逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

文字の大きさ
上 下
131 / 134
ささやかな願いを偲ばせて

12

しおりを挟む


 ***

「ねぇ、どうしたの? 具合でも悪い?」

 雨で濡れて冷え切った身体が重たい。ぼーっとする意識の中、耳に届いた声が自分に向けられたものだと理解するまで、数秒の時間を要した。

「手、怪我してるね。あ、そうだ。ちょっと待ってて、確か絆創膏を持ってたはずだから」
「……いらない」

 絆創膏を差し出そうとしているのだろう、こちらに向けられた白くて小さな手を払いのける。そうすれば、いつの間にか目の前に屈み込んでいた女の顔が、きょとんとしたものに変わった。大きな焦げ茶色の瞳に、気だるげな顔をした俺が映っている。

「っていうか、アンタ誰。俺に構わないでくれる? ……迷惑だから」

 ダークブラウンの長い髪を緩く巻いている女は、綺麗な顔立ちをしていた。無害そうな顔をしているが、どうせこの女も同じだろう。

 俺みたいなのに声を掛けてくるのは、俺の容姿を気に入った頭の軽い女や、“他者に優しくできる自分”という悦に入りたいだけの奴や、承認欲求を満たしたい奴。大体が耳障りの良い言葉を並べ立てて近づいてくる。そしてそこには必ず、偽善や打算や見返りといったものが付属している。

 それを、俺はよく知っている。

 ――ああ、面倒くさい。もう何も考えたくない。

 愛想笑いを浮かべて対応する気力も残っていなかった俺は、女を突っぱねた。冷たくすれば、どうせすぐにいなくなる。でも今晩泊めてもらう家をまだ決めていなかったし、この女を上手く丸め込んで、家に上がり込むのも良かったかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えながら、またぼーっと虚ろな時間を過ごす。

「……ごめん。迷惑って分かってるけど、やっぱり放っておけない」

 とっくに立ち去っただろうと思っていた女は、まだ目の前にいたようだ。その声は、微かに震えている。――怖いなら、見ず知らずの俺のことなんて放っておけばいいのに。馬鹿な女だ。

 ゆるりと顔を持ち上げれば、女は絆創膏を持った手を所在なさげに宙で止めている。
 黙って右手を差し出せば、またきょとんとした顔になった女は、合点がいったと言いたげに顔色を明るくして、絆創膏を俺の指に巻き付けてくれた。

「はい、これで良し! さすがにタオルは持ってないから……濡れたままじゃ風邪引いちゃうし、早く帰るんだよ」
「……余計なお世話だよ」
「あはは、そうだよね」

 俺の素っ気ない言葉にも、女は邪気のない顔で笑うだけだった。
 ――俺の中で、何かがコトリと音を立てる。

「あ!」

 そのまま立ち去ると思ったのに、女が突然大きな声を上げるものだから、俺は下げかけていた目線を再び持ち上げる。

「ねぇ見て! 星が出てる! さっきまで雨が降ってたのに……すっごくよく見えるよ」

 見上げた先にいた女は、星を写し取ったようなきらきらした目をして、子どもみたいに無邪気な笑みを広げながらはしゃいでいる。

「……お姉さんって、子どもみたいだね」
「なっ……これでも、れっきとした社会人ですから」

 思ったままを口に出せば、笑っていたお姉さんは、むすっと膨れ面になった。ころころ変わる表情が何だか可笑しくて、自然と口許が緩む。

「ふっ……やっぱ、子どもみたい」
「っ! だから、子どもじゃないってば!」

 俺の顔を見て、一瞬目を瞠ったお姉さんだったけど、我に返ったかのよう、またむすっとした顔を作った。そしてそのまま、背を向けてしまう。

「それじゃあ、私はそろそろ行くね!」
「あ、待ってよお姉さん」

 呼びとめれば、律儀に足を止めたお姉さんが振り向いてくれる。

「ありがとう、お姉さん。――またね」
「? うん、またどこかで会うことがあれば……」

 不思議そうにしながらも頷き返してくれたお姉さんに、俺は今度こそ、ひらりと手を振った。

 ――もし、この言葉が実現した、その時には。もう一度くらい、誰かを信じてみてもいいのかもしれない。あの人なら、きっと……。

 そんな俺の小さな願いは、現実になった。

 正直初めは、興味本位で声を掛けただけだった。百合子さんのことを全て知っているわけでもなかったし、たった数分話しただけの間柄だ。
 だけど、それでも。あの夜のことを、俺はずっと忘れられずにいた。また会えたらと、あの笑顔を自分だけに向けてほしいと、心のどこかで願っていた。

 あの時からずっと、俺には百合子さんしか見えていない。百合子さんだけがいればいいし、正直、他の奴なんてどうでもいい。百合子さんが隣で笑っていてくれるなら、誰がどんな不幸な目に遭っていたとしても構わない。
 そんなこと言ったら百合子さんを困らせるだけだって分かっているから、本人に直接伝えたことはないけど。

 ――これから先もずっと、百合子さんの隣に在るのは、俺であればいい。この人の隣は、誰にも譲らない。

「あ、黒瀬くん見て! ボートだよ」
「ほんとだね」
「どこから来たんだろう。ボートのレンタルとかもしてるのかな?」

 青い手漕ぎボートに乗って川を流れてきた旅行客に、楽しそうに手を振り返している百合子さんの横顔を見つめながら、繋いだ手にそっと力を込めた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。

さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。 許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。 幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。 (ああ、もう、) やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。 (ずるいよ……) リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。 こんな私なんかのことを。 友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。 彼らが最後に選ぶ答えとは——? ⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

私が、良いと言ってくれるので結婚します

あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。 しかし、その事を良く思わないクリスが・・。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

処理中です...