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一章 龍殺し
1-3 『神の器』執行者 クロナ
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区域E、統一歴以後に世界を26の区域に大分した内の俺の生活圏を含む一つは、他の区域と同様に更に100の区画へと分けられている。100の区画の内、統一魔術学舎の支部が存在する区画は全部で8つ。その全てが魔術的にも経済的にも中心的な区画であり、当然俺のいるE-13区画もその例に漏れない活発な都市部を構築している。もっとも、知識には知っていたそれらの事を実際に体感したのは、まだつい先日の事だったのだが。
「……相変わらず、やたらと人が多いな」
物心ついてからほとんどの時間を教育機関、つまり一種の隔離空間の中で過ごしてきた俺のような年齢の者にとって、E-13区画、その中でも特に栄えている通称『学舎下』の雑多で多様な街並みはまず驚きを覚える類のものだ。外に出るのが初めてというわけでもない俺でも、未だに通りを歩いているだけで妙な気分になる事がある。
「これからは、ここで暮らすのか」
商店や施設の立ち並ぶ最盛域からは一本離れ、それでもまだ人も建造物も十分過ぎるほどの数が目に付く一角にある、一際大きな屋敷が宿舎を出た俺の新居だった。
立地条件は最高、建物自体も巨大で豪奢と文句の付けようもない物件は龍殺しの称号と共に与えられた褒賞金で購入したものであり、本来ならば一学生の手に届くものではない。
「うん、悪くない。むしろ良いな!」
玄関から続く廊下の絨毯は統一歴以前の年代物を敷き、入って向かいのダイニングから覗く家具や魔術具もそれぞれが高級品。入居前から整えておいた新居内はすでに理想的な邸宅の姿を見せており、宿舎の狭い寝室とは天と地ほどの差がある。
すでに下見や物の仕入れで幾度か訪れてはいたものの、実際に住居として使うのは今日が初日だ。宿舎から運んできた申し訳程度の荷物を配置するついでに、多過ぎるほどの部屋の一つ一つを改めて見て回る。
「……ただ、暇だな」
やがて、戻ってきた最も大きな一室、いわゆるリビングでしばらく長椅子に腰を沈めていると、やがて当然の呟きが口をついた。
家具や必需品こそ事前に揃えはしたものの、娯楽品に関しては今のところ特に用意はできていなかった。宿舎では貸出しの娯楽や遊び相手が常に傍にあり、退屈に困る事がなかったため、これは意外な盲点だった。
「出掛けようか、うん」
娯楽がないのであれば、外から仕入れるのは当然の発想だ。遊び相手については、ほんの少しだけ時間を置く必要があるが。
「ルインさん、ですね?」
そう俺の名を呼ぶ声が聞こえたのは、一通り学舎下の街を見て回り、戦果の手荷物を担いで足を踏み入れた飲食店の中での事だった。
俺の顔がある程度知られているだろう事はわかっていたが、実際にこう呼び止められてみると、嬉しいようで後ろめたいような、何とも複雑な気分になる。
「いかにも、俺はルインだけど」
ただ、結果的に俺は無視や否定ではなく、その声に応える事を選んでいた。
「あなたに会えて良かった。ルインさん、実はお話があります」
俺を呼んだ声の主は、一言で言えば地味な美人だった。真正面から見ると明らかに整った顔立ちをしていながら、その雰囲気かあるいは紺一色の衣服からか、こうして面と向かって凝視するまで、ぼんやりと女性であるとしか認識できていなかったくらいだ。
「その話っていうのは、手短に済むかな?」
代わりに俺の目が捉えていたのは、彼女の胸元で交差する二枚の翼の形の首飾り。そしてそれは、俺にしてみればこの女の美醜よりも重要な意味をもっている。
「残念ながら、そういうわけにはいきません。あなたの大罪を立ち話一つで片付けられるほど、私達『神の器』は寛大ではないので」
