吐き気がこみあげる。強烈な不快感に耐えられなくなり、私は無言で立ち上がる。
後悔してる? 謝りたい? 今さらそんなことができると思ってるの!?
何をされても彼女の罪は許せない。そして私の罪を許してもらうつもりもない。
すべては覚悟の上で報復を行った。なのにこの女は自分だけ楽になろうとしている。何よりそんな女に憐れまれ、忠告までされた。
他人への思いやり? そんなものがあるなら、最初から誰かを虐げたりするな!
上手く息ができない。苦しい。酸素が欲しい。
目の奥が熱い。頭がカーっとして何も考えられない。
立ち去り際にぶつかりかけた男――北川希の夫を突き飛ばすようにして外へ出る。背後から追いかけてくる声を振り切って走る。とにかく走る。
誰もついてこないと理解したところで走るのをやめて、近くにあった電柱へもたれかかる。
「謝られたって……何にもならないわよ……!
私は……東雲杏里をバカにした連中を見返して、幸せになるために美しくなったのよ! 同情されるためじゃない!」
近くに人がいなかったのは幸いだった。泣き喚く姿を見られずに済んだ。
「どうして……こんなことになってるのよ……」
ずり落ちるように地面へ座り込み、肩を震わせる。涙が溢れて止まらない。
悔しい。
私の頭に存在するのは、その言葉だけだ。ちくしょうという嗚咽を口の中で噛み殺し、何度も電柱を平手打ちする。
少しだけ落ち着いてきた。あんな女に同情されたまま落ちていくなんて許容できない。私は私の方法で美しさを取り戻す。
迷いを捨て去り、睨むように前を見る。安易と言われようが、反則だと罵られようが、そうやってここまで辿り着いたのだ。
足を向ける場所は一つ。私を優綺美麗にしてくれた整形外科である。
*
予約も取らずに飛び込むように院内へ入り、すぐにでも手術をするように要求する。それまではこの場で待つとも。
「……前回も説明した通り、君の顔はこれ以上のメスには耐えられない。悪化するだけだ」
「構わないわ。万が一であったとしても、私はその可能性に賭けるしかないのよ。そうでなければ死んでるのと変わらないのよ!」
術中の事故も、術後に後遺症が現れても医師の責任を一切問わない。訴訟も起こさない。
執拗に確認し、書類にもサインをした上で、ようやく医師は私の整形手術に同意した。
その際に改めて言われたのは、失敗の可能性が非常に高いというものだった。
それでも構わないと告げ、その日の夜に手術が行われることになった。これも私がVIPであるがゆえだ。
手術を待つ間に、私は当面の仕事をキャンセルするように付き人の満へ連絡した。懸命に移籍先を探してくれていたようだ。その報告もあったが、それどころでない私は彼に一任した。
移籍するにしろしないにしろ、優綺美麗の名に相応しい美貌さえあればどうにでもなる。あの小娘よりも美しくなって、華麗に返り咲く。
華憐を潰した時みたいに、すぐに業界も世間も気づく。私こそが最上であり、どんな女も決して代わりになれないと。
その場面だけを想像する。元々不安はない。医師を信じているのに加え、優綺美麗でなければ人生に意味を見い出せなくなっていたからだ。
「ねえ、怖くないの?」
手術の時間が刻一刻と迫る中、受付の女性が休憩している私のもとへ来て尋ねた。
「怖いわ。でもね、私は優綺美麗でなくなるのがもっと怖いの」
「……貴女は十分に綺麗よ。このまま年を重ねていくのも、一つの生き方だと思う。失敗する確率の高い賭けをするべきではないわ」
女性が心から私を心配してくれているのがわかる。
私だって整形手術をしなくてもいいのなら、危険を冒してまで選択したりはしない。我が身は可愛いし、命だって惜しいのだから。
