逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

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ささやかな願いを偲ばせて

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「黒瀬くんは、私だって、あの時には気づいてたの?」
「うん、もちろん。まさか一年もしない内に再会できるとは思ってなかったけど」

 ゆったりとした優しい笑みを浮かべていた黒瀬くんだったけど、何かを迷うような素振りを見せた後、彷徨わせていた視線を遠慮がちに向けてくる。

「あのさ、一つ聞いてもいい?」
「うん」
「昨日さ、皇さんと買い出しに行った時……何話してたの?」
「え?」

 買い出しとは、罰ゲームで出かけた時のことを言っているんだろう。でも、どうして黒瀬くんがそんなことを気にするんだろう。しかも、そんな不安そうな顔をして。
 私が答えるよりも早く、黒瀬くんは言葉を付け足すように話し出す。

「皇さんに、プレゼントか何か、貰ってなかった?」
「うん、美代さんのお手伝いをしたバレンタインのお返しにって……もしかして黒瀬くん、あの時追いかけてきてくれてたの?」
「うん」
「それなら、声をかけてくれたら良かったのに」

 黒瀬くんは力ない笑みを浮かべて、目を伏せる。

「……ウザがられたら、嫌だったからね」

 ――黒瀬くんって、いつもは強引でこっちのことなんてお構いなしってくらいグイグイくるのに、ごく稀にだけど、遠慮するような姿勢を見せることがある。だけど、ここまでしおらしい黒瀬くんの姿を見るのは、初めてな気がする。

「今更黒瀬くんのことをウザいだなんて思わないよ。それに私は、ふてぶてしくて強引で、人の心にずかずか踏み込んでくる黒瀬くん、結構好きだよ?」
「……それ、褒めてるの?」
「うん、褒めてる」

 力強く肯定すれば、黒瀬くんはぷはっと噴き出すように笑う。

「はは、そっか。それじゃあ……ふてぶてしい俺から、一つお願い」
「お願い?」
「うん。俺のこと、そろそろ名前で呼んでよ」
「それは……」

 実はこのお願いをされるのは、今回が初めてではない。何度か呼んでみてと言われたことはあったけど、黒瀬くん呼びに慣れてしまったのと気恥ずかしさもあって、「また今度ね」とはぐらかしてきた。でも、照れ臭さ以上に、今は彼の名前を口にしたいって気持ちが溢れてきて。

「……椿くん」

 大切に仕舞い込んでいた宝物を取り出す時みたいに、そっと声に出してみる。

「……うん」

 私の声をきちんと受け取ってくれた黒……椿くんは、静かに頷いたかと思えば、口許を手の甲で隠してしまう。

「あ~、どうしよう。すっごい顔がにやける」
「ふふ、黒瀬くんってば、大袈裟だよ、っ!」

 どうやら黒瀬くんは、照れているらしい。珍しい姿が可愛くてクスクス笑ってしまえば、唇に熱が触れる。

「ダメだよ、百合子さん。これからはちゃんと名前で呼んでくれないと」

 鼻先が触れ合いそうな距離で、黒曜石の瞳が甘い熱を宿して、細められたのが分かった。

「っ、……いきなりキスするのは、ずるくない?」
「名前で呼んでくれなかった罰だよ。その方が、百合子さんも早く慣れてくれるかなって」
「……椿くんって、やっぱりすっごく強引だよね」
「でも百合子さんは、こういう俺が好きなんだよね?」
「それはそう、だけど……やっぱり、それとこれとは別、っ……」

 いつもの調子を取り戻した椿くんに、唇にパクリと噛みつかれて、反論の言葉ごと飲み込まれてしまった。

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