二枚の翼の紋様は龍を意味する簡易的な符丁であり、その中でも交差する翼は『神の器』を名乗る宗教組織の掲げる象徴として知られる。特に宗教やその信者に対する偏見があるわけでもないが、残念な事にこの場合はむしろ逆だ。
「一応聞いておくと、大罪ってのは?」
「それはご自分が最も良くご存知でしょう。『龍殺し』ルイン=Ⅵ」
「……やっぱり、そうなるか」
世界に現存する中で自らにルインと名付けた六人目の人間、ルイン=Ⅵの名称で識別されるこの俺は、ヒト種の敵である『殻の異形』の中でも特に強力な一種である『龍』を単身で屠った龍殺しの肩書を持つ魔術師の内の一人だ。
E-13区画でも三人しかいないその肩書は多くの場合、称賛と尊敬の対象となるはずなのだが、相手が『神の器』の信者である場合においては事情が変わってくる。なにせ『神の器』とは、他でもない『殻の異形』を信仰の対象とした宗教なのだから。
彼ら曰く、『殻の異形』がヒトを襲うのは裁きであり選定、生きるに値しない者を間引くための存在であるから。しかしまぁ、仮にそれが本当だとしても、間引かれる側のヒトからしてみればかつての人間世界すらも滅した『殻の異形』は厄災でしかない。
別に当人達が満足して殺されるだけなら一向に構わないが、『殻の異形』を討伐する魔術師、特に俺なんかを敵視するのは勘弁してもらいたいものだ。
「それで、もしも大罪を犯したんだとしたら、俺はどうすればいい?」
念のため聞いてみるが、まともな答えを期待しているわけではない。
「私はあくまで使いに過ぎません。あなたにはこれから私達の信窟に足を運び、そこで教主の一人から教えを授かってもらいます」
「ああ、それは無理だ。俺にはまだ食後の休憩を取るっていう用事があるし、暇だとしても君達の宗教に興味がない」
龍殺し、そして『殻の異形』の公的な扱いを見れば、女の言う事は無理のあり過ぎる難癖でしかない。もちろん俺がそれに付き合ってやる道理もないというわけだ。
「これは酌量です、ルインさん。私達はあなたの罪が裁かれる前に、それを償う機会を与えようというのです」
「それはどうも。でも、要らないな」
「……残念です」
店員がデザートを運んできたのを好機と、女に手で去るように示す。頭を垂れた女は小さく呟くと顔を上げ――
「сари」
瞬間、聞き覚えのある音の羅列が俺の身体を反射的に動かしていた。
単節の魔術詠唱、その引き起こす現象は放雷。
「――кyк」
正面からの雷撃は、寸前の魔術詠唱で発生させた水の壁に阻まれ俺の身体には届かない。ただ、そうは言っても近接の間合い、少しでも反応が遅れていれば無事では済まなかっただろう。
「正気か、お前!?」
唐突な破壊魔術の詠唱だけで十分に危険人物だが、よりにもよってそれを行ったのは営業中の飲食店内だ。すでに事態に気付いた店員や客による騒ぎが起き始めているし、中には市街巡回の魔術師を呼びに行った者もいるだろう。
「当然。執行者クロナ・ギグアは、救世龍の名の元に龍殺しを処理します」
クロナと名乗った女は周囲の混乱を気にも留めず淡々と宣言すると、先程と欠片も変わらない詠唱を紡ぎ上げる。それに呼応して女の前方の空間が歪み、一条の雷となって俺の元へと殺到してくる。
対する俺も、防御に先程と同じ手段を選択。そして、水の壁の展開と同時に、右手の中指に嵌った指輪へと左手を添える。
雷と入れ違いに放たれた空気の刃はクロナの頬を掠めるも、朱の滲む傷を意に介さず女の口は炎の詠唱を紡ぐ。しかし、熱が俺の肌を焼くよりも、僅かに遅れて発生した水流が炎を掻き消す方が先だった。
第一種、武力として扱われる場合の魔術現象は多くの場合で詠唱、つまり音をその引き金とする。クロナと名乗った女の詠唱技能は正確無比、魔術師としての技能で言えば俺と五分かそれ以上かもしれないが、第二種魔術、特注の魔術紋様を刻んだ指輪を携帯し、それを戦闘に使用する手段を持つ俺の手数を圧倒するほどのものではない。
「なるほど……そうですか。流石に簡単ではないですね」
連続していたクロナの詠唱は、感嘆の声に変わり止まった。