「でもね。私は美しくありたい。持たざる者が美を手に入れるには、やっぱりリスクを背負うしかないの」
そこで話を打ち切った。彼女に本心は伝えていない。
確かに今の顔でも十分かもしれない。けれど美貌が崩れるにつれ、私は恐怖を抱く。東雲杏里に戻ってしまうのではないかと。
だから私は求めるしかないのだ。過去の亡霊を追い払うためにも、今よりも圧倒的な美しさを。
嫌味を言うわけでもなく、当たり前のように用意された座布団の上にである。大切なお客様用らしく、それなりに柔らかい。
どうして彼女に誘われるままついてきたのか、自分でも不思議だった。他人の落ちぶれた姿を見て、まだ大丈夫と安心したかったのだろうか。
自身の考えも整理できないうちに、北川希は非常に手際よく緑茶とケーキを用意した。
「近所のケーキ屋さんのなんですが、意外と美味しいんですよ。美麗さんのお口には合わないかもしれませんが」
少し恥ずかしげに舌を出す。華憐だった頃よりも動作が自然で、魅力があるように思えた。
「……そう」
普段なら安物だと罵って手を付けたりしないのだが、今度も何故だか素直に食べていた。近所で評判らしいが、やはり高級店の味には及ばない。
一口だけ頂戴したあと、フォークをケーキの乗っているお皿の脇に置く。
持っていたハンドバッグからハンカチを取り出し、ショートケーキの生クリームで濡れた唇を拭く。
「それにしても、こんな所で美麗さんを見かけるなんて驚きました」
「私もよ」
正直な感想を返す。てっきり夢破れて、失意のまま地元へ帰ったとばかり思っていた。そこで小さな地区のお姫様として君臨し、好き勝手に振る舞っているのだと。
「いつの間にか、貴女は例のお店を辞めていたようだしね」
私の発言内容を認め、どこか懐かしそうに希は目を細めた。
「ええ、その通りです。芸能界で上へ行きたくて、私はずいぶん無理をしました。結構な額の借金を作るほどに。水商売で働くようになって最初は順調でしたが、徐々に指名は減りました。返済もままならなくなった頃、お店の常連客の一人だった男性に求婚されたんです。一目惚れだったそうですよ」
楽しそうにウフフと希は笑う。
「あまりにも熱心だったのと、借金を返済したい一心で私は結婚を受け入れました。もちろん愛情はなく、最初から最後まで金銭目的です。男性からの借金を肩代わりするという申し出がなければ、プロポーズを冷たく突っぱねていたでしょうね」
希が言うには、夫としたのは冴えない風貌の男性だった。すぐに彼女が親密そうに声をかけていた作業員の顔が浮かぶ。
「一年くらい結婚してあげたら、さっさと離婚しようと思ってたんです。元々の目的が目的ですからね。借金を返済してくれたお礼に抱かせてはあげましたが、そこに愛情は一ミリも存在しませんでした」
そう思っていたというくらいなのだから、現在では結婚してとうに一年は過ぎているのだろう。なのに彼女は今もその冴えない夫と一緒にいる。何故なのか聞く前に、希自身が理由を説明する。もしかしたら、誰かに言いたくてたまらなかったのかもしれない。
「彼はいつでも一生懸命でした。愚直なほどに単純で、けれど凄い優しくて。夫と一緒に暮らすうちに、少しずつ私の心は変わっていきました。まるで憑き物が落ちたように軽くなり、他人への思いやりは大切だと思うようになったんです。おかしいですよね。優綺美麗に復讐したい一心で、あらゆる手を使って業界をのし上がろうとした女なのに」
希の目尻に、微かな涙が浮かぶ。それはまるで後悔の証みたいだった。
「いつだったか私はすべてを彼に告白しました。私が華憐だということは薄々知っていたみたいですが、裏の実態はわからなかったでしょうから。別れも覚悟していましたが、夫は笑顔ですべて受け入れてくれたのです。あの時の驚きと喜びは、きっと生涯忘れられません」
気がつけば汚いと思っていたはずの町工場を積極的に手伝っていた。希の話はそこで一旦区切られた。とても晴れやかな顔をしている。
「もう業界への未練はないみたいね」
「はい。憧れてはいましたが、飛び込もうとは思ってなかった世界なので」
「きっかけは私だったものね。さぞ恨んでいるでしょう」
当たり前だと返ってくると思いきや、笑顔を崩さずに希は静かに首を左右に振った。
「酷い真似や発言をしたという後悔はありますが、恨んではいません。ですが一つだけ忠告をさせて下さい。他人を思いやる心を持ってください。そうすれば美麗さんはもっと人気が出るはずです。一時的にとはいえ私が付け込めたのも、そうした行為から生まれる小さな隙があったからです。当時から噂になっていたくらいですから、今もきっと……」
そこから先は言い辛いとばかりに口をつぐんだが、大きなお世話以外の何でもない。私の人生は私のもの。ならば行く先や移動手段は自分で決める。他人の指図は受けない。これまでもそうしてきた。
「せっかくの忠告だけれど、間に合っているわ」
「……差し出がましいかもしれませんが、最近は露出も減ってきてますよね。それは美麗さんの魅力が原因なのではなく、態度に問題があると思うんです」
「あら、まだお説教を続けるつもりなのね。自分を追い落とした相手に、ずいぶんと優しいこと」
一度だけ言葉を詰まらせるが、何が彼女を突き動かしているのか口を開くのをやめようとしない。
「……ずっと前、美麗さんがどのようなお考えで私と当時付き合っていた彼氏との仲を壊し、手酷くからかったのかはわかりません。もしかしたら単純にそうしたかっただけなのかもしれませんが、先ほども話した通りに恨んではいないんです」
「どうして?」
少しだけ言い難そうにしていたが、やがて意を決して希は理由を話し始める。
「……私にも似たようなことをした経験があるからです。恋仲の男女を別れさせたというものではありませんが、今思い返しても虫唾が走るような酷い真似を高校時代に同級生へしてしまいました」
希の口から高校時代という単語が出て、反射的にあの頃の光景が蘇る。
クラスのアイドルだった北川希。好きだった男性。親友だった轟和美。それぞれの顔が浮かんでは消えていく。
懐かしく好ましい思い出もあるはずなのに、こみあげてくるのは憎悪ばかり。楽園はすべて黒い炎で焼き尽くされてしまっていた。
私の瞳に宿る憎しみに気づかず、悲し気に目を伏せた希は神経を逆撫でする台詞を続ける。
「その同級生の女子は容姿に優れていなくて、同じような感じの女子といつも二人で仲良くしていました。ある時、彼女はクラスメートの男子に恋をしました。その心をもてあそび、からかい、嘲り笑ったんです。
最低以外に表現のしようがない方法で」
よく覚えているわ。喉元の言葉を危うく吐き出しそうになる。その時の憐れな少女こそが、この私なのだから。
「当時の私は醜い人間は虐められて当たり前なんて酷い偏見を持っていました。本当にクズです。それしか言いようがありません」
そうねと相槌も打たず、黙って希の話を聞く。彼女が会話をどう終わらせるのかを知りたかった。
「その子の名前は東雲杏里と言いました。今はどこで何をしているのかわかりませんが、可能なら謝りたい。土下座をしてもいいから、許してもらえるまで何度でも謝りたいんです……!」
過去の罪を償いたいと、かつての面影の残る北川希が顔面をくしゃくしゃにする。
こぼれ落ちる涙が一滴二滴とテーブルへ落ちるたび、吐き気がこみあげる。強烈な不快感に耐えられなくなり、私は無言で立ち上がる。
後悔してる? 謝りたい? 今さらそんなことができると思ってるの!?