「そんな事、わかってただろう」
俺が龍殺しになる前、その肩書が『神の器』に狙われる危険性を想定していなかったわけではない。ただ、その可能性を真剣に危険視しなかったのは、龍殺しの名が第一種、武力としての魔術師の中での頂点とほぼ同義であるから。あくまで客観的、第三者視点のフラットな物の見方をすれば、辻斬り染みた凶行やそれを人前で行う事よりも、その相手が俺である事こそがクロナの最大の愚行だと言っても過言ではない。
「しかし、それだけでは龍は斃せない。そして、私も――」
「っ――」
女の紡いだ再三の雷は、再三の水壁により消失。だが、あと少し気を緩めていれば俺の魔術詠唱は自分の驚嘆の声に掻き消されてしまっていただろう。
刃として向けられる術式は先程と同じ雷でありながら、クロナの口から流れ出す声は先程と比にならない複雑多音。正確には、雷の詠唱自体に変化はなく、クロナはその上に更に別の魔術詠唱を重ねていた。
曰く、多重詠唱。
同時に複数の魔術現象の発動を可能とするその技能は、第一種魔術師の技能の中でも特に希少性の高いものの一つであり、俺には再現不可能な技能の一つでもある。
「кк――」
連続して紡がれる雷の詠唱に俺は防御を続けるしかなく、その裏でクロナの声は長い詠唱を紡ぎ続ける。
「――手を打たないと、終わりますよ」
多重詠唱とは、端的に言えば同時に二つ以上の声を発する技術だ。
つまり、警告の言葉を投げかけながらも、クロナは詠唱を紡ぎ続ける事ができる。
基本的に、魔術現象の規模はその引き金である詠唱の長さと正比例する。近接戦闘で扱うには明らかに長過ぎるクロナの詠唱は、とても即座に展開した防御魔術程度で対応できるような規模のものではないだろう。
なるほど、クロナの行動は無鉄砲でこそあれど勝算のないものではなかったらしい。多重詠唱の使い手ならばあるいは、龍殺しの魔術師すらも屠り得る可能性がある。
「……そうだな、終わろう」
だから、俺は諦める事にした。
「何を――」
「кулранг」
詠唱を紡ぐと同時に、親指の指輪を弾く。そして何よりも、足に力を込めて思い切り地面を蹴る。
発生した魔術現象は、小規模な爆発。
ごく威力の低い二重の爆風は店内を更に阿鼻叫喚の空間へと変え、そして俺を煙幕に乗じて追手から一目散に逃げ去る負け犬へと変えてくれた。
「……相変わらず、やたらと人が多いな」
物心ついてからほとんどの時間を教育機関、つまり一種の隔離空間の中で過ごしてきた俺のような年齢の者にとって、E-13区画、その中でも特に栄えている通称『学舎下』の雑多で多様な街並みはまず驚きを覚える類のものだ。外に出るのが初めてというわけでもない俺でも、未だに通りを歩いているだけで妙な気分になる事がある。
「これからは、ここで暮らすのか」
商店や施設の立ち並ぶ最盛域からは一本離れ、それでもまだ人も建造物も十分過ぎるほどの数が目に付く一角にある、一際大きな屋敷が宿舎を出た俺の新居だった。
立地条件は最高、建物自体も巨大で豪奢と文句の付けようもない物件は龍殺しの称号と共に与えられた褒賞金で購入したものであり、本来ならば一学生の手に届くものではない。
「うん、悪くない。むしろ良いな!」
玄関から続く廊下の絨毯は統一歴以前の年代物を敷き、入って向かいのダイニングから覗く家具や魔術具もそれぞれが高級品。入居前から整えておいた新居内はすでに理想的な邸宅の姿を見せており、宿舎の狭い寝室とは天と地ほどの差がある。
すでに下見や物の仕入れで幾度か訪れてはいたものの、実際に住居として使うのは今日が初日だ。宿舎から運んできた申し訳程度の荷物を配置するついでに、多過ぎるほどの部屋の一つ一つを改めて見て回る。
「……ただ、暇だな」
やがて、戻ってきた最も大きな一室、いわゆるリビングでしばらく長椅子に腰を沈めていると、やがて当然の呟きが口をついた。
家具や必需品こそ事前に揃えはしたものの、娯楽品に関しては今のところ特に用意はできていなかった。宿舎では貸出しの娯楽や遊び相手が常に傍にあり、退屈に困る事がなかったため、これは意外な盲点だった。