何をされても彼女の罪は許せない。そして私の罪を許してもらうつもりもない。
すべては覚悟の上で報復を行った。なのにこの女は自分だけ楽になろうとしている。何よりそんな女に憐れまれ、忠告までされた。
他人への思いやり? そんなものがあるなら、最初から誰かを虐げたりするな!
上手く息ができない。苦しい。酸素が欲しい。
目の奥が熱い。頭がカーっとして何も考えられない。
立ち去り際にぶつかりかけた男――北川希の夫を突き飛ばすようにして外へ出る。背後から追いかけてくる声を振り切って走る。とにかく走る。
誰もついてこないと理解したところで走るのをやめて、近くにあった電柱へもたれかかる。
「謝られたって……何にもならないわよ……!
私は……東雲杏里をバカにした連中を見返して、幸せになるために美しくなったのよ! 同情されるためじゃない!」
近くに人がいなかったのは幸いだった。泣き喚く姿を見られずに済んだ。
「どうして……こんなことになってるのよ……」
ずり落ちるように地面へ座り込み、肩を震わせる。涙が溢れて止まらない。
悔しい。
私の頭に存在するのは、その言葉だけだ。ちくしょうという嗚咽を口の中で噛み殺し、何度も電柱を平手打ちする。
少しだけ落ち着いてきた。あんな女に同情されたまま落ちていくなんて許容できない。私は私の方法で美しさを取り戻す。
迷いを捨て去り、睨むように前を見る。安易と言われようが、反則だと罵られようが、そうやってここまで辿り着いたのだ。
足を向ける場所は一つ。私を優綺美麗にしてくれた整形外科である。
*
予約も取らずに飛び込むように院内へ入り、すぐにでも手術をするように要求する。それまではこの場で待つとも。
「……前回も説明した通り、君の顔はこれ以上のメスには耐えられない。悪化するだけだ」
「構わないわ。万が一であったとしても、私はその可能性に賭けるしかないのよ。そうでなければ死んでるのと変わらないのよ!」
術中の事故も、術後に後遺症が現れても医師の責任を一切問わない。訴訟も起こさない。
執拗に確認し、書類にもサインをした上で、ようやく医師は私の整形手術に同意した。
その際に改めて言われたのは、失敗の可能性が非常に高いというものだった。
それでも構わないと告げ、その日の夜に手術が行われることになった。これも私がVIPであるがゆえだ。
手術を待つ間に、私は当面の仕事をキャンセルするように付き人の満へ連絡した。懸命に移籍先を探してくれていたようだ。その報告もあったが、それどころでない私は彼に一任した。
移籍するにしろしないにしろ、優綺美麗の名に相応しい美貌さえあればどうにでもなる。あの小娘よりも美しくなって、華麗に返り咲く。
華憐を潰した時みたいに、すぐに業界も世間も気づく。私こそが最上であり、どんな女も決して代わりになれないと。
その場面だけを想像する。元々不安はない。医師を信じているのに加え、優綺美麗でなければ人生に意味を見い出せなくなっていたからだ。
「ねえ、怖くないの?」
手術の時間が刻一刻と迫る中、受付の女性が休憩している私のもとへ来て尋ねた。
「怖いわ。でもね、私は優綺美麗でなくなるのがもっと怖いの」
「……貴女は十分に綺麗よ。このまま年を重ねていくのも、一つの生き方だと思う。失敗する確率の高い賭けをするべきではないわ」
女性が心から私を心配してくれているのがわかる。
私だって整形手術をしなくてもいいのなら、危険を冒してまで選択したりはしない。我が身は可愛いし、命だって惜しいのだから。
「でもね。私は美しくありたい。持たざる者が美を手に入れるには、やっぱりリスクを背負うしかないの」
そこで話を打ち切った。彼女に本心は伝えていない。
確かに今の顔でも十分かもしれない。けれど美貌が崩れるにつれ、私は恐怖を抱く。東雲杏里に戻ってしまうのではないかと。
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