「出掛けようか、うん」
娯楽がないのであれば、外から仕入れるのは当然の発想だ。遊び相手については、ほんの少しだけ時間を置く必要があるが。
「ルインさん、ですね?」
そう俺の名を呼ぶ声が聞こえたのは、一通り学舎下の街を見て回り、戦果の手荷物を担いで足を踏み入れた飲食店の中での事だった。
俺の顔がある程度知られているだろう事はわかっていたが、実際にこう呼び止められてみると、嬉しいようで後ろめたいような、何とも複雑な気分になる。
「いかにも、俺はルインだけど」
ただ、結果的に俺は無視や否定ではなく、その声に応える事を選んでいた。
「あなたに会えて良かった。ルインさん、実はお話があります」
俺を呼んだ声の主は、一言で言えば地味な美人だった。真正面から見ると明らかに整った顔立ちをしていながら、その雰囲気かあるいは紺一色の衣服からか、こうして面と向かって凝視するまで、ぼんやりと女性であるとしか認識できていなかったくらいだ。
「その話っていうのは、手短に済むかな?」
代わりに俺の目が捉えていたのは、彼女の胸元で交差する二枚の翼の形の首飾り。そしてそれは、俺にしてみればこの女の美醜よりも重要な意味をもっている。
「残念ながら、そういうわけにはいきません。あなたの大罪を立ち話一つで片付けられるほど、私達『神の器』は寛大ではないので」
二枚の翼の紋様は龍を意味する簡易的な符丁であり、その中でも交差する翼は『神の器』を名乗る宗教組織の掲げる象徴として知られる。特に宗教やその信者に対する偏見があるわけでもないが、残念な事にこの場合はむしろ逆だ。
「一応聞いておくと、大罪ってのは?」
「それはご自分が最も良くご存知でしょう。『龍殺し』ルイン=Ⅵ」
「……やっぱり、そうなるか」
世界に現存する中で自らにルインと名付けた六人目の人間、ルイン=Ⅵの名称で識別されるこの俺は、ヒト種の敵である『殻の異形』の中でも特に強力な一種である『龍』を単身で屠った龍殺しの肩書を持つ魔術師の内の一人だ。
E-13区画でも三人しかいないその肩書は多くの場合、称賛と尊敬の対象となるはずなのだが、相手が『神の器』の信者である場合においては事情が変わってくる。なにせ『神の器』とは、他でもない『殻の異形』を信仰の対象とした宗教なのだから。
彼ら曰く、『殻の異形』がヒトを襲うのは裁きであり選定、生きるに値しない者を間引くための存在であるから。しかしまぁ、仮にそれが本当だとしても、間引かれる側のヒトからしてみればかつての人間世界すらも滅した『殻の異形』は厄災でしかない。
別に当人達が満足して殺されるだけなら一向に構わないが、『殻の異形』を討伐する魔術師、特に俺なんかを敵視するのは勘弁してもらいたいものだ。
「それで、もしも大罪を犯したんだとしたら、俺はどうすればいい?」
念のため聞いてみるが、まともな答えを期待しているわけではない。
「私はあくまで使いに過ぎません。あなたにはこれから私達の信窟に足を運び、そこで教主の一人から教えを授かってもらいます」
「ああ、それは無理だ。俺にはまだ食後の休憩を取るっていう用事があるし、暇だとしても君達の宗教に興味がない」
龍殺し、そして『殻の異形』の公的な扱いを見れば、女の言う事は無理のあり過ぎる難癖でしかない。もちろん俺がそれに付き合ってやる道理もないというわけだ。
「これは酌量です、ルインさん。私達はあなたの罪が裁かれる前に、それを償う機会を与えようというのです」
「それはどうも。でも、要らないな」
「……残念です」
店員がデザートを運んできたのを好機と、女に手で去るように示す。頭を垂れた女は小さく呟くと顔を上げ――
「сари」
瞬間、聞き覚えのある音の羅列が俺の身体を反射的に動かしていた。
単節の魔術詠唱、その引き起こす現象は放雷。
「――кyк」
正面からの雷撃は、寸前の魔術詠唱で発生させた水の壁に阻まれ俺の身体には届かない。ただ、そうは言っても近接の間合い、少しでも反応が遅れていれば無事では済まなかっただろう。
「正気か、お前!?」
唐突な破壊魔術の詠唱だけで十分に危険人物だが、よりにもよってそれを行ったのは営業中の飲食店内だ。すでに事態に気付いた店員や客による騒ぎが起き始めているし、中には市街巡回の魔術師を呼びに行った者もいるだろう。
「当然。執行者クロナ・ギグアは、救世龍の名の元に龍殺しを処理します」
クロナと名乗った女は周囲の混乱を気にも留めず淡々と宣言すると、先程と欠片も変わらない詠唱を紡ぎ上げる。それに呼応して女の前方の空間が歪み、一条の雷となって俺の元へと殺到してくる。
対する俺も、防御に先程と同じ手段を選択。そして、水の壁の展開と同時に、右手の中指に嵌った指輪へと左手を添える。
雷と入れ違いに放たれた空気の刃はクロナの頬を掠めるも、朱の滲む傷を意に介さず女の口は炎の詠唱を紡ぐ。しかし、熱が俺の肌を焼くよりも、僅かに遅れて発生した水流が炎を掻き消す方が先だった。
第一種、武力として扱われる場合の魔術現象は多くの場合で詠唱、つまり音をその引き金とする。クロナと名乗った女の詠唱技能は正確無比、魔術師としての技能で言えば俺と五分かそれ以上かもしれないが、第二種魔術、特注の魔術紋様を刻んだ指輪を携帯し、それを戦闘に使用する手段を持つ俺の手数を圧倒するほどのものではない。
「なるほど……そうですか。流石に簡単ではないですね」
連続していたクロナの詠唱は、感嘆の声に変わり止まった。
「そんな事、わかってただろう」
俺が龍殺しになる前、その肩書が『神の器』に狙われる危険性を想定していなかったわけではない。ただ、その可能性を真剣に危険視しなかったのは、龍殺しの名が第一種、武力としての魔術師の中での頂点とほぼ同義であるから。あくまで客観的、第三者視点のフラットな物の見方をすれば、辻斬り染みた凶行やそれを人前で行う事よりも、その相手が俺である事こそがクロナの最大の愚行だと言っても過言ではない。
「しかし、それだけでは龍は斃せない。そして、私も――」
「っ――」
女の紡いだ再三の雷は、再三の水壁により消失。だが、あと少し気を緩めていれば俺の魔術詠唱は自分の驚嘆の声に掻き消されてしまっていただろう。
刃として向けられる術式は先程と同じ雷でありながら、クロナの口から流れ出す声は先程と比にならない複雑多音。正確には、雷の詠唱自体に変化はなく、クロナはその上に更に別の魔術詠唱を重ねていた。
曰く、多重詠唱。
同時に複数の魔術現象の発動を可能とするその技能は、第一種魔術師の技能の中でも特に希少性の高いものの一つであり、俺には再現不可能な技能の一つでもある。
「кк――」
連続して紡がれる雷の詠唱に俺は防御を続けるしかなく、その裏でクロナの声は長い詠唱を紡ぎ続ける。
「――手を打たないと、終わりますよ」
多重詠唱とは、端的に言えば同時に二つ以上の声を発する技術だ。
つまり、警告の言葉を投げかけながらも、クロナは詠唱を紡ぎ続ける事ができる。
基本的に、魔術現象の規模はその引き金である詠唱の長さと正比例する。近接戦闘で扱うには明らかに長過ぎるクロナの詠唱は、とても即座に展開した防御魔術程度で対応できるような規模のものではないだろう。
なるほど、クロナの行動は無鉄砲でこそあれど勝算のないものではなかったらしい。多重詠唱の使い手ならばあるいは、龍殺しの魔術師すらも屠り得る可能性がある。
「……そうだな、終わろう」
だから、俺は諦める事にした。
「何を――」
「кулранг」
詠唱を紡ぐと同時に、親指の指輪を弾く。そして何よりも、足に力を込めて思い切り地面を蹴る。
発生した魔術現象は、小規模な爆発。
ごく威力の低い二重の爆風は店内を更に阿鼻叫喚の空間へと変え、そして俺を煙幕に乗じて追手から一目散に逃げ去る負け犬へと変えてくれた。